きれいな感情《後編》
次の日。
2日分の寝不足で軽い頭痛を伴いながら、重い身体を引きずるように、俺は登校した。
本当は、頭痛を理由に学校を休んでやろうかとも思った。
…正直、逃げ出したい気分だったから。
けれど、それと同じぐらい、井上がちゃんと登校しているかどうかも気になって。
一晩中悩んだ結果、俺は『登校』という選択肢を選んだ。
教室に入れば。
空気も読めず、無駄に高いテンションで絡んでくる啓吾。
多分何かを感じているのに、何も言わずにケータイをいじる水色。
「織姫を泣かせたら許さない」と、低い声ですれ違い様に呟いたたつき。
いつもなら、苛立ちや鬱陶しさから逃れるべく、授業なんざ迷うことなくエスケープして屋上へと足を運んでいただろう。
…けれど。
今の俺は、屋上までの階段を登る気力すらなくしていた。…分かってる。
それは、頭痛や睡眠不足のせいじゃない。
…朝、下駄箱で靴を脱いで、ふと顔をあげた俺の目に飛び込んできたのは、いちばん会いたくて、けれどいちばん会いたくなかった、胡桃色の髪だった。
いつの間に、俺の横にいたんだろう。
井上はいつもと同じように、靴を閉まって。
いつもと同じように、俺を振り返って。
「おはよう、黒崎くん。」
俺を見上げた井上が、笑顔でそう言った瞬間。
俺の心臓の辺りを突き抜けた、鋭い痛み。
ズキンッ…。
「…はよ…。」
うわ言のように、今にも消えそうな挨拶を返す俺。
「…昨日は、ごめんね?…忘れてね、全部…。」
井上は笑顔のままそれだけ言うと、足早に俺の横を通りすぎた。
床に縛りつけられたように動かない、俺の両足。
そして、廊下の向こうから微かに聞こえる、白々しいほどの日常。
「あっ、千鶴ちゃん、おはよーっ!」
「おはよう!ああっ、今朝もヒメの笑顔は最高に可愛いわ~。」
そうだ。井上の笑顔は、確かに『可愛い』。
けれど、違ったんだ。
今朝、アイツが俺に見せた笑顔、は。
いつもの、花がぱあっと咲くような、見ているこっちまで思わず笑っちまうような、あの笑顔じゃなくて。
…そうだ、例えるなら造花。
確かにきれいで、可愛くて、けれど…作られたモノ。「生きていない」モノ。
まるで井上の笑顔がショーケースの中にあるみたいだった。
俺とアイツとを隔てるのは、見えないガラス。
「…何だよ、コレ…。」
俺は無意識に胸の辺りの制服を鷲掴みしていた。
…痛ぇ…。
授業中も、井上の背中を見るたびに繰り返すのは、胸の辺りを締め付けるあの痛み。
頭痛なんか、忘れちまうほどに。
ズキン…ズキン…。
…俺は、どうすれば良かった?
どうすれば、泣かせずに済んだ?
どうすれば、もう一度…前みたいに、笑ってくれるんだ…?
なあ、井上…。
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