real intention
綺麗な満月も、星のように瞬く地上の灯りも一切味わうことなく、マンションにたどり着いた二人。
一護はやっとの思いで織姫をテーブルの前に座らせると、彼女に飲ませる水を目の前に置き、自分もまたテーブルを挟んで向かいに座った。
「…いただきますです。」
三つ指をついてコップに深々と頭を下げる織姫に、一護はがっくりと肩を落とす。
「…井上、酒の席では気を付けろって、あれほど言っただろう。」
織姫が生まれて初めてお酒を飲んだとき、隣に居たのは恋人である一護だった。
大学生ともなれば酒の席は当然あることで、ならば信頼できる相手の前で一度自分の限界を知っておくことも必要だからと、飲酒を勧めたのも一護だった。
…しかし。
その日、コップ一杯のチューハイで、織姫はべろんべろんに酔っぱらってしまったのだ。
しかも、いつもは控え目で遠慮がちな織姫が、まるで人格が変わったかのように積極的になり、一護にベッタリとくっついて離れなかったのである。
以来、一護は織姫に人前での飲酒を固く禁じていた。
自分だけに抱き付くのなら構わないが、酔った勢いで相手を選ばず抱き付くのなら大問題。
一護の説教には何時にも増して力が入った。
…しかし。
「でも、カルピス美味しかったよ?」
小首を傾げてそう言う織姫は、一護が何をそんなに苛立っているのか解らないといった顔で。
一護は今まで長々と話をしたのは何だったのかと項垂れた。
よくよく考えれば、酔った織姫に説教などまさしく糠に釘、暖簾に腕押し。
「…もういい。」
一護は深い溜め息と共に諦めの言葉を吐き出した。
すると、何を思ったのか織姫が突然二人の間にあるテーブルを乗り越えて一護の腕の中へ飛び込んできた。
織姫を受け止めた勢いでそのまま後ろへ倒れる一護。
「おわっ!あぶねぇ!つか、何でわざわざテーブルの上を通るんだよ!」
「えへへ、黒崎くんとぎゅうぎゅう抱っこだよ~!」
幸い後頭部を打つことを避けられた一護は、ゆっくりと己の体を床へと預ける。
背中には、床に敷かれたラグの柔らかな感触。
胸や腹には、ラグとは全く違う織姫の身体の柔らかさと彼女の体温。
二つの感覚に挟まれて、一護は漸く落ち着きを取り戻した。
ほうっ…と深呼吸を一つして、一護がゆっくりと織姫の髪をすいてやると、胸の上でクスクスとくすぐったそうに笑う。
「…そう言えば、オマエ大学の仲間に、婚約したこと言ったのか?」
胸の上ですりすりと甘えてくる織姫に、一護はふと問いかけた。
4ヶ月ほど前から一緒に暮らしだした二人が、無事に婚約まで辿り着いたのがおよそ2ヶ月前。
「婚約」などと言えば大層なことの様だが、その実したことと言えば黒崎家と織姫の親戚での食事会。
勿論、そこに行き着くまでにも一護としては色々あった訳だが。
例えば、一心に事情を説明して金銭面の援助を申し出ること。
織姫の親戚の家に行き、学生の身分ながら結婚の許しを得ること。
両家が顔合わせをするべく、食事会を設定すること。
織姫と協力しながら進めてきたこととは言え、一護としては学業と婚約に向けての準備の両立は、肉体的にも精神的にもかなりの負担であった。
織姫の親戚の家を訪ねる時など、胃がキリキリと悲鳴を上げていたのを覚えている。どんな大虚を目の前にしても平気だった自分が、本気で帰りたいと思ったものだ。
しかし、そんな一護の心配は杞憂に終わり、黒崎家は勿論のこと、織姫の親戚も二人の結婚をあっさりと認めた。最も、織姫の親戚としては、一護と結婚すれば経済的援助の必要がなくなる…というメリットもあったのであろうが。
そんな訳で漸く婚約に至った二人だったが、一護は少し複雑だった。
婚約指輪は、ない。
バイト代をはたいて買う予定の結婚指輪も、デザインより優先されるのは、悲しいかな金額の方で。
経済力の無さ、未熟さをを突き付けられるたびに、一護は歯痒かった。
勿論、織姫と一緒に暮らすと決めた段階でそんなことは覚悟していたのだから、今更どうこう言い訳をするつもりはない。
それでも、織姫は本当にこれでよかったのか…と、一護は正直不安で仕方がなかったのだ。
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