初めてのワガママ
「ただいま~。」
「おかえり。」
夜、8時30分過ぎ。
井上の部屋に2人で帰宅。
誰もいない部屋のドアを開けながら「ただいま」と言う井上に俺がすぐ隣で答えれば、彼女はきょとんとして俺を見上げて。
「黒崎くんも、今帰ったところだよ?」
「けど、『ただいま』と『おかえり』はちゃんと言う約束だろ?」
そして俺の台詞に、ふわりと笑顔を浮かべた。
《初めてのワガママ》
「今日の映画、楽しかったね!」
「ああ、そうだな。」
「それに、あのお店もすっごく良かった!」
「ああ、美味かったな。」
なかなか休みが合わないこともあり、付き合い始めてからずっと、井上の部屋で夕食を食べてまったり…というインドアデートばかりだった俺達。
今更…と言われてしまいそうだが、今日初めて、仕事を終えた井上と夕方に待ち合わせ、映画を見た後にイタ飯屋で夕食…という鉄板デートをした。
きっかけは、ちょっと前に水色からもらったメール。
「井上さんと上手くいってる?」なんて文面に、まぁこんな感じだ…って現状を返信したら、「あり得ないね」とバッサリ切られた。
「一護はそれでいいかもしれないけど、井上さんはどうかなぁ」「もっと色んなところへ連れて行ってあげないと、すぐにマンネリ化しちゃうよ」「結婚して子供ができたら、気軽に出かけられなくなるよ」…等々、説教及び気の早すぎるアドバイスに焦った俺は、初めて井上を所謂「デートらしいデート」に誘ったのだ。
よく考えてみりゃ、井上とは高校1年からの長い付き合いだけど、今まで一緒に出かけた場所なんて、尸魂界だの虚圏だの、非常識すぎる場所ばかりだったもんなぁ…なんて反省の気持ちも込めてデートに誘えば、そりゃあ井上は喜んでくれて。
ありきたりなデートコースだったけど、お互いが初カレ初カノな俺達には、何もかもが新鮮だった。
街中での待ち合わせにバカみたいに緊張したり、2人で映画を見て同じところで笑ったり驚いたり。
井上の店の店長オススメのイタ飯屋はバイキングが充実していて、俺も井上も大満足だった。
帰り道、「幸せだね」なんて言葉を何度も繰り返してはしゃぐ井上に俺も嬉しくなって、つい調子に乗りたくなって。
いいだろ、こんな可愛いコが俺の彼女なんだぜ…って、思い切って俺が井上の小さい手を握れば、井上はぴょんっ…とうさぎみたいに跳ねたあと、きゅうっ…と細い指に力を込めて握り返してくれた。
ちらり…と隣を見下ろせば、はにかんだ笑顔で伺うように俺を見上げる井上。
ああもう、可愛いやら、照れくさいやら、自慢したいやら…身体中を駆け巡る甘酸っぱい感情に、にやけそうな顔を必死でこらえながら、俺は冬の星座が煌めく街中を井上のマンションまで歩いたのだった。
…けれど、そんな充実したデートにも、問題が1つ。
「ねぇ黒崎くん。コーヒーがいい?それとも…ひゃあっ!」
俺に飲み物を出そうと、キッチンへ行こうとする井上の腕を取り、抱き寄せる。
驚いて目を見開いたままの井上を腕の中に閉じ込めて、ラグの上に腰を下ろした。
「黒崎…くん…。」
俺の意図を汲み取ったのだろう、すぐに力を抜き、俺に身体を委ねる井上。
「コーヒーはイタ飯屋で飲んできたからいらねぇよ。それより…。」
「うん…。もう、8時30分過ぎてるもんね…。」
初めての映画とイタ飯屋デートは、そりゃあ楽しかった。
けど、外にいたら、できるのはせいぜい手を繋ぐぐらい。
井上の身体の柔らかさを知ってしまった俺が、もう指先だけの触れ合いで満足できる訳もなくて…。
「あと…15分ぐらいかな。」
「いいんだよ。ちょっとぐらい遅くなったって。」
井上の部屋に入るなり、ソッコーで抱きしめちまう俺も大概だとは思う。
けど、悲しいかな、俺と井上の交際を制限する、デカい壁。
「だめだよ、ちゃんと門限は守らなくちゃ。」
「………。」
それは…大学生だというのにもうけられている、午後9時の門限。
「あり得ねぇだろ、21歳の男に夜9時の門限て…。」
「仕方ないよ。だって、遊子ちゃんも夏梨ちゃんも黒崎くんが大好きなんだもん。家にいて欲しいんだよ。」
「アイツらだってもう十分デカくなったぜ?親父もいるんだし…。」
そうぼやく間にも、タイムリミットは刻々と迫る。家まで走って帰るとしても、8時50分にはここを出なければいけない。
いっそ、井上が「もっと一緒にいたい」とかワガママを言ってくれたなら、俺は喜んで門限なんざぶち破ってやるのに。
「あ…もう8時45分だね。黒崎くん、そろそろ帰らなきゃ。」
「あ、ああ…。」
これまた、井上は律儀に俺に門限を守らせようとするんだよなぁ…。
「遊子ちゃん達が心配しちゃうから、ね。」
「だから、俺はもう21歳だって…。」
渋る俺とは対照的に、にっこりと笑って身体を離す井上。
ああ、もっと触れ合っていたい…そう思ってるのは、俺だけなんだろうか。
できることなら、門限なんて無視して井上とずっと一緒にいたいのに、井上は今のままで十分満足してるってことなんだろうか。
…もしかして俺、がっつきすぎてるとか?
そんな不安が脳裏をよぎり、結局俺も強くはでられなくて。
「じゃあな、井上。」
「うん、もう遅いから気をつけてね。」
「だから、俺は21の男だって…。てか、井上は俺がそこらの野郎に襲われたとして、負けると思ってんのか?」
「あはは、負けないね。」
見送ってくれる井上を、玄関先で最後にもう一度抱きしめて、そのまま唇を井上のそれに押し当てる。
「じゃあな。」
「うん。おやすみなさい、黒崎くん。」
「おう、おやすみ。」
本当は、全然井上が「足りてない」んだけど、仕方ない。
俺は井上の部屋をあとにして、9時に家に到着するために夜の道を全力で走った。
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