初めての忘れ物







…その日の夜。

大学の授業、そして鰻屋のバイトをこなした俺は、「先輩」への(勝手な)公約通り、井上の部屋を訪れ、夕飯を一緒に食べていた。

「今日のバイトは何だったの?随分帰りが早かったけど…。」
「あ?ああ、今日は中学生の家庭教師。だから、2時間だけだったんだ。」
「そっかぁ!鰻屋さん、家庭教師の派遣もやってるんだね!」
「まぁ、普通の家庭教師じゃ手こずるような、ヤンチャなヤツとか限定でな。俺のこの見た目なら、大抵のヤツは大人しく勉強するし。」
「ふふ…黒崎くん優しいし、面倒見がいいから、家庭教師は絶対に向いてるよ!」
「依頼者は俺に優しさや面倒見の良さはあんまり求めてこねぇけどな。ビシビシやってくれ、ってそればっかだぜ。」

そんな話をしながら、井上お手製の煮物(よく判らない具も偶に入ってるけど、ちゃんと美味い)を口に運んで。
ざまぁみろ「先輩」…なんて密かに勝ち誇った気分に浸っていれば、ふと箸を止めた井上が、不安げな顔で俺を見上げた。

「…でも、いいの?」
「ん?何が?」
「昨日も今日も、ウチで夕飯食べて…遊子ちゃんと夏梨ちゃん、寂しがったりしてないかな?」
「大丈夫だよ、夕飯いらない時は早めに連絡入れてるし。さすがに今日は家に帰るけどな。」
「うん、帰ってあげて。2日もいなかったら、みんな心配するよ。」

相変わらず、俺や俺の家族への気遣いを欠かさない井上。
今朝だってそうだ、深夜までレポートを書いていた俺を気遣って、俺を起こさないように…って、静かに部屋を出ていったんだ。
自分だって、深夜まで起きてた癖に。

「分かった。…けど、な?」
「うん?」
「俺を気遣ってくれるのは嬉しいよ。だけど、それでせっかく書いたポスターを忘れていったら、意味ねぇだろ?」
「あはは…そっすね。」
「どうせ、俺が起きたときに困らねぇようにって、パンやらスープやらウタマロやら用意してるうちに、ポスターのことが頭から抜けちまったんだろ?」
「うう…ご名答っす。面目ない。」

肩を竦めて申し訳なさそうな顔をする井上の頭をに、ポンと手を乗せて。

そのまま、わしわしと撫でてやるのは、決して怒っている訳じゃねぇよっていう俺なりの表現。

俺を気遣ってくれるところも、気遣いすぎて大事なことを忘れちまうとこも、井上らしくて俺は好きだけどさ。

「だから、これからはちゃんと俺を朝起こせ。」
「え?」
「寝不足だって構わねぇよ。俺が頑丈にできてるのは知ってるだろ?そもそも、寝不足はお互い様じゃねぇか。」
「でも…。」
「今朝、思ったんだ。せっかく一緒に寝たのに、朝起きたら隣にオマエがいないって、やっぱり物足りないな…って。」
「黒崎くん…。」
「今まで、朝起きたらいつもオマエがいたからさ。それって、すげぇ幸せなことだったんだな、って改めて思ったんだ。」

井上は、俺の言葉に薄茶の瞳を見開いて。
そして、じわり…と涙を滲ませた。

「一緒に寝たなら、次の日の朝には『おはよう』って、ちゃんと挨拶しようぜ。」
「うん…。」
「忘れるなよ。ポスターよりもずっと大事な約束だからな。」
「うん…。」

ぐしぐしと、涙を拭う井上を抱き寄せて。
ああ、こうして少しずつ俺達の間に幸福なルールが増えていくんだな…なんて、ぼんやりと考えてみた。






「あ、そう言えば黒崎くん、ボディーソープの詰め替え、まだストックあったよ?」
「あ?そうだったか?」
「あはは、黒崎くんの目は節穴ですなぁ。」
「ばぁか。見せつけただけだっての。」
「へ?」
「何でもねぇよ。」





(2018.05.28)
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