35デッドライン
そんなわけで冒頭に戻る。
さて。俺には今日、ミッションがあった。ストーカーと出会ってから2週間……つまり、俺が引きこもってからも同じ時間が過ぎているわけだ。今日の午前もヤツはやってきて、勝手に醤油を差し入れしてきたのちに捨て台詞のように愛を伝えてきたが、その時も俺は一歩たりとも外へは出なかった。なぜかって? いくら精神の図太い俺でも、成人男性に向けられる刃物は怖いからだ。ドアの外に出て全身で直接ご対面したら俺なんてあっけなく殺されてしまう。死にたくない。俺ははっきりとそう言える。そのため、出ない。
引きこもりは仕事になんの支障ももたらさなかった。元より自由度の高い仕事である。友達や家族から外出に誘われても、繁忙期だと言って適当に誤魔化した。多くの面で、この2週間の生活は一生続けてもどうにかなるだけのポテンシャルを秘めていた。しかし。
しかし、これだけは耐え難い。
「くっせえ!!」
俺は叫んだ。目の前には生ゴミと燃えるゴミのマリアージュinゴミ袋。が、3袋。その横に燃えないゴミが1袋。オーケイオーケイ、今すぐにでも捨ててやる。
俺は人間である。腹が減れば飯を食い、眠くなれば床に就く。そして、ゴミを生み出す。今までは燃えるゴミを週に1度、燃えないゴミを2週に1度出していた。しかし今、それが出来ていない。俺が例のストーカーのせいで外に出られないからだ。別にあいつがいない隙を見計らって出ればいいだろって? 考えてもみろ。帰ってきた時もしあいつが部屋の中にいたら、俺はビビって叫んで棚か何かに頭ぶつけて死ぬだろう。我ながら情けないが、自信を持って言える。
奴は日中、俺に招かれない限りは部屋の中にあがろうとはしない。しかし寝ている間に忍び込んでいたことを考えれば、俺の許しが出る可能性がそもそもない時は容赦なく侵入すると見て間違いない。というわけで、俺は外に出るわけにはいかなかったのだ。
しかし、ゴミは臭い。しかも不衛生だ。俺は何かしらの妥協をしなくてはならない。己の貞操、生命、快適な暮らし、全てを天秤に掛ける。鼻をつまんでいたせいで浅くなっていた呼吸を意識的に深くし、大きくため息をついた。よし。
「…………ゴミ捨ててくれる人、いないかなぁ? いたら嬉しいなぁ。助かっちゃう。好感度上がるかもなぁ」
「呼びました?」
「うん」
酷いマッチポンプだ。一瞬で現れたストーカーに、俺はゴミ袋を任せた。こいつに会いたくないから出られないのに、こいつを呼びつけて生活の面倒を見させるのは何か矛盾している気がするが仕方ない。これが唯一生きる道なのだ。
「ついでに醤油もどうぞ」
「……ありがとう」
一度は拒否したはずの来訪と醤油を複雑な思いで受け取る。悔しいが仕方ない。命には換えられない。
ドア枠と見えない心の壁を隔てて、彼は口の端をきゅっと吊り上げて笑った。
「えへ、いくらでも呼んでくださいね、航さん。航さんがオレに一生頼って生きてくれたら、オレ、すごく嬉しいです」
「了解。頑張ってこの状況を抜け出すよ」
「意地悪な人ですね、もう!」
頬をぷくっと膨らませているが、全く可愛くないからな。その手に持ってるハサミを捨ててから頬を膨らませろよ。いつのまにか名前呼びだし。
……そういえば、俺の方はこいつの本名を知らないな。聞いてみようかな?
