一章 宿縁宿命
はあ、はあ、と弾む呼吸を押さえつけ、鎮まらせる。
客席を見上げると、太宰がぼんやりとした表情で俺を見つめていた。
その頬は赤く染まっている。
首を傾げながら、リンクサイドへ引き上げる。
「太宰ー?どうだったよ、」
「ごめん」
太宰は俺と目を合わせようともせずに、急に立ち上がってくるりと後ろを向いた。
「ごめん…帰るね、凄かったよ」
「は?え、何…一寸待てよ」
静止さえも振り切って、駆け出した太宰を追いかけようとすると、小林さんが俺を止めた。
「そっとして置いてあげなよ、俺にもまあ…気持ちは何となくだけど判るからさ」
「え?何の気持ちですか」
「…それは…まあ…その…うん。まああんな顔見せたくなかっただろうし」
「…?…どんな顔ですか…?」
しまった、みたいな顔をする小林さんをじっと見つめる。
揃いも揃って俺に何か隠そうとしている。
何なんだ、一体。
辺りはもうすっかり暗く、街灯がちかちかと点滅しながら俺の足元を弱弱しく灯していた。
寮に着き、かちゃりと施錠されたドアを開く。
そのまま、荷物を放って寝台に突っ伏す。
「はぁーっ……」
大きく溜め息を吐き、手近な枕を掻き抱く。
突然の着信音に驚き、がばっと勢いよく身を起こした。
どうやら、そのままうつらうつらと微睡んでしまっていたようだった。
太宰であることを少しだけ期待しながら、慌ててスマホを取り出す。
しかしディスプレイに表示されていたのは、予想だにしていなかった名称だった。
なんだ、と嘆息しながら、通話釦を押す。
『やあ、中也。元気にしているか?ちゃんと飯は食っているか?兄として心配だ』
「時差考えろ莫迦兄貴。今何時だと思ってんだ」
『時差は九時間だから、日本時間だと青少年は善い子で寝ている時間だな』
「判ってんならかけてくんなよ」
『中也は何時もこの時間はまだ起きているだろう』
「ざけんな寝てたわ」
『どうせ帰宅してすぐ寝落ちして制服のままとかだろう』
何で解るんだ此奴、エスパーかなんかか。
『お前の兄だからな』
「まだ何も言ってねーよ」
本当に兄貴という人種は面倒だ。以心伝心という言葉が恨めしいと思ったことが何度あったことか。
『それで中也、バイトは本当に辞めたのか』
「……」
そうだった。
以前、兄貴からの電話に出られなかったことがあり、その理由を探るためだけに何故か欧州から日本へ帰って来て、そして夜遅くに帰ってきた俺を問い詰めバイトをしていることがバレたのだった。
その後、何も言わず欧州に戻った兄貴にホッとしたのも束の間、翌月から何時もの倍の金額が振り込まれ、「金に心配はさせないからバイトを辞めろ」と電話口で懇願された。
しかしこちらはこちらで、金のためにバイトをしているのではなくなってしまった手前、辞められない。
バイト先がスケートリンクということを知らない兄貴に、バイトは辞めたから入金額を元に戻せ、とメッセエジを送った。それに関しては給与が上がったの一点張りで一向に戻してくれない。
大体、海外への出稼ぎでそんな高額を仕送りできるわけがないことくらい知っている。無理をしているか、危ない仕事をしているか。どちらにしてもいい訳がない。
「ああ…辞めたよ」
『本当だな?』
「本当だ」
そう言うと、兄貴は急に口調をガラリと変えた。
『じゃあ何故、銀行から俺の送った金の引き出しが全然されていないんだ?月に一回ある、「給与」という入金は何だ?』
一寸待てよ、何で俺の通帳記入情報を兄貴が知ってる?
