正編
スタートライン
口の中は緊張で極限まで乾き切っている。隣にいる彼がどんな顔をしているのか知るのが恐ろしくて、そちらに顔を向けることはできなかった。
「ちゅー、接吻ってことか。場所は伴わないんですかね」
先に沈黙を破り、眉を下げて頬を掻きながらこちらに問いかけきたのは堀川国広。わたしの好きな
「どうだろう。困っちゃうね」
ここはいつも使っている執務室だが、外へ続くはずの戸はすべて固く閉ざされており、一寸たりとも動いてはくれなかった。堀川が軽く切りつけてみても、不思議な力が働いているようで物に刃が触れる前に弾かれてしまう。
障子戸の上部に(審神者の皆様ならわかるであろう、ちょうど大阪城地下制覇の文字がくるところだ)お世辞にも上手とは言えない字で〝ちゅーせば解放す〟とある。遠征の報告を終えた堀川が部屋を出ようとしたところで見つけたのだった。
「うーん、ちょっと失礼しますね」
そう言うと堀川はわたしの左手を取るなり、恭しく唇を落とした。一連の行為があまりにも様になっていて見惚れてしまったのは内緒だ。くちづけられた場所が薬指だったのはきっと偶然で、深い意味はない。唇が離れたあとも、生々しく湿った感覚が残っているような気がしてならなかった。
「……堀川くん、手ぇあったかいね」
「主さんは冷たすぎ」
時間にして五秒くらいだろうか、さっきの夢みたいな出来事について触れたらどうにかなってしまいそうだったから、思考を逸らすために手のあたたかさを指摘した。わたしの手が冷たいのは冷え性だからいつものことだけど、今は緊張も相まって余計に冷えている。彼の唇が異様に熱く感じたのはきっとそのせいだろう。
「いつもこんなに冷えてるんですか」
「冬はこんな感じかな」
「かわいそうに。握ってたらあったまるかな」
「堀川くんの手も冷えちゃうよ」
「僕の手は別にいいんですよ」
押し問答になるのはわかっていたから、最後に心の中で「よくないよ」と言い返して自分の中で終止符を打った。ところが、まるでわたしの心の声が聞こえたかのように、堀川は目を細めてもう一度「いいんですよ」と言い聞かせるようにゆっくり言った。わたしの手はすっぽり堀川の手に収まるように握られてしまったのだが、頼むからにぎにぎしないで欲しい。手汗は大丈夫かな。
「さて、本題に戻りますけど」
「うん」
堀川は片方の手でわたしの手を握ったまま戸を開けようとぐっと力を入れたが、やっぱり開かなかった。
「開きませんねえ」
「開かないかあ」
困った。非常に困った。なぜこんなことになった。非日常が日常となってしまっている本丸での暮らしにやっとこさ腰が据わってきたというのにこれである。だいたい指令とやらがアバウトすぎるのだ。場所も指定してくれたらさっさと出られるのに、わからないせいで余計なくちづけをしなくちゃならないじゃないか。
「いっそ、唇にしてみますか」
「ね、その方が確実かな」
堀川の提案に思わず空いているほうの手で胸元を押さえてしまったが、余裕を感じさせる答え方をした。正直なところ声が震えそうで仕方がなかったし、なんでもないような顔をして鼓動を抑えるのに必死だった。ファーストキスはとっくの昔に済ませているが、やっぱり好きな相手との初めてのキスは大切だと思うから、誰かに指示されてだなんて、お互いの気持ちのためじゃなくて部屋から出るために仕方なくだなんて、それはちょっぴり残念だよな、と思った。
「それじゃあ、ちょっとだけ我慢してくださいね」
堀川はおもむろにわたしの左頬に手を添えた。それだけじゃなくて親指で頬をすり、と撫でるもんだから、そんなことしないで!と心の中で絶叫した。こくりと唾を飲み込んでしまったけど、バレてはいないだろうか。きっとわかっていても優しい彼は黙っていてくれるだろうな。
「主さん、僕、ちょっと緊張してるから目を瞑ってもらえると嬉しいです」
「あ、そっか、ごめん。そうだよね」
