きれいな感情《後編》
「…はよ。」
心臓をばくばくさせながら、さも何事もなかったように、俺は教室の扉を開けた。
「あ、おはよう一護。」
「はよーっ。いっちっぐぉーっ!」
「おっはよ。」
いつもと同じ、水色や啓吾、たつきの挨拶が返ってくる。
けれど、そいつらが囲んでいる胡桃色は紛れもなく、俺が一晩中思い浮かべていた彼女。
「あっ、お、お、おはようございますです、く、黒崎くん…。」
俺と目があった瞬間、スイッチが入ったかのようにぴきっと固まって、顔を真っ赤に染めて。
くるっと回れ右をして自分の席へ戻ろうとするその歩き方は、例えるならペンギン。
「…ちょっとあんた、織姫になんかしたの?」
「…別に…。」
俺の側に来てこそっと問いかけるたつきを適当にかわしながら、俺も自分の席に座った。
本当の事を知られたら、骨の1、2本折られてもおかしくねぇからな…。
あまり突っ込んだ尋問は勘弁、と内心びくびくしていた俺の予想とは裏腹に、たつきは意外にあっさりと引いた。
「まあ、いいけどね。あの感じなら、織姫を泣かせたわけじゃなさそうだから…。」
そう一人で納得すると、たつきは再び井上のところへ戻り、何やら井上に教えてもらいながら必死でノートに鉛筆を走らせていた。
ああ、今日の日付、あいつの出席番号だからな、当たる確率高いんだ。
とりあえず、たつきの口撃から免れ、俺は溜め息をついた。
あとは…井上に、謝るだけだ。
いや、そこが大問題なんだけど…。
授業中も、先生の話は俺の脳ミソを右から左へと抜けていくだけ。
予想通り指名を受けたたつきが、ノートを読み上げる声も遠くから微かに聞こえるBGMのようで。
ただ、気にしないようにと思えば思うほど、視線が行くのは風に吹かれて時折揺れる、胡桃色の長い髪。
後ろからだから、表情は見えないけれど…。
井上は今、どんな顔をして、何を考えているんだろう…。
結局、井上に謝るどころか二人きりになるきっかけすら掴めず、苛立ちとモヤモヤを抱えたまま、俺は放課後を迎えた。
もう、チャンスはここしかない。荷物をなるべくゆっくりしまいながら、井上が1人になるのを待った。
「じゃね、織姫。あたし部活行くから!」
「うん!たつきちゃん、また明日ね!」
大きく手をふってたつきを見送る井上。
もしたつきと一緒に帰るなら、今日は諦めるしかねぇな…なんて、自分へのズルい言い訳も考えていたけれど。
…帰りは井上1人らしい。
もう逃げ道はない。腹くくるしかねぇ、ってことかよ。
思い切り、息を吸い込み、吐き出して。
俺は、ゆっくりと井上の机に足を運んだ。
「…井上…。」
「なあに…って、く、黒崎くんっ!」
振り向いたと同時に茹でダコのごとく赤くなった井上が、一瞬、固まって。
直後、全力ダッシュで逃げるように走り出した。
「ちょっ、おい、井上待てよ、つーか危ない…!」
「きゃん!」
予想通り、教室のドアのレールで躓き、転倒。
慌てて駆け寄って、赤くなった鼻を擦る井上の顔を思わず除き込んだら、涙目の井上と「ばちっ」と音がしそうなほど目があった。
直後、反射的に顔を背けて。
「い、井上…一緒に帰らねぇか?」
頭をガリっとかきながら、そう言うのが精一杯の俺。
…少しの間。顔を背けたまま、そろりと目だけで井上の方を見ると。
「…はい。」
うつ向いていて、顔は見えない。
それでも、小さな声で確かな返事を、井上はくれた…。
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