夢であるように







「…好きだ…。」

ゆっくりと、離れていく一護の顔。
何が起きたのか理解できず、大きく見開いたままの織姫の瞳に、そう告げる一護が至近距離で映る。

「く…ろさき…く…。」

放心状態の織姫だったが、それでも唇には何か温かいものが触れた感覚が、鼓膜には一護の低い声が残っていて。
それらをじわじわと五感がとらえ出し、織姫は少しずつ目の前の出来事を理解していく。

「本当は、きっともう…ずっと前から井上が好きだった。」
「…ふ…ぇ…っ。」

一護から「好きだ」と告げられている…そんな夢のような現実に、一気に緩む織姫の涙腺。

一護は両手でそっと織姫の頬を包み込み、ポロポロとこぼれだした涙を親指で優しく拭って。
そして、少し不安げに問いかけた。

「…井上は?」
「…ふぇ…?」
「俺はもう…昔好き『だった』過去の男か?待たせすぎて、愛想尽かしたか?」

一護のその問いに、織姫がふるふると首を振る。
そして、ずっと心の内に閉じ込めていた想いを、絞り出すように声にした。

「…苦しかったの…。」
「井上…。」
「黒崎くんに彼女ができたなら、離れなきゃっ…て、そう思って…傷つきたくなくて、自分から勝手にさよならしたのに…。」

ポロポロ、ポロポロ。

涙と共に溢れ出して止まらない、一護への想い。
織姫の頬に添えられた一護の手を、温かい雫が濡らす。

「苦しかったの…もう黒崎くんに会えないかもしれないって思ったら、すごく苦しくて、淋しくて…!」
「…井上…。」

感情が高まり過ぎたのか、織姫が泣きじゃくり始める。一護はそんな織姫の涙をどうにか止めたくて、そして織姫がどうにも愛おしくて。
頬に添えた手はそのままに、もう一度唇を織姫のそれに押し当てた。

「……っ!」

一護からの二度目のキスに、ぴたりと止まる織姫の涙。
初めはやはり大きく目を開けたままの織姫だったが、今度は自分の意思でゆっくりと瞳を閉じる。

一護もまた、織姫の身体から強張りがほどけたのを感じ、一度目よりもずっと長く織姫の唇の柔らかさを味わったあと、名残惜しげに唇を離した。

「…まだ、苦しいか?」
「…ううん…。あったかい…すごく、すごくあったかいよ…。」

まだ涙を滲ませた瞳で微笑む織姫。
そのはにかんだような笑顔に、想いが繋がったことを実感した一護は、ごそごそと上着のポケットを探る。

「…とりあえずコレは、俺の予約済みの印な。」

そして、取り出した指輪を織姫の右手の薬指にはめた。

「黒崎くん…。」
「昨日、尸魂界から帰ってきて、ちょうどバイト代が振り込まれる日だったの思い出して…慌ててATMに駆け込んだんだけど、やっぱ大した金額じゃなくてさ。…悪いな。」
「そ、そんなこと…!」
「…けど、『気持ち』は目に見えないからさ。これならちゃんと、俺の『気持ち』がオマエに見えると思ったんだ。」
「…黒崎くん…うん…。私、幸せだよ…。」

織姫が、右手の薬指で輝く小さな環に、そっと口付ける。
その少しひんやりとした感覚は、織姫の心をとても温かくした。

「…あ、そうだ。」
「なぁに?黒崎くん。」

何かを思い出した一護に、うっとりと指輪を見つめていた織姫が顔を上げる。

「オマエのケータイ、俺のケータイが着信拒否設定してあるだろ?ちゃんと解除しておいてくれよな。」
「え?」

織姫は目をぱちくりとさせて、小首を傾げた。
「…してないよ?」
「へ?だって昨日、オマエに電話してもメールしても、全部跳ね返されたぜ?」
「でも…私、着信拒否の設定の仕方なんて、知らないんだもの。」
「…マジか?」