キスってどうやってするんだっけ、と考えながら堀川をじっと見つめているとお願いをされてしまった。ていうか、堀川も緊張するんだ。
「……僕にされるの嫌じゃない?」
「うん。嫌じゃないよ」
(だって好きだもの)
「ん、よかった」
なんだ、なんだこれ、まるで付き合いたてのカップルみたいじゃないか。堀川からの視線が真夏の太陽みたいにじりじりするし、心なしか声も甘い気がする。気のせいだよと己に言い聞かせても全然意味なんかなくて、必死に押さえていた鼓動も再び暴れはじめてどうにもならなくなってきた。はやく、はやく、じれったいせいでこんなに恥ずかしいんだ。もういいから、
「堀川くん、ごめん」
「え」
そうだ、一瞬で終わらせたらいいんだ。ついにわたしは耐えられなくなって、とにかくはやくこの甘党もびっくりするくらいの甘ったるい空気から抜け出したくて、覚悟を決めて堀川の両肩を掴んだ。身長は数センチしか変わらないし、キスは初めてじゃない。ほんの一瞬、加減を間違えずに堀川の唇に自分のを合わせにいくのは案外難しいことではなかった。ムードなんて知らない。これでいい。
「…………」
「やるなあ、主さん」
「ちょっと、からかわないで」
堀川の言葉にじわりと恥ずかしさが滲んで頬が熱くなるのがわかった。こんなとき、かわいらしい反応ができないのが嫌になる。せめてもの抵抗で堀川の肩を叩いたが体はちっともぶれなかった。
「ほら、もうはやく出よう」
穏やかに微笑む堀川を横目に戸に手を掛けたが、力を入れる前にわかってしまった。これは、開かない。
一歩下がって指令の書かれたその場所を確認してみるも変わりはなかった。もしかしなくても指令をクリアしていないということだろうか。
「あれ、もしかして開きませんか」
背後から話しかけられて泣きそうになりながら振り返ると、何かに気付いたらしい堀川が「あ」と声を漏らした。
「ごめんなさい。あとで怒られるので」
「ええ、何、怒らないよ」
「少し触れます。そのままでいてくださいね」
触れると言われて少し身構えていると、首元に手を伸ばされそっと髪を払われた。
「さっき主さんが振り向いたときに髪の隙間から見えたんですけど、ここにシルシがついてるんですよ」
トントンと何やら印があるらしい箇所を指先で示され、肩に力が入る。右耳のわずかに下、生え際に近いあたりだ。なんでそんなところに。自分では見ることが叶わないため、どんなものなのかを聞くと、比較的物言いのはっきりしている彼にしては珍しく言いにくそうに答えた。
「ええと、僕の……堀川国広の、紋が」
「堀川くんの、紋」
「今、一緒にいるのが僕だからかな」
たった今キスはしたものの、自らの体に紋が出るようなことをした覚えはなかったから頭の上にはてなマークを浮かべてしまった。おそらくこの部屋のせいだとは思うが、なんてことをしてくれたんだ。見たい。ちがう。とうとう欲が出てきはじめてしまった。これではいけないと己の欲を払拭するように、頭を左右に振る。すると堀川はもう一度印が見えるように髪を寄せてから、わたしを固定するように両肩を押さえた。うしろにいるから堀川の表情も何をしようとしているのかもわからない。好奇心に駆られて振り返ろうと首を動かすと、彼の端正な顔が思ったよりも近くにあることがわかって心臓が跳ねた。
ちゅ、というお手本のようなリップ音のあとすぐに顔を上げたらしい堀川は印のあった箇所を撫でた。
「うん、消えた」
リップ音出せるんだとか、首を撫でられた感覚とか、背中にぬくもりを感じるけどどれだけ近くにいるんだとか、ぐるぐる考えながら「ソウデスカ」と蚊の鳴くような声で答えた。
「はい、どうです?開きません?」
