ルルーシュくんは僕のヨメ?
五限目ともなると、どうにも眠い。
授業で寝るのは抵抗があるものの、そんな僕にはおかまいなしに睡魔は襲って来る。四限目の水泳と、さっき食べたお弁当による程よい満腹感が効いているようだ。
おまけに、今は数学の時間だ。これで眠るなという方が酷なのではないかとすら思うほどに、まぶたは重い。既に堕ちている人も一定数いるようだ。
しかし一方、壇上で教鞭を振るう先生は、それらを気に留めて注意する様子もない。こういう時、本当に無視しているだけなのか、黙って点数を差っ引かれているのか、学生の身では推し量れずもどかしい。多くは後者なのだろうけど。
そんなことを考えているうちに、また波が襲って来る。先生が垂れ流す暗号のような言葉も、もう耳には入ってこない。むしろ、淡々と平坦な調子が子守唄の役割すらしている。
せめて、当てられたりしませんように。
僕はそんなことを誰にでもなく祈りながら、ガクンと意識を手放した。
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「おい、スザク。起きろって」
穏やかな呼びかけとともに、体をゆさゆさと揺すぶられる。
知らない声。これはきっと、男の声だ。
落ち着いた綺麗なテノールで、とても心地が良い。起きろとは言うけれど、こんなに優しい声では逆にもっと深く眠れてしまいそうだ。
「弱ったな……。今日は朝のタイムセールに付き合ってもらおうと思ったんだが……」
ふぅ、と深く息を吐き、その声は独りごちるようにぶつぶつと言葉を続ける。
「……卵一パック80円……お一人様一パックまで……」
かろうじて聞き取れたそれが本当なら、かなり安いのではないだろうか。どうにか僕を連れて行こうとするのも頷ける。
しかし、これは僕の意思じゃない。依然として、布団が僕を離そうとはしないのだ。
「……こうなったら、パンツの中に氷でも……いや、口の中にマヨネーズ……」
起きた。これ以上ないほどに。
勢いよく体を起こすと、視線を僕の下半身に下ろして何かを思案する、異常なほど顔立ちの整った美人が立っていた。
「ああ……なんだ起きたのか、スザク」
彼はキラキラと光を反射する菫色の瞳を僕に向けると、少し残念そうに微笑んだ。まさか、今しがた微睡みながら聞こえた物騒な発言が本気だったなどとはとても思いたくない。
いや、違う。そんなことより、そんなことより問題がある。とても重大で、まずこれが何より確認すべき事柄だろう。
――彼は、いったい誰なんだ?
「あの……」
「おはよう、スザク。氷を取りに行く手間が省けたな。服はリビングの方に出しておいたから、顔を洗って来い。今から一緒にスーパーへ行く。卵が安いんだ」
「え、ああ、うん。……じゃなくてッ!」
驚いた。いや、これだけ美人なんだから笑ったらそりゃあ、一種の芸術だろうとは思っていたけれど、まさか一瞬で、同じ男である僕の思考を奪う程とは。
僕の大声に、部屋を出ようとしていた彼が振り返り、キョトンとした顔で「なんだ?」と僕に言った。
「あの、ここは一体……君は、誰なの?」
なんとかひねり出した最低限の疑問は、混乱しているせいかたどたどしい。だけど、とりあえずこれだけは聞いておかなくては。
少しの沈黙が、僕らの間を支配ある。ぐるぐると思考が巡る中で、もしかしたら、僕が何らかの事故で記憶を失ってしまっただけで、彼は僕にとても近しい人だとしたら、とか、そういうことを考えてしまった。
彼は何も言わない。それはそうだろう、突然お前は誰だなどと宣われては、当然彼も目を丸くして――いや、違った。ものすごく冷めた目で僕を見て、深くため息をついている。
「全く、お前は……」
やがて頭を抱え、もう一度深く、深く息を吐く。そんな見るからに不愉快そうな彼の様子に、やばい、まずい、と僕の本能が告げている。
