短い話のお部屋







「あ〜…また、やっちまった…。」

朝、目覚めると同時に俺を襲う、何度目かの罪悪感。

ベッドに転がったまま、俺の手の中にあるスマホを持ち上げ、真っ黒い画面に届かない詫びを入れる。

「ごめん、井上…。また、寝落ちしちまった…。」





《7月15日の憂鬱》





「おはよーお兄ちゃん!も〜、また夕べ寝落ちしてたでしょ?部屋の灯り消したのあたしなんだから!」

味噌汁の香り漂うリビングに入れば、朝の挨拶と同時に遊子からの説教が入る。
とは言え、悪いのは俺だし、もう散々同じことを注意されてきた身としては、返せる言葉はない。
俺は「わりぃ」とだけ短く告げ、朝食の並んだテーブルについた。

既に親父は職場であるクロサキ医院の診察室に出向いているらしい。
双子の妹達と3人で「いただきます」と手を合わせ、箸を手に取る。

「一兄、慣れない仕事で疲れてるんでしょ?あたし達より早く寝てるのに、毎晩爆睡だもんね。」

夏梨の言葉に、黙って味噌汁を啜る俺。
就職して4か月…体力には自信のあった筈の俺が、まさか毎晩疲労で爆睡してしまうなんて、カッコ悪いよな…と思う反面、寝落ちする俺を理解してくれる夏梨に感謝する。

今の職場に不満はないが、新しい環境や慣れない仕事、上司からのプレッシャーなどなど、学生時代のアルバイトとはストレスが桁違い。
様々なものが俺のメンタルを毎日ゴリゴリと削っているのだ。

「それは解ってるけどさぁ…。でも一晩中電気が点けっぱなしはよくないし、織姫ちゃんにも申し訳ないでしょ?」
「ぶほっ…!」

遊子の口から突然出てきた井上の名前に、俺は口に含んだ味噌汁を吹き出した。

「げほっ、な、何で…!」
「何で寝落ち電話の相手が織姫ちゃんだと思ったかって聞きたいの?」

むせて上手く言葉が出せず、とりあえずこくこくと首を上下に動かすことで答えれば、二人そろって大きなため息をついた。

「そりゃ、寝落ちしてまでお兄ちゃんが話したい人なんて、織姫ちゃんしかいないからだって簡単に予想がつくからだよ?」
「大丈夫、電話の内容を盗み聞きとかしてるわけじゃないからさ。安心して、ただの妹の勘だよ。」
「昨日、お兄ちゃんの誕生日ケーキを織姫ちゃんの店に予約に行ってきたんだ。タイミング悪くて、織姫ちゃんには会えなかったけど…。『お兄ちゃんがいつも寝落ちしてごめんね』って、謝りたかったなぁ。」

俺のことなのに、遊子がやたら申し訳無さそうに呟く。
その隣で当て付けのように、うんうんと大きく頷いてみせる夏梨。

解ってるよ、俺だってこんなはずじゃなかったって反省してる。
大学を卒業して、就職して、長い間待たせた井上との付き合いをようやく再開して…なのに、会う時間すらなかなか取れず、せめて電話だけでも…と夜に電話をすれば、疲労に負けて寝落ちしてしまう情けない俺。

だから寝落ちした次の日にはすぐに「ごめん」ってLINEしてる。
井上はいつだって「気にしないで」「お仕事頑張って」って返事をくれるけど…アイツの優しさに甘えてるって言われれば、本当にその通りな訳で。

「申し訳ないよね。一兄が織姫ちゃんに見放されないか心配だよ。」

呆れたように告げられた夏梨の言葉が、ぐさり…と突き刺さる。
俺の胸が苦しいのは、多分器官に入りかけた味噌汁のせいじゃない。

「…そうだ!お兄ちゃんの誕生日の夜、夕食に織姫ちゃんを誘ってみようかな。お兄ちゃんの誕生日を一緒に祝ってもらえるし、寝落ちのお詫びとパンのお礼ってことでご飯食べてもらうの!」

不意に遊子が茶碗片手に立ち上がり、ばっと俺を見る。
つまりは、この提案に対しての返答を求めているのだ。

「いや…俺は全然いいけど、遊子の手間が増えるんじゃねぇの?」
「全然!作る夕食が1人分増えるだけじゃん!早めにお願いすれば、仕事の予定もなんとかしてくれるかな?」
「いいね!楽しみ!」

遊子と夏梨は、肝心の俺を差し置き、井上が来てくれるに違いない…と箸を片手にキャッキャッとはしゃぎ出した。
その向かいで、俺は密かにため息をつく。

誕生日…井上に会えたら、嬉しいけど。
今の俺は、井上にどう思われてるのかな、とか。
呆れられてねぇかな、とか。
優しくて、自分より他人を優先する井上だからこそ、「本音」を隠しているんじゃねぇかな…なんて。

結局、本来なら彼氏である俺が井上を誘うべきなのに、俺はその役を「言い出しっぺだから」「仕事でなかなか会えないから」と言い訳をし、そのまま遊子に譲ってしまったのだった。









「こんばんは〜!おじゃまします!」

7月15日、夜。

「準備が終わるまで来ちゃだめ!」とピシャリと閉められた、キッチンのドア。
妹達から「絶対にのぞかないこと」と厳命を受け、リビングのソファで1人落ち着きなく座っている俺の耳に響く、「ピンポーン」と軽やかなチャイム音。