促されて再び戸に手をかけると今度は開きそうな気配がした。力を入れると期待通りにスッと動く。外の光が部屋の中へ差し込んだと同時に頭の上でぼぅと何かが燃える音がした。指令が書いてあった紙が燃えたようだった。印にくちづけろ、ということだったらしい。閉じ込められた時間はそんなに長くはなかったと思うが、わたしにはうんと長く感じた。堀川はどう感じたのだろう。いつだったか、刀剣男士と縁を結んだ同僚と話をしたことがある。彼女は「彼とだったら一生閉じ込められてもいい」と花が綻ぶように笑って言った。もし、堀川との関係が今以上だったらどうなっていたか、想像しようとしてやめた。わたしには知る由もない。
廊下へと足を踏み出そうとしたが、それは堀川によって制された。
「ね、駄目ですよ」
「なんで、出られるのに」
「主さんに何かあったら僕が怒られちゃうから。誰かさんが言ってたでしょ、外に出るときは足からって」
茶目っけたっぷりに「致命傷は避けないとね」と言いながら言葉のとおり左足を踏み出して廊下へと出た堀川。辺りを警戒してからこちらに体を向けなおして、わたしを迎えるように両手を広げた。彼の表情を見て、警戒する必要がないことはわかっていたが言われたとおりに足から部屋を出た。
「堀川くん、出られましたね」
「なんともまあ、言葉足らずな指令でしたね」
「この度は大変ご迷惑をおかけいたしました」
「いえいえ、そんな。こちらこそ無体を働いてしまいまして」
「無体だなんてそんな」
いえいえ、いやいやなどと言いながらお互いに深々とお辞儀しあっているうちにだんだんおかしくなってきて、どちらともなく笑いはじめていた。アハアハ笑いあっていると向こうのほうからこんのすけがすっ飛んできて、わたしは六キロ弱あるもふもふの塊をよろめきながらも受け止めた。
「どこにいらっしゃったのですか!主様の霊力が急に消えたものですからこんのすけは非常に心配しておりましたよぅ」
メソメソと腕の中で泣くこんのすけの言葉を聞いて堀川と顔を合わせる。どうやら一大事になる一歩手前だったようだ。少し遅れて加州もやってきた。
「あぁ!いた!」
「加州くん。なんか心配かけちゃってたみたいだね」
「いや本当に焦ったんだけど」
額に汗を滲ませながら大きく息を吐くその姿に申し訳なさがつのる。必死になって探してくれていたのだろう。それから加州は堀川に視線を向けてから「堀川と一緒だったの?」と聞いてきた。
「うん。さっきまで、そこに」
「執務室?」
「そう」
ね、と堀川と目を合わせる。もうそれができるくらいには落ち着いていた。
「結局何だったのか、わからずじまいでしたね」
「訳もわからず一緒に閉じ込められてたね」
「お二方ともそんな呑気に!今回は無事だったからよかったものの、報告案件ですよ!これは!」
こんのすけがきぃきぃ声を上げる。本丸内で審神者の霊力が感知できなくなり、行方不明になりかけたのは本当で、確かに問題だ。報告は必須だろうが、どこまで詳細にすべきか先ほどの出来事を思い出しながら悩んでいると加州がこちらを見ていることに気付いた。
「さっきから何、その百面相。顔赤いし」
「えっ」
指摘され、自覚があっただけに顔を隠したかったがいかんせんこんのすけを抱いているためそれができない。この場で頼れるのは唯一事情を知っている堀川だ。わたしは加州から隠れるように静かに堀川の背中へまわった。
「あれ、そういう感じ」
「遅かれ早かれ加州くんには伝えますが、ちょっとこの場では言いにくくてですね」
「主さん、言いにくかったら僕が伝えるけど」
「だ、大丈夫。自分で伝えるから」
「主様、報告は
いっぱいいっぱいになっているわたしを見かねてか、手を打ち鳴らしながら加州は「はいはい」と声を上げて自らに注目を集めた。
「とりあえず、主はこのあと俺が事情聴取するから。こんのすけ、書類ができ上がり次第また呼ぶよ」
「頼みましたよ。加州清光」
「まかせて」
こんのすけはわたしの腕からするりと抜け出すと執務室の中に入り、不審なところがないかを調べはじめた。安全だとわかるまでは立ち入り禁止とのこと。その間、わたしと加州は離れで報告書の作成だ。正直、面倒極まりない。