「そういえば、お前の名前って……」
尋ねた時、もう彼はそこにいなかった。
「いれてくださーい」
「いれませーん」
それはなんの変哲もない日のことだった。いつも通り俺とストーカーがドア越しに押し問答していると、遠くから音が聞こえてきた。サイレンだ。パトカーか救急車か、はたまた消防車かは分からなかった。単純に、どれがどれだか覚えていないのだ。
サイレンは次第に大きくなった。近づいてきている。この近くに目的地があるらしかった。
「誰か気絶でもしたかな」
この暑さだものな、と俺は納得した。季節はすっかり夏だった。この頃の日本はといえば、すわインドネシアかフィリピンかというほどに暑く、熱中症は夏場の老人の主な死因であった。
「…………パトカーだ」
ストーカーがぼそりと呟いた。彼は聞き分けられるらしい。音はまだ大きくなっている。この近くで事件があったのだろうか。
「もしかして、大家さんが呼んでくれたとか……」
連日のストーカー行為を見かねた大家さんが、刺激しないようこっそり警察を呼んでくれていた、なんて。2週間半に渡る無関心からして、そんな希望持つだけ無駄だろうが一応期待してみる。
「……っ!」
ドアの向こうから、何かを取り落としたような音が聞こえた。さすがのストーカーでも警察は怖いらしい。ならなぜこんな犯罪をしでかしたのか……俺には理解できない情緒だ、と感じる。けれど。もういいから帰りな、そう言いかけた。事を大きくしたら可哀想かもしれない、なんて思ったんだ。俺は結局、ストーカーというものを甘く見ていたんだろう。
俺が口を開くより前に、ドアの向こうから扉を蹴られたのだから。
「今すぐ開けてください」
「……え?」
「あ、すみません、蹴っちゃった。ごめんなさい。いれてください。いれて。開けて。開けて、あけてあけてあけて」
「え、いや……開けないって。何? なんなの」
ひっきりなしにドアノブが音を立てる。確かに彼はストーカーで、これまでも俺が居留守を使えば執拗にドアノブを弄っていた。しかしそれは、俺を威嚇してしゃべらせようとしていたに過ぎない。彼が本当にその気になれば、俺の部屋に入ることなんて一瞬だ。だって彼は俺の部屋の合鍵を持っているのだから。
けれど今の彼は、本気で俺の部屋に侵入しようとしていた。ドアノブの音はサイレンに紛れ、ますます大きくなるばかりだ。
「だいたい、俺の部屋に入った方がまずいだろ。お前ストーカーで現行犯逮捕されたいのか」
「嫌……嫌です。捕まったら……あああ駄目だ、駄目、いれてください、早く!」
「だから捕まりたくないなら逃げた方がいいって! 証拠も大して無いんだからさ」
全く話の通じなくなった彼に、俺は肩をすくめた。やれやれ。そもそも俺は別にこいつをどうしても逮捕させたいわけじゃない。来ないでほしいだけだ。また通報されることに怯えたこいつが来なくなればそれだけで__
「開けろと言ってるじゃないですか」
ドアは乱暴に開かれた。念のためと掛けていたドアチェーンを外され、俺は。
「え……」
侵入してきた男の、右手に光るハサミが。
「ああ、こんなところに」
振り上げられ、俺のスマホの画面に突き立てられるのを、ただ、眺めていた。
さて。俺には今日、ミッションがあった。ストーカーと出会ってから2週間……つまり、俺が引きこもってからも同じ時間が過ぎているわけだ。今日の午前もヤツはやってきて、勝手に醤油を差し入れしてきたのちに捨て台詞のように愛を伝えてきたが、その時も俺は一歩たりとも外へは出なかった。なぜかって? いくら精神の図太い俺でも、成人男性に向けられる刃物は怖いからだ。ドアの外に出て全身で直接ご対面したら俺なんてあっけなく殺されてしまう。死にたくない。俺ははっきりとそう言える。そのため、出ない。
引きこもりは仕事になんの支障ももたらさなかった。元より自由度の高い仕事である。友達や家族から外出に誘われても、繁忙期だと言って適当に誤魔化した。多くの面で、この2週間の生活は一生続けてもどうにかなるだけのポテンシャルを秘めていた。しかし。
しかし、これだけは耐え難い。
「くっせえ!!」
俺は叫んだ。目の前には生ゴミと燃えるゴミのマリアージュinゴミ袋。が、3袋。その横に燃えないゴミが1袋。オーケイオーケイ、今すぐにでも捨ててやる。
俺は人間である。腹が減れば飯を食い、眠くなれば床に就く。そして、ゴミを生み出す。今までは燃えるゴミを週に1度、燃えないゴミを2週に1度出していた。しかし今、それが出来ていない。俺が例のストーカーのせいで外に出られないからだ。別にあいつがいない隙を見計らって出ればいいだろって? 考えてもみろ。帰ってきた時もしあいつが部屋の中にいたら、俺はビビって叫んで棚か何かに頭ぶつけて死ぬだろう。我ながら情けないが、自信を持って言える。
奴は日中、俺に招かれない限りは部屋の中にあがろうとはしない。しかし寝ている間に忍び込んでいたことを考えれば、俺の許しが出る可能性がそもそもない時は容赦なく侵入すると見て間違いない。というわけで、俺は外に出るわけにはいかなかったのだ。
しかし、ゴミは臭い。しかも不衛生だ。俺は何かしらの妥協をしなくてはならない。己の貞操、生命、快適な暮らし、全てを天秤に掛ける。鼻をつまんでいたせいで浅くなっていた呼吸を意識的に深くし、大きくため息をついた。よし。
「…………ゴミ捨ててくれる人、いないかなぁ? いたら嬉しいなぁ。助かっちゃう。好感度上がるかもなぁ」
「呼びました?」
「うん」
酷いマッチポンプだ。一瞬で現れたストーカーに、俺はゴミ袋を任せた。こいつに会いたくないから出られないのに、こいつを呼びつけて生活の面倒を見させるのは何か矛盾している気がするが仕方ない。これが唯一生きる道なのだ。
「ついでに醤油もどうぞ」
「……ありがとう」
一度は拒否したはずの来訪と醤油を複雑な思いで受け取る。悔しいが仕方ない。命には換えられない。
ドア枠と見えない心の壁を隔てて、彼は口の端をきゅっと吊り上げて笑った。
「えへ、いくらでも呼んでくださいね、航さん。航さんがオレに一生頼って生きてくれたら、オレ、すごく嬉しいです」
「了解。頑張ってこの状況を抜け出すよ」
「意地悪な人ですね、もう!」
頬をぷくっと膨らませているが、全く可愛くないからな。その手に持ってるハサミを捨ててから頬を膨らませろよ。いつのまにか名前呼びだし。
……そういえば、俺の方はこいつの本名を知らないな。聞いてみようかな?
