三章 濫觴
「中也ー!見てこれ、何でしょう!」
「あ?…何だ?」
書類審査通過、という通知を太宰が電子メールで受け取って約二ヶ月が経つ頃。
既に学校は夏休み前のそわそわした落ち着かない雰囲気に入っていた。
しかし俺と太宰は別の意味で落ち着かない。
というのも、太宰の一次予選は映像審査で、少し前に撮影を手伝ったのだが、音沙汰もない期間というのは恐ろしいものだということを思い知った。
その手の中にあるのは、少し大きめの茶封筒。
「ふふふ。見てみて」
「…『全日本ピアノ演奏協会』…?」
言葉の意味を数回咀嚼し、やっと脳が認識した頃にはどんな顔をすれば良いのか分からなかった。
「これって!」
「うん、まだ開けてないんだけど。多分結果だよね」
薄っぺらい封筒は果たして喜びか、それとも悲しみを与えるのか。
どちらともつかない厚みに何故か此方の方がどきどきしてくる。
開けるよ、という太宰の言葉も、端々が震えている。
「…あっ」
「………?」
短く声を発した太宰の顔はみるみる青褪めていく、ように見えた。
何となく結果を悟って、唇を強く噛み締める。
なんて言えば良いのか。
残念だった?
審査員の目がなかった?
…此奴にそんな慰めの言葉が届く訳がないだろう。
「ふふ…あはは、ははっ!もー、なんで中也がそんな顔する訳?」
「何で、って……手前、真逆!」
突然笑い出した太宰に反駁すると、太宰は茶封筒の中からじゃーん、と効果音を付けて一枚の紙を取り出した。ただの紙ではない。
「予選、通過しましたー!」
「…くそ、驚かせやがって…」
賞状だった。
一次予選通過、という賞状にしては少し小さめの和紙には、しっかりと太宰の名前が刻まれている。
「ま、とはいえ、たかが一次予選だからね。こっからが本番だよ」
「そう、…だな。けど、おめでとう」
この後にまだ、二次予選、三次予選、そしてセミファイナルときて最後のグランドファイナルにつながっていく。
そうは言っても、この一次審査を通過するのはたったの五十人ということを後から知って吃驚したものだ。
「二次予選、いつやるんだ?」
「ええと…三週間後。あ、今度はホールで、だって。楽しみだなぁ」
楽しみ、って。
凄いよな。
自分の楽しいことを、試合や大会として発揮して、人に評価されることって。
ほんの一瞬、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
「三週間…短くね?」
「まあねぇ…けど、もう再来週から夏季休暇だし?毎日練習できるよ」
「それも込みでの三週間か」
長いようで短い、夏休みまでの残り二週間。全く夏休みの初めから波乱の予感しかしない。
しかし俺はというと、毎日太宰と一緒に過ごせるわけでもなくなってしまったことが少しだけ悲しい。
自分が選手に復帰すると、兄の次に伝えたのは紅葉の姐さん。
俺が引退するまでずっと面倒を見てくれていた、振付師兼コーチだった。
電話で復帰すると伝えた時、切り捨てられることも承知という覚悟だったが、姐さんは至って優しかった。
『そうか…。一年だけ、か。…甘えるでない』
「承知しています」
『真か?二年というブランクを舐めるでない』
「二年間、俺が本当に何もしていなかったとお思いですか?」
『…本当に戦う気があるのじゃな』
この時俺は迷うことなく、はいと答えた。
退路を絶たれれば、前に進むしかない。
という訳で、夏季休暇の俺には姐さんの猛特訓が待ち受けている。
夏休みに太宰と会う時間が少なくなるのも必然。
「にしてもさ、夏季休業中会えるのは日曜日だけって…どういう練習の仕方なの」
「姐さんのスパルタ舐めんな」
「…その姐さん?って人も気になる」
「あんまり知らない方がいいこともあるんだぜ」
「怖ぁ」
因みにその日曜日という日曜日も、筋肉痛により殆ど動けなくなるということを思い知ったのは二週間後。
◽︎◽︎◽︎
ぴんぽーん、と軽やかに鳴るチャイムの音に続き、ドアノブの音が響く。
「あれ、開いてる」
一言の呟きと共に見知った男が狭い部屋に入ってきた。
「お邪魔しまーす。中也ー?」
「おう、狭くて御免な」
初めてかもしれない、此奴の私服姿は。
白い襯衣にジーンズというラフな出で立ちに少しだけ見惚れて、はっと我に返る。
「何?見惚れちゃった?」
「否…別に」
「え、うそ図星なの」
「違え!!」
なんだ此奴、マジでうぜぇ。
そんなだから素直に言える訳無ぇじゃん。
アイス持ってきたから、と云う太宰に冷蔵庫は向こうだとキッチンの方を指差す。
外では夏の風物詩である蝉が気立しいと感じる位の大合唱を響かせている。昨日から始まった夏休み初日から猛暑日と、温暖化は人体に優しくない。
そんな中、太宰が「一度でもいいから中也の家に行きたい」と謎の要求(基、強請)を言い、それにより今日は中也の家に集まることとなったのだ。
「悪ぃな、何もねえけど」
麦茶の入ったグラスと一緒に切った西瓜を二つ持ってくると、太宰は嬉しそうに「ありがとう」と手をつけた。
「それより、大丈夫なのか?本番までもう一週間切ってんじゃねえの」
「うーん、なんていうか、イメージが掴めてないっっていうの?今練習しても無駄になるだけのような気がして」
「…え、それ大丈夫なのか?」
「さあ?」
さあ、って…。
何とも不安な回答すぎる。
俺がじっと見つめるも太宰は我関せずと涼しい顔でしゃくしゃくと西瓜を食べ進めていた。
「それで、中也は?いつから練習始まるの」
「明日から。日中は会えねえと思う」
「んー…夜は?」
「まあ、七時くらいからなら」
「じゃ、毎日私の家に来たら?」
…ワタシノイエニキタラ?え、まいにち…?
