一護→織姫・未然形のお部屋
「…ったく。何で俺達がこんなこと…。」
手にしていたデッキブラシを杖代わりに、俺は休憩をとりながらそうぼやいて、首にかけてあるタオルで額の汗を拭う。
夏の太陽が照りつける、だだっ広いプールサイド。
そしてそこにいるのは、デッキブラシを手にした俺と井上、2人だけ。
《おいでシャンプー》
「あはは。でも仕方ないよ。むしろ有りがたいと思わなくちゃ。ね?」
ユーハバッハとの死闘を終え、無事に現世に戻ってきた俺、井上、石田、チャド。
そんな俺達を待っていたのは、授業をサボりまくっていた為に単位が激ヤバという現実だった。
「世界を護る為でした」なんて言い訳ができる筈もなく、高校残留すら危ぶまれた俺達だったが、幸い、担任の越智さんが俺達と一緒に各教科の先生方に頭を下げてくれて…。
今回、体育教師から単位取得の為に課せられた課題がこれ。
俺と井上は、プールの掃除。
チャドと石田は、体育倉庫の整頓だった。
「けど、普通こんなの2人でやる仕事じゃねぇぜ?」
「確かに、広いもんね。ウチのプール。」
井上もまた、ゴシゴシと床をこする手を止めると、俺と同じようにプールサイドを眺める。
…そして。
「まだまだ終わらないね。頑張ろう!」
そう言って胡桃色のポニーテールを翻し、俺に笑いかけた。
「…っ!お、おう…。」
とくんっ…。
その笑顔が、日差しにキラリと反射して弾けた、その瞬間。
小さな音を立て、跳ね上がる俺の心臓。
そして直後にキュッ…と締め付けられる、甘美な痛み。
いや、「痛み」とも少し違う。
確かに息苦しいし、締め付けられた実感はあるけれど。
くすぐったいような、歯痒いような…それでいて何度でも味わいたいような、例えようもない感覚。
「さー、あと一息だ~!」
そんな俺の戸惑いに気付くことなく、再びデッキブラシでプールサイドをゴシゴシとこすり始める井上。
彼女のポニーテールが、その規則的な動きに合わせて揺れる度、夏の風に乗ってふわり…と届く、甘酸っぱい香り。
…ああ、多分、井上の使ってるシャンプーの香りなのかな…そんなことをふと考えて、そんな自分がこっぱずかしくなって。
俺も井上に倣って、デッキブラシを床にガシガシと押し付けた。
戦いが、終わって。
井上はこれまでだってずっと一緒にいたはずなのに、普通の高校生(まだ死神代行は続けてるけど)に戻って初めて気がついた、この感覚。
さっき俺に向けられた、井上の眩しいぐらいの笑顔とか。
今、デッキブラシで床をこする井上の横顔の、やたらに長い睫毛とか、柔らかそうな頬とか。
俺に名を呼ばれ、振り向いたとき、スローモーションで流れる長い髪とか。
高一の頃から、いつだって傍にあった筈のモノに、今更目を奪われる。
…戦いは、もう終わったけど。
俺達に、きっともうあんな死と隣り合わせの時間は訪れないけれど。
これから先の穏やかな日々もずっと、ユーハバッハと戦った、あの時みたいに…一緒にいたい。
そう、いつだって、誰よりもいちばん近くに…。
しばらく、黙々と2人で床をこすって。
地味な作業にすっかり飽きた俺が、ふと視線を上げれば、そこにあるのは水道とホース。
…むくり、俺の中に湧き上がる、ガキみたいな悪戯心。
そして、もっと井上を俺に振り向かせたい…そんな欲求。
俺はデッキブラシをプール管理室の壁に立てかけると、そのホースの先を拾い上げ、水道の蛇口に手をかけた。
「…ほら、井上!」
「え?…あ!」
井上が振り向くのと同時に俺が水道を捻り、ホースの先を指先でぎゅっと細めれば、勢い良く噴き出す水。
そこに描き出される、七色のプリズム。
「わぁぁ!虹だぁ!」
無邪気な笑顔で、俺が作り出した小さな虹にはしゃぐ井上。
キラリ…水しぶきの向こうで輝く、太陽みたいな笑顔が眩しくて。
俺は、思わず目を細めた。
…なぁ、もしかして。
本当に今更だけど、これが…「恋」ってヤツなのかな。
多分、きっと…。
「なんなら井上も、水浴びしとくか?どうせ汗かいてビショビショだろ?」
井上をもっと構いたくて、井上のくるくると変わる表情が、もっと見たくて。
俺はふざけて、ホースを井上の足元に向けた。
「きゃっ!冷たい!やだ黒崎くん、濡れちゃうよぅっ……きゃあっ!」
「わ、井上、アブねぇ!」
初めは、俺のホースの水攻撃にキャッキャッと声を上げていたが、ふいに水に足をつるりと滑らせる井上。
慌てた俺がホースを放り出し、手を差し伸べた、瞬間。
…ふわり。
俺の腕の中に飛び込んできた、シャンプーの香り。
足元には、ホースから溢れ出した水が、小さな虹を描きながら大きな水溜まりを作っていて。
その水面に夏の日差しをキラキラと反射させながら、俺と井上が抱き合う姿を映していた。
(2016.08.31)