短い話のお部屋







「お兄ちゃん、明日の晩御飯、いらないよね?」

2月13日、夕食が済んだばかりだというのに、早くも明日の夕飯の予定を遊子が尋ねてきた。
しかも、「いらない」前提で。

「は?何だよ、急に…。」

俺が食後の緑茶を啜りながら首を捻れば、食器をシンクへと運びながら遊子が答える。

「だって、明日はバレンタインだからさ。織姫ちゃんとデートぐらいするのかと思って。夕飯がいるかいらないか、早めに知りたいのは主婦みんなの願いだよ。」
「…。」

その遊子の言葉に、思わず口をへの字に曲げ、黙りこくる俺。
そんな俺の不機嫌全開の空気に、妹達が直ぐ様気づく。

「…あれ、もしかして一兄、何の約束もしてないの?」
「え?ウソ!だって、バレンタインだよ?織姫ちゃんから何か連絡入ってないの?」
「…ねぇよ…。」

明日はもう2月14日だというのに、井上からはなんの連絡もない。
この1週間ぐらい、肌身離さずスマホを持ち歩き、ケータイやラインの着信音が鳴るたびにドキドキしながら画面をタップして、その数だけ落胆して…を繰り返していたなんて、カッコ悪くて言えないけれど。

「え〜!じゃあ、昨日届けてくれたチョコケーキが、バレンタインチョコの代わりだったのかなぁ。」
「ご家族で食べてね、って言われたから、てっきりあのケーキは黒崎家みんな用で、一兄用は14日当日に直接くれるんだと思って食べちゃったよね。しまったなぁ。」

昨日、井上がチョコのホールケーキを届けてくれたらしいが、生憎俺はまだその時間は大学にいて不在。
勿論、そのケーキの1/4は俺がいただいた訳だが、俺だってそれとは違う「たったヒトツ」を期待していた訳で…。

「お兄ちゃんから、明日織姫ちゃんをデートに誘ってみたら?」
「んなみっともないことするか。チョコ催促してるのと同じじゃねぇか。アイツだって、忙しいのかもしれねぇし…。」

井上は仕事が、俺は卒論や就活が忙しくて、告白はしたものの現在付き合うのを保留にしている俺と井上。
もっとも、俺がもう少し器用に物事をこなせたなら、もっと井上と過ごす時間を増やせたはずで。
井上の仕事のシフトが不規則で大変なことだって解ってる。

だから、「チョコを2月14日にくれ」なんて図々しいこと、言える立場じゃないんだ。
けど…。

「心変わりじゃないといいんだけど…。一兄、織姫ちゃんを待たせ過ぎだしなぁ。」
「やだ、夏梨ちゃん、不吉だよ〜!」

ぎくり…ほんの僅か、心の片隅に抱える不安を妹達に声にされて、湯呑みを持つ手がぴくんと震える。
中に残っていた緑茶が波立ち、ちゃぷんと音を立てた。

「お前ら、勝手に盛り上がるなよ。取りあえず、明日の夕飯は家で食うから。ごっそさん。」

俺はそれを妹達に悟られないよう、残りの緑茶を煽り、慌てて二階の部屋へと駆け上がった。

けれど、俺はその数秒後、階段をさっきの倍速で駆け下りていた。
なぜなら家の玄関に、待ちわびていた霊圧を感じたからだ。

「井上?!」

バン!と乱暴に玄関を開ければ、そこにはインターホンを鳴らそうと人差し指を出しだ井上が目を丸くして固まっていた。

「あ…く、黒崎くん!こんばんは、です…。」
「何だよ、連絡全然つかねぇから、心配したんだぞ?」

久しぶりに会えたっていうのに、挨拶を返すより先に俺の口をついて出たのは、井上への文句。
けど…嘘だ、本当は連絡がつかないことより、バレンタインが近いのになんの連絡もないのが不安で不安で仕方なかっただけなんだ…なんて、ホントちっせえよな俺。

けど、井上は「心配かけてごめんね」と素直に頭を下げたあと、申し訳無さそうに鞄からケータイを取り出した。

「あれ…井上、それスマホ?」

彼女の掌にある見慣れない色と薄さのそれを、俺が指差せば。

「あのね、ケータイが故障しちゃって、ケータイショップにいったら同じ型はもうないからって、スマホを勧められて…。思い切ってスマホにしたはいいんだけど、使い方が全然わからなくて…。」

井上から、電話もメールもラインもこなかった訳を理解するとともに、俺の身体から力が抜けていくのが解った。
頭を抱えたままずるずると玄関先に崩れ落ち、しゃがみ込む俺を井上が不思議そうに見下ろす。

「…黒崎くん?」
「…何でもねぇよ…。」

我ながらみっともねぇ…と思いながら顔だけを上げれば、井上もまた俺に視線を合わせるように俺の前にすとんと腰を下ろして。

「そ、それでね!あの、黒崎くんがいろいろ忙しいのは分かってるんだけど、もし良かったら、明日の夜に、チョコを渡しに来てもご迷惑じゃないでしょうか…という、お尋ねに…。仕事が終わったあとに一度チョコを取りに家に帰って、それから届けに行くから、遅くなるかもしれないけど、少しだけ時間をもらえたら…その…だめ、かな…。」

前髪の隙間から見えるのは、俺の顔を伺うように覗き込んでくる井上の揺れる瞳。

「…ばぁか。」
「ほえっ?」

なんで、井上の方が不安そうなんだよ。
ダメな訳ないだろ、オマエからのチョコ、どんだけ待ってたと思ってんだよ。

「ハラハラさせんなよ…。」
「え?え?」

俺が立ち上がれば、戸惑いながらもつられて立ち上がる井上。
俺は20センチ下にある胡桃色の頭をぽんぽんと叩いた。

「明日、仕事終わりに迎えに行くよ。そんで、一緒に飯でも食おうぜ。チョコはその後もらいに井上の家まで行く。」
「…忙しく、ないの?」
「そりゃ暇じゃねぇけど、1日ぐらいいいだろ。チョコもらってハイ、終わり…じゃ、味気なさすぎるし。スマホの使い方も、明日教えてやるよ。」
「黒崎くん…。」

ふわり…井上の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
ああ、よかった。
多分今、俺と同じ気持ちでいてくれているんだろう…なんて、ようやく生まれる少しの自惚れと余裕。

「井上からのチョコも勿論嬉しいけど、さ。やっぱり…。」





《2月14日・本当にほしいのは、キミ》





「遊子、明日やっぱ夕食いらねぇや。」
「本当に?良かったね、お兄ちゃん!」



(2023.02.12)
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