そんな日本語知らねえ。
「何そんな鳩豆な顔してんの」
「否…どういう意味で言ったんだ、って」
「そのままの意味」
だって。
それじゃあまるで、通い妻…って何考えてんだ俺!!
慌てて頭をぶんぶん振ると、太宰が心配そうに「頭大丈夫?」と言われた。
…殺すぞ手前…。
「まあ気兼ねしないで来なよ。それに君が家に来ないと、私のご飯がなくなるから」
「俺は家政婦じゃねえええ!!!」
太宰も自分と会うのが嬉しいのかも、とかいう生温い考えを激しく後悔した。
…くっそ。
飯要員かよ、莫迦じゃねえの。
莫迦らしくなって、ソファにぼすりと身を沈める。
「ってことで。ちゃんと来てよ」
「おー、気が向いたらな」
「ちょっと、ほんと来てよ?…寂しいんだから」
「……え」
聞き間違いだろうか。
否、はっきりと聞こえた。
「待て手前、今なんて」
「あー、暑いねえ!麦茶お代わり貰ってもいいかい?」
顔を見せずにまだ半分ほど中身の残ったグラスを此方に突き出す太宰の蓬髪から微かに除く耳は真っ赤になっていた。
気づかないフリをしながら、「飲み干してから言えや」と笑う。
此奴も案外俺とおんなじ、なのかな。
少しだけ期待する自分は矢張り恋には疎くて、どうすればいいのかも判らず心の中であたふたと騒ぎまくっていた。
でもそれは太宰も同じだと、この時はまだ判らなかった。…いや、気付いていなかっただけなのだろう。
「あ?…何だ?」
書類審査通過、という通知を太宰が電子メールで受け取って約二ヶ月が経つ頃。
既に学校は夏休み前のそわそわした落ち着かない雰囲気に入っていた。
しかし俺と太宰は別の意味で落ち着かない。
というのも、太宰の一次予選は映像審査で、少し前に撮影を手伝ったのだが、音沙汰もない期間というのは恐ろしいものだということを思い知った。
その手の中にあるのは、少し大きめの茶封筒。
「ふふふ。見てみて」
「…『全日本ピアノ演奏協会』…?」
言葉の意味を数回咀嚼し、やっと脳が認識した頃にはどんな顔をすれば良いのか分からなかった。
「これって!」
「うん、まだ開けてないんだけど。多分結果だよね」
薄っぺらい封筒は果たして喜びか、それとも悲しみを与えるのか。
どちらともつかない厚みに何故か此方の方がどきどきしてくる。
開けるよ、という太宰の言葉も、端々が震えている。
「…あっ」
「………?」
短く声を発した太宰の顔はみるみる青褪めていく、ように見えた。
何となく結果を悟って、唇を強く噛み締める。
なんて言えば良いのか。
残念だった?
審査員の目がなかった?
