blue bird






…結局、その後はお互いに無言のまま、電車に揺られるだけの時が過ぎる。

視線は窓の外に向けたまま、肩と手に織姫の温もりを感じながら一護はある決意を固めた。

そうして、電車を降りた後も繋いだ手を一度もほどくことがないまま、二人はマンションの部屋へと戻ったのだった。




「…さて、と。」

二人の部屋へ入り、漸く織姫の手を話した一護は、真っ先に壁に掛けてあるカレンダーを外すと、リビングのテーブルの上に置いた。

「黒崎くん…?」

一護の意図が読めず、立ったまま小首を傾げる織姫。
既にお互いの大学やバイトの予定が書き込まれているそれを前に、一護は先に腰を下ろすと織姫に隣に座るよう促した。

「…どうしたの?」

一護に指示されるまま、腰を下ろしつつそう尋ねる織姫には答えず、一護は黙ってテーブルの角に置いてあったペンケースから青いインクのペンを取り出す。

「…確か井上、水曜日の午後は授業がないって言ってたよな。」
「…?う、うん…。」
「俺もちょうど来週は、水曜の午後が休講になるんだよな。そしたらここで、役所に行ける。」
「役所って…?」
不思議そうな顔をする織姫を僅かに見た後、一護は直ぐにカレンダーに視線を戻した。

「決まってるだろ、婚姻届を貰いに行くんだよ。」
「…え…?」

一護の視線の先はカレンダーのままだったが、織姫の声色と彼女が纏う空気が、彼女が今感じているのは喜びではなく怯えであることを知らせていて。
それでも一護は右手のペンを走らせ、水曜日の欄に「役所に行く」と書き込んだ。

「実際、俺達本物の婚姻届とか見たことないし。『紙1枚出すだけ』とか言いながら、実は手続きとか結構面倒くさいかもしれないし…二人で行った方がいいだろ?」

そう言いながら、一護は今度はケータイを取り出すと、バイトの予定を確認し始めた。

「…で、ここがバイト先の給料日だから、この週末に指輪を買いに行こうぜ。あんまり高いのは買ってやれねぇけどさ…。」
「ゆ…びわ…。」
「だから、ここにはオマエもバイト入れんなよ。」

青いペン先が再び走り、「指輪を買いに行く」と一護の字で週末欄に書き込まれる。

「そしたら、後は籍を入れる日だけどな…。」

そこまで言うと一護はゆっくりとペンを置き、隣にいる織姫を見た。

「…どうした?」
「え?ど、どうもしてないよ?」
一護の視線を受け、慌てて笑顔を繕う織姫。
しかし、その笑顔は作り物であることが一護にも一目で解るほど、不自然で痛々しいものだった。

「…無理すんな、井上。」
「…む、無理なんて、してないよ…?」

一護は両手でそっと織姫の頬を包み込み、戸惑いに揺れる薄茶の瞳を真っ直ぐに見つめる。

「…そんな無理くり笑ってもらっても、嬉しくねぇよ。嘘つかなくていいから。…全部、吐き出せ。今、オマエが抱えてるモン、全部だ。」

一護のその言葉に見開かれた織姫の瞳が、一気に潤み始めた。

「…ち、がう、の…。私…!」

言葉では否定しようとしながら、ついに溢れ出した織姫の涙は、頬を包む一護の手を濡らす。

「…井上、泣いていいから。」

一護は出来る限り優しく、織姫の涙を両手の親指で何度も拭った。
一護の指先から伝わる温もりに、頑なだった織姫の心がほどけていく。

「…く、ろさき、くん…。私、怖いよ…。」
「怖い…?」

涙と一緒にぽろりぽろりと零れ出した織姫の本音に、一護は思わず問い返した。

「だって、私…知らないんだもん…本物のお嫁さんも、お母さんも、知らないんだもん…!」
織姫の綺麗な顔がくしゃりと歪み、止まることのない涙は幾つもの筋を一護の手に作る。

「黒崎くんと一緒なら、絶対大丈夫…って、信じてるのに…!でも、怖いの…未来の自分が、全然見えなくて、どうなってるのか分からなくて…!どうしよう、黒崎くん…、私…私…!」

しゃくりあげながら、それでも溜め込んでいた想いを懸命に打ち明ける織姫に、一護は両手を頬から離すと震えるその身体を抱き寄せた。

「…大丈夫だ、井上。もう、何も言わなくていいから…。」

抱き締める腕に力を込め、一護は織姫の頭を幾度も撫でる。
ついに織姫は一護の胸にしがみつき、声を上げて泣き始めた。

「…井上…。」

物心付いた時には、既に兄と二人暮らしだった織姫。
勿論、今の織姫を見ればその兄がどれだけ妹に愛情を注いで育てたか解る。
けれど、普通に母親のいる家庭を知らぬまま育った織姫にとって、結婚生活はあまりにも未知の領域すぎたのだ。

織姫が憧れてやまなかった「家庭」というものに、本当に手が届きそうになった、今。

彼女の心が理想と現実の間で激しく揺れていたことを、一護は織姫の涙を受け止めながら、漸く理解したのだった。





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