短い話のお部屋
「わぁぁ!黒崎くん、すごい!」
織姫からの手放しの賛辞に、一護は照れ臭そうに鼻をかく。
「まぁ、これから最終校正が入って、それから正式に入稿なんだけどな。」
織姫の手の中にあるのは、一護が就職して初めて任された、翻訳原稿。
原文を渡されたところで織姫がその全てを理解できる訳でもないのだが、それでも原文と一護の書いた翻訳原稿を代わる代わる見ながら、織姫はまるで自分のことのように喜んだ。
「そうなんだぁ。でも、やっぱりすごいよ!すごく自然で、すらすら読める。ほら、英語を日本語に直訳すると、不自然さが残ったりすることってあるじゃない?そういうのが全然ないって言うか…。」
「そこが、翻訳者の腕にかかってくる部分だからな。」
織姫の隣で、一護が自分の二の腕をパン!と叩く。
織姫が自分の翻訳の良さをきちんと解ってくれたことが誇らしく、また嬉しかったのだ。
「何だっけ、有名な翻訳があるよね。『I love you』を『月がきれいですね』って訳したっていうの。夏目漱石だっけ。」
「ああ。その説に関しちゃ、ちょっと都市伝説っぽいところもあるけどな。一緒に月を見上げて、それを見て綺麗だっていう想いを共有できる…そういう関係だって言いたかったんだろうな。まぁ、日本人はなかなか『愛してる』なんて直球で言葉にしねぇし、漱石も色々考えたんだろ。」
一護は織姫から大切そうに返された原稿を受け取り鞄にしまうと、彼女の胡桃色の頭をぽふりと軽く叩いた。
「こんな夜遅くに、急に部屋まで押しかけて悪かったな。でも、初めて俺の仕事がちゃんと形になったからさ。いちばん最初に、井上に見てもらいたかったんだ。」
「ありがとう、黒崎くん。来てくれて嬉しかったよ。」
一護を見上げ、織姫がはにかんだ笑顔を見せる。
一護が、いちばん最初に仕事の成果を見せる相手として、自分を選んでくれた…そのことに織姫の胸は喜びと感謝でいっぱいになっていた。
「実は、あたしもね。」
「?」
「お礼になるかどうかわからないけど…。ちょっと待っててね!」
おもむろに立ち上がり、キッチンへと駆けていく織姫。
冷蔵庫を開閉する音を忙しなく響かせた後、彼女はお盆にケーキとアイスコーヒーを乗せて戻ってきた。
「じゃーん!試作のレアチーズタルトでーす!」
織姫は店で接客しているかのように、優雅な動作で一護の前の座卓にケーキとコーヒーを並べる。
一護は、陶器のようにつやつやと輝くミルク色のレアチーズタルトを眺めた。
「へぇ…美味そうだな。」
「今度、『罪悪感0で食べられるケーキ』って企画をお店でやることになってね。そのレアチーズタルトも、実はお豆腐が入ってて、かなりカロリーダウンしてあるの。それは、あたしが作った試作品。」
「見た目普通のチーズタルトなのにな。」
「黒崎くんにいちばんに食べてほしくて、持ち帰ってきたんだぁ。今日、ウチに寄ってくれて、ちょうど良かったよ。」
一護の隣に座った織姫が固唾を飲んで見守る中、一護がフォークでレアチーズタルトを一口サイズに切り、口へ運ぶ。
「…どう、かな?」
一護がケーキをごくり…と飲み込むのを待ち、伺うように一護の顔を覗き込む織姫。
一護は不安げな織姫に、フォーク片手にニッ…と笑い返した。
「美味いよ。舌触りもいいし、豆腐入りとか全然わかんねぇ。甘さの加減も、俺にはちょうどいい。これなら店でも売れるんじゃねぇか?」
「本当に?良かったぁ!あの、良かったら全部どうぞ!」
「じゃ、遠慮なく。仕事帰りで腹へってたんだ。」
ほっとした笑顔を見せる織姫の前で、ケーキを食べる一護。
好きな人が、自分の作ったものを美味しそうに食べてくれる光景…それはパティシエにとって何にも勝るご褒美だ、と織姫は思う。
そして、ケーキを完食し、アイスコーヒーも全て飲み干した一護は、手を合わせて「ごちそうさま」と告げると背筋を正し、織姫と向き合った。
「なぁ、井上。」
「なぁに?」
「これからも、俺が翻訳した文章、いちばん最初に読んでくれるか?」
「勿論です!」
「それで、おかしいと思うところがあったら、教えてほしい。」
「力不足ですが…あたしで力になれるなら。あたしも、黒崎くんにいちばん最初にあたしが作ったケーキやパンを食べてほしいな。感想もいっぱい聞かせてほしい。」
