付き合いかけたって何なんだ
「…ね、ねぇ、黒崎くん。今日はもう遅いし、あたし今夜はシャワーだけにしようと思ってたんだけど…黒崎くんもいるなら、湯船にお湯張ろうかな?」
家族にLINEを送った俺に、井上がそう提案する。
俺にシャワーも貸してくれるつもりらしい井上に、素直に感謝…なんてのは大嘘で。
真っ先に頭に浮かんだのは、気持ち良さそうに湯船につかる井上の姿(いや、見たことねぇけど)。
井上が浸かったあとの湯船に俺が浸かるのを想像するだけで、酒で既にのぼせかけた脳ミソが完全にゆだっちまいそうだった。
「い、いや、俺もシャワーでいいよ。酒入ってるし。」
「そ、そっか。じゃあそうするね。」
「お、おう…。」
「えっと…じゃあ、あたし先にシャワー浴びるね!早くしないと、寝るのが遅くなっちゃうし。」
「あ、あ~…じゃあ俺は、コンビニ行ってくるな。」
そうか、井上の部屋に泊まるってのは、こういうことなのか…と、今更思い知る。
井上のシャワーの音なんて聞いたら、間違いなく色々妄想しちまうじゃねぇか。
俺は井上に見送られ、部屋を飛び出した。
そして、近くのコンビニに走ると、下着や歯ブラシなど必要最低限のものをなるべく時間をかけてゆっくりと購入し、さして興味もない雑誌の立ち読みなんかしたりして。
井上がシャワーを浴び終えた頃合いを見計らって部屋に戻る。
「おかえりなさい、黒崎くん。遅かったね。欲しいもの、あった?」
「お、おう。必要な物は、取り合えず買えた…。」
俺を出迎えてくれた井上からほのかに漂う、柑橘系に似た香り。
多分、ボディソープの香りなんだろうけど、井上から香ると一層甘さが引き立つっつーか…。
「良かったら、黒崎くんもシャワー浴びて?」
「あ、ああ。ありがとな。」
くそ、どうして井上はこんなに「いつも通り」でいられるんだ?
俺ばっかり、こんなにモヤモヤソワソワして…そりゃ、俺と井上はまだ正式に「付き合って」はいねぇんだし、今夜もただ「泊まる」だけで。
何も期待しちゃいけないって、解っちゃいるつもりだけど…。
「…じゃあ、シャワー借りるな。」
「はい!タオル、出しておいたから。シャンプーやボディソープは自由に使ってね!」
にこやかな笑顔の井上に見送られ、井上の部屋の浴室を借りる。
ああ、ここでついさっきまで井上がシャワーを浴びてたのか…なんて。
ほら見ろ、またすぐそんなこと考えて、脳ミソがおかしくなっちまうじゃねぇか。
俺は真っ先にシャワーを頭から浴びたけど、俺のヤマシイ気持ちはちっとも流れてはくれなかった…。
「さて…と。」
「う、うん…。」
深夜1時過ぎ。
歯磨きも終えて、もうすることは「寝る」以外になくなった俺と井上。
「じゃあ、俺はその辺でゴロ寝させてもらうから…。」
「え?ダメだよ黒崎くん、風邪ひいちゃうよ!お客さんなんだもん、あたしのベッドを使って。」
「そんな訳行くかよ。部屋の主のオマエがベッドを使うに決まってるだろ。」
「でも、うちは余分な毛布もお布団もないし。あたしなら、自分の服を厚着すればいいから…。」
どちらがベッドを使うのか、意見を出しあうも決着はつかなくて。
俺はともかく、明日も仕事の井上は、ちゃんと寝なくちゃいけないのに、刻々と時計の針だけが動いていく。
けど…本当は、解ってるんだ。
頭の片隅にずっとある、もう1つの選択肢。
俺達が「カレカノ」だったなら、迷わずに選ぶことができて、どちらも床で寝ずに済む方法。
…けど、それを俺から提案するなんて、「何もしない」と言い切った手前、絶対にできなくて。
「ああ、もう!しょうがねぇな!実力行使だ!」
「へ?ひゃあっ!」
どうしたって、井上にはベッドで寝てもらわなきゃいけない。
俺は、隣に座る井上をおもむろに抱き上げると、そのままベッドまで強制連行。
そして、井上をベッドに下ろすと、彼女が起き上がって来ないように両手首を押さえつけた。
「いいか、このまま井上はベッドで寝るんだ。」
「く、黒崎…くん…。」
俺の予想に反し、全く抵抗しない井上と、ようやく観念したか…と安堵する俺。
けれど…あれ、何か空気がおかしい。
俺を見上げる井上の顔は、真っ赤。
そして、彼女の潤んだ大きな瞳には、戸惑いと恥じらいの色…。
「…はっ!ま、待ってくれ!違う、俺はそんなつもりじゃ…!」
そこで、俺はようやく自分のしでかしたことに気がつき、慌てて井上の手を離した。
これじゃ俺、井上をベッドに押し倒したのと同じじゃねぇか!
