夢であるように
翌日。
「はぁ…。」
『ABCcookies』の店の奥で、売り物のパンをラッピングしながら、織姫が溜め息を1つ零した。
「どうかした?」
「い…いいえ、何も!」
焼きたてのクロワッサンを運んできた店長に、織姫は慌てて笑顔を返す。
「ふうん。じゃ、このクロワッサン店に出しておいてね!」
「はい!」
そう言い残して再び焼き釜に向かいう店長に、織姫は元気いっぱいの返事を返す。
けれど、それが空元気であることは、店長にも…そして織姫自身にも解っていた。
一護に、さよならをした。
そのことで、織姫は一護から「彼女が出来た」と告げられる恐怖から解放された。
自分から離れる方が、一護から突き放されるより心の傷が浅くて済む…その考えも、多分正しかった。
…けれど。
その代わりに織姫の胸をしめつけるのは、例えようのない淋しさと虚しさ。
それはどれだけ仕事に没頭しても、どこにいても誰といても和らぐことはなかった。
「自分で選んだことなのに…ね…。」
自嘲気味に、織姫が呟く。
思えば、高校生だった頃は、一護が自分をどう思っているかは関係なく、ただ「黒崎くんが好き」…そう想うだけで心が満たされていた。
それなのに…。
「馬鹿だなぁ、あたし…。」
一護のいない世界なんて、自分には何の意味もないのに。
オレンジ色の太陽を失ったモノクロの世界は、織姫にはあまりにも苦しくて、淋しくて…。
「はい、織姫ちゃん!メロンパンも焼けたよ!」
「は、はい!」
再び奥から現れた店長に、織姫が慌てて振り返る。
織姫はいつもの笑顔でパンの乗ったトレーを受け取ったが、彼女が笑顔の奥に咄嗟に隠した陰りと瞳に滲んだ光るものを、店長は見逃さなかった。
「…織姫ちゃん。」
「はい?」
「本当に…オレンジの彼には彼女が出来たのかな。本当に、間違いなく?」
「え?」
突然一護の話題を切り出され、織姫が視線を泳がせる。
「…あ…私、仕事中に余所事ばかり考えていて、すみません…。」
上手い言い訳も思いつかず、素直に一護のことを考えていたことを認め、頭を下げる織姫。
それに対し、店長は「そういうことじゃなくて」と首を左右に振った。
「謝ってほしい訳じゃないよ。ただの、純粋な疑問。」
「疑問…?」
「うん。実は、オレンジの彼と君を残して先に帰ったあの夜、忘れ物をしちゃったことに気付いてさ。迷ったんだけど、あのあと店に戻ったんだよね。」
「え?」
「キミはもう帰ったあとで…彼だけが、呆然として店先に立ってた。で、こっちに気づいたら、『井上のこと、よろしくお願いします』って深々と頭を下げて帰っていったんだけど。」
「黒崎…くん…。」
「彼、まるで飼い主に捨てられた犬みたいな目をしててさ。少なくとも、『彼女ができて充実してます』って感じじゃなかったんだよねぇ。」
「………。」
「ま、いっか。とりあえず仕事仕事!織姫ちゃん、クロワッサンとメロンパンを店頭に出して、レジの応援に入ってくれる?」
「はい!……あ。」
パンの乗ったトレーを手に、店に出ようとした織姫が、ピタリと動きを止める。
そして、急に視線を彷徨わせ、戸惑い始めた。
「ん?」
そんな織姫の様子に、店長が首を傾げる。
しかし、すぐにピンと来て、背伸びをするとガラス越しに店内を覗いた。
「やっぱり…。」
店の片隅に、背の高いオレンジ色。
ついさっきまで話題に上がっていた青年が、久しぶりに店を訪れたのだ。
「前々から思ってたけど、どうして織姫ちゃんって彼が来てるってのが店を覗かずに分かるの?超能力?」
「え?えーと…。」
霊圧探知が得意でして…とは言えず、笑ってごまかすしかない織姫。
そんな織姫の背中を、店長がポンと押した。
「さ、せっかくの焼きたてが冷めちゃうよ。すぐにパンを店頭に出して、接客に入って。」
「…でも…。」
「これは業務命令。もう彼から逃げなくちゃいけない理由はないはずだよ?」
「…は…い…。」
強い口調でそう告げる店長に、織姫が覚悟を決めたように頷く。
織姫には、解っていた。
昔から、店長はとても優しくて…でも決して自分を甘やかしたりはしない。
いつだって店員として、そして1人の社会人として、自分を育てようとしてくれた。
だから、店長が店に出るように告げたのも、逃げてばかりの自分を思ってのことなのだ…と。
織姫は大きく息を吸い込んで、パンの乗ったトレーに手をかけた。
「クロワッサンとメロンパン、焼き上がりました~!」
看板娘がトレーに乗せてきた焼きたてパンの香りに、店内の客がわあっと振り返る。
そして、織姫が店先にクロワッサンとメロンパンを並べれば、早速あちこちからトングが伸びてきて。それらのパンをトレーに乗せた客でレジにはあっという間に長い列ができ、織姫は急いでレジ係のバイトの高校生の応援に入った。
「お待たせしました!次の方、どうぞ!」
目の前の客に笑顔を見せながらも、織姫は目の端で店内のオレンジ色を探す。
(黒崎…くん…。)
応対する客の向こう、店の隅に立つ一護。
彼がどんな表情しているのか見るのが怖くて、織姫は一瞬だけ一護を視界に入れたあと、慌ててレジに視線を戻した。
別れを告げてからはじめて見る、一護の姿。
織姫の胸が、きゅうぅっ…と締め付けられる。
やがて、一護が店の隅からゆっくりと移動し、何も持たないまま列の最後尾に並んだのが織姫の目に映った。
「ありがとうございました!次のお客様どうぞ!」
精一杯、明るく振る舞って。
けれど、レジのキーを叩く指先の震えが止まらない。
客の応対を1人、また1人…と終える度、こちらに近付く一護。
今すぐここから逃げ出したい気持ちと、それでもやっぱり一護に会えて嬉しい気持ちが、織姫の中で激しく交錯する。
「ありがとうございました!…つ、次の方…どうぞ…。」
クロワッサンを大量に買った客が去り、遂に織姫の前に一護が立った。
ドクドクと激しく音を立てる、織姫の鼓動。
織姫は一護に目を合わせることが出来ず、彼の手を見つめた。
「け、ケーキのご注文はお決まりですか…?」
レジは、ケーキのショーケースのすぐ横にあり、パンの会計とケーキの会計を兼ねている。
だから、一護がパンを持たずにレジに並んだということは、ケーキを買いに来たということ。
しかし、織姫が注文は何かと尋ねても、それには答えず一護が黙り込む。
多分、それはほんの数秒で…けれど織姫にはとても長く感じられて。
沈黙に耐えながら一護の注文を待つ織姫の耳に、やがて一護の低い声が響いた。
「…オマエ。」
「え?」
「…俺が欲しいのは…オマエだ、井上。」
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