「おう。うっかり食い過ぎて、太らないように気をつけないとな。」
クスクスと二人で笑いあった後、一護はふいに後ろの掃き出し窓をふり仰いだ。
「そうだ、井上。今日は満月らしいぜ。」
「そうなの?…わぁ、本当だ!きれいなまん丸お月さま!」
カーテンを開けると同時に、織姫が思わず声を上げる。
夜空にぽっかりと浮かぶ満月を、二人で窓の前に並び、見上げた。
まだ高校生だった頃、月の名を持つ斬魄刀を振るう一護を想い、独り月を見上げていた織姫。
それが今では、こうして一護と肩を並べて月を見上げている…そのことに、織姫は言葉にできないほどの幸福を覚える。
きっと、『I love you』を『月がきれいですね』の翻訳した人も、自分と同じような想いを抱いたことがあったのかもしれない…そんなことを考えながら、織姫は言葉もなく、その穏やかな光を見つめる。
一護もまた、しばらくは黙ったまま隣で月を眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「あのさ、井上。」
「はぁい?」
「月がきれいだな。」
「うん……………え?」
一護の言葉に、まずは素直に頷いて。
数秒間を置いてから、先程の一護との会話を思い出した織姫が、ぎこちなく隣を見上げた。
月を見上げていた筈の一護は、いつの間にか自分を見つめていて、頬に大きな手が添えられると同時に、重なる唇。
「…なぁ、井上。」
「…はい。」
「俺はオマエにいちばんに翻訳原稿を読んでほしくて、オマエは俺にいちばんにケーキを食べてほしい。」
「うん。」
「だったら…いつでもそれが叶うように、結婚…しねぇか?」
「…く、ろさき、く…ふぇぇ…。」
織姫の大きな瞳がくしゃり…と歪み、ぽろぽろと溢れ出す涙。
一護は、月明かりを弾ききらきらと輝く織姫の涙を親指で何度か拭った後、その手で彼女の肩をそっと抱き寄せた。
『愛してる』なんて、言えないから。
『I love you』の代わりに、『月がきれいですね』の言葉をキミに…。
「…一護くん、そろそろ休憩しませんか?」
コンコン、と軽くノックする音が響いたあと、静かに開けられた仕事部屋のドア。
振り返った一護は仕事専用の眼鏡を外すと、ドアの向こうからこちらの様子を伺う織姫を招き入れた。
「ありがとう、織姫。」
「コーヒー淹れたの。あと、アップルパイも焼いたんだ。はい、どうぞ。」
「一勇は?」
「コンちゃんと一緒に、お昼寝中だよ。」
「そっか。じゃあ、織姫も一緒にここで一服するだろう?あと…これ、俺が今翻訳したばっかの文章なんだけど、読んでくれるか?」
「うん、勿論!」
仕事机の前に座る一護の隣に、丸椅子を並べて織姫が座る。
そして、焼き立てのアップルパイを一護が頬張り、織姫が一護が翻訳した文章に目を通し始めた、その時。
「お母さん、お父さん、おはよ~…。」
「あ、一勇が起きたみたい。一勇、ここよ~!」
「お父さんもお母さんも仕事部屋ぁ~?」
まだ少し眠そうな声と共に、こちらにぽてぽてと近づいてくる足音。
そして、ガチャリと開けられたドアから、一勇がひょこっと顔を出した。
「見つけたぁ…あ!それ、お母さんが作ったアップルパイ?」
途端に擦っていた目をぱぁっと輝かせ、部屋に駆け込んできた一勇が、並んで座る両親の間に小さな身体をねじ込むようにして入る。
一護は、アップルパイを片手に持ったまま一勇をひょいと抱き上げると、膝の上に乗せた。
「ああ。美味いぞ。一勇も手を洗ったら食べていいからな。」
「ああっ!お母さん、それ、お父さんが書いたお話?」
今度は織姫が手にしている紙をぴっと指差す一勇に、織姫が微笑む。
「うん。お母さんが先に読ませてもらってるの。」
「ははは、今回は絵本の翻訳じゃないから、一勇には難しくてまだ読めないぞ。」
「僕だって読めるよ!いいなー、いいなー!お父さんもお母さんもいいなー!」
一護の膝の上でじたばたする一勇に、一護と織姫が目を合わせ、クスクスと笑う。
「…だって、約束だもんね。」
「約束だから、な。」
《fifth wedding anniversary~鰤完結5周年記念SS~》
(2021.08.22)