一章



『エントリーナンバー、19…オサム・ダザイ』

スポットライトに照らされる。
眩しさの中、太宰は少しだけ目を細めた。

観客席を見上げる。
暗く、大勢の人間の中でもいちばんに見つけられるのはたった一人だけ。
赭色の髪に向かって微笑む。

今日は君のために弾くんだ。
世界で一人だけのために、弾くこの曲。
これが、私から君へのラヴ・ソングだ。

私を見つけてくれた、君への。




△△△▽▽▽


「あ」
「……」

昼下がりの気だるい雰囲気が残る屋上。
普段は鍵がかかっていて閑散としているこの場所を、よく授業をサボる場として活用していた。

そんな私の憩いの場に、突然現れた背丈の小さい男子。
どこかでみたことがある。
確か、同学年の…

「あ、君、中原中也君だ」
「…手前と話したことはねえ筈だが」
「話した事はなくとも君は超有名人じゃあないか。ほら、消えた鬼才…」
「それ以上言ったら殴り殺す」

低い声で言葉を遮られた。
怒っている。
理由は単純明快。

中原中也という名前は世間でもかなり有名だと思う。
彼は中学生の頃、フィギュアスケートでその名を馳せていた。
トップアスリートの一人で、当時かなり勢いのあった選手だ。
しかし彼が中学3年の頃…2年前に、突然引退を明かした。
あまりにも早すぎる引退表明に、ただただ世間は焦るばかり。真実は誰にもわからない。
そして、彼は何故かこの超進学男子校に入学してきた。
入学早々彼は周囲の関心を引いていたが、彼の無邪気で人懐こい性格からか、誰もその事に関して軽々しく触れる真似はしなかった。
クラスでは人気者で、コミュニュケーション能力の高い彼。
正直、私には関係ないと思っているし、興味もない。

彼と話すのは初めてだ。
クラスも一緒のはずだが、話したこともないこの人間と何を話せばいいのやら。
向こうは屋上の扉をばたりと雑に閉めて、こちらへ歩み寄ってきた。

「手前、太宰治だっけ」

驚いた。私の名前を知っているとは。

「そうだけど。私のこと知ってるの?」
「手前、卒業式でピアノ弾いてたろ。上手かった」
「…ふうん、そう」

確かに去年の卒業式で、在校生から贈る歌としての伴奏を任された。
誰も立候補者が居なくて、私がピアノを弾けるという事を誰かが教師に告げ口したらしい。そこで教師に頼まれたから、適当に済ませた。
そう真正面から褒められると、面映くて素っ気無い態度になった。
彼はそれに介することも無く、私の隣で柵の外を眺めている。

「なあ」
「うん?」
「手前のピアノ」
「うん」
「聴きたい」
「…うん?」

聞き間違えたのだろうか。
私のピアノを聴きたい、と言われた様な気がするがそれとも気のせいだろうか。

「え?何て?」
「は?だから…手前のピアノ、好きだから聴かせてくれねえか、って…言ってんだよ」

どうも聞き間違いじゃ無かったらしい。
しかし、こんなド素人のピアノを好むなんて変わった趣味の者もいるものだ。

「…別に、良いけど」
「本当か!?」
「え、うん」

顔をぱあっと輝かせた彼に吃驚する。
何でそんなに手放しに喜べるのだろうか。

「じゃあ…放課後、暇?」
「おう」
「私の家に来てよ」
「分かった」

こくりと頷いた中也は、目をキラキラと輝かせて私を見詰める。

そして、放課後。
さっさと教室を出ていった彼に、約束を忘れたのかと愕然とする。
溜息をつきながら学校の敷地外に出る。
別に、忘れててもいいけどさ。
どうせ、彼にとってはそれ位の気にも留めない小さなことなんだろうし。
けど。
あんな顔されたらさ、一寸期待してしまうじゃないか。

