三章 濫觴

中也は私と怒鳴り合った次の日、学校に来なかった。
実際私も気不味くて、会ったらどんな反応をしてしまうかも分からなかった。

そしてその翌朝。
中也は教室にいた。
彼の他に誰もいない、まだ朝早くの教室で。

「…中也」
「ああ、太宰」

一日会わなかっただけの筈なのに、何故か、久々な気がする。
少しだけ、中也の纏う雰囲気が違ったり。
些細な事のように思えるけれど、全く違うような気もする。

「太宰、一昨日は…ごめん」
「え?うん…あ、いや、別に何も気にして無いよ」

慌ててひらひらと手を振る。
いつも通り、って、どうやってやるんだっけ。

「あのな、俺…」
「…うん」

揺るぎない視線に、確りと捉えられる。
ああ。
こんなに強い意志を持った目を、君は隠していたのだろうか。

「俺、選手に復帰する」
「……え?」

思いがけない言葉に心臓が跳ねた。
一昨日、自分の言った言葉の数々を思い出す。
その何かが彼を傷つけたのは確かなのに、その傷でさえ見せない。
自分が思っているより、彼は遥かに強かった。

「勘違いすんなよ。自分の為じゃない、俺は手前の為だけに(・・・・・・・)滑るんだ」
「……え?待って、なんで?」

それって。
それって…。
思い上がってしまっても、いいのだろうか。

「ふふ…うふふ」
「何笑ってんだ気持ち悪ぃ」
「ひっど!…でも、まあ…ありがと」

照れくさいけれど。
純粋に、嬉しかった。

「なあ、今日…手前ん家行っていいか?」
「今更何言ってるの」
「…はは、それもそうだな」

◽︎◽︎◽︎

「ええと、生年月日…」
「は!?手前、誕生日六月十九日!?先週じゃねえか!!」
「えー、そう言う中也は何時なのさ」
「俺は四月二十九日」
「過ぎてるじゃあないか!!」

放課後、例によって例の如く太宰の家にて。
ちゃっちゃらー、と下手な効果音をつけて太宰が出して来たのは、コンクールの応募票だった。
書くから、と宣言してくるりとペンを回す太宰の手元を覗く。

「え、てことは中也はもう十七だったの…?抜け駆けずるい」
「知るかよ。…来年はもう成人か」
「あー…進路とか、決まってるの?」
「全然。わかんね」

お手上げとばかりに首を振る。
進路なんて考えたこともなかったし、就職先など以ての外。
この街には住み続けたいが。

「太宰は、何か決まってんのか?」
「私?んー…あんまり深くは考えてないけど、森さんが勧めるから適当に何処かの医学部にでも行こうかと思うけど」
「適当、て…適当に入れるようなとこじゃ無えだろ」

そうかな、と言う太宰の顔を二度見する。
忘れてたけど、そうだった、此奴何気に学年トップだったわ。

「中也は選手続けるの?」
「んー…そう言う訳にもいかねえからな…今年のオリンピックに出られたら出てえけど、流石にブランクもあるから無理だと思うし、世界選手権出て今年できっぱり辞める」
「え!?復帰して一年たたずに辞めるってこと!?勿体無い!」
「勿体無いって…元々、続ける気は無かったんだよ」

そもそも、俺が復帰すると決めたのは太宰の所為だ。
…世界一になったら、太宰に告白する。
それが自分とした約束だ。
獲れなければ、この気持ちは棄てる。
それくらいの覚悟を持った。

「何で一年で辞めちゃうの…」
「しゃーねえだろ。兄貴に迷惑もかけらんねえし」

これは紛れもない本心だ。
善く分からないがガバガバ稼いでいる兄貴が本当に心配でならない。

「ふうん…じゃあ中也は、進路本当に決まってないんだ…」
「何だその不思議そうな顔は」
「否…だったらさ、中也も医学部行ったら」
「はあ?何言ってんだ、無理に決まってんだろ。俺は手前みてえに頭いい訳じゃ無えけど」

俺がそう言うと、太宰が吃驚したように目を剥いた。

「君本気で言ってる?…ほんと、そう言うとこだよ」
「はあ?何の話だよ」

全く訳が分からず、首を傾げる。
俺は中の上くらいの成績で、太宰なんかと競い合えるような一桁台にいるわけでもないし、十番台から二十番台をうろちょろしている、別にそう頭もいいわけでもない立ち位置だ。

「はぁ…君ねえ…自分が通ってる高校何処だか判ってる?」
「…?おう」
「県内トップで全国的に見ても上位層だよ!?本当にわかってんの?」
「…あー…まあ?」
「絶対判ってない…」

はあ、と再び溜息をついた太宰は恨めしげにボールペンの先で机を突いた。

「兎に角…君は自分が思ってるより成績いいし、頭も悪くないってこと。君の成績なら医学部位は進学できるよ」
「…本当か?でもまだ二年生じゃ無えか、断定するには早えよ」
「まあ、そうだけど」

ややあってまた応募票に記入をし始めた太宰は、何かを考えている様子だった。
数分もすれば、「できた」と明るい顔で書類を確認している。

「ね、一緒に郵便局行こ」
「いいぜ」

るんるん、とでも馬鹿げた効果音が付きそうなほどの軽い足取りで玄関に向かった太宰を追いかける。

「予選の曲、もう決めてあるんだ」
「へえ、早えな。何にしたんだ?つっても、分かんねえかも知れねえけど」
「後で弾いてあげる」
「そりゃあ楽しみだ」

此奴の譜読みの速さは尋常じゃない。
分かっていたことだけど。
今更だけど、
……此奴の頭、一体どうなってんだろうな、と日々日々思う。
毎日あんな退屈そうに授業を受けているのか受けてないのかよく分からないし、そのくせ定期考査では満点を取る、という。
天才通り越して変人だ、もう。

…その変人に惚れた俺も相当の変人かも知れない。
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