きれいな感情《後編》






井上との帰り道。

いきなり本題に入るのも躊躇われて、とりあえず何か話さなければと言葉を探すのに。
俺の口から気の利いた話題は何も出てこない。

いつもならあれこれ嬉しそうに話してくれる井上もまた、俯いて俺の隣を歩くだけ。

そうして、夕暮れの道をどのくらい歩いただろうか。

重い沈黙に耐えきれず、また川沿いの道には今、俺達以外誰もいないことに身体中の勇気を奮い立たせて。

「あのさ、井上…。」

緊張でカラカラの喉からやっと、声を絞り出した。

「は、はいっ!」

びくんっ!と大きく跳ねて、井上が返事をし、歩みを止めた。

「…その、なんて言うか…夕べのこと、ごめんな…。」

井上の夕日に照らされた顔が、更にかああっと赤くなる。
いや、多分俺も負けずに赤いんだろうけど。

「う、ううん。わ、私こそ、ごめんね?子どもみたいに泣いたりして…恥ずかしいところ、見せちゃって…。」
「け、けどよ、は、初めて…だろ?その、なんだ、…。」

『キス』の二文字がどうしても言えずに口ごもる俺。
けれど、井上には俺の言いたい事がすぐに伝わったらしく。

「…あ、えっと…そ、そうです…。」

鞄の持ち手をきゅっと両手で掴んで、井上は俯いたまま、小さな声でそう言った。

やっぱり、な…。

ショック、だったよな、初めてなのに。
きっと、本当は好きなヤツの為に、取っておきたかっただろうに…。

俺は何とか井上の心を軽くしたくて、思いつくまま言葉を発した。

「あ、あれは…な、無しでいいぞ?」
「…え?」

俯いていた井上が、顔を上げて。
大きい目を更に開いて俺を見た。

「なんつうか、井上にとっちゃ事故みたいなモンだろ?だから、カウントに入れなくていいんじゃないか、って…。」

気まずくて、明後日の方を見て話す俺にも、再び、井上が下を向いたことは何となく分かった。

「…。」

少しの沈黙の後。

顔を上げた井上は、いつもと同じように綺麗に笑っていて。

「…そ、そうだよね!く、黒崎くんも、あれは数に入れたくないよね!そ、そうしましょう!」
「お、おう…。」

せっかくの初キス、あんなんじゃ、『良い思い出』になんてなり様もないから。

井上がこれで納得してくれたかどうか分からねぇけど、それでも俺の気持ちは少しだけ軽くなった。

「そ、そうだ!わ、私、夕食の買い出しに行かなきゃ!じゃ、じゃあね黒崎くんっ!」

井上が、思い出したようにそう言うと、俺の返事も聞かずに突然走り出した。

「え?あ、おい井上っ…!」
「きゃん!」

石に躓いて、本日二度目の転倒。慌てて駆け寄って、学校のときと同じように井上に手を差し伸べた、瞬間。

俺は、頭を後ろから殴られたような衝撃を受けた。

…泣いて、る。

ぽろぽろ零れる銀色の涙が、頬を伝って、井上のスカートやアスファルトに幾つもの染みを作って。

時が止まったような、錯覚。

「…み、見ないでっ…!」

振り払われる、差し伸べた俺の手。

井上は立ち上がると、そのまま振り返りもせず走り去っていく。

「追え」と頭では命令しているのに、身体が凍りついたように動かない。

結局、俺はその場に茫然と立ち尽くすしかなかった…。


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