初めての忘れ物






「…起こしてくれれば良かったのに。」

ウタマロの頭を、UFOキャッチャーのように掴み上げて。
多分、自分の代わりにコイツを枕元に置いていったんだろうな…なんて思いながら、その丸い目を覗き込む。

「こいつじゃオマエの代わりにはならねぇっての、井上。」

小さく鳴らした舌打ちは、俺を気遣い、そっとベッドを出て行った井上に気づけなかった自分に対して。
それに、眠る時には確かに手の中にあった温もりが、一夜にしてタコのぬいぐるみに代わっていたんだから、そりゃ不満の一つも抱くってもんだ。

「…とりあえず、起きるか。」

それでも、ウタマロに八つ当たりしたって仕方ないって、分かっているから。
俺はベッドから抜け出ると、まず井上の部屋のシャワーを借り、そのあと座卓の上にあったマグカップにインスタントのスープを入れ、井上の店の廃棄パン(って言うとアイツは相変わらず口をとがらせて「もうっ」とか言うけど)を口に運ぶ。

付き合う中で少しずつ分かってきた、井上の部屋の「勝手」。

どっちのタンクがシャンプーで、どっちがボディーソープかとか、シャワーを適温にするコツとか。
インスタントのスープのストック場所とか、ゴミの分別とか。

こうして、井上の部屋の勝手を少しずつ覚えていくうちに、いつの間にか俺がここにいることが当たり前になったりするのかな…なんて考えたら、何だか気恥ずかしくなって。誰が見てる訳でもないのに、思わず口元を手で覆う。

「…やべ…。」

照れくさい気持ちごと、残りのパンを口に突っ込み、スープをぐっと飲み干して。
顔の火照りを持て余した俺が、部屋のあちこちに視線を彷徨わせれば。

「…あれ?」

部屋の隅に、折り目がつかないようにゆるく折り畳んで置かれた見覚えのある紙。
まさかの「忘れ物」に、愕然とする。

「ちょっと待てよ…これ忘れてくか?」

手を伸ばしひらりと広げれば、それは確かに、昨日井上が睡眠時間を削ってまで仕上げた、あのポスターだった…。











「…どうすっかな…。」

とりあえず、井上の書いたポスターを片手に「ABCookies」までやってきた俺。
店を覗けば、ガラス越しに忙しく動く数人の人影が見える。
勿論、その中には見慣れた胡桃色の人影もあって。

「うーん…。」

思わず、小さく唸る。

店にズカズカと入って、このポスターを井上に手渡すことは簡単だ。

…けれど、井上が昨日持ち帰ったポスターを、今日俺が届ける…ということは、つまり俺と井上は昨夜一緒に過ごしていました…と言っているようなモノ。

井上は、「夕べは彼氏と一緒だったんです~」なんて職場で言いふらすタイプじゃない。

俺がこのポスターを届けることで、かえって井上に迷惑をかけるんじゃねぇか…なんて考えが、ちらりと頭の片隅をよぎる。
けれど。
「このポスター、絶対に今日必要だよな…。」

ポスターの中身は、今日から始まるセールのお知らせ。
そこには「今だけお得!是非ご賞味ください!」の文字。
どう考えても、今日張り出すべきポスターだ。

それに、せっかく井上が深夜まで頑張ったのに、今日張り出さないなんて…。

「…あ!」

店の様子を伺いながら悩んでいた、その時。
井上らしき人物を残し、他の人影が店の奥に消えていくのを俺の目が捉える。

「よし、チャンスだ!」

今しかない。
俺は小走りで店に駆け寄り、けれどなるべく静かにドアを開けた。

「いらっしゃいませ~…あ!」

チリン…と控え目に鳴ったベルの音に、笑顔で振り返った井上の顔が、ぽんっ…と赤くなる。

つられて顔が熱くなるのを感じながら、俺はレジにいる井上に緩く丸めたポスターをぶっきらぼうに差し出した。

「…これ、忘れ物。」
「あ、ありがとう…。」
「つか、あんなに頑張って書いたのに、忘れていくなよ。」
「う、うん、ごめんね。」

井上もまた赤い顔で、俯きがちにポスターを受け取る。

それきり、途切れる会話。

照れくさいような、くすぐったいような、甘酸っぱいような…何とも言えない感覚に、しばらく押し黙るしかない俺と井上。

…よく考えたら、「彼氏」として俺が井上の店を訪れるのは初めてなんだ。

付き合う前は、井上に会う口実欲しさによくパンやケーキを買いにきたけど、今はいつでも井上に会えるし。
それに、この店のパンはわざわざ買わなくても、井上からしょっちゅう廃棄パンをもらえる(事実、今日も朝飯で食ってる)。

だから、付き合いだしてからは「ABCookies」に来る必要性がなくなっちまったんだよな…。
「えーと…じ、じゃあな。仕事、頑張れよ。」
「う、うん。黒崎くんは今から大学?」
「おう。ちょっと早いけど、大学の図書館でレポートの仕上げでもするよ。」
「そ、そっか。」

久しぶりに見る、井上の制服姿。
職業柄、仕事中は髪をいつも結んでいる井上。
今日は髪を2つに分けて、緩く三つ編みにしていて。

…新鮮というか…うん、俺の彼女はやっぱり可愛い…。

「織姫ちゃん、さっきの発注書だけど……おや?」
「あ、て、店長!」
「…げ。」

しまった、井上の制服×三つ編み姿に見とれている場合じゃなかった…なんて後悔も、既に時遅し。
せっかく誰もいないタイミングを見計らったのに、店の奥からひょこっと顔を出した店長さんと俺の目が、バチっと合ってしまった。

「いらっしゃいませ。」
「…あ、えっと、どうも…。」

やべ、見つかっちまった…けど、今更逃げ出すみたいに店を出るのも不自然だよな?…なんて考えて、思わず言葉に詰まってしまう俺。

そんな俺に対し、店長さんは店の奥から出てくると、井上の手にあるポスターへと視線を移し、そこから井上の顔、そして俺の顔…とぐるりと見回して。
そして、にっこりと笑うと突然ぺこりとお辞儀をした。

「ウチの織姫ちゃんが、お世話になってます。」
「や…俺の方こそ、ウチの井上が世話になってます…。」

俺も思わず、頭を下げる。
…やべ、つられて「ウチの井上」とか言っちまった。

俺が前髪の隙間からちらりと様子をうかがえば、そこにはやっぱり顔を真っ赤にした井上が立っていた…。



.
2/4ページ
スキ