「おい」

校門の裏から、低めの声が響いた。

「手前ん家、何処」

忘れていなかったのか。
少しばかりの嬉しさを覚えた自分に首を傾げる。
よく考えたら、こんなほぼ見ず知らずの人間を家にあげるなんて私はどうかしている。
なんでこの人物を家に上げて、ピアノを聴かせなきゃいけない。

「おーい?手前、聞いてんのか?」
「ちょっと黙ってこの脳筋チビ蛞蝓」
「は!?手前喧嘩売ってんのか!?」
「わー短気だなー流石単細胞だなー」
「手ん前ぇ…巫山戯んじゃねえ殺す!」
「物騒だことー」

あれ、何してんだろ、私。
こんな、ほぼ初対面の人間と何で馬鹿話してんだろ。
こんなに親しげに誰かと喋れるのは、珍しいとか、そういう次元じゃない。
ただ、君の傍にいると、楽しくて、気が楽になって。
なんで、だろう。

◽︎◽︎◽︎

「どうぞ上がって」
「おー…お邪魔します…」
「別に、誰も居ないから」

高級マンションのエントランスへ迷いなく入っていった太宰は、何処か気怠げだった。
此奴、こんなとこに住んでんだな。

クラスの中で、誰とも話さず、窓の外を眺め。
ときには授業中に見かけない日もあった。
太宰治。
気にも留めていなかったその存在は、去年の卒業式から俺の中で大きな存在になった。
其奴の弾くピアノは、繊細で、強くて、弱くて。
言い表せなかった。
ただ、すごい。
どう表せばいいのかわからなかった俺には、すごいとしか言いようが無かった。
俺は太宰の弾くピアノが好きだ。
俺の、歪んだ心も治してくれそうで。
だから、もう一度でもいいから、聞きたかった。

「うわ……すっげ…」

部屋の真ん中に鎮座している、グランドピアノ。
大きくて、真っ黒で、厳つい。
そして、輝いている。

「な、弾いて弾いて」
「えー…早くない?ま、良いけど」

黒塗りの蓋を開けた太宰は、ぽろりぽろりと数音、指を滑らせた。
そして、刹那。
ぴりっとした空気が漂う。

俺は音の渦に引き込まれた。
聴いたことのある、曲。
なんだっけ、これ。
綺麗で、壮大で、美しい。
表しようのない、美しさ。


「え、一寸どうしたの!?」

はっと我に返る。
太宰が吃驚した顔で此方を見つめていた。
気付けば演奏は終わっていて、夢から醒めたみたいに酷く虚しい。
自分の頬を流れる水滴を認識して、ぐいと袖で拭う。

「ああ…悪い…上手かった、ありがとな。帰るわ、お邪魔しました」

一気に捲し立てて、太宰の方を碌に見向きもせずくるりと踵を返す。
エレベーターを待つ時間ももどかしくて、階段を駆け降りる。

凄かった。
やっぱり。

こんな稚拙な感想しか言えない自分が情け無い。
けど、それ以上に…。
胸を突く何かが、痛かった。

◽︎◽︎◽︎

「え、一寸!!待ってよ!」

叫ぶ声も虚しく、扉は無慈悲に閉まった。

「…もー、なんなの、彼奴…」

泣いてた。
どうしてだろうか。
私の演奏に、そんなに心を動かされた?
真逆、ね。

その夜、「中原中也」を検索した。
数々の映像がヒットして、一つ目の動画を覗く。

「……嘘…なに、これ」

地球の重力を無視した様な回転。跳躍。
小柄な彼は、至極危ない技を披露しているというのに、歓声と音楽の中で光り輝き、笑っていた。
楽しそうな、笑顔。
一粍の苦難も感じさせないその表情は、私を魅了するのには十分過ぎた。
他の動画も見て行く。
凡て、満面の笑みがそこにはあった。
あらゆる大会の映像を見尽くしたとき。
私はすっかり、彼の虜になっていたも同然だった。

何故引退したの。
どうして辞めてしまったの。

心に沸々と沸き上がる思いは募る。

彼の演技を、もっと、見たい。


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