付き合いかけたって何なんだ









「黒崎くん…時間、大丈夫?」

俺の隣、遠慮がちに問いかける井上。

彼女がさっきから、何度も部屋のアナログ時計をちらちらと見ているのは知っている。

けれど、俺はそれを敢えてスルーしていた。

「大丈夫だって。今日は遅くなるから先に寝てろって家族には言ってあるし。俺もう大学4年だぜ?」
「そっか…なら、いいの…かな…。」

まだ少し躊躇いがちに…それでも頷いてくれた井上が、2杯目のココアをゆっくりと飲み干す。

そして、こつり…と俺の肩に控え目に頭を預けてくる彼女に、ほら、やっぱりまだ帰れないじゃねぇか…と思う。

夜、11時過ぎ、井上の部屋。

まだ正式な彼氏じゃない俺がここにいることに、ほんの少しの罪悪感を抱きながら。

俺もまた、2杯目のコーヒーを飲み干した。







《guilty》







今日は、大学のゼミ仲間での久しぶりの飲み会だった。

大学生なりに付き合いもあるし、二次会に行くかもしれないから、先に寝てろ…と、家族には伝えてあった。

けれど、その飲み会で一緒の席になったツレは、どうやら最近彼女ができたらしく、酒の勢いも加わって、ひたすらに続くノロケ話。

馴れ初めだの、彼女の可愛いところだの、ドコマデ行っただの…。

そんなのを延々聞かされた俺が行きたくなったのは、二次会ではなく…井上の部屋。





『…黒崎くん。どうしたの?電話なんて珍しいね。』
「ああ…井上は、何してた?」
『あたし?あたしは、今から夕御飯だよ。月末は伝票整理とか忙しくて、どうしても残業になっちゃうんだ。黒崎くんは?』
「俺は、今大学の飲み会が終わったところ。」

一次会終了後、ゼミ仲間の目を盗んで、すぐにスマホをタップ。
基本、お互いの時間を拘束しないよう、LINEやメールでのやり取りが多く、井上の声を聞くのは随分と久しぶりで。
何気ない会話だというのに、俺は気分が一気に高揚する感覚を覚える。

けれど、彼女の声を聞いて、それで満足…なんていく筈もなく、むしろ会いたい想いは膨らんでいく。

「でさ、井上。」
『うん、なぁに?』
「今から、オマエの部屋に行ってもいいか?」
『え?今から?でも…もう遅いよ?』

ついさっきまで仕事をしていて、今からやっと夕飯だ…という彼女を労る気持ちより、こんな夜遅くに女一人暮らしの井上の部屋へ行くという後ろめたさより。

ただただ「井上に会いたい」という気持ちが遥かに上回って、制御できない。

それは、適度に酒が回っているせいなのか、ツレのノロケ話のせいなのか、それとも。

「大丈夫。少しだけだから。家族には、帰りが遅くなるって言ってあるし。」
『…じゃあ、待ってるね。』

ただの自惚れなんだって解っているけど、井上の「待ってる」の声のトーンが、少し上がったような気がして。
俺はスマホをポケットにしまうと、ツレの二次会への誘いをかわし、足早に駅へと向かった。









井上の部屋に着いて、1時間。

俺を笑顔で出迎えてくれた井上と過ごす時間は、残酷なほどにあっという間で。

井上の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、お互いの近況を話したり、時には会話もなく、二人で並んで座っているこの状況に浸ってみたり。

手を少し伸ばせば触れられる距離に、井上がいる…それだけで、穏やかな気持ちになれた。

…けれど。

「黒崎くん…もう…。」
「ああ、解ってる。」

刻々と動く時計の針は、もう11時半を指している。
金曜だから、俺は明日休みだけれど、井上は仕事。
「早出じゃないから大丈夫」と井上は笑ってくれたけれど、さすがに限界だろう。

「もう遅いけど…帰り道、大丈夫?」
「井上、俺は男だぞ。それに万が一誰かに襲われたとして、俺が負けると思うか?」
「…負けないね。」

井上がクスリと笑う。
その笑顔が少し寂しげに見えて、ますます後ろ髪を引かれる俺。

「遊子ちゃん達、起きて待ってたりするのかな。」
「いや、テスト期間でもねぇし、もう寝てるだろ。大丈夫だって、ちゃんと家の鍵も持って……あれ?」

会話の流れで家の鍵のことを思い出した俺は、ハッとした。
そう、家の鍵は確かジャケットのポケットに入れていた筈で…。

「黒崎くん?」
「待てよ、俺、ジャケット…。」
「ジャケットなんて、着てなかったよ?」

可愛らしく小首を傾げる井上を前に、俺の記憶が鮮明に蘇る。
そうだ、飲み会でビールを飲んでるうちに暑くなってきて、ジャケットを脱いで、丸めて、それで座卓の下に入れて…そのまま…。

「…!やべぇ、店に忘れてきた…!」
「ジャケット、忘れてきちゃったの?」
「家の鍵、ジャケットのポケットに入ってるんだ。」
「え…ええっ!」

単にジャケットを忘れてきただけという問題ではないことを知り、井上も声を上げる。

「お店…もう閉まってるよね。」
「そもそも店のある駅までの電車が走ってねぇよ。そりゃ、ジャケット捨てたりはしないだろうけど…。」

焦った俺が家族LINEに「起きてるか?」とメッセージを送るも、返答はなく、既読もつかない。

「玄関でチャイム鳴らしたら、起きてくれるかな?」
「どうかな…。遊子達は2階で寝てるし、1階で寝てる親父は雷鳴っても起きねぇタイプだから…。」
「そ、っか…。」

それきり、しばらくどちらも言葉もなく黙りこむ。

…そう、自分の家に入れない俺が、今夜どこに身を寄せるか…なんて、この状況なら選択肢は1つしかなくて。

けれど、俺がきちんと大学を卒業し就職するまで、カレカノの関係を「保留」にしている俺達にとって、その選択を口にするのは罪の意識が伴う訳で…。

解りきった「答え」をどちらからも言い出せず、向かい合ったまま、無言で俯いていた俺と井上。

けれど、やがて決心したように、井上の手が俺の服の裾を控え目にきゅっ…と掴んだ。

…それが、合図。

「あのね、黒崎くん。もし…良かったら…。」
「井上…俺、何もしねぇから…。」
「うん…。その、お客様用のお布団とかないけど…。」
「構わねぇよ。一晩、過ごす場所があるだけで、十分だ。」

真っ先に浮かんだ言葉が「何もしねぇから」だった俺も、大概だとは思うけど。
俯いたままの井上の、長い髪から覗く耳もまた、真っ赤。

「ごめんな、突然こんなことになって。」

『ごめん』とか言ってる癖に、その言葉には全然謝罪の気持ちがこもっていない。
迷惑かけて『ごめん』より、正式なカレシでもねぇのに『ごめん』より…やべぇ、やっぱり井上と一晩一緒に過ごせる口実ができたことを、内心喜んでいるのが隠せない。

「ううん。謝らないで。黒崎くんなら…大丈夫だから…。」

一体何がどう「大丈夫」なのか、突っ込んで詳しく聞き出したかったけれど。
俺はそれをぐっと我慢し、「ありがとな」と短く礼を述べて。

そして家族LINEに、「色々あって、ツレの家に泊めてもらうことになった」とメッセージを打ち込んだ。

勿論、既読はつかなくて。
多分俺は、そのことにホッとしていた…。



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