なんで






「もう…いい。もう大丈夫だから、チャド…。」
「…そうか…。」

織姫と石田が去っていった後、一護が力なくそう告げたのを聞き、チャドはようやく一護の腕を解放した。
支えを失った一護の腕が、だらりと力なく落ちる。

「なぁ、チャド…。井上は、なんであんなに簡単に『諦める』なんて言うのかな。アイツにとって、俺は『その程度』なのか…?」

自分の掌をじっと見つめながら、そう呟く一護。
確かに、夕べ自分はこの手で織姫を抱き、結ばれた筈だ。
そして、あの奥手で純粋で、いつまでも少女のような無邪気さをもったままの織姫が、その全てを自分に委ねてくれたのは、彼女が自分と共に歩く未来を心に描いてくれたからだ…と信じていた。

少なくとも自分は、そのつもりで織姫を抱いたのだから。

…それなのに、織姫の口からあんなにも簡単に『諦める』という言葉が出たことが、あまりにもショックだった。

夕べ、想いを告げたことも、初めて肌を重ねたことも、自分にとっては一生忘れられない、奇跡のような出来事だったのに。
織姫にとっては、そんなにも軽いものだったのか…と…。

「それは違う、一護。」

しかし、チャドは一護の疑問をきっぱりと否定してみせた。

「俺は井上と一緒にお前の背中を追いかけていた。だから、よく知っている。井上が、お前のことをどれだけ強く想っていたか。井上ほど、お前のことを愛せる奴はいない。」
「じゃあなんで、あんなに簡単に『諦める』なんて…!」

納得できないとばかりに一護が顔を上げ、チャドを睨む。
チャドは、一護と織姫、双方の気持ちが理解できるが故に困惑し、それでも言葉を続けた。

「ム…井上は、自分が幸せなら他人はどうでもいい…と割り切れるような性格じゃない。あの虚の群れを目の当たりにして、自分が身を引けば丸く収まると考えたんだろう…恐らくな。」

一護が、再び視線を落とし黙り込む。

長い片想いの時期を経て、ようやく「仲間」から「恋人同士」になり、これから二人で平凡でも穏やかな未来へと歩いていく筈だった。
その未来を、自らの手で断ち切って…それで、どうなるというのか。

「そんなの…何の解決にもなってねぇじゃねぇか。」
「…そうだな。」

例え大量の虚が押し寄せることはなくなっても、それが一護と織姫の破局の元にしか成り立たないのでは、チャドとて納得できる筈がない。
かと言って、これといった解決策が浮かぶ訳でもなく…。

「…やべぇ、俺もそろそろ大学に行かねぇと。」
「ああ。」

重い沈黙がしばらく続いた後、一護がくしゃり…と髪を掴み、頭を振る。
そして、挨拶がわりに軽く手を上げ、空中に舞い上がったところで、チャドは空に向かって思わず叫んでいた。

「…一護!」

覇気のない眼差しで見下ろしてくる死覇装姿の親友に、チャドは必死で言葉をぶつけた。

「俺には何の解決策も思いつかないが、虚退治になら、いくらでも付き合ってやる。だから…諦めるなよ!」
「…ありがとな、チャド。」

一護はほんの僅か、唇の端に笑みを浮かべると、青空に溶けるようにその姿を消した。




一護の身体は、織姫の部屋のベッドの上にあった。

身体に戻った一護がゆっくりと身体を起こせば、胸を占めるのは言い様のない絶望。

夕べこのベッドで眠りに落ちたときには、織姫と、これまでに味わったことのない幸福をこの腕に抱きしめて寝ていたのに…それが奪われることの、何と早いことか。

「…くそ…。」

未だ織姫の体温が残っていそうなシーツを掌でなぞり、そこが既に冷たいことにまた絶望を覚えて。
ベッドから立ち上がった一護がふとリビングの円卓を見れば、そこには一護に迷惑をかけたくない…という織姫の精一杯の誠意の形。

「ありがとう、ごめんなさい」と書かれた紙と、一緒に食べる筈だった朝食用のパン。
そして、この部屋の合い鍵が置かれていた…。












その日の夜。
何もする気になれず、ベッドに身体を預けていた織姫の耳に、ベランダからコンコン…と窓を叩く音が響いた。

「…井上。」
「く…黒崎くん!」

ばっ…と織姫が跳ね起きる。
転げるようにベッドから下り、ベランダに繋がる吐き出し窓に駆け寄った。
月明かりの下、カーテン越しに彼のシルエットを見ただけで、織姫は涙腺が緩んだのを自覚する。

「虚退治の帰り…?怪我、してない?」
「大した虚じゃなかったし、傷一つついちゃいねぇよ。」
「良かった…!」

ほっ…と一つ、安堵の溜め息を吐き出して。
しかし、それきり黙り込んでしまった織姫に、一護が窓越しに尋ねる。

「…開けて、くれねぇの?」
「……ごめんなさい。」

勿論、織姫も本心では今すぐにこの窓を開けたかった。
でも、もしこの窓を開けて一護を中へと招き入れてしまったら…恐らく、自分は一護にすがってしまう。
窓の鍵に伸ばしかけた手をきゅっと握りしめ、織姫は唇を噛み締めた。

