短編小説

 暗く、余りにも暗く。一片の光明すら入る隙のないここは「侵食領域」と呼ばれる領域である。
 生命の悉くが生きられぬ、色彩の失せ、異形うずまくこの領域。鮮やかな生命に代わり、死んだ物質《デッドマター》が闊歩するこの領域。白黒どころか黒一色に淘汰された視界の中、ぎらりと眩い閃光が、ひとつ。
「死ね」
 尖った風圧とともに振るわれる大きな金属製の扇。気崩された外套がはためいて、纏うものの薄い上半身が躍動する。
 塩水流一那。国家防衛局、舎密防衛本部で純一位を戴く志献官である。
 一那は一度着地して、今しがた切り裂いた標的を仰ぎ見た。人間の身長の数倍はあろうそれは、切り裂かれて尚不快な音を立てて蠢き、一那を狙う。
 死せる元素というくらいなのだから、大人しく死んでいればいいものを、どうしてこうもしぶといのか。一那は僅かに塩素の混じる息を吐き、追撃すべく体勢を整える。

「塩水流一那!一人で突き走ってどうする、一旦下がって分子術を使え!」
 標的を挟んで反対側から上がる怒声は、同じ舎密防衛本部所属の純二位、源朔のものだ。彼は堅実で確実な、教本通りの勝利を求める傾向にある。優等生というやつなのだろう、と一那は最近読んだ本の内容を思い返しながら考えた。
 はっきり言って仕舞えば、一那とは合わない。
 一那は朔の声を聞かなかったことにし、再び追撃のための綻びを探す。先程追撃しようとした綻びはすでに閉じていて、チィと重く舌を打つ。

右足から左上へ。
 隙を見つけた。一那の瞳孔が窄まる。
 死せる元素、デッドマターは不定形だ。基本的に名のついた生物の形をとることはなく、故にその弱点も常に移ろう。
 物体というより濃い霧や、靄のようなものだと考えるのが良い。重く立ち込める霧の、たまに薄いところを切り離してやればいいのだ。それを繰り返して、やがては霧散させる。
 侵食圧のせいで若干鈍さを孕んだ両足に力を入れる。侵食領域内では、自分自身に纏わりつく靄をも、払わなくてはならない。
 じゃらり、金属の擦れる音と、その冷たさが鮮明だ。手の中にある巨扇は、ここにある何よりも確かな存在であった。
 扇の形を整える。研がれた音は、止まった空気さえ切り裂いて、一那に道を示す。

 地面を蹴った。
 先程観測した通り、右足から左上へ、袈裟斬りの逆の要領で斬り上げる。自身の脚力と他に、扇を振り上げる勢いを利用して、身体を宙に打ち上げる。
 握りしめた扇がデッドマターの身を斬り開き、一那はその巨体が発する圧に負けぬよう腕に力を込める。
 身体を掠める死んだ元素は酷く冷たく、しかしどこか気味悪くなまあたたかい。それを抜ければ視界一面ずっぱりと澄んだ闇が広がり、じわりと端から晴れてゆく。背後に感じる圧が消え失せたのを感じて、一那は僅かに体の力を緩めた。
「デッドマター形成体の光壊を確認!」
 朔の声だ。よく通るので、こういう時は有難い。

 すっかり晴れた空は元通り、青い。闇の中にいたからだろうか、それは普段よりずっと澄んで見えた。


「やっぱ一那サンつええ〜」
 隣に立つ三宙が言った。防衛に成功したからか、その声には僅かに安心が混ざっている。
「癪だがな。今回は上手くいったものの、あのような戦い方ではいつか痛い目を見るぞ」
 同じような安心を三宙に気取られぬよう、朔はむすりとした態度で言った。
 青さを取り戻した空から、ふわりと制服を靡かせて一那が降りてくる。
「行くぞ」
 うへ、と軽薄な声を漏らす三宙と、降りてきたまま何も言わない一那を引き連れ、朔は本部へ向かった。

 防衛成功。
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