「加州さん、何か補足が必要であれば僕もお話しします」
「よろしく」
「主さん、僕のことで何かあれば加州さんに」
「うん?」
「切腹も辞さない覚悟ですってこと」
「お、大袈裟だよ」
快活にとんでもないことを言ってのけた堀川に、わたしは慌てて返事をすると彼はふふふと笑いながらその場をあとにした。隣では「本当に何があったワケ」と加州が呟いていた。
⌘
「んで、堀川とちゅーしたんだ」
「そんな明け透けに言わないで」
「だって他に言い様がないじゃん」
何が起こったのかあらましを説明している間、わたしが堀川に恋心を抱いているのを知っている加州は始めこそ真面目に聞いていたものの途中からずっとにやけた顔をしていた。人の気も知らないで。
「いわゆる出られない部屋になってたわけね」
「どこかに飛ばされたとか、嫌な感じとかはなかったから、この本丸の執務室がそうなっちゃってたってことだと思うんだけど、わたし特に変な術とかやってないんだよね」
閉じ込められる数日前までの行動を思い出してみても、何かイレギュラーなことをした覚えはなかった。万屋で変なアイテムを触ったわけでもないし、業務をサボっていたわけでもない。今後このようなことがあっては困るから、何か些細なことでもいいから引っ掛かることがないか、さながらロダンの考える人のようなポーズで考え込んだ。
「こういう事例の報告書はいくつか目を通したことあるけど、どれもどうしようもなく起こってる感じだから考えるだけ無駄かもよ」
「そうなんだけどさ〜」
「まあでも、人ひとりの霊力が感知できないのはともかく、部屋が丸ごと認知できなかったのはびっくりした」
そうなのだ。不思議なことに、わたしの霊力が感知できないことに気付き本丸中を探し回っていたこんのすけと加州は、なぜか執務室をスルーし続け、わたしたちが出てくるまでその存在ごと忘れてしまっていたという。
「本丸が主と堀川を閉じ込めちゃったのかもね、あんまりにもじれったいから」
「ええ?それって、本丸に意識があるってこと?それとも加州くんたちみたいに付喪神が宿ってるの?」
「それはわからないけど、そこそこの時間を審神者と百を超える刀の付喪神がここで暮らしてるんだから宿ってたっておかしくないよ」
「百年経ってないのに」
「俺はここの時間感覚は当てにできないと思ってる」
「それにしたって、困るよ」
この気持ちは地獄まで持って行くつもりなのに、とあとに続けたかったが飲み込んだ。この話をすると、加州はいつも悲しい顔をするからだ。代わりに「だって、堀川くんに迷惑かけちゃった」と畳のへりを睨みながらぽつりと呟いた。返事が返ってこなかったので顔をあげると加州は何を言っているんだこいつは、とでも言いたげな顔をしていた。
「そんなことないでしょ。ラッキーぐらいに思ってるよ」
「加州くんは堀川くんじゃないもん。わかんないじゃん」
「これで主さんが僕のこと気になってくれたらいいなって思ってるよ」
「ねえやだ、それ堀川くんの真似?全然似てない」
「似てるから。和泉守に好評だから間違いないよ」
「嘘だぁ」
どんどん本筋からずれていく会話に胸を撫で下ろしつつ報告書を仕上げていく。いつのまにか己が押しつぶされるほどに育ってしまったこの恋心を長いこと捨てられずにいる。堀川にあげるつもりも、ない。捨てられないなら、あげられないなら、その辺に置いておくしかない。いつもは頑張ってぎゅうぎゅうに小さくして、見つからないように隅っこに転がしているそれが「ここにいるよ」ときらきら存在感を放ちはじめてしまった。
「頑張らないとな」
キーボードを無心で打ちながら独り言のつもりで呟いた言葉を加州はしっかりと拾っていたようで「頑張ってるじゃん」と言いながら紅茶を啜った。
「大事にしなよ。ここからだからね」
頷いたが、加州の顔を見ることはできなかった。
