短い話のお部屋
「かずくん、本当に大丈夫?」
とある、日曜日の朝。
クロサキ医院の玄関の前で何度もそう確認する織姫に、一勇は小さな胸をドンと叩いて大きく頷く。
「だいじょぶだよ、ママ!ぼく、じいじとゆずちゃんとかりんちゃんと、ちゃんとおるすばんできるよ!」
「わはは、心配いらんよ、織姫ちゃん!かわゆーいかずくんの面倒は、じいじがばっちりみちゃうから!」
鼻の下を伸ばし、一勇に頬擦りしながらそう言う一心に、一護は頭をガリガリとかきながら呆れたように溜め息をついた。
「親父がいちばんあてにならないんだよ…。遊子、夏梨、もし何かあったらいつでも俺のケータイに連絡をくれよ。」
「了解!でも本当に大丈夫だから!」
「一兄も姫姉も行ってらっしゃい!」
「いてらしゃ~い!」
後ろ髪をひかれつつ出かけていく織姫と一護を、一心に抱かれ、ひらひらと手を振りながら笑顔で見送る一勇。
今日は、織姫と二人で出かけたいという一護からの要望を受け、一勇はクロサキ医院に預けられることになっていた。
《 forth wedding anniversary 》
「さぁて、かずくん、何をする?」
「ぼく、絵かきたい!」
「うん、いいよ。」
一勇は早速持ってきた鞄から画用紙とクレヨンを取り出すと、リビングの机に広げた。
その両脇に遊子と夏梨が座り、丸い一勇の頬を見つめる。
「何を描くの?」
「パパとママ!だって今日は、『けこんきねんび』だから!プレゼントするんだ!」
「かずくん、知ってたんだ。」
今日は、一護と織姫の4回目の結婚記念日である。
日々、家事と子育てに奮闘している織姫を労いたいから、一勇を少し預かってほしい…という一護の申し出からは、今でも変わらず彼が織姫を大切にしていることが伺われた。
「うん!パパが言ってた。『けこんきねんび』は、パパとママが『けこん』して、『ふーふ』になった日だって!」
「ふふふ、『結婚』ね。」
意味が分かっているのか、いないのか。
一護から教えてもらった言葉を自慢げに語る一勇に、一心が目を細める。
「あれからもう4年か…。早いモンだ。一護も一丁前に父親の顔になりやがって。」
一心は、白い紙に一生懸命クレヨンを走らせる一勇を見守りながら、一護が織姫との結婚の意思を伝えてきた日を思い出していた。
「井上と、結婚しようと思う」
その時、一護は大学を卒業し、社会人になったばかり。
まだ少し、早いんじゃないか…そんな思いが一瞬頭の隅を掠めたが、それを口には出すことはせず、一心は笑顔で「織姫ちゃんを幸せにしてやれよ」とだけ告げた。
結婚という、人生最大の決断。
一護はまだまだ若かったが、いい加減な気持ちで結婚を宣言するような息子ではないことは、父親である一心がいちばん解っていた。
何より、その名前に託した「たった一つ、護りたいもの」を一護が見つけることができた…そのことが嬉しかったのだ。
「できた!」
「わぁ、上手だよ、かずくん!」
「うん、どう見てもパパとママとかずくんだね!」
「えへへ~。」
一勇が、鼻をこすりながら得意気に笑う。
画用紙には、オレンジの髪がバキバキに描かれている一護の顔と、茶色の長い髪が流れるように描かれている織姫の顔と、その真ん中で嬉しそうに笑う一勇の顔。
その絵からは、幸せな日常が滲み出ていた。
「おてがみもかく!ゆずちゃん、『けこんきねんび』って、どうやってかくの?」
「じゃあ、お手本書いてあげるね。」
遊子が書いたひらがなの手本を見ながら、一勇は先ほど描いた絵の下に、一文字ずつゆっくり字を書いていく。
「け、小さいつ、こ、ん…。」
「おお、かずくんはひらがなも書けるのか。さすが、織姫ちゃんの遺伝子は最強だな~!」
