夫婦のカタチ
《lesson1・名前で呼ぼう》
「…織姫、この紅茶は美味しいな。」
「本当?よかった!この間一護くんと行ったショッピングモールでね、大きな紅茶専門店を見つけて、そこで買ったんだよ!ねっ!」
「…ああ。」
休日の昼下がり。
普段仕事三昧の俺がのんびりできる貴重な時間。
だから今日は、せっかく新婚だってのに日頃なかなか一緒にいられない嫁さんと終日のんびり過ごすつもりだったのに。
…突然窓からやって来たのは、嫁さんが「親友」と呼んで憚らない、腐れ縁の黒髪の死神。
「…なんだ一護。その不満たらたらの顔は。」
「うるせぇ。」
不服そうにそう言うルキアに、俺も負けずに不服そうに言い返してコーヒーを煽った。
「なぁ、おかわりいいか?」
「はいはーい。」
俺がカップを差し出せば、嫁さんがにっこりとそれを受け取ってくれる。
「あのさ、小腹すいたから何かつまめるモンもくれよ。」
「りょーかーい。一護くんの好きなお菓子、あったかな~。」
お菓子のストックからガサガサとめぼしい物を探している嫁さんを眺める俺に、ルキアがぼそりと呟いた。
「…一護。」
「何だよ。」「御主、さっきから織姫の名前を意図的に呼んでいない気がするが…気のせいか?」
ルキアの鋭い指摘に、俺は思わず身体をびくっと強張らせた。
「な…!」
「…図星か。」
ルキアは紅茶を啜りながら、呆れた様にそう言った。
…そう、付き合い出した頃からずっと、俺と嫁さんは名字で呼び合っていた。
けれど、結婚すれば当然名字は同じになる。
それを意識してか、嫁さんは婚約した頃から俺を「一護くん」と呼ぶ様になった。
最初は俺の名を呼ぶ度に照れまくって「きゃーっ!」とか大騒ぎしていた彼女も、訓練の賜物か次第に慣れていき。
俺の方も初めは嫁さんの声で俺の名が紡がれることが妙にくすぐったかったけれど、今ではすっかり慣れて心地好いとすら思える様になった。
何より「一護くん」と呼ばれる度に、ああ、コイツは俺の嫁さんなんだな、特別なんだな…って、そう実感できる。
ささやかな、俺の幸せ。
…けれど。
一方俺はというと、未だに照れ臭くて嫁さんを「織姫」と自然に呼べない。
だからつい、「なぁ」とか「おい」とか「あのさ…」とか、そんな風に呼びかけてしまう。
第三者に織姫のことを説明するときは「嫁さん」だし。嫁さんと面と向かって話すときは「オマエ」だ。
…そこへ。
「おう。一護、井上、久しぶりだな!」
「あ、恋次くん!」
窓から颯爽と飛び込んで来たのは、ルキアの旦那…恋次だった。
つーか、夫婦揃っていい加減玄関から入ることを覚えろ。
「いらっしゃい!今、飲み物用意するね!何がいい?」
しかし、相変わらず寛容な俺の嫁さんはニコニコと窓からの来客を出迎える。
「じゃあホットコーヒー頼むぜ、井上。」
「恋次、織姫はもう『井上』ではないぞ。」
ルキアの隣にどかっと腰を下ろしながら、恋次はその突っ込みに「ああ」と思い出した様に声を上げた。
そして。
「そういやそうだったな。じゃあ織姫、ホットコーヒー頼むぜ。」
「なっ…!」
さらりとそう言う恋次に、驚きのあまり目を見開いて絶句する俺。
こいつ、俺が数年がかりでも越えられない壁を、ものの1秒であっさり越えやがった…!
「織姫、手土産もあるから今から4人で食べようぜ!」
「わぁっ!美味しそうなお饅頭!ありがとう恋次くん!」
「織姫が好きだろうと思ってよ。」
つーか恋次のヤツ、さっきから俺の嫁さんを「織姫、織姫」って馴れ馴れしく呼びやがって…!
俺が一気に不機嫌になったことにも気付かず、嫁さんは饅頭に上機嫌。
キッチンで鼻歌交じりにコーヒーを淹れ、饅頭を皿に乗せている。
「ああ?何だよ一護。饅頭がそんなに不満かよ?」
俺から湧き出る不満のオーラに気付いた恋次は、それを饅頭のせいだと勘違いしているらしい。
「バーカ、俺はそんなちっせぇ男じゃねぇよ。」
「うむ、しかし自分の妻の名前すら満足に呼べず、挙げ句に他の男がそれを成し遂げたからといって嫉妬する程度には小さいがな。」
「ぐ…ルキア、お前…!」
いちいち俺の神経を逆撫でするような物言いをするルキアに、悔しいながらも言い返す言葉が見つからない俺。
「はぁ…井上もこんな男のどこがよかったというのか…。」
肩をすくめ、大袈裟に首を左右に振るルキアの仕草が俺を苛立たせる。
そこへ恋次のトドメの一言。
「ボランティアで結婚したんじゃねぇの?」
「…てめぇら、今すぐ帰りやがれ!二度と来んな!」
「わーっ!駄目だよ一護くん、お客様にそんなこと言っちゃ!」
お盆に饅頭と飲み物を乗せた嫁さんが慌てて仲裁に入ったことで、危うく卍解寸前だった俺の怒りは何とか収まりを見せたのだった。
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