IF〜ふたりぐらし〜






…織姫が念願だった教師になって、3年。

俺と結婚するにあたり、仕事を止めて家庭に入るべきか、彼女自身も悩んだらしい。
けれど、俺が背中を押したこともあり、嫁さんは仕事を続ける道を選んだ。

俺としても、正直なところ研修医の給料じゃ織姫を養っていけるか不安だったし、たった3年で嫁さんの夢だった教師の道を断つのは勿体ないと思ったし。

…何より、勤務が不規則で家を空けてばかりの俺は、織姫をこの部屋でたった一人で待たせておくのが心配で。
教師の仕事なんて楽しいことばかりじゃないだろうけれど、それでも沢山の教え子に囲まれて毎日を過ごす方が、織姫に似合っているし、寂しい思いをさせずに済むと思った。

事実、子供たちの話をする嫁さんは本当に目を輝かせていて、時折軽く嫉妬したくなるほど、彼女は教え子に愛情を注いでいて。

織姫に教職はきっと天職で、毎日の仕事も充実しているのであろうことを物語っていた。


…しかし、その一方で。

俺と織姫の生活は、新婚であるにも関わらず甘いものとはいかなかった。

残業や夜勤が当たり前の俺とフルタイムで働く織姫。生活リズムがまるで合わない俺達は、丸1日顔を合わせないこともあり。
一緒の部屋で暮らしているというのに、メールでやりとりすることもあったりして。

せっかく結婚したのに、これじゃ遠距離恋愛していた頃とたいして変わらないんじゃないか…なんて思ってしまうこともしばしば。

…加えて、家事の負担はどうしても嫁さんにかかってしまっている。

1人暮らし歴の長い織姫は、「手の抜き方もちゃんと知ってるから大丈夫」と笑って言うけれど、それでも家事をしない日はないわけで。

…だからこそ、久しぶりに休みが揃った今日は少し早起きして、家事を俺も協力して早めに済ませて。

普段どこへも連れていってやれない織姫を、少し遠出のドライブにでも誘おう…なんて密かに考えていたのだ。

それなのに。

既に干された洗濯物、食卓からは朝食の香り。
結局嫁さんに家事をさせてしまった挙げ句、こんな時間に起きていたら遠出のドライブなんて当然無理なわけで。

「はぁ…。」

理想と現実の差ってヤツを思い知らされた俺は、思わず重い溜め息を漏らした。

織姫の方も、今頃「こんなはずじゃなかった」なんて思ってるのかもしれないよな…。
「一護くーん!冷めちゃうよ~!」

それでも、俺の名を呼ぶ織姫の声はいつも通りに明るくて。

のそのそと着替えを終えた俺は、織姫の待つ食卓へと向かった。




織姫の作った朝食を平らげる間、彼女はくるくると表情を変えながらそれは楽しそうに最近の出来事を話してくれた。

例えば、自分の学級の子供の話。
最近ハマッているテレビのお笑い番組の話。
俺が夜勤の日にした、たつきとの長電話。
一昨日は俺がいない間に乱菊さんが遊びに来て、酒を浴びるほど飲んで織姫を困らせたことも初めて知った。

俺が夜この部屋を空けている間も、織姫が寂しい思いをせずに済んでいることに少し安堵しながら、彼女の話に頷く俺。

けれど、織姫はふとお喋りをやめると心配そうな顔をして俺の顔を覗き込んだ。

「…やっぱり、一護くんまだ疲れが残ってるでしょ?ご飯が終わったら、もう一度寝てくる?」
「は?大丈夫だよ。これ以上寝たらかえって身体がおかしくなる。」
「でも…なんか、あんまり表情が冴えないし…。」

突然何を言い出したのかと思えば、その原因は俺にあったらしい。
出来の悪い男のつまらない顔はパジャマと一緒に寝室に脱ぎ捨ててきたつもりだったのだが、どうやらまだ引きずっていたらしい。
…って言うか、織姫がこういうことに関しちゃ鋭いんだよな、結婚してから特に。

「心配かけてごめんな。本当に大丈夫だから。…あ、食器はそこに置いておけよ、俺が洗うから。」

空になった食器をシンクへと運ぶ織姫に、俺は慌てて声をかけた。
なんかもう、食器ぐらい洗わなきゃ「ダメ夫」の烙印を押されてしまいそうで…。

「え?いいよいいよ!一護くんはゆっくりしてて?」
「いいから。それぐらいは俺がやる。」

俺の分の食器を急いでシンクに運びスポンジに洗剤を付けていると、織姫がズイッと横に入ってきた。

「じゃあ、私も一緒にやる!」

腕捲りをしながらそう言って、俺がスポンジで洗った食器を水で流す織姫。

結局、俺が家事をしたことにはならないような気もしたが、こうして二人で並んで食器を洗うのは悪い気分じゃない。

さっきまで自己嫌悪でぐずぐずとしていた感情が、レモンの香りの泡に洗い流されていく。
俺は横で鼻歌を歌う嫁さんをちらりと見ながら、漸く心が少し軽くなった様な気がした…。





.
2/5ページ
スキ