Is this love?


…そうして、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。

俺はゆっくりと唇を離し井上の両手を解放した。

井上は俺をなじるでも、平手打ちを繰り出すでもなく。
今にも溢れ出しそうな涙を湛えた瞳で俺を見て、そのまま両膝を抱えて子供の様に膝に顔を埋めてしまった。
昂っていた感情が急速に冷えていき、代わりに俺の胸を罪悪感が締め付ける。

「…ごめん、井上。」

他に言葉が見つからず、井上を目の前に何もできない無力な俺。
本当は心のどこかで解ってたんだ。
井上は一途で優しい。だから、一度付き合い出した男をそう簡単に切り捨てたりしない…。

「…けど、俺は本気だから。いい加減な気持ちでキスした訳じゃねぇから…。」

俺を罰するかの様な沈黙の時が過ぎる。
やがてその沈黙を破ったのは、顔を隠したままの井上のか細い声だった。

「ごめんなさい…。」

覚悟していた答えでも、やっぱりズグリと痛む俺の胸。

「…謝るなよ。俺こそ、彼氏持ちだって解ってるのに一方的に気持ち押し付けてごめんな。」

それだけ言うのが精一杯だった俺は、溜め息をつくとのろのろと立ち上がった。どんな謝罪も言い訳も届かないなら、俺はもうここにいない方がいい…。
けれど、俺が井上に背を向けたその時、細い指が俺のパーカーの裾を掴んだ。

「…違うの。そうじゃないの…。」
「井上…?」

振り返った俺の目に映ったのは、予想通り大きな瞳から大粒の涙を溢れさせて俺を見上げている井上。

「どした?井上…。」
「…わ、私…。」

もう一度腰を落とし井上と向かい合う。
両手で顔を覆って泣きじゃくる井上の震える声が俺の耳に響いた。

「…嘘、なの…。」
「…え…?」
「…嘘なの…!本当はお付き合いしてる人なんていないの…!」

今、なんて…?

思わず目を見開く俺の前で、井上が顔を覆ったまま堰を切った様に声を上げて泣き始めた。

「ごめ…ごめんなさい…!こんな嘘つく子、黒崎くん嫌だよね…嫌いになっちゃうよね…!」

取り乱す井上の両手を取り、顔から引き剥がす。俺は泣いて赤くなっている井上の瞳を覗き込み、濡れている彼女の頬をそっと包み込んだ。

「落ち着けよ、井上。大丈夫だ、嫌いになったりしねぇから…。」
「く…黒崎…くん…っ。」

親指で、こぼれ落ちる涙をなるべく優しく、何度も拭う。
井上はしゃくりあげながら、それでも少し落ち着きを取り戻した。

「…何で、嘘なんかついたんだ?」俺の問いかけに、井上は叱られる子供みたいに目を閉じる。

「…私、卒業式の日に黒崎くんにフラれて、でも結局その後もずっと忘れられなくて…。あの日、イタリアンレストランで黒崎くんを見たら、やっぱりすごく好きって、そう思っちゃったの…。」

どくり、と跳ね上がる俺の心臓。
井上の告白に、冷えきっていたはずの俺の感情が再び熱を帯び始める。

「…でもね、私、黒崎くんにフラれてるのに…半年経ってもまだ好きだなんて、黒崎くんが知ったらきっと普通に接してなんてもらえないと思って…。それに、『しつこい女』だって、嫌われるのが怖くて、それで…。」
「…嘘…ついたのか。」

こくり、と小さく頷く井上。

俺は井上がどうしようもなく愛しくなって、彼女の背中に手を回し、そっと抱き締めた。
一瞬ぴくりと震えた井上の身体は、それでも俺の行為を拒絶することはなく、静かに俺の腕の中に収まる。
俺の肩に顔を埋める井上の表情は見えないけれど、俺の胸辺りに控え目に添えられる白い手を、俺は肯定の意と捉えた。

「…じゃあ、誕生日に指輪もらったってのは…?」
「あれは…大学の友達がそういう話をしてて…すごく羨ましくて、よく覚えてたから…咄嗟に…。」「じゃあ、バリスタは?井上には必要ないだろ?」
「あれは、大学生協のくじで当たっちゃったの。私には必要ないからずっとしまってあったんだけど、せっかく黒崎くんが来るならって思って…。」
「じゃあ、ペアのマグカップは?」
「あれは、たつきちゃんが誕生日にくれたの。黒崎くん用が黒で、私用が白だって。いつか二人で使える様に…って、大学が離れても諦めちゃ駄目だって。たつきちゃん、私がフラれたの知らなかったから…。」
「…そっか…。」

つい一週間前、嫉妬でドロドロだった俺の感情が、井上の言葉で嘘のように浄化されていく。

俺の腕の中、全てを打ち明けてくれた井上。
今度は俺の番…だよな。

「…ごめんな、井上。井上に嘘をつかせたのは俺だ。俺がちゃんと半年前に自分の気持ちに気付いていれば、井上を泣かせたりしなかった。」
「黒崎くん…。」

ゆっくりと顔を上げる井上。儚く揺れる瞳を、しっかりと見つめて、大切な一言を告げる。

「…俺、井上が好きだ。だから、俺と付き合ってくれ。」
「…はい…。」

潤んだ瞳で、綺麗な笑顔と俺の望んだ答えをくれる井上。

俺は井上にそっと顔を寄せ、全てを確かめる様にもう一度キスをした…。


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