「じゃあ…このままでいいや。そこで俺と話だけでもしてくれるか?」
「うん…。」

一護が、窓に背を預けベランダに腰を下ろす。
ガラス一枚隔てたところに、織姫もまた座り込み、窓ガラス越しに一護と背中を重ねた。

「…黒崎くん。」
「おう。」
「あたしね、黒崎くんに幸せになってほしいんだ。」
「…。」
「黒崎くんの幸せが、あたしの幸せなの。」
「それには、井上が必要だ。」
「あたしじゃダメなんだよ。あんなに沢山の虚を呼び寄せちゃうんだよ?今朝は、黒崎くんとあたしと、石田くんと茶渡くん…運良く4人で虚退治ができた。それでも間に合わなくて、浦原さんに助けてもらって、どうにかなった。でも…次は、わからない。」
「…そんなの、俺が…。」

そこまで告げた一護が、続きの言葉を飲み込む。
「俺が何とかする」と言いたかったが、それがどれだけ無責任な言葉か、一護自身よく解っていた。

「あたしが高一の時…虚になったお兄ちゃんに襲われた時には、黒崎くんが助けてくれた。だからあたしは今、こうして生きている。でも…例えば、また大量の虚が現れて、あたし達が間に合わなかったとしたら…。自分は助けてもらっておいて、他の誰かを見殺しにしちゃうかもしれないんだよ。」
「…井上…。」

涙をこらえながら、震える声で一護に自分の思いを告げる織姫。

一護の傍にいたい、愛されたい…そう思った次の瞬間、織姫の脳裏に浮かぶのは虚となった兄…昊。

あの恐怖や絶望を知っているからこそ、自分のせいで他の誰かが同じ恐怖を味わうなど、例えどんな理由があっても許されることではなかった。

「黒崎くんは、あたしじゃない人なら、誰でも選べるんだもん。あたしじゃなきゃ、皆が手放しで祝福してくれるんだもん。大切な人と自由に愛し合って、結婚して、子供を授かって…そういう未来を、黒崎くんに歩んでほしいの。だから…あたしが諦めれば…いいんだもん…。」
「……。」

一護が、自分を落ち着かせるように、大きな溜め息を一つ、ひっそりと吐き出す。

実は虚退治に出かける前、石田からの電話でこの話を聞かされたとき、一護は激怒し石田に怒鳴り散らしていた。

『…何だよそれ?!俺が、井上がダメなら他の女に簡単に乗り換えるようなクズだって言いたいのか?!』
『違うよ、黒崎。井上さんは純粋に君の幸せを祈ってるんだ。それに、彼女も苦しんでる。』
『だったら、俺を諦めなきゃいいじゃねぇか!』
『勿論、それができればベストだよ。けど、できないから、君も井上さんも苦しいんだろう?君こそ、井上さんの辛い気持ちに、もう少し寄り添ってあげたらどうなんだ?井上さんを大切に思うなら、今君がすべきことは、感情に任せて怒鳴ることじゃないと思うよ。』
『……。』

一護がちら…と肩越しに後ろを確認すれば、カーテン越しに透けて見えるのは膝に顔を埋めている織姫の小さな背中。
部屋の灯りに照らされ、くっきりと浮かび上がるその頼りなく儚げな後ろ姿に、一護は石田の言葉を思い出す。

「自分以外の人を選べばいい」…そう告げる織姫の胸は、今の自分と同じぐらいに痛みを覚え、悲鳴を上げているのかもしれない。

自分は織姫ではないけれど。
例え彼女が幸せになれるとしても、他の男と織姫が並んで立つ姿を想像しただけで、胸の辺りが刃物で抉られたように痛くなる。
それはきっと、彼女も同じに違いない…自惚れかもしれないけれど、そう想像することがきっと「織姫の心に寄り添う」ということだと思うから…。

「…オマエは、どうするんだよ?」
「あたしは…黒崎くんの『ハジメテ』の人になれて、あたしの『ハジメテ』を黒崎くんにもらってもらえて…それで十分、幸せだもん。今でも、夢みたいだよ。」
「…夢に、すんなよ。それに、そんな一瞬の幸せで、一生を生きていくなんて…そんなの、違うだろ。」

ガラス越しに預け合う、互いの背中。
ガラス越しなのに、重ねた背中は確かに温かい。

…それが、互いの救いだった。

「…あのさ、井上。今朝…合い鍵、俺に預けてくれただろ?」
「あ…うん。あたし、先に家を出ちゃったから…黒崎くんが身体に戻ったあと、施錠に困ると思って…。」
「あの鍵…もう少し、俺に預けてくれ。」
「え…?なんで…。」

織姫が、後ろを振り返る。
カーテンとガラスの向こう、一護は夜空に上った細い月を見つめながら、言葉を続けた。

「俺に何ができるか…考える時間がほしいんだ。だから、井上…俺が『答え』を見つけるまで、他の男に乗り換えるのだけは、保留にしてくれねぇか?」
「そ、そんなの当たり前だよ!あたしが好きなのは、ずっとずっと黒崎くんだけだよ!」

織姫がガラス越しの背中に思わずそう叫べば、一護は漸く振り返り、必死な顔でこちらを見つめる織姫に笑みを浮かべた。

「…ありがとな。」

そして、ひらり…織姫の部屋のベランダから三日月の光る夜空へと、死覇装の黒は音もなく紛れていった。


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