「そういえば、お前の名前って……」
尋ねた時、もう彼はそこにいなかった。
「いれてくださーい」
「いれませーん」
それはなんの変哲もない日のことだった。いつも通り俺とストーカーがドア越しに押し問答していると、遠くから音が聞こえてきた。サイレンだ。パトカーか救急車か、はたまた消防車かは分からなかった。単純に、どれがどれだか覚えていないのだ。
サイレンは次第に大きくなった。近づいてきている。この近くに目的地があるらしかった。
「誰か気絶でもしたかな」
この暑さだものな、と俺は納得した。季節はすっかり夏だった。この頃の日本はといえば、すわインドネシアかフィリピンかというほどに暑く、熱中症は夏場の老人の主な死因であった。
「…………パトカーだ」
ストーカーがぼそりと呟いた。彼は聞き分けられるらしい。音はまだ大きくなっている。この近くで事件があったのだろうか。
「もしかして、大家さんが呼んでくれたとか……」
連日のストーカー行為を見かねた大家さんが、刺激しないようこっそり警察を呼んでくれていた、なんて。2週間半に渡る無関心からして、そんな希望持つだけ無駄だろうが一応期待してみる。
「……っ!」
ドアの向こうから、何かを取り落としたような音が聞こえた。さすがのストーカーでも警察は怖いらしい。ならなぜこんな犯罪をしでかしたのか……俺には理解できない情緒だ、と感じる。けれど。もういいから帰りな、そう言いかけた。事を大きくしたら可哀想かもしれない、なんて思ったんだ。俺は結局、ストーカーというものを甘く見ていたんだろう。
俺が口を開くより前に、ドアの向こうから扉を蹴られたのだから。
「今すぐ開けてください」
「……え?」
「あ、すみません、蹴っちゃった。ごめんなさい。いれてください。いれて。開けて。開けて、あけてあけてあけて」
「え、いや……開けないって。何? なんなの」
ひっきりなしにドアノブが音を立てる。確かに彼はストーカーで、これまでも俺が居留守を使えば執拗にドアノブを弄っていた。しかしそれは、俺を威嚇してしゃべらせようとしていたに過ぎない。彼が本当にその気になれば、俺の部屋に入ることなんて一瞬だ。だって彼は俺の部屋の合鍵を持っているのだから。
けれど今の彼は、本気で俺の部屋に侵入しようとしていた。ドアノブの音はサイレンに紛れ、ますます大きくなるばかりだ。
「だいたい、俺の部屋に入った方がまずいだろ。お前ストーカーで現行犯逮捕されたいのか」
「嫌……嫌です。捕まったら……あああ駄目だ、駄目、いれてください、早く!」
「だから捕まりたくないなら逃げた方がいいって! 証拠も大して無いんだからさ」
全く話の通じなくなった彼に、俺は肩をすくめた。やれやれ。そもそも俺は別にこいつをどうしても逮捕させたいわけじゃない。来ないでほしいだけだ。また通報されることに怯えたこいつが来なくなればそれだけで__
「開けろと言ってるじゃないですか」
ドアは乱暴に開かれた。念のためと掛けていたドアチェーンを外され、俺は。
「え……」
侵入してきた男の、右手に光るハサミが。
「ああ、こんなところに」
振り上げられ、俺のスマホの画面に突き立てられるのを、ただ、眺めていた。
