短い話のお部屋





「かずくん、コンちゃん、実はお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」

とある日の昼食後、リビングで遊んでいた一勇とオレに、可愛らしく小首を傾げ、小声で話しかけてくる井上さん。

「なぁに?」

一勇もこれまた井上さんにそっくりの表情で鏡のように小首を傾げたが、いや、この井上さんの可愛いお願いに抗える男なんて、この世に存在しないだろう…。




《seventh wedding anniversary》




「一護をしばらく外へ連れ出してほしい?」

井上さんの「お願い」とは、実に簡単なことだった。

確かに、ここ数日、一護は切羽詰まった仕事があるらしく、食事や風呂など必要最低限のこと以外は書斎に篭りっぱなしだ。
今朝も、朝食を家族で囲んだ後は、「悪い」と言い残してさっさと書斎に引き上げてしまった。

「いいよ!でも、何で?」

一勇の最もな質問に、井上さんは人差し指を唇に当て「しーっ」と念押しした後で。

「一護くんに内緒で、チョコレートケーキを焼こうと思って。実はね、今日は結婚記念日なんだ。」

書斎に聞こえないように小さな声で、それでもとても幸せそうに、井上さんが理由を告げる。
「ケーキ」と聞いた途端、一勇も負けじと幸せ全開の顔になった。

「お母さんのチョコレートケーキ?やったあ!」
「しーっ!…そんな訳で、一護くんをしばらく外へ連れ出してもらうこと、お願いできるかな。ここ数日ずっと書斎に缶詰だし、気分転換にもなると思うの。」
「もちろんいいよ!ね、コンちゃん!」
「おう、オレも勿論ついていくぜ。井上さんはゆっくりケーキを作りな。」

一護と一勇を二人にしたら、一勇がうっかりケーキについて口を滑らせそうだからな。
オレが見張っててやらなくちゃ。

オレと一勇が二つ返事でオッケーを出せば、井上さんはふわり…と少女の様な笑顔を見せた。

「…ありがとう。」






「お父さん!今から僕と、お散歩に行かない?」

書斎のドアをノックし、30センチほど開けたドアから一勇がひょこっと顔を覗かせれば、一護は少し驚いた様にこちらを振り向いた。

「散歩?お母さんもか?」
「ううん、お父さんと僕とコンちゃんと3人でお散歩。お母さんはお留守番。」
「珍しいな。急にどうしたんだ?」
「お母さんがね、ケー…」
「わーっ!わーっ!」

一護の鋭い疑問に、あっさりネタバラシしそうになる一勇の口を慌てて塞ぐ。

一勇がわかりやすく「そうだった」と言う顔に変わり、オレに目線で合図を送ったので、オレは頷きながら一勇の口から手を離した。

「えーと…お母さんが、ケー…んこうの為にも、お散歩してくるといいよ、って。」

死神代行業を未だに続けていることもあり、日頃から運動不足とは無縁の一護にはかなり無理のある理由付けだったが、それでも一護は何か思わしげな表情を見せたあと、「よし」と声を上げた。

「いいぜ。たまには男3人で散歩でもしようか。俺も最近ずっとこの部屋に閉じこもっていたからな。一勇と遊んでやれてねぇし。」
「うん!行こう!やったね、コンちゃん!」

作戦がどうやら上手く行きそうなことに安堵したのか、いつもより数倍弾んだ一勇の返事が響く。

「お母さん、お父さんとコンちゃんとお散歩行ってくるね〜!」

そして、一護と一勇とオレを見送る井上さんはこっそりと一勇にウィンクし、一勇はにっこりピースサインで答えたのだった。






「散歩、どこ行きたいんだ?」
「おもちゃ屋さん!」
「おい、クリスマスはまだまだ先だぞ。」
「下見っていうのはどう?」
「早すぎるだろ。」
「じゃあ、お父さんはどこに行きたいの?」

手を繋いで歩く一護と一勇の会話を、一勇の腕に揺られながら聞く。
オレが視線をちらり…と横に動かせば、小さな一勇の手を包み込むように握っている、一護の大きな手。
その薬指に輝くのは、井上さんとお揃いの結婚指輪だ。

…一護は、ちゃんと覚えてんのかな。
今日が、結婚記念日だって。

もう結婚して7年になるらしいし、最近は仕事が忙しかったらしいから、そのことで頭がいっぱいだったかもしれねぇし。

井上さんは、サプライズでケーキを作るつもりらしいし、一護が結婚記念日を忘れてしまっていても怒るような人じゃないって知ってるけど…。

ふと、歩みを止める一護の足。
何事かと一勇もまた立ち止まり、オレと一緒に一護を見上げれば、一護は少し思案した様な顔を見せたあと、オレたちを見下ろした。

「あのさ…今から、いつものスーパーに行かないか?」
「へ?スーパー?お買い物?」

きょとんとする一勇に、一護が頷く。

「お母さんいないのに?」
「お母さんがいないから、だよ。」

一護はそう言うと、照れくさそうに顔をかいて。

「実はさ…今日、織姫との結婚記念日なんだ。」
「え?お父さん、知ってたの?!何で?!」
「何でって、俺の結婚記念日だぞ。知ってて当たり前だろ。」

「なぁんだ、バレてたのか〜」と残念がる一勇と、呆れたように笑う一護、そして密かにホッとするオレ。

よかった、ちゃんと覚えてたぜコイツも…。

「でさ、今日は俺が織姫の為に夕食を作ろうと思うんだけど…お母さん、喜んでくれると思うか?いろいろ考えたんだけど、織姫は物欲ねぇし、家事の負担を軽くしてやるのがいちばんかなって…。」
「お父さんが晩ごはん作るの?すごいね、お母さん喜ぶよ!ね、コンちゃん!」
「ああ、そうだな。」

例え、夕飯のメニューが何であろうと。
一護がちゃんと結婚記念日を覚えてたってだけで、一護が井上さんを喜ばせようと頑張ったってだけで、井上さんは喜ぶだろうぜ。

それこそ、あの花のような笑顔で…。

「でも、お父さんお仕事は終わったの?」
「ああ、今日の為についさっき終わらせたんだ。出来た原稿はもうメールで送った。」
「何だ、今日に間に合わせるために必死で仕事やってたのか。一護、井上さんのこと、やっぱり大好きなんだな。」

オレが、ほんのちょっとの悪戯心を隠して告げた、その言葉に。

「当たり前だろ。」

顔色一つ変えず呼吸するように返してきた一護は、この8年で確かに落ち着き、井上さんへの愛情をますます深めていた。





今日の夜は、一護の作った夕食と、井上さんが作ったケーキが、仲良くテーブルに並ぶんだろう。

幸せだな。

「コンちゃん、今日の夜が楽しみだね!僕、お腹を空かせておかなくちゃ!」
「そうだな。あーあ、ぬいぐるみもメシが食えたらなぁ…。」



(2023.08.24)
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