すると、彼は顔を上げるなり僕のいるベッドの方へと歩いてきて、僕のすぐ横で仁王立ち、ベッドに膝を乗り出すと僕が着ていたTシャツの襟首を引っ掴むや否や強引に引き寄せ、そのまま――キスをした。
「!?!?」
なにが起きたのかわからず、僕は呆然とする。瞬きするのも忘れ、目の前の光景を見ていた。伏せられた長い睫毛がゼロ距離まで迫っていて、唇には柔らかい温もりがじんわりと伝わってくる。視覚と触覚の全てが、彼でジャックされていた。
ほんの少し互いの体温を交わすだけの、触れるだけのキス。思い出したように息を吸うと、ふわりとシャンプーのいい香りがした。
一呼吸程度の短い時間だったようにも、まるで10分はそうしていたようにも思える。やがて彼の唇がゆっくりと僕の唇から離れていくと、なぜだか少し、胃のあたりが切なくなった。
「『おはようのキス』が欲しいなら、素直にそう言え」
唇が触れ合っていた時ほどではないにしろ、それでも些か近すぎるご尊顔が、ニコリともせずに言った。今まで僕らはキスをしていたと言うのに、その表情には恥じらいも何もない。
そして愛想もなく、満足げにフン、と短く鼻を鳴らすと、彼はスタスタと元いた場所へ戻り、そのまま扉に手をかけた。
僕はただそれを呆然と見つめ、彼はやけに姿勢がいいなあとか、そういうことを考えている。
やがてガチャリ、と扉の開く音がすると、突然彼の動きが止まった。
「……それと、その……。嘘でも、お前の伴侶を忘れたなどと、そんな冗談、二度と言うなよ」
こちらを振り返ることなく、先ほどまでとは打って変わって弱々しくそう呟いた彼は、そのまま部屋を出て行った。寂しそうな背中が、また僕の心臓をギリギリと締め付けた気がした。
伴侶、と言ったのか。彼が、僕の。
そんなバカな。彼はいくら美人だとは言っても、繰り返しだが僕と同じ男だ。現に僕は、今まで女の子としかお付き合いをしたことがない。しかし、未だ残る唇の感触に、僕の鼓動は早いままだ。あれほどの容貌ならば、同性が堕ちるのもわからないでもない。いや、僕がそうと言っているわけじゃないけど。
だが、彼が嘘を言っている風でもなかった。その表情は見えなかったけれど、なんとなくわかる。きっととても、傷ついた顔をしていたんだろう。そう思うと、名前も知らない彼に罪悪感が募る。
名前も知らない、とは言ったが、僕は彼を見た時、喉の奥に何かが引っかかっているような、そんな既視感を感じた。僕は彼をどこかで見たことがある気がするのだ。
今初めて会った(はず)の彼に、どこだったかはうまく思い出せないけれど、なんとなく見覚えがある。肝心なところだけが出てこない。あと少しで思い出せそうなんだ。
ああ、もう。一体何なのだ。
僕は勢いよくベッドに倒れ込み、天井と向かい合った。部屋の中は綺麗に整えられていて、ベッド以外にはクローゼットくらいしか家具はないけれど、ここは寝室だろうか。
どれだけ観察しても、やはりこんなところ、見覚えはない。唯一ある窓からは、空と、目立った特徴の一つもないビルしか見えず、見知った景色など少しもなかった。
まじまじと部屋を見渡していると、壁に掛かったカレンダーを見つけた。柄もなにもなく、ただ暦だけが刻まれている質素なものだ。
九月。そうだ、今は九月だ。夏休みが明けて早々に水泳が始まって、そのせいで授業中に眠くなってしまい、ついうとうとして――。
「……あれ?」
ぐるぐると纏まらない頭を整理していると、ふと気づく。
あのカレンダー、何かがおかしい。僕はがばりと起き上がり、必死にその違和感の正体を探る。じっと見つめ、間違い探しのように頭を巡らせた。
そして僕は遂に、“それ”を見つける。さらに僕は“それ”を見つけて、確信する。
「…………あっ、これ夢だ」
そのカレンダーの年号は、僕の知るそれから十年後、二〇二七年と表記されていた。
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