わたしを温泉に連れてって
「わぁぁぁぁ~!!」
辿り着いた旅館は、温泉街の中でも比較的小さい古風な建物。
俺から見たら、別に特筆すべき点がある建物でもないのだが、井上は子供みたいに目をキラキラ輝かせていて。
「すごい、すごいね黒崎くん!本当に来ちゃったね!!」
感激のあまり大声ではしゃぐ井上に、受付の人達がクスクスと笑う。
「井上、声でけぇ。」
「あっ!ご、ごめんなさい…。」
「いや…いいけどよ、別に。」
それよりもこんなに喜んでくれてるんだし、受付の雰囲気も和んだし、井上らしくてまぁいいか…なんて思うあたり、俺も相当惚れてんな…なんて。
俺もまた内心苦笑しつつ、チェックインの手続きを済ませて。
受付の人から鍵を受け取り、案内の係と一緒に、部屋へと向かった。
「わぁぁぁぁ~!!」
本日何度目かの、井上の歓声。
案内された和室に足を踏み入れれば、ほんのり漂う畳の匂い。
こういうのに癒されるあたり、こんな髪の色しててもやっぱり日本人だよな…なんて思いながら、荷物を部屋の隅に置く。
そうして部屋をぐるりと見渡しながら、今日はここで二人きりなんだよな…なんて考えると、今更の様にこっぱずかしくて。俺はソワソワした気持ちを悟られたくなくて、用意されていた座布団にドカッと腰を下ろした。
けれど井上は無邪気に狭い部屋を散策したり、窓から景色を眺めたり、案内係の人とにこやかに会話をしたりしていて。
そうして、係の人がお茶を淹れ立ち去った後も、部屋をぴょんぴょんとウサギの様に跳ね回っていた。
「…井上、本当にはしゃぎすぎ。」
まぁ、これだけ喜んでくれてるなら、俺も連れてきた甲斐があったってもんだけどな。
俺がそう思いつつ、隣の座布団をポンポンと叩けば。
「あ、ご、ごめんね!?嬉しすぎちゃって、私つい…!」
井上は反省した様に俺の隣に来てちょこんと座り、机の上にあるお茶とお菓子に手を伸ばした。
「私、修学旅行以外で、こういう旅館とかにお泊まりするの、初めてなんだ。ほら、ウチはお兄ちゃんと二人だったでしょ?暮らしも、あんまり楽じゃなかったし、ね。」
「そっか。まぁ、俺の家も旅行とか滅多にしないけどな。親父はあれでも医者だし、あんまり家を空けられなくてさ。」
「そうなんだ…。」
そんな話をしながら、緑茶を二人で啜る。
のんびりとした時間。
無言すら心地いいのは、井上とだからだ。
しばらくして、井上は空になった湯飲みを机の端に置くと、机上にある旅館の案内に手を伸ばした。
「大浴場は6階だって」「お土産屋さんもあるみたいだよ。」
そんなことを呟きながら、ぱらりぱらり…とそれを捲る井上の手が、ふと止まる。
「いいなぁ…。」
「あ?」
そう呟く井上がじっと見つめているのは、旅館案内の「家族風呂」のページ。
「…い、井上…?」
思わず、どくりと跳ねる俺の心臓。
いや、確かに井上が風呂好きだってのは知ってるけど。
い、いきなり「家族風呂」かよ?
いつも、俺がシャワーに誘っても恥ずかしがって断固拒否するくせに…温泉は別ってことか?
俺がさり気なくそのページを覗き込めば、露天風呂つきの貸し切り風呂の写真と、「予約制・1時間3000円」の文字。
いいぞ、3000円ぐらい全然出すし。
1時間か…身体も洗いたいし、井上はゆっくり湯船に浸かりたいだろうし、俺はイロイロしたいし…時間足りるかな…。
そんなことをぐるぐると頭の中で考えていれば。
「いいなぁ、家族風呂…。」
そう繰り返し、夢見るような眼差しで写真を見つめる井上。
だったら、即行動でよくねぇ?
「あ、ああ、そうだな。何なら今から…。」「きっと、パパとママと可愛い子供とで、背中の流し合いしたりするんだろうなぁ…。」
「…予約して…って、あ?」
「私もいつか、家族風呂に入ってみたいなぁ。」
そう、井上がうっとりとしながら呟く。
多分、理想の家族像を思い描いて、現在脳内トリップ中の井上を前に、言葉が出ない俺。
あの…井上サン…もしかして、「家族風呂」って本当に家族しか入れないと思ってる?
いや…違うぞ井上、違うんだ。
名称は確かに「家族風呂」だが、予約して金を払えば誰でも使えるんだぞ?
って言うか、家族じゃない、俺達みたいな普通のカップルの需要の方が寧ろ多いかもっつうぐらいな施設だと思うぞ?
…そう、真実を打ち明けたい俺だったが。
「家族風呂…憧れちゃうよねぇ…なんて、あはは!ご、ごめんね黒崎くん!私、また勝手に脳内旅行しちゃった!今まさに旅行中なのにね~!」
そう言って、照れた様に笑う純粋な井上を前に、邪な俺の思いなど口に出せる筈もなく。
「…い、いや…別にいいぜ…?」
俺も違う意味で脳内旅行してたしな…と、お茶を濁す。
とりあえず、井上に「家族風呂」の本当の意味を教えるのは、またの機会にすることにした…。
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