わたしを温泉に連れてって
ガタンゴトンと、揺れる電車。
窓から見える、のどかな田園風景。
少しだけ窓を開ければ、風が運んでくるのは爽やかな新緑の香り。
そして隣には、胡桃色の髪を靡かせるキミ。
…二人の間を流れる、穏やかで愛しい時間。
《私を温泉に連れてって》
「…楽しいね、黒崎くん!はい、おやつどうぞ!」
「もうおやつかよ。」
そうツッコミながらも、井上が笑顔で差し出すチョコレートを一つ摘まんで口に放り込む俺。
つい顔が緩んじまうのは、チョコレートの程よい甘さのせい…ってことにしておく。
「でも本当に良かったのかなぁ。このチケット、当てたのはおじさまなのに…。」
「いいんじゃねぇ?ペアチケットって、ウチの家族じゃ使いにくいんだよ。」
チョコレートとは別に、自分用に取り出した饅頭にかぶりつきながらそう呟く井上の頭を、俺は「気にするな」と言う代わりにぽふっと撫でてやった。
俺の親父が、町内の福引きで温泉旅館の無料ペアチケットを引き当てたのは1ヶ月前のこと。
ただ、残念ながらウチの家族は4人。俺を抜いても3人。
それで、この春に晴れて大学生になった俺に、このチケットが回ってきた訳だ。
じゃあ、誰を誘う…って言ったら、そりゃあ井上しかいないだろう?
大学に入学し、一人暮らしを始めて4カ月。
彼女と週末に会えるか会えないかの生活は、なかなかに深刻な井上不足を俺にもたらした。
別にお洒落なホテルじゃないし、近くにテーマパークがある訳でもない、本当にただの温泉旅館だけど。
それでもチケット片手に井上に電話をすれば、彼女は電話口で大喜びしてくれた。
…そうして、指折り数えて1ヶ月。
今日に至る。
まぁ、一緒に行くのが井上ってのは家族には当然内緒で、「大学でできたダチと行ってくる」って話になっているんだが。
「けど、本当に温泉旅館ってだけで、近場には何もないみたいだぜ?」
隣には、2つ目の饅頭を頬張りながら、飽きることなく流れる車窓を眺める井上。
俺がそう念を押せば、井上は俺を振り返ってふわりと笑った。
「いいの。だって、こうして黒崎くんとずっと一緒にいられるんだもん。…これ以上の贅沢なんてないよ。」
そう言う井上の花の様な笑顔に、不覚にも顔がかああっと熱くなるのを自覚する。
「えへへ…黒崎くんとの初めての旅行だもん…こうしてるだけで幸せです。」
そう言って、車両に人がほとんどいないことを確認し、俺の肩にこつりと甘えてくる井上。
いやもう、この無駄に可愛い生き物と温泉一泊とか…ヤバい、顔がにやける…。
「…黒崎くん?」
口元を手で覆ってそっぽを向く俺を、井上が不思議そうな顔で見つめる。
…本当、井上には自分の仕草や表情が俺に及ぼす影響のデカさってヤツを、もう少し自覚してほしいもんだ。
「な、何でもねぇよ…ああ、そうだ。」
俺は、照れ隠しに鞄をガサガサと漁り、親父にもらった温泉旅館のチケットの入った封筒を取り出した。
「あ…それ、今日行く旅館のチケット?」
「おう。とりあえず、これさえ忘れてなきゃ後は何とかなるからな………ん?」
あれ、何だこの封筒の不自然な厚み…。
そして、封筒に突っ込んだ俺の指先に当たる、紙とは違うツルンとした感覚。
「……!?」
ばっと井上に背を向け、慌てて封筒を覗き込めば、中には。
『一護へ!
どうせ旅行には織姫ちゃんと一緒に行くんだろう!
これはパパからのサービスだ。家族計画は大事だぞ!』
…そんな手紙と、共に。
「……あのスケベクソ親父ぃっ!」
「わひゃっ!」
俺の声のでかさに余程驚いたんだろう。俺がはっとして井上を振り返れば、井上は危うく落としかけた饅頭をお手玉の様にして、どうにかキャッチしているところだった。
「び、びっくりした~!どうしたの?黒崎くん。」
「や、何でもねぇ…驚かせて悪かった…。」
「…?」
小首を傾げた井上が、それ以上追及してこないことに安堵しつつ。
再び封筒を細く開き、その隙間から中を覗いて……1、2、3………7…。
「7つも使うかぁぁ!」
「わ、わひゃああっ!」
再び叫ぶ俺と、饅頭でお手玉を披露する井上。
「く、黒崎くん…?」
「…い、いや、本当に何でもねぇから…。」
てか、俺の用意したのと合わせて10個か…っておい!足すな自分!
べ、別にそれだけが目的じゃねぇし!
俺は井上と純粋に一緒にいたくて、それでだな…!
自分で自分に激しく言い訳をしつつ、頭をバリバリと掻いて。
ちらり…と隣を見れば、口の端にあんこをつけて、きょとんと俺を見つめる井上。
「…井上、あんこついてる…。」
「わ、本当?ありがとう、黒崎くん!」
後ろめたさを隠す様に井上の口の端を親指で拭う俺と、無邪気に笑う井上を乗せて。
電車は実にのんびりと、目的地に向かって走っていった…。
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