一勇と織姫を連れて一護がクロサキ医院を訪れる度、一護の表情は穏やかになっていて、一人の男としての落ち着きと威厳を備えつつあって。
一勇の成長と同時に、一護の心の安定もまた、一心にとって喜びだった。
そしてそれをもたらしたのは、一護が「護りたいたった一人」に選んだ、織姫の存在。
「できた!」
「うん、ひらがなも上手だよ、かずくん!」
「けっこん、きねんび…。うん、あとはぼく一人で書ける!」
一護の周囲には、まだまだ独身を謳歌している友人知人も多くいるだろう。
それでも、一護があの日、結婚して家庭をもつと決めたことは、間違いなく今の幸せに繋がっている…と一心は思う。
「ねぇ、夏梨ちゃん。結婚記念日って、誕生日みたいに『おめでとう』って書けばいいのかな?」
「うーん、多分…。でも、『結婚記念日おめでとう』って、あんまり聞かないかもね。結婚記念日って、結婚した本人たちが祝うことが多いし。」
「…できた!」
遊子と夏梨の話を余所に、一勇は手にしていたクレヨンを箱にしまうと、画用紙を両手に持って、その出来映えににっこりと笑った。
…そこに綴られているのは、一勇から両親へのメッセージ。
『けっこんきねんび
よかたね』
「ふふふ…よかったね、だね、かずくん。ここ、小さい『つ』がいるよ。」
「ほえ?」
「わはは、いいじゃないか!じいじもそう思うぞ!」
「うん!」
「パパとママが結婚して良かったよな、かずくん!」
「うんっ!」
小さなオレンジ色の頭をくしゃくしゃと撫でながら一心が同意すれば、一勇は肩をすくめてそれを受け止めたあと、父親によく似た大きな手の主を見上げて笑った。
「だからね、じいじ!今日は結婚記念日だってこと、パパとママにはないしょだよ!」
「わはは、勿論だ!…って、待てよかずくん。それはちょ~っと、難しくないかな~?」
「「はっくしゅ!」」
その頃、空座から少し離れのショッピングモールの中にいた一護と織姫は、二人同時にくしゃみをした。
「二人一緒にくしゃみとか、漫画かよ…ー誰か噂してるのかな。」
「かずくんかも。」
普段出かけるときは、必ず一勇が一緒。
今ごろ寂しがっているのでは、泣いていたらどうしよう…などとつい考えてしまい、織姫はなかなか落ち着かないでいた。
「一勇は大丈夫だって。ケータイに何の連絡も入ってないんだから。」
「うん……あ。」
一護は、そんな織姫の手をすっと取り、そのまま指を絡めてきゅっと握った。
「いつもこの手は、一勇が独占してるからな。」
織姫が少し驚いて隣を見上げれば、昔と変わらずどこか照れくさそうな一護がいて。
けれど、いつもは小さな一勇の手を包んでいる自分の手が、今は大きな一護の手に包まれている…そのことに、胸がほわりと温かくなった。
「えへへ…何だか、一護くんと手を繋いで歩くの、久しぶりかも。」
「実際、久しぶりなんだよ。一勇のいない外出自体が久しぶりなんだから。」
「うん。」
繋いだ手の温もりが、まだ恋人同士だった頃の初々しい気持ちを呼び覚ます。
嬉しくて、気少し恥ずかしくて…胸がきゅんと音を立てる、懐かしくていとおしい感覚。
「せっかくの結婚記念日なんだ。今日は、二人でゆっくりデートしようぜ。」
「一護くん、覚えててくれたんだ!」
「当たり前だろ?ここなら、映画も、雑貨も、服も、スイーツバイキングも、全部あるからな。」
「わぁぁ!ありがとう、一護くん!楽しみ!」
織姫もまた、繋いだ手にきゅっと力を込めると、一護と一緒に歩き出した。
「あのね、一護くん。」
「おう。」
「あたし、一護くんと結婚できて、本当に良かったなぁ。」
「俺も、オマエと結婚できて良かった。」
「これからも、よろしくお願いします。」
「おう。こっちこそ、よろしくな。」
君と、結婚して。
本当に良かった。
(2020.08.16)