35デッドライン

「あ……! この前の。奇遇ですね」

 俺は目をこすった。相変わらずほんのり頬を染めた青年がそこに立っていた。
 奇遇……?

「その…………ここ、俺の部屋の前ですけど」

 青年は首を傾げた。あどけない仕草がより一層不気味だった。

「え? はい、南雲さんのお部屋の玄関ドア前ですよね。会えて嬉しいです」

 無駄かもしれない、と思いながらも俺は一応確認をとった。

「……ちなみに、この階に知り合いが入居されているわけではないですよね」
「南雲さん以外にですか? いませんよ」

 あ、俺って知り合いカウントなんだ。声には出さずに呟く。いつのまにか、俺の名前も知っている。名乗ってないよな、俺。ちらりと表札を見上げた。これのせいか……? くそ……。

「あの、ひとつお聞きしたいんですが」

 前に向き直り問いかける。彼は相変わらず、ゾッとするくらいに綺麗な瞳をしていた。

「はい! なんでしょう」
「何しにきたんです?」

 問いながら、俺は右手に持ったスマホの感触を確かめていた。何かあったらすぐに通報するつもりで。
 青年は上気した頬を緩めた。うっすら透けるような影を落とすまつ毛の下、心なしか瞳の表面が潤んでいる。薄い唇からちらりと濡れた舌がのぞいた。

 あいたくて。

 青年が呟いた。

「あの……オレ。えへ、いきなり何をって、思うでしょうけど。あなたに…………」

 囁くような低音が熱を伝えてくる。

「いえ、あなたを」

 瞳の奥に期待と恥じらいの色が映る。

「好きに、なってしまって」

 そして、視界の端で何かが光った。
 ぐわりと頭が揺れそうなほどのショックが襲う。今なら言えるが、俺がその時発揮した反射神経と行動力はほとんど奇跡だった。俺はそれを確認した直後、即座に踵を返し、全力で部屋に引き返したのだ。
 ガン!
 一拍後、扉が叩かれる音がした。続けざまに扉の向こうから鋭い舌打ち。俺は鍵を閉めたのち、姿勢を低くして扉を見つめた。

「…………なんで逃げるんです?」

 狂人は金属板越しに呟いた。俺には分かっている。
 彼がその手に持っていたのは、銀色に光る大きなハサミだった。

「あ、あんたこそ……そのハサミで何する気だったんだ」

 俺は震える声で尋ねた。ドア越しの彼が小さく笑う。

「何って、告白ですけど。あは、南雲さんって質問に質問で返すタイプなんですか? 可愛い」
「かわ……いやすみません、質問返ししたのは謝ります、けど! そうじゃなくてっ、そもそも俺が逃げたのはそのハサミを見たからで、というか告白にハサミが要るわけないですよね!?」
「必要ですよ。だって」
「だって!?」

 姿勢は崩さないままに返答を待つ。

「ほら、もし……断られたり拒絶されたりなんかしたら、あなたを殺したくなるかもしれないでしょ。その時に、ハサミがないと困るので」

 俺は絶句した。
 殺す? この21世紀日本で、告白を断られただけで人を殺す? はは、冗談だろう。そうじゃなければこいつの頭はおかしい。……後者だろうな。絶対に、彼は本気だ。俺はますます扉を開けない決意を固めた。
 しかし、これだけは伝えておかなくてはならない。

「……俺は、人殺しは好きじゃない」
「その場合、あなたがオレを好きじゃなかったからこそオレが人殺しになるんでしょ? 順序が逆ですよ。で、どうなんですか」
「は……?」
「あなたはオレのこと好きですか?」

 告白、OKしてくれるんですか? 男はそう尋ねてきた。OKだって? 俺は笑い出しそうになった。もう敬語を使う気すら起きない。

「いや、いや……まず、俺はあんたのこと何も知らないし」
「オレも南雲さんのこと少しも知らないです! お揃いですね。ほら、ひとつオレのこと知れましたよ」
「うん分かった。俺はあんたがヤバい奴で、俺に惚れてるってことは知ってるね。失礼。訂正する。けど、やっぱり告白はさ、ほら……違うだろ。ね、疲れてるんだよあんた。もう帰りな」

 俺がそう言った瞬間、先ほどまで意気揚々と返してきた声が止んだ。それに気づいたとたん肩が跳ねた。どうやら人間は、騒音よりもむしろ静寂に恐怖を感じるようにできているらしかった。
 言いすぎたのか。なにぶん普段年下の子と喋っていないせいで加減がわからない。最後に真っ当な会話らしきものを交わしたのは数ヶ月前、盆に実家に帰った時だ。ほぼ初対面の相手に言うべき言葉ではなかったかもしれない。だって彼はまだ……俺の部屋を調べて、待ち伏せして、勝手に名を呼び、断られたら殺すつもりでハサミ片手に告白してきただけだ。
 いや十分にヤバい奴だろう。残念ですが当然です。帰れ。俺が再びそう言おうとして口を開いたその時。

「…………何が違うんですか」

 相手の方がわずかに早く口を開いた。何が違うって、そりゃ相手のことを全く知らない状態でする告白に決まっている。告白というのは絶対イケるってくらい仲良くなって、何度もデートした後にするもんだ。自己紹介も済んでないのにするもんではない。

「何が……」

 しかし彼は全くそんな価値観を持ちあわせていないらしかった。

「……っ、何が違うって言うんですかぁ!?」

 ガン! という音が響いた。そのすぐ後に、金属同士が擦れる時の嫌な音。ぎ、ぎ、と断末魔の悲鳴が扉から上がる。 俺も同じくらい悲痛な悲鳴を上げたつもりだ。賃貸の扉が! ご近所への騒音問題が!

「おおお、落ち着いてくれ……!」
「ねぇ何が違うんですか!? オレがあなたを好きって、そんな変ですか!? 一目惚れっておかしいの? 運命ですよね、運命なのに、あなたがそれを否定するんだ!」

 ガン、ガン、と連続して扉が叩かれる。金属製だぞ。手、痛くないか?

「その……あんた、手を怪我するから扉殴るのはやめた方がいいぞ」

 お節介だとは分かっていたが、思わず心配になって口を出す。

「ほらやっぱあなた優しいじゃないですか! 好きになるしかないじゃないですか、ひとつだって幻滅させてくれないのに、なんで……あなたが悪いんだ!!! 殺して……殺してやりたいのに! なんなんだよ……!」
「なんなんだよはこっちのセリフだろ」

 頼むから帰って欲しい。というか名前すら知らないこの段階で言うことじゃないだろ、そもそも……。
 叫びすぎたのか、ドアの向こうから荒い息遣いが聞こえる。しばらく息を整えた後、叫び出す前と同じ声量で不吉な宣言が聞こえた。

「……あは。今日はあなたのことがたくさん分かりました。嬉しいな。また会いに来ますね」
「来なくていいからね。本当に」
「また来ますっ!」

 そう言い残して男は去っていった。来るなよ。
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