『答えろ、中也。矢張り今の額では足りなかったか?今の倍の額にして…』
「待て待て待て、マジでやめろ!今の貯金額的には高級車買えるんだよ莫迦!後送金額元に戻せっつったろ!」
『それについては給与が上がったから問題ないと言っただろう。…じゃあ何故バイトを辞めない?』
「っ……」
言うべきか。言わないべきか。
今でも悩む。
唯一の肉親に、これ以上の迷惑をかけたくないという気持ちがどうしても勝る。
然し唯一の肉親であると共に、俺の選手活動をいちばんに応援してくれたと同時に、それを諦めることにいちばん反対していた、大切な兄貴だから。
だから…。
スケート場でバイトをしていると言って、変に期待をもたせたりして失望させて、迷惑をかけるのだけは絶対に嫌なんだ。
『中也?』
「…辞めたくねえんだ」
『何故だ?金銭的な理由じゃないとしたら、人間関係か?誰かに脅されたりしているのか?』
「違え!」
思わず、叫ぶ。
俺が彼処に居るのは、ただ滑るためだけじゃない。
「俺が、…其処で働くことで、俺自身の価値が証明されるんだ」
俺を応援してくれているのは、もう「ファン」じゃない。
みっともなく、声が震えた。
「俺が夢を見れるのは、其処だけなんだ」
数秒の沈黙。
たったのそれだけが、至極長く永遠に近い時間にも感じられた。
『……そんなに辞めたくないのか?仕方無いな…兄としては心配だが、其処まで中也が言うなら、認めよう』
「っ、本当か?」
『然し、中也を其処まで魅了するバイトというのも中々やるな…否、将来を考えて潰すべきか…然し中也がこんなにも熱中するものはあれ以来…』
「兄貴?」
何やら謎めいたことをぶつぶつと呟く兄貴に、どうしたのかと問いかける。
『ああいや、何でもない。それから、あまり勉学は疎かにするなよ。成績状況を見る限り心配は要らなさそうだが。後、根を詰めすぎるなよ。飯はちゃんと食え。前に会った時には以前より軽くなっていたじゃないか、それから…』
「解った解った、ちゃんと食ってるっての。解ったからもう切るぞ」
『ちょ、一寸待ってくれ、後言いたいことが二、三…』
「三十分コースじゃねえかよもう寝かせろ」
最早兄の小言には呆れるばかりで聞く耳も持つ気になれない。
『ぐぬ…仕方ない………最後に一つ。…大切にしたい人ができたのなら、きちんと大事にしないと後悔するぞ。ちゃんと自分の思いを伝える事』
思わぬ助言。
俺の悩みを正確に言い当てた言葉に、瞠目する。
「…は?何、で…」
『それ位俺には解るさ、兄だからな。後、今度俺にも紹介してくれないか?来週にでも日本に…』
「来んな莫迦」
切ってやった。通話。
スマホを寝台に放り投げ、自分もぼすりと身を投じる。
真逆、離れている兄に見抜かれるとは。
でもどうせ、叶わない恋だろうし。
解ってる。
それでも。
今日の彼奴の、頬を赤く紅潮させた顔を思い出す。
俺が彼奴の家で最初にピアノを聴いた時、俺は間違いなく惚れた。
そう。惚れた。
彼奴の弾くピアノが好きなんじゃなくて、彼奴が好きなんだと。
自覚した瞬間、流れた涙に居た堪れなくなってその場から逃げたことを、後になって気付いた。
嗚呼、自分は叶わない恋をしているんだ、と。
叶わないと解っている。
それでも、期待してしまう自分。
ツンと痛んだ目元を隠すように、腕で覆う。
「莫迦みてーじゃんか…そんなの」
客席を見上げると、太宰がぼんやりとした表情で俺を見つめていた。
その頬は赤く染まっている。
首を傾げながら、リンクサイドへ引き上げる。
「太宰ー?どうだったよ、」
「ごめん」
太宰は俺と目を合わせようともせずに、急に立ち上がってくるりと後ろを向いた。
「ごめん…帰るね、凄かったよ」
「は?え、何…一寸待てよ」
静止さえも振り切って、駆け出した太宰を追いかけようとすると、小林さんが俺を止めた。
「そっとして置いてあげなよ、俺にもまあ…気持ちは何となくだけど判るからさ」
「え?何の気持ちですか」
「…それは…まあ…その…うん。まああんな顔見せたくなかっただろうし」
「…?…どんな顔ですか…?」
しまった、みたいな顔をする小林さんをじっと見つめる。
揃いも揃って俺に何か隠そうとしている。
何なんだ、一体。
辺りはもうすっかり暗く、街灯がちかちかと点滅しながら俺の足元を弱弱しく灯していた。
寮に着き、かちゃりと施錠されたドアを開く。
そのまま、荷物を放って寝台に突っ伏す。
「はぁーっ……」
大きく溜め息を吐き、手近な枕を掻き抱く。
突然の着信音に驚き、がばっと勢いよく身を起こした。
どうやら、そのままうつらうつらと微睡んでしまっていたようだった。
太宰であることを少しだけ期待しながら、慌ててスマホを取り出す。
しかしディスプレイに表示されていたのは、予想だにしていなかった名称だった。
なんだ、と嘆息しながら、通話釦を押す。
『やあ、中也。元気にしているか?ちゃんと飯は食っているか?兄として心配だ』
「時差考えろ莫迦兄貴。今何時だと思ってんだ」
『時差は九時間だから、日本時間だと青少年は善い子で寝ている時間だな』
「判ってんならかけてくんなよ」
『中也は何時もこの時間はまだ起きているだろう』
「ざけんな寝てたわ」
『どうせ帰宅してすぐ寝落ちして制服のままとかだろう』
何で解るんだ此奴、エスパーかなんかか。
『お前の兄だからな』
「まだ何も言ってねーよ」
本当に兄貴という人種は面倒だ。以心伝心という言葉が恨めしいと思ったことが何度あったことか。
『それで中也、バイトは本当に辞めたのか』
「……」
そうだった。
以前、兄貴からの電話に出られなかったことがあり、その理由を探るためだけに何故か欧州から日本へ帰って来て、そして夜遅くに帰ってきた俺を問い詰めバイトをしていることがバレたのだった。
その後、何も言わず欧州に戻った兄貴にホッとしたのも束の間、翌月から何時もの倍の金額が振り込まれ、「金に心配はさせないからバイトを辞めろ」と電話口で懇願された。
しかしこちらはこちらで、金のためにバイトをしているのではなくなってしまった手前、辞められない。
バイト先がスケートリンクということを知らない兄貴に、バイトは辞めたから入金額を元に戻せ、とメッセエジを送った。それに関しては給与が上がったの一点張りで一向に戻してくれない。
大体、海外への出稼ぎでそんな高額を仕送りできるわけがないことくらい知っている。無理をしているか、危ない仕事をしているか。どちらにしてもいい訳がない。
「ああ…辞めたよ」
『本当だな?』
「本当だ」
そう言うと、兄貴は急に口調をガラリと変えた。
『じゃあ何故、銀行から俺の送った金の引き出しが全然されていないんだ?月に一回ある、「給与」という入金は何だ?』
一寸待てよ、何で俺の通帳記入情報を兄貴が知ってる?
