短編小説

 結倭ノ国、燈京駅裏。終末さえ囁かれるほど荒廃したこの国においても、昼時の繁華街というのは騒がしいものである。
 ガヤガヤ、ガヤガヤ。スリに喧嘩に無銭飲食。騒がしさに欠くことのない、有り体に言えばうるさい街だが、建物を組み上げる煉瓦がそれら全てを受容する。
 そんな駅裏も中心部、定食屋の一斉に立ち並ぶ飲食店街に、一際の熱気を放つ店がひとつ。
「さ、胃袋に自信のある奴ァ寄ってきな!」
 濃ゆい揚げ物のにおいを漂わせ、むんわりと熱気の立ちこめる、「特大・超大盛り」を掲げた定食屋である。なんでも、店主の趣味が逞しい男共の豪快な食事を眺めることだとかで、出るメニューは全て特大・超大盛り。直径五十センチメートルほどの丼にうず高く盛られた白米には、かつて世界に住んだとされるナウマンゾウでさえも目を回すだろう。鳥一羽を丸々揚げたのではないかという大きさの唐揚げは、視界の端に映すだけでも腹が膨れる。
 そんなこの店では、昨日も今日も大食漢を自称する筋骨隆々の男達が競い合って白米を口に掻き込んでいる。白髪の混じりだした店主はいつものように、その様を満足そうに眺めていた。

—しかし、なかなかに期待通りの大食漢が現れない。
 店主__もう老店主と呼んでも差し支えないだろう__は昼時の光景を笑顔で眺めつつも、内心でそう溢した。
 熱気も熱意も繁盛っぷりも申し分ない。だが、店主の期待通りの食べっぷりを見せる男が現れないのだ。店主は店の梁に掛けられた、これまで一度も完食されたことのない「店主特製!これを食えたら人間卒業!濃厚ソースカツ丼」のメニュー札を眺めて、最早それとも呼べぬようなため息をついた。
 この店を開いてはや数十年、ぐわんと開いた大口にじゅわりと大きなカツをを運び込み、つるりと平らげてしまうような人間を、店主はずっと待っていた。




「やぁ、この「店主特製!これを食えたら人間卒業!濃厚ソースカツ丼」をひとつもらえるかな」

 男共の汗と油が飽和した店内に、ふわりと清涼な風が吹き込んだような、気がした。この店に来るには些か甘すぎるような、その声のする方を見やれば、声のイメージと遜色ない、麗しい見目をした青年がカウンターに座っているのが見えた。
 青年は汗ひとつかかず、この“漢”に満ちた空間で爽やかに座っている。彼が首を僅か数センチ動かすだけで、周りの空気がきらきらと粒子を降らせる。
「……おや?店主さん、ボクの美しさにあてられてしまったかな?ふふ」
 店主ははっとした。青年の言う通りだった。青年は変わらず涼しげな顔で店主を見つめる。大きく開かれたなまっちろい胸元で、クローバーがあしらわれたネックレスが揺れた。

 ……おい待て、今こいつ「店主特製!これを食えたら人間卒業!濃厚ソースカツ丼」と言わなかったか?
 店主は咄嗟に、梁にかけられたメニュー札を指差す。「あれか?」青年はなんてことのないように頷いた。そうだよ、なんて星が飛ぶような笑顔のおまけ付きで。
「ボクははらぺこでね、」
 あくまでも余裕たっぷりに髪を耳へかけるその姿に、店主の内の何かが音を立てて切れた。

「「店主特製!これを食えたら人間卒業!濃厚ソースカツ丼」一丁!」
 店内がどよめきに包まれる。ここにいるのは皆、これに辛酸を舐めさせられた者たちだ。おまえも、ここの一員にしてやる。店主は燃えたぎる闘志を胸に、ガスコンロへ向かった。


 数分後。
 店主の口は塞がらなかった。原因はそう、先ほどの爽やか青年に他ならない。
 いただきます、指の先まできちんと揃え、少しだけ掠れた声でそう呟いたと思えば、ソースのたっぷり掛かったカツを、下に敷き詰められた白米と一緒に根こそぎ取り、垂れる油を唇の端に喰らいつく。ついた油は左手の小指で掬って、薄い舌でぺろり。二百ミリリットルのコップに注いだ水は一口に飲み込まれ、小気味良い音を立ててカウンターの上へ。丼を掻き込む豪快さとは裏腹に、食器を扱う手つきはそのひとつひとつが生娘を扱うように丁寧だ。垂れた髪を顔を振って退かすその仕草さえ麗しく、気づけば店内は静まり返っていた。
 付け合わせの漬物は綺麗になくなり、豚汁はオアシスの水のように飲み干される。キャベツはこんもりと箸に盛られたのが、ざくりと。
 ソースが染みて茶色くなった米粒が、ひとつ残らず集められて窄めた口元へ。
 最後の仕上げとばかりに再び注がれた冷水をごっと口に含み、喉仏がダイナミックに躍動すれば、短いようで永遠にも思われた彼の食事は終わりを告げた。

「ごちそうさま!」
 青年は来たときと同じような爽やかな笑みを浮かべ、偶像と見紛うほどの眩しさでそう言った。直径五十センチメートルの丼は底までぴかぴかだった。

 おいしかったよ、と告げるその青年が代金をカウンターに置き、店を出て行くまで、店の静寂が破られることはなかった。

 舎利弗 玖苑。
 その青年がかの国家防衛局舎密防衛本部所属の志献官であり、なかでも最高位の純壱位であることは、その場の誰もが気づかぬことであった。

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