…此奴にそんな慰めの言葉が届く訳がないだろう。
「ふふ…あはは、ははっ!もー、なんで中也がそんな顔する訳?」
「何で、って……手前、真逆!」
突然笑い出した太宰に反駁すると、太宰は茶封筒の中からじゃーん、と効果音を付けて一枚の紙を取り出した。ただの紙ではない。
「予選、通過しましたー!」
「…くそ、驚かせやがって…」
賞状だった。
一次予選通過、という賞状にしては少し小さめの和紙には、しっかりと太宰の名前が刻まれている。
「ま、とはいえ、たかが一次予選だからね。こっからが本番だよ」
「そう、…だな。けど、おめでとう」
この後にまだ、二次予選、三次予選、そしてセミファイナルときて最後のグランドファイナルにつながっていく。
そうは言っても、この一次審査を通過するのはたったの五十人ということを後から知って吃驚したものだ。
「二次予選、いつやるんだ?」
「ええと…三週間後。あ、今度はホールで、だって。楽しみだなぁ」
楽しみ、って。
凄いよな。
自分の楽しいことを、試合や大会として発揮して、人に評価されることって。
ほんの一瞬、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
「三週間…短くね?」
「まあねぇ…けど、もう再来週から夏季休暇だし?毎日練習できるよ」
「それも込みでの三週間か」
長いようで短い、夏休みまでの残り二週間。全く夏休みの初めから波乱の予感しかしない。
しかし俺はというと、毎日太宰と一緒に過ごせるわけでもなくなってしまったことが少しだけ悲しい。
自分が選手に復帰すると、兄の次に伝えたのは紅葉の姐さん。
俺が引退するまでずっと面倒を見てくれていた、振付師兼コーチだった。
電話で復帰すると伝えた時、切り捨てられることも承知という覚悟だったが、姐さんは至って優しかった。
『そうか…。一年だけ、か。…甘えるでない』
「承知しています」
『真か?二年というブランクを舐めるでない』
「二年間、俺が本当に何もしていなかったとお思いですか?」
『…本当に戦う気があるのじゃな』
この時俺は迷うことなく、はいと答えた。
退路を絶たれれば、前に進むしかない。
という訳で、夏季休暇の俺には姐さんの猛特訓が待ち受けている。
夏休みに太宰と会う時間が少なくなるのも必然。
「にしてもさ、夏季休業中会えるのは日曜日だけって…どういう練習の仕方なの」
「姐さんのスパルタ舐めんな」
「…その姐さん?って人も気になる」
「あんまり知らない方がいいこともあるんだぜ」
「怖ぁ」
因みにその日曜日という日曜日も、筋肉痛により殆ど動けなくなるということを思い知ったのは二週間後。
◽︎◽︎◽︎
ぴんぽーん、と軽やかに鳴るチャイムの音に続き、ドアノブの音が響く。
「あれ、開いてる」
一言の呟きと共に見知った男が狭い部屋に入ってきた。
「お邪魔しまーす。中也ー?」
「おう、狭くて御免な」
初めてかもしれない、此奴の私服姿は。
白い襯衣にジーンズというラフな出で立ちに少しだけ見惚れて、はっと我に返る。
「何?見惚れちゃった?」
「否…別に」
「え、うそ図星なの」
「違え!!」
なんだ此奴、マジでうぜぇ。
そんなだから素直に言える訳無ぇじゃん。
アイス持ってきたから、と云う太宰に冷蔵庫は向こうだとキッチンの方を指差す。
外では夏の風物詩である蝉が気立しいと感じる位の大合唱を響かせている。昨日から始まった夏休み初日から猛暑日と、温暖化は人体に優しくない。
そんな中、太宰が「一度でもいいから中也の家に行きたい」と謎の要求(基、強請)を言い、それにより今日は中也の家に集まることとなったのだ。
「悪ぃな、何もねえけど」
麦茶の入ったグラスと一緒に切った西瓜を二つ持ってくると、太宰は嬉しそうに「ありがとう」と手をつけた。
「それより、大丈夫なのか?本番までもう一週間切ってんじゃねえの」
「うーん、なんていうか、イメージが掴めてないっっていうの?今練習しても無駄になるだけのような気がして」
「…え、それ大丈夫なのか?」
「さあ?」
さあ、って…。
何とも不安な回答すぎる。
俺がじっと見つめるも太宰は我関せずと涼しい顔でしゃくしゃくと西瓜を食べ進めていた。
「それで、中也は?いつから練習始まるの」
「明日から。日中は会えねえと思う」
「んー…夜は?」
「まあ、七時くらいからなら」
「じゃ、毎日私の家に来たら?」
…ワタシノイエニキタラ?え、まいにち…?
そんな日本語知らねえ。
「何そんな鳩豆な顔してんの」
「否…どういう意味で言ったんだ、って」
「そのままの意味」
だって。
それじゃあまるで、通い妻…って何考えてんだ俺!!
慌てて頭をぶんぶん振ると、太宰が心配そうに「頭大丈夫?」と言われた。
…殺すぞ手前…。
「まあ気兼ねしないで来なよ。それに君が家に来ないと、私のご飯がなくなるから」
「俺は家政婦じゃねえええ!!!」
太宰も自分と会うのが嬉しいのかも、とかいう生温い考えを激しく後悔した。
…くっそ。
飯要員かよ、莫迦じゃねえの。
莫迦らしくなって、ソファにぼすりと身を沈める。
「ってことで。ちゃんと来てよ」
「おー、気が向いたらな」
「ちょっと、ほんと来てよ?…寂しいんだから」
「……え」
聞き間違いだろうか。
否、はっきりと聞こえた。
「待て手前、今なんて」
「あー、暑いねえ!麦茶お代わり貰ってもいいかい?」
顔を見せずにまだ半分ほど中身の残ったグラスを此方に突き出す太宰の蓬髪から微かに除く耳は真っ赤になっていた。
気づかないフリをしながら、「飲み干してから言えや」と笑う。
此奴も案外俺とおんなじ、なのかな。
少しだけ期待する自分は矢張り恋には疎くて、どうすればいいのかも判らず心の中であたふたと騒ぎまくっていた。
でもそれは太宰も同じだと、この時はまだ判らなかった。…いや、気付いていなかっただけなのだろう。
2/2ページ