二章 不退転

玄関の扉を後ろ手で閉めた中也は、ずるずると蹲み込んだ。
顔を両手で覆い、もう枯れ果てた涙の痕跡を辿る。
取り返しのつかない事をした。
それだけはわかる。

––––––俺、何してんだろ

身体中から力が抜けて、どうしても、動けない。
あの関係を壊してしまった自分を、強く責め立てる。
どうしてあんな事を。何で、あんな事を。
考えても考えてもキリが無くて、ただ、ずっと、ぼうっと冷たい床の上にへたり込んでいるだけだった。



どれくらい時間が経ったのか。
スマホの振動に気付く。
太宰だろうか、そうであってほしい。その一心で祈りを込めるようにポケットを探る。
程なくして、落胆の溜息が漏れた。

「…ンだよ莫迦兄貴」
『……酷い言い草だな、と言いたいが…。察するに、何かあったんだな』

ちっ、と舌打ちをする。
これだから油断して電話もできない。

『明日、そっちに着く。学校終わったら家に直帰しろよ』
「……は?何で?」
『丁度、日本に用事もあるしな。話したいことも山積みだ』
「いいって、俺は話すことなんてねえ」
『俺の方に有るんだ。それに実はもう飛行機の中だ』
「…はあ?」

相変わらずの行動の速さに驚くというより最早呆れさえ有る。
はぁ、と溜息が堪え切れなくなった。

「……なあ、明日、学校休んじゃ駄目か?」

口を突いた言葉に、自分でも吃驚した。
自分が発した言葉なんだ、と認識した途端、ああ、俺、太宰に会いたくないんだ、と考えていた。

『…解った、善い。学校には俺の方から連絡しておこう』
「ああ。ありがと」

そして示し合わせたかのように電話は切られた。
通話終了の音と同時にのろのろと立ち上がる。
身体は寒気を感じるほどにすっかり冷え切ってしまっている。
もう五月も終わりだというのに、未だ厳しい春寒に震える。

液晶に映った、「太宰」という文字に触れようとしてやめる。
それを何度繰り返したか分からない。
話したい。話したくない。

ーーー

間の抜けたチャイムの音が響いて、ぱちりと目を開く。
もう着いたのか。しかし未だ朝…というか早朝。
何故だか重い身体を引き摺るように、玄関へ向かう。

「久しぶりだな、中也。…顔が死んでるぞ」
「こんな朝早くに来るなんて聞いてねえ」
「仕方ないだろう。それとも何か問題あったか?」
「…否、何も」

もう何度目かも分からない溜息をつく。

「入れよ」
「ああ。そうだ、土産だ」
「…なんだ、これ?」
「貰い物だが、仏蘭西(フランス)の有名な洋菓子店のものらしい」
「……一寸待て、働いてるのは仏蘭西なのか?前は英国(イギリス)と言ってなかったか?」

友人のツテで英国に勤め先を見つけたから出稼ぎに行ってくる、というような内容を言われた覚えがある。
疑問に思って聞くと、途端に目を逸らされた。

「あー…えっと、まあ、その会社の支店みたいな感じでな、仏蘭西へ派遣されてるだけだ」
「待て、それって左遷ってことか?じゃああんな仕送り額もやっぱり無理して…」
「違う違う、給与が上がったのは本当だ!それに左遷じゃない、思考を端折るな」

慌てて否定する兄貴は矢張り何処か胡散臭い。
胡乱げな目を向けてもどこ吹く風。
しかしもう慣れたもので、詮索する気すら起きなかった。

兄貴の好きな珈琲を淹れて、砂糖も何も入れずに手渡す。
すまないな、と全くすまなく思っていなさそうな顔でさらりと言う兄は矢張り自分の兄に間違いない。

「それで、中也は何を悩んでいるんだ?」
「別に…悩んでるっつー訳でもねえし」
「そんな訳ないだろう。いつもより元気がないしな。…ちゃんと、想いは伝えたか?」

言葉に詰まって、俯く。
伝えられるわけがない。太宰に俺の想いを伝えることなんて、一体どうしてできようか。

「…無理、だ」
「如何して?」
「壊したくない」
「そんなことで壊れる関係なら、いっそのこと壊してしまえ」
「出来ねえ!」

壊したくなんて、ない。
俺は…彼奴と一緒にいる時間が、何よりも一番大切だから。

「何があったか、教えてくれないか?」
「………俺…本当に最低なことした…」

ゆっくりと事の顛末を話しだす。

太宰のこと。
スケートのこと。
恋をしたこと。
…叶わない、恋をしたこと。

「…そうか。でも…中也。それは、駄目だ」
「駄目?」
「怖いと思っても、甘えていい。そうしないといつか、お前が壊れる」
「でも、俺、は…」
「でも、じゃない。…よかったな、中也。俺が日本にいない間に、お前が弱音を吐けて、安心できる場所が出来たじゃないか」
「でも、もう…彼奴に、もう合わせる顔もねえし…」
「謝ればいい」

さも簡単そうに言うけれど。
謝って済むような問題じゃないだろう。

「誠心誠意謝って、それ相応の行いで返す。それで大抵の蟠りは解決だ」
「行い…」
「そうだ。行いで、過ちを返せ」

すっかり冷めてしまった珈琲に口を付ける兄貴は、ただ純粋に俺を案じていた。
信頼できる兄貴。
迷惑を掛けるかもしれない。
それでも、充分な行いとともに太宰に謝りたい。
それで決意した。
二度と、逃げないと。

「なあ、兄貴。…ごめん。今更だけど–––––」



ーーー



「じゃあ、元気でいろよ。…頑張れ、中也」
「…ああ。じゃあ、な」
「ああ」

玄関先で、兄の後ろ姿が見えなくなるまでその姿を見届ける。
家の中へ戻って、どきどきと高鳴る心臓を押さえつけるように呼吸を整えた。
スマホを持つ手が震える。

–––––決めたんだろ。

善く知る名前と、電話番号。
緑色の受話器釦を押す。
何コール目かに、呼び出し音は消えた。
ふう、と大きく息を吸う。

「…姐さん。……はい、お久し振りです。……すみませんでした。

 …俺にもう一度、ご指導をお願い致します」
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