初めての男料理








…翌日の夕方。

俺は、井上のマンションの部屋の前にいた。

右手には、部屋の合い鍵。
左手には、大学からの帰り道、スーパーに寄って買ってきた食材。

夕陽の淡いオレンジ色に染まる部屋のドアと向き合い、こくり…と喉を鳴らす。

「アホか、俺…。」

付き合う前から、散々通い慣れた井上の部屋なのに。
合い鍵を使って入る…その行為にやたら緊張している自分に、思わず自嘲の声を漏らして。
俺は大きく深呼吸をすると、合い鍵をそっと鍵穴に差し入れた。

カチャリ…鍵が回り、ロックが外れる音。

「お邪魔しま~す…。」

部屋には誰もいないと知りながら、一応小声で挨拶をしてドアを開け、綺麗に片付けられた井上の部屋へと足を踏み入れる。

「……。」

不思議な感覚だった。

いつもなら、「いらっしゃい、黒崎くん!」と俺の名前を呼んで駆け寄ってきてくれる井上がいない…そのことが少し寂しくて。
けれど、主のいないこの部屋に入ることができるのは俺だけ…そんな優越感もまた、確かに存在して。
ああ、俺は井上の彼氏なんだ、特別なんだな…なんて、今更のように実感したりした。

「さて、と…。」

買ってきた食材をテーブルの上に置き、時計を見る。
今日の井上の仕事終了予定時間まで、あと1時間。
遊子なら30分ぐらいあればできるメニューだけど、俺の場合はそうもいかない。

「やるか。」
井上には、「合い鍵使って、オマエの部屋で待ってるから」とだけ、メールで知らせてある。

もし俺が柄にもなく夕食なんぞ作って待っていたら、アイツはどんな顔をするだろう。

「わぁ、黒崎くんすごい!ありがとう!」なんて言いながら、あの大きな目をキラキラ輝かせるだろうか。
それとも、感激して言葉に詰まって、目を潤ませたりするだろうか…。

思わず緩む口元。

テーブルに並ぶ夕食を満面の笑みで口に運ぶ井上を脳裏に思い描きながら、俺はキッチンに立った。









井上のキッチンの調理器具を勝手に拝借し、肉じゃがを作る。
具材を切って炒めるところまではそれなりにスムーズだったが、問題は味付け。
とりあえず遊子がやっていたようにだし汁に砂糖に酒、醤油を入れて、煮汁を一啜りしてみる。

「…薄。」

明らかに、薄い。
何が足りないんだろう。
醤油か、砂糖か、両方か?

「……。」

しばし悩んだ挙げ句、砂糖を追加。

「…甘。」

そして、甘すぎるのも…と思い、今度は醤油を足す。

「…やべ、味濃すぎた。」

慌てて、水を足す。

「うーん…こ、これぐらい…か?」

予定していたより、かなり煮汁の多い肉じゃがになってしまったが、仕方ない。
更に、ちゃんと切ったつもりなのに、改めて見れば人参もジャガイモも、遊子が作る肉じゃがに比べてかなりデカい気がする。

「…ま、まぁ…男の料理って感じがして、悪くはない…かな…。」
そもそも、人生で初めてマトモに料理をしたんだ、遊子みたいに上手くいく訳ないんだし。

俺は自分を言いくるめるようにそう呟き、肉じゃがを煮込みながら、味噌汁とマカロニサラダを作り始めた…。












「…うし!何とか間に合った!」

全ての支度や片付けを終え、部屋の掛け時計を見上げる。
井上の帰宅予定時間、5分前。

俺は、我ながらよくやった…と自画自賛すると同時に、いつも家事を一手に引き受けてくれている遊子に心の底から感謝した。
本当に、小学生の頃から毎日こんなことしてたなんて、すげぇよ…。




ピンポーン。





そんなことを考えていれば、ふいに部屋に響くチャイムの音。
時計の針は、井上の帰宅予定時間ぴったりを指している。

「おっ。来たか。」

自分の部屋に入るのにチャイムを鳴らすなんて、律儀なヤツだな…なんて思いながら、小走りでドアに向かう。

何て言って出迎えようか。
「お疲れ」とか「よう」とか、「上がってるぜ」とか…どんな言葉がいちばん格好がつくんだろう、なんてちょっと考えて。



ああ…でも、違うか。

多分井上が欲しいのは、格好良い言葉なんかじゃなくて、きっと。




ドアノブに手をかけ、ドアをゆっくり開く。
その向こうにいるのは、自分の部屋だというのに何故か少し緊張した面持ちの井上。

「…おかえり。」
俺がそう言えば、井上はちょっとびっくりしたような顔をして。
そして、ふにゃり…と眉尻を下げて、泣きそうに笑った。

「…ただいま…。」
「な、何泣きそうになってんだよ?」

予想外の反応に俺が慌てれば、井上がついにポロポロと涙をこぼし始める。

「ふぇ…だって…本当に黒崎くんがいるって思って…。私…家に帰って『ただいま』って言うの…多分初めてなんだもん…。」

…何だよ。
俺の肉じゃが見る前に、もう感激して泣いてんじゃねぇかよ。

…けど…。



想定外の展開に、膨らむ愛しさ。
俺は井上の手を取り、中へ引き入れると同時にその華奢な身体を抱きしめた。

「これから…いくらでも『ただいま』言わせてやるよ。」
「うん…。」
「だから、これから俺がオマエの部屋に来たときは『おかえり』って言ってくれよ?」
「うん…。」

俺の腕の中、すりっ…と子猫のように甘えてくる井上。

ああ、こんなに井上が喜んでくれるなら、もっと早くに合い鍵をもらっておけば良かったな…何て思いながら、俺は井上と玄関先でしばらく抱き合っていた。










「ねぇ…黒崎くん、何かすごくいい匂いがする…。」

やがて。
今度は子犬のように、井上が鼻をくんくんとさせた。

「気付いたか?」
「え?」
「来いよ、俺なりに頑張ったから。」
「え?え?」

俺は井上の手を引き、ダイニングテーブルへと連れて行く。

なぁ、さっきは嬉し泣きさせちまったけど…今度はとびきりの笑顔を見せてくれるかな。










「ぶわぁぁ~美味しいぃぃぃ~!!」
「はは、ありがとな井上。」



(やっぱり嬉し泣きだったか)





(2017.08.05)
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