『答えろ、中也。矢張り今の額では足りなかったか?今の倍の額にして…』
「待て待て待て、マジでやめろ!今の貯金額的には高級車買えるんだよ莫迦!後送金額元に戻せっつったろ!」
『それについては給与が上がったから問題ないと言っただろう。…じゃあ何故バイトを辞めない?』
「っ……」
言うべきか。言わないべきか。
今でも悩む。
唯一の肉親に、これ以上の迷惑をかけたくないという気持ちがどうしても勝る。
然し唯一の肉親であると共に、俺の選手活動をいちばんに応援してくれたと同時に、それを諦めることにいちばん反対していた、大切な兄貴だから。
だから…。
スケート場でバイトをしていると言って、変に期待をもたせたりして失望させて、迷惑をかけるのだけは絶対に嫌なんだ。
『中也?』
「…辞めたくねえんだ」
『何故だ?金銭的な理由じゃないとしたら、人間関係か?誰かに脅されたりしているのか?』
「違え!」
思わず、叫ぶ。
俺が彼処に居るのは、ただ滑るためだけじゃない。
「俺が、…其処で働くことで、俺自身の価値が証明されるんだ」
俺を応援してくれているのは、もう「ファン」じゃない。
みっともなく、声が震えた。
「俺が夢を見れるのは、其処だけなんだ」
数秒の沈黙。
たったのそれだけが、至極長く永遠に近い時間にも感じられた。
『……そんなに辞めたくないのか?仕方無いな…兄としては心配だが、其処まで中也が言うなら、認めよう』
「っ、本当か?」
『然し、中也を其処まで魅了するバイトというのも中々やるな…否、将来を考えて潰すべきか…然し中也がこんなにも熱中するものはあれ以来…』
「兄貴?」
何やら謎めいたことをぶつぶつと呟く兄貴に、どうしたのかと問いかける。
『ああいや、何でもない。それから、あまり勉学は疎かにするなよ。成績状況を見る限り心配は要らなさそうだが。後、根を詰めすぎるなよ。飯はちゃんと食え。前に会った時には以前より軽くなっていたじゃないか、それから…』
「解った解った、ちゃんと食ってるっての。解ったからもう切るぞ」
『ちょ、一寸待ってくれ、後言いたいことが二、三…』
「三十分コースじゃねえかよもう寝かせろ」
最早兄の小言には呆れるばかりで聞く耳も持つ気になれない。
『ぐぬ…仕方ない………最後に一つ。…大切にしたい人ができたのなら、きちんと大事にしないと後悔するぞ。ちゃんと自分の思いを伝える事』
思わぬ助言。
俺の悩みを正確に言い当てた言葉に、瞠目する。
「…は?何、で…」
『それ位俺には解るさ、兄だからな。後、今度俺にも紹介してくれないか?来週にでも日本に…』
「来んな莫迦」
切ってやった。通話。
スマホを寝台に放り投げ、自分もぼすりと身を投じる。
真逆、離れている兄に見抜かれるとは。
でもどうせ、叶わない恋だろうし。
解ってる。
それでも。
今日の彼奴の、頬を赤く紅潮させた顔を思い出す。
俺が彼奴の家で最初にピアノを聴いた時、俺は間違いなく惚れた。
そう。惚れた。
彼奴の弾くピアノが好きなんじゃなくて、彼奴が好きなんだと。
自覚した瞬間、流れた涙に居た堪れなくなってその場から逃げたことを、後になって気付いた。
嗚呼、自分は叶わない恋をしているんだ、と。
叶わないと解っている。
それでも、期待してしまう自分。
ツンと痛んだ目元を隠すように、腕で覆う。
「莫迦みてーじゃんか…そんなの」