一章 宿縁宿命
駅前で、ストリィト・ピアノを見掛けた。
反射的に、太宰の顔が脳裏に浮かぶ。
彼奴のピアノを初めて聴いた時、柄にもなく泣きそうになって必死に涙が溢れるのを耐えていたことを鮮明に覚えている。
合唱曲の伴奏としての演奏だったが、何故だか自分を突き動かすような何かを秘めているように感じた。
あの頃、俺のズタボロだった精神に染み込むような痛みを覚え、それと同時に荒治療のように傷が癒える感覚すら覚えた。
そしてもう一度でも、彼奴の弾く曲が聴きたい、と思った。
それが一度どころか、ほぼ毎日彼奴の家で彼奴の弾くピアノを見られるようになったのは約一か月ほど前。
今では一番一緒にいる時間が長い人間かもしれない。
最近では演奏を聴くだけでなく、一緒に飯を食べたり、出かけたり。
ただの友達にしては親密すぎるその関係は、言い表し難かった。
「おはようございます」
「おう、おはよ」
「はよー」
ばらばらと挨拶が返ってくる。
バイト先の先輩たちは、俺が入って来たての頃は胡散臭そうな目や白い目で見てきたりしていたが、今では目にかけられ、俺が自覚するほど可愛がわられている、何故か。
「やっくん今日受付からでいい?朝はお客さん少ないからさ」
「了解です」
やっくん、と言うのは、元スケーターでそこそこ名前が売れてしまった俺が身バレしないように、という配慮でつけられたあだ名だ。皆に統一して呼んでもらっている。
午前は主に教室の生徒しか来ないから、受付は殆ど仕事がない。
何をするでもなく、ぼうっと虚空を見つめる。
––––早く滑りてえなァ
早く、早く一日が終わらないだろうか。
選手を引退した中也は、未だその情熱を忘れられずにいた。
元々あの碌でもない父親が借金を残していったせいで、カツカツだった生活が更に貧窮し、兄貴は欧州へと出稼ぎに行ったため自分がスケートを続ける余裕は無くなったからやむを得ず引退したのだった。
兄貴からは毎月、出稼ぎとは思えないくらいの大きな額が振り込まれてくるが、それに手をつけてまで選手を続けようとは思えなかった。
巨額だった父親の借金は二年と経たずに完済され、その後も毎月送られてくる余りの巨額に一度、電話口で何の仕事をしているのかと問いただしたことがあったが、『愛しい弟のためだ』とよく分からないままはぐらかされた。
スケートを再開しようとは思わなかったが、滑りたい気持ちはまだ存分に残っていたから、監視でも何でもいいから滑れないだろうか、とスケートリンクにバイトを申し込んだところあっけなく採用されてしまった。
それには管理している側が絡んでいた。
そのスケートリンクは私営で、管理人が俺の現役時代のファンだったらしかったのだ。
『君の滑るところを、生で見てみたいとずっと思っていたんだ』
そうして俺は毎週末のバイト終わり、夜の製氷前に貸切状態のスケートリンクを三十分間使わせて貰えることになった。
「やっくん、昼休憩入っていいよー」
「あ、あざす」
気付けば教室のレッスンも終わったようで、時計の針は真上を少し過ぎていた。
自宅から持ってきた弁当を開く。
平日は太宰が真面な飯を食わない事が判明したため、毎日二人分の弁当を作ってやっている。休日は俺がバイトを入れている所為で会わないから、少し寂しいとまで思ったりもする。
「やっくんっていっつも弁当だよねー、親御さんとかに作ってもらってんの?」
「否、自分で作ってます」
「え、すっげ」
「そんな事ないっすよ、小林さんだって弁当じゃないですか」
「俺と君の年齢差考えてみなよ」
小林さん、というのは一人暮らしをしているらしい大学三年生の先輩だ。一番最初に打ち解けてくれた、性根の優しい人で俺も慕っている。
「今日はやっくんが滑るところ見て帰ろっと」
「お、今日は曲流しますんで」
「えまじで?ラッキィ」
そして俺が夜に練習していることを知っている、数少ない人間でもある。
「今日は何滑んの?」
「まだ決めてないんすけど…リクエストあります?」
「俺さ、あれ好きなんだよね、やっくんの滑るバレエのやつ」
鼻歌で口ずさんで見せた小林さんは、チャイコフスキーのだったと思うんだけど、と言った。
「ああ、白鳥の湖」
「そうそれ!俺、ああいうゆったりした曲あんまり好きじゃなかったんだけど、やっくんの演技でそのイメージ払拭されたもん、ほんとすごいよ」
「マジですか!じゃあ今日はそれにします」
「お、よっしゃ」
小さくガッツポーズを取る小林さんに、俄然やる気が出てくる。
よし、今日は回転増やそ。
「お疲れ様ーっす」
「お疲れ様でしたー」
昼食の後受付から監視へ交代して数時間後、日も暮れてリンクが閉ざされる。
ふと、あることを思いつき、ある人物へ電話をかける。
『はい…中也?』
「太宰、今暇か?」
『えー、うん、まあ。何?』
「興味あったら来てくれないか、無ければ来なくていいし」
同時に、所在地をメッセエジで送る。
届いたのか、はっと息を呑んだ音が聞こえた。
『えっと…私が行って、いいの!?』
「その…いつもピアノ聴かせてもらってる礼だ!早く来いよ、十分後に始めるから」
『え、ま、待って!行くから!!』
バタバタと慌ただしい音が聞こえた後、つー、つー、と通話が切れた。
「今日は何分?」
製氷車担当の三島さんがいつもの様にニコニコと微笑み乍ら尋ねる。
「今日は…一曲かけるだけでいいんで、十分です」
「了解、楽しみにしてるよ」
三島さんも俺のファンらしく、「俺この為にに製氷の仕事してたんだよな」と、俺が滑ることで実質サービス残業になってしまうのも快諾してくれた人だ。
ウィンドブレーカーを羽織り、愛用している黒い手袋と靴を着用する。
そろそろ研かないとな、と靴をひと撫でし、堅く紐を結んだ。
手首に通していた髪ゴムで、緩く髪を束ねながら滑り出す。
ウォーミングアップ、とのびのびと自由に滑走する。五分程そうしていると、最終点検をしていた小林さんが顔を出した。
「やっくん、友達だって言ってる太宰って子が来たけど」
「あ、すいません入れてあげてください」
「おっけー」
少しすると太宰の蓬髪がひょこりと見えた。小林さんも一緒だ。
太宰は氷上に一人佇む俺を見て、少しだけ期待の表情を浮かべた様に見えた。
「やっくーん、準備いいー?」
「大丈夫です」
「じゃ、流すよー」
きゅっと口角を上げる。
どんな回転だって、飛んでやる。
––––––この氷上は、誰にも奪えない俺だけの舞台だから。