遂に鳴らされたインターホンに、口から出るんじゃないかと心配になるほど飛び上がる俺の心臓。

それでも、平静を装い俺が玄関のドアを開ければ。

「よう、井上…ってか、すげぇ荷物だな!」
「えへへ〜、お招きありがとうございます、黒崎くん!」

笑顔でそこに立っていた待ち人…井上は、片手にケーキボックス、もう片手に自分の仕事用鞄を持ち、その腕で自分の身長ほどもある長い物を抱き抱えていた。

「ドア開けてくれてありがとう!ちょっと両手が塞がっちゃってて。助かりました!」

俺がケーキボックスを受け取れば、井上はようやく自由になった手で靴を脱ぎ、俺を見上げてふわりと笑った。

「お誕生日おめでとう、黒崎くん。もう23歳なんだね。」

花が綻んだような、少女のような可憐さと大人の女の綺麗さが同居した井上の笑顔に、とくり…と音を立てる俺の心臓。

それと同時に俺の胸を満たす、安堵に似た幸福。

笑顔の井上に誕生日を祝われた…それはつまり、まだ彼女に見放されてはいないってことだから。

「ありがとな。とりあえず、リビングに来いよ。てか、そのデカい荷物は何なんだ?」

井上をリビングに招き入れつつ、ずっと大事そうに抱えているそれを俺が指させば。

「ふふふ。これはね、黒崎くんへの誕生日プレゼントなの!」
「は?」

俺はケーキボックスをリビングのテーブルに、井上はソファに自分の鞄を置いて。
そんなデカい物を…と唖然とする俺の向かいで、満を持して…とばかりに井上がその包みを開封し始めた。

「じゃーん!ご覧ください、抱きまくらでーす!」
「抱き…まくら…。」

包みの中から現れたのは、井上の身長ほどもある、水色の抱きまくら。
緩やかなカーブを描いた独特の形は、抱いたときに身体にフィットするように…なんだろうか。

まさかの井上のプレゼントチョイスに俺が目を丸くすれば、井上はその抱きまくらを嬉しそうに抱きしめて。

「ほら、黒崎くん、電話で話してても寝落ちしちゃうぐらい疲れてるとき、あるでしょ?だから、黒崎くんにはいつでもぐっすり眠ってほしくて…。これ、クール素材でできてるから、抱きしめるとひんやり冷たくて気持ちいいの!更に!」

そう言うと、井上は自分の鞄をごそごそと漁って、小さな紙袋を取り出す。

「こちらが、ラベンダーミストスプレーです!これをこの抱きまくらにシュッとしてくれれば、黒崎くんの快眠は間違いなしですぞ!」

井上は、クスクスと笑ったあと、申し訳無さそうに肩をすくめ眉尻を下げた。

「…ごめんなさい。黒崎くん、寝落ちしちゃうぐらい疲れてるのに、それでもあたしとの電話に付き合ってくれて…。本当は『無理しないで、電話なんてしなくていいよ』って、あたしから言わなくちゃいけなかったのに、あたしちょっとだけでもいいから、黒崎くんの声が聞きたくて、お電話もらうのが嬉しくて…。」
「井上…。」
「黒崎くん、お仕事大変なんだよね。だから、この抱きまくらで癒やされてほしいなって思ったの。しっかり眠って、沢山食べて…やりたいお仕事、いっぱい頑張ってほしい。それで…それでね、たまにあたしのこと構ってくれたら、嬉しいな、って…。」

抱きまくらで顔を半分隠したまま、上目遣いで俺を伺うように見上げてくる井上。

俺はたまらず、井上を抱きまくらごと抱き寄せていた。

「ひゃっ…!」
「…何だよ、それ。何で井上が申し訳無さそうにしてるんだよ。」
「ふえっ?だ、だって…。」

井上が、何か言いたそうに俺の腕の中で小さく身を捩ったけれど、俺はむしろ腕の力を強めた。
…離したくないから。

「いつも寝落ちして悪い…って、謝るべきなのは俺だろ。井上が謝るなよ。」
「黒崎くんは、悪くないよ?疲れたら眠くなるのは当たり前のことだもん。」

井上が再び身体を捩れば、俺と井上に挟まれていた抱きまくらがにゅっと顔を出す。

「だから、毎晩これを抱いて、ラベンダーの香りでぐっすり眠ってね!」
「…いや、こいつより、俺は…。」

井上は変わらず抱きまくらをアピールしてくるけれど、俺が抱いていちばん癒やされるモノは、勿論決まってる。
俺は、井上と俺の間で邪魔をする抱きまくらを引き抜き、ソファへと投げた。

「あ、抱きまくらさんが…ひゃわぁっ!」
「抱きまくらより、こっちだろ。」

柔らかくて、温かくて、いい匂いがして…俺を誰より幸せにしてくれる、俺だけが抱いていい「存在」。

井上が大切で、愛しい…そんな気持ちが、素直に込み上げる。

じたばたしていた井上は、やがて俺の腕の中に静かに、少し恥ずかしそうに収まった。
そして、ぽつり。

「あたし…いつか、黒崎くんの抱きまくらに、なれるかな。」

…ホント、堪んねぇよな。
最高の抱き心地の「俺専用抱きまくら」は、不意打ちでクソ可愛いことを言ってくる仕様つきなんだぜ。

「…おう。待ってろ。近いうちに、な。」

気の利いた言葉なんて何も出てこない俺だけど。
「待ってろ」の4文字に込めた俺の気持ちが伝わっていますように…と願いながら、滑らかな彼女の髪をゆっくりと撫でた。






「…これは、いい動画が撮れたね、夏梨ちゃん。」
「うん。一兄の誕生日用に、久しぶりにビデオカメラ動かすから、試しにちょっと撮影してみようと思ったら、まさかのラブラブシーンが撮れちゃった。」
「てか、もうあれプロポーズでしょ?」
「あとで、ケーキ食べながら、みんなで見ようね。」



(2023.08.06)
64/68ページ
スキ