織姫が、こくりと頷く。
そう言えば、織姫は機械音痴だった。
着信拒否設定なんて、彼女にはできないのだ。

「でも、じゃあ何で…?」
「黒崎くん、いつ頃電話をくれたの?」
「昨日の3時頃…かなぁ。俺、恋次に呼び出されて、尸魂界にいたんだよ。で、恋次と話すうちに、もしかしたらオマエが誤解してるんじゃないかって気がついて、それで…。」

昨日のことを思い出しながらポツポツと話す一護に、織姫が再び小首を傾げる。

「…えっと…黒崎くん、尸魂界ってケータイ使えるの?」
「…へ?」
「多分…ケータイ会社さんの電波、尸魂界までは届かないんじゃないかなって…。」

織姫の最もな指摘に、ポカンとする一護。
そして。

「…ぶっ!あはは…。」

思わず吹き出した一護は、きょとんとする織姫の肩にこつんと顔をうずめ、くつくつと笑い出した。

「く、黒崎くん?」
「…はは…あ~カッコ悪りぃ…。」

込み上げる笑いに身体を震わせながら、呆れたように一護が呟く。

織姫にフられたのは、誤解が原因かもしれない…そう思った瞬間、頭の中には今すぐに誤解を解くことでいっぱいになって。
そこが尸魂界であることも忘れ、ケータイ片手に叫んだり、届きもしないメールを必死に打ったり…。

あまりにも滑稽だった昨日の自分に、笑いが止まらない一護。

しばらくは自分の肩で笑う一護に戸惑っていた織姫だったが、やがて一護の笑いの意味を理解し、おずおずと彼の背中に手を回すとその広い背中を優しく撫でた。
「…カッコ悪くなんて、ないよ?」
「井上…。」
「だって…いつも冷静な黒崎くんが、私の為にそんな風になってくれるなんて…すごく嬉しいよ。ありがとう…。」

愛しさと感謝を込めて、織姫が一護の背中を何度も撫でる。
その効果はテキメンで、一護の笑いはすぅっと収まり、代わりに穏やかな笑みが口元に浮かんだ。

「…あのさ、井上。」

一護は、織姫の肩にうずめていた顔を上げ、その薄茶の澄んだ瞳を見つめる。

「なぁに?」
「俺…恋愛とか付き合うとか、初めてだからさ。またカッコ悪いとこ見せちまうかもしれねぇ。それでも…愛想尽かさないでくれるか?」
「ふふ。どんな黒崎くんも格好いいから大丈夫だよ。黒崎くんなら、バナナの皮で滑って転んだって絶対格好いいんだから!」
「転ばねえよ!…けど、やっぱ恋次が言った通りだな。」
「…阿散井くん?」

一護は腕時計をチラリと見た。
約束の1時間まで、あと20分はあるのを確認し、織姫を抱き寄せる。

「昨日のこと、今から話すよ。その間…ずっとこのままでいいか?」
「…はい…。」

一護の高い体温に包まれ、夢見心地で頷く織姫。

冬の星座が瞬き出した藍色の空の下、一護と織姫は約束の時間が来るまでずっと抱き合っていた。










「店長、姫ちゃん先輩戻ってきますかね?」
「まぁ、律儀だからね、織姫ちゃんは。多分きっちり1時間で戻ってくるんじゃないかな。」

店長はそう言いながら、店内の隅に立てかけてある小さな黒板の前にしゃがんだ。
そして、そこに書かれていた今日のオススメパンとケーキの名前をきれいに消すと、色とりどりのチョークで何かを書き付け始める。

「…よしっ!できた!」

満足げに頷く店長に、バイトの高校生は思わず吹き出した。





『看板娘、ついに売れました!
彼女がお目当てだったお客様方には大変申し訳ありませんが、今後彼女がフリーになる予定はございません。』





(2017.04.30)
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