時に愛は
「…井上先輩。」
爽やかな笑顔を纏って、男子生徒が武道館の角に立っている織姫の前に来た。
織姫は、年下ながらかなり背の高いその生徒を見上げる。
道着を着ていなければおよそ空手の有段者とは思えない、端正な顔立ちに柔和な微笑み。
「…はい?」
「僕は、井上先輩のことが好きです。僕と、付き合ってください。」
名も知らぬ男子生徒からの突然の告白。
織姫は面をくらって一瞬言葉を失ったが、すぐに表情を曇らせるとゆるゆると視線を落とした。
「あの…私なんかのことを好きになってくれてありがとうございます。でも…ごめんなさい。私、あなたの気持ちに答えることができません…。」
脳裏に浮かぶ、大好きで大切なオレンジ色の髪の青年の後ろ姿。
織姫は申し訳ないと思いながらも、はっきりと自分の想いを告げた。
しかし。
「…黒崎一護が、いるからですか?」
「…え…?」
男子生徒の口から出た予想外の名に織姫が驚き顔を上げると、彼の顔はフラれた後だというのに余裕の笑みすらたたえている。
「どうして、黒崎くんのことを…。」「あんなヤツは、キミに相応しくない。キミは、ボクのモノになるべきだ。」
織姫は、その台詞にぞっとして背筋を凍らせた。
今まで自分を幾度となく怯えさせてきた「キミはボクのモノ」という言葉と、先程まで一見穏やかに見えていた男子生徒の瞳に、獲物を捕らえようとする獣に似た光が宿ったことで、織姫は辿り着きたくない答えに辿り着く。
「…まさか、あなたが…?」
思わず後退りした織姫だったが、武道館の角にいたためすぐに冷たい壁の感触が背中を襲う。
「初めてキミを見た時、驚いたよ。顔も、身体も、こんなにボク好みの女が現実にいるなんてね…。」
男は織姫との距離をじわじわと縮めながら、織姫の全身を舐める様な視線で見つめた。
「いや、たつきちゃんっ…!」
ついにぐっと腕を掴まれ、織姫が思わず叫ぶ。
しかし鍛え上げた男の力の前に織姫の抵抗は無力に等しく、そのまま床へと押し倒された。
「きゃああっ…!」
「たつき先輩なら、いませんよ。呼び出しメールを夕べ打ったのは、ボクだから。」
「…うそ、だってちゃんとたつきちゃんの携帯電話からのメールだったのにっ…!」恐怖心を押し隠しそう言い返す織姫を、男は嘲笑いながら見下ろす。
「たつき先輩、部活中は更衣室の鞄のポケットにケータイ入れてあるんですよ。ロックもかけないままで…ね。だから、キミのアドレスを盗むのも、先輩のふりしてメール打つのも、簡単だったんだ。…ああ勿論、打ったメールとキミからすぐ来た返信メールはその場で削除したよ。」
勝ち誇った様な表情で、男は首をふり身体をよじって懸命に逃れようとする織姫にのし掛かる。
「いや、いや…!」
「キミが悪いんだ。黒崎なんかと親しくするから。早くしなきゃ、キミがアイツに汚されてしまう。」
男は織姫の細い両手首を一つにまとめ、左手だけで彼女の頭の上に固定した。
そして自由になった右手で織姫の顎をぐっと掴み、彼女の顔を正面に向ける。
「…や、やめてっ…!お願いっ…!」
涙を浮かべて懇願する織姫に、男は手を緩めるどころか圧倒的な力で彼女を押さえつけ、その唇を奪うべくゆっくりと顔を近づけた。
「キミはボクのモノになるんだ…。」
「い…や…っ!」
顔を背けることすら叶わず、織姫はぎゅっと目を閉じた。
その時。
ガンッ…!
武道館の冷たい静寂を打ち破るかの様な音に、男も織姫もぴたりと動きを止め、音のした方向を見た。
武道館の大きなの扉がガタガタと揺れ、激しく音を立てている。
「ちっ、誰だ…?」
咄嗟に織姫の口を手で塞ぎ、舌打ちをして扉を睨み付ける男。
しかし先程まで絶望と恐怖から流れていた織姫の涙は、安堵と歓喜の涙に変わっていた。
扉の向こうに感じる、誰よりも熱く温かい、太陽の様な霊圧はまぎれもなく…。
「…まあいい。扉の鍵なんてそう簡単に壊れるもんじゃない。」
始めは平静を装い、織姫を押さえつけたまま扉を凝視していた男だったが、次第に扉がミシミシと軋んだ音をたて始めたことに焦りの色を見せ始める。
「バカな、まさか本当に扉を壊す気か…?!」
男が目を見開いて思わずそう叫んだ、その瞬間。
バキバキッ…!
ガアンッ!!
「井上っ…!!」
鍵が破壊されると同時に勢いよく扉が開く。
武道館に飛び込んで来たのは、織姫が心の中でずっと呼び続けた人物…一護だった。
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