「…大丈夫だよ、黒崎くん。」
焦る俺の目の前で、井上がゆっくりとベッドから起き上がる。
どうやら、怒ったり泣いたりはしてねぇみたいだけど…。
しばらくの、沈黙。
黙ったまま井上の様子を伺うしかない俺の耳に、やがて彼女がぽつり…と呟く声が聞こえた。
「…あのね、黒崎くん。」
「お、おう。」
「あたしね…本当はね、ずっとドキドキしてて…嬉しかったんだ。」
「…へ?」
俯いたままの井上の表情は、解らない。
でも、彼女が精一杯の勇気を振り絞っていることは、痛いほどに伝わった。
「ごめんね。黒崎くんが家の鍵を忘れちゃって、困ってるのに…今夜は黒崎くんとずっと一緒にいられるんだって思ったら…嬉しくて…。」
「井上…。」
「黒崎くんの就活と卒論が終わるまで、お付き合いは保留にしようって言い出したのはあたしなのに。ダメだよね、本当…。」
そう言って、眉を八の字にして、泣きそうな笑顔で俺を見上げる井上。
真面目な井上は、きっと罪悪感に苛まれているんだろう。
…だったら…。
「…ダメじゃ、ねぇよ。」
「黒崎くん…。」
「俺も、井上と同じだ。今夜は井上と一緒にいられるんだって、嬉しかった。まだ正式な彼氏でもねぇのに、さ。」
俺がそう告げれば、井上が驚いたように目を丸くする。
俺だって、同じだよ。
罪の意識を頭の片隅に抱えながら、結局はこの状況を喜んでいるんだ。
…むしろ、この背徳感が、俺と井上の絆を強めている気すらして…。
「なぁ…今だけ、カレカノになってもいいか?」
ギシッ…。
二人分の体重に、ベッドが鈍い音を立てる。
俺もまたベッドに乗り、井上を真っ直ぐに見つめれば、井上は真っ赤な顔で、ふわり…と、まるで花が開くような笑顔を浮かべた。
「…はい…。」
どちらからともなく手を伸ばし、二人抱き合ってベッドに沈む。
井上が苦しくないように、加減しながら抱き締めれば、井上は甘えるようにすりっ…と胸板に顔を擦り付けてきた。
「…幸せ…。」
「…俺も。」
「本当に?」
「ホント。」
ごくごく、短い単語だけで交わされる会話。
でも…大切なことは、ちゃんと伝わるんだ。
それはきっと、言葉だけじゃなくて、こうして身体が触れ合って…お互いの体温とか、鼓動とか、空気とか…いろんなものを共有しているからなんだろう。
「酒臭くて、ゴメンな。」
「ううん、全然気にならないよ。」
「けど…こうしてるのは、酒の勢いとかじゃねぇからな。」
「うん…。」
ベッドの中で、ひたすらに抱き合って、触れ合って。
井上の両頬に手を添えて、「これ以上のことはしないから」なんて言い訳みたいな誓いを立てて、口付けて。
相談した訳じゃねぇけど、今夜は多分、このままこうして一緒に眠るんだろう。
仕事で疲れている井上が眠るのが先か、酒が入ってる俺が眠るのが先か、解らないけど…。
「明日も仕事だろ?…おやすみ、井上。」
「おやすみなさい、黒崎くん。」
「でも…ダメだな、全然眠気こねぇや。」
「あはは…あたしも。ドキドキしすぎて、目が冴えちゃった…。」
そんな会話を交わしては、また抱き合って、キスして…。
結局、どちらが先に寝落ちたのか、何時に眠ったのか、どうやって眠ったのか、そもそもちゃんと寝たのか…お互いに何も解らないまま、気付けば朝を迎えていた…。
…翌日。
井上と一緒に彼女の部屋を出た俺は、出勤する彼女と一緒に、分かれ道まで歩いた。
外の冷えた空気は爽やかで、まだ少し火照っている身体に心地よく感じる。
「じゃあ、お仕事行ってきます!黒崎くんは、今日はどうするの?」
遂に辿り着いてしまった分かれ道で尋ねてくる井上に、俺は少し考えてから答えた。
「取り合えず家に帰るけど…今日中に昨日の店に連絡取って、ジャケットもらいに行かなくちゃな。」
「そっかぁ。でも、黒崎くんがジャケットを忘れるなんて、珍しいミスだよね。酔ってたからかな?」
「…あ~。」
井上の言葉に、俺は頭をガリッとかく。
ジャケットを忘れた理由は、酒のせいじゃなくて。
「実は…昨日、店出る時…井上に電話することで頭がいっぱいでさ。ぶっちゃけジャケットのことなんて、頭の片隅にもなかったんだ。」
「…黒崎…くん…。」
俺は井上が思うほど、完璧でも、クールでもない。
けど、そのお蔭で昨夜は井上と過ごせたんだから、それもまた悪くないんだと思う。
「じゃあな、井上。」
「あっ、あのね、黒崎くん!」
とは言え、今更妙に恥ずかしくなって、俺が軽く手を上げて別れの挨拶を告げれば、井上が慌てたように俺を呼び止める。
「…何だ?」
井上は俺の服の裾をきゅっと掴むと、紅い顔で上目使いに俺を見上げ、小さな小さな声で。
「…また鍵忘れちゃっても…いいからね?」
…そう、恥ずかしそうに言った。
(2020.11.29)