35デッドライン

 ピンポーン。今日もチャイムが鳴る。

「こんにちはー。開けてくださーい。ねえ、醤油持ってきました。さっきちょうど使い切ったでしょ? 開けてください。開けてください」

 直後、鍵のかかったドアノブを執拗に弄る音。
 俺は息を殺し、ドアを背に座り込む。

「いないんですか。いますよねー!? 開けてください。オレと会ってください」

 いません。そう言えたのならどんなにかいいだろう。俺は心の中で繰り返し呟いた。俺はここにはいません。本当にいないんです。まあ、もう居留守がバレている以上無理なのだが。

「…………」

 止まった。数秒後、郵便受けに何かがカタンと音を立て入れられる。……手紙だ。これもいつも通り。

「また、今日も会ってくれないんですね」

 淡々とした声が呟く。そろりと腰を上げて、俺は全身をドアの横にくっつけた。直後、郵便受けに備えられた金属製の蓋が開く。直径2cmもないその隙間から、黒々とした目がのぞいた。目は周囲を睥睨し、人の姿を探す。もちろん、この家に居る人間は俺しかいない。俺はますます身体を縮こめた。

「んー……我慢比べってとこですか。あは。オレ、そういうの得意です」

 俺は苦手だ。だから、この状況は本当に最悪と言ってもいい。

「じゃあ、また。また来ます……次は部屋に上げてくださいね。さようなら、南雲さん。大好きですからね」

 捨て台詞のように言い切って、ようやく気配は去った。上げるか馬鹿。二度と来るな。言いたいことは山ほどあるけれど、まだ黙っておく。前にもういなくなったと思って言った独り言を拾われた経験があるからだ。あいつは一旦去ったそぶりを見せた後、ゆうに5時間くらいは居続けられるやつなのだ。だからまだ、ぬか喜びしてはいけない。
 玄関ドアの前から立ち上がる。なるべく音を立てないように廊下を戻り、居室へ向かった。ワンルームマンション……というにはいささかアパートよりな気もするが、とにかく俺の住処は6畳の居室とキッチン付属の廊下、それからユニットバス一つでできている。
 コンセントの奥から音がする。俺が不用意に触れないような場所に、あいつは盗聴器を仕掛けている。さっきの物言いから察するに、監視カメラもどこかにある。そいつらはあとでどうにかすることにして、今は放置しておく。今すぐに状況が悪化することはない。おそらく。
 かん、かん、かん…………外階段を降りていく音がする。この建物はなぜか階段の音だけ異様に響くのだ。あいつは信じられないことに、ここのすぐ近くに住んでいる。というか、どうも引っ越してきたらしい。最悪。

「…………やっと帰ったか。帰ったところでって感じだけどな……」

 ため息をつく。そう、もうお察しのことと思うが、俺____南雲航は、名前も知らないストーカーに執着されている。



 きっかけ、なんてものが本当にあったのかは知らない。けれど俺がそれと気付いたのは、今からちょうど2週間前の金曜のことだ。
 そもそも俺は、あまり外出というものをしない。別にインドア派ではないが、仕事がフルリモートなのだ。普段なら平日出かけることなんてない。しかしその日は珍しく、食料の買い出しのため外に出なくてはいけなかった。__そしてそのせいで、俺はあいつと出会ってしまった。

 かん、かん、かん。音を立てながら階段を降りた。俺の部屋は3階だ。この金属音はデザイナーのこだわりらしい。耳のいい人間からすれば苦痛だろうが、俺は大雑把な方なので気になることはない。生まれついての図太さは大抵、良い方向に働いている。
 ちまちま地上へ向かっていく。2階に差し掛かった時に、廊下から出てきたらしい男とぶつかりかけた。

「うわ!? あ……すみません!」

 俺は謝ったが、そいつは何も言わなかった。

「…………」

 黙り込んだまま、こちらをジッと凝視している。それで俺も不審に思って、相手を上から下まで眺めてみた。
 えっと、まず、男だ。歳は……20代前半くらいか。俺よりは年下だろうけど、高校生って感じはしない。澄んだ瞳をしている。そのおかげで暗い印象は受けなかった。友達も多そうだ。見たところ、ここの住人ではない。

「……あ、用事あるんだったな」

 そこまで眺めたところで俺は用事を思い出した。買い出しに行かなければいけないのだ。

「ぶつかってしまって本当にすみません! 申し訳ないんですが今急いでて……俺はこれで」

 男の横を通りぬけて、再び階下へ向かう。かん、かん、かん……騒々しい音を鳴らして階段を降りていく間に、俺はその青年のことなんてすっかり忘れてしまっていた。

 両肩から買い物袋をぶら下げる。最近はSDGsだとかでビニール袋が有料になってしまったので、俺はマイバッグを持ち歩くようにしている。面倒なご時世になったもんだ。内容物は米と卵と鶏肉とブロッコリーと……その他もろもろ。今日はとりあえずシチューにする予定だ。あまりにも重たいので、このままだと肩こりが悪化しそうだが仕方がない。外に出る回数を減らしたい。スーパーは徒歩5分の距離にあるので、疲労はかなりマシな方だと思う。
 ようやっとたどり着いたマンションの真ん前、階段の入り口に人が立っていた。

「あれ、さっきの……?」

 この人、ここの住人じゃなかったよな。なんでまだいるんだろう。俺が出かけてから、大体2時間くらい経っているはずだ。もしかして、あの時廊下から出てきたというのが俺の勘違いで、実は部屋に向かうところだったのだろうか。友人か何かの部屋を訪れるため階段を登っている最中に俺と鉢合わせた……それで、それからその友人の部屋でお喋りでもした後、帰るところで再び俺と鉢合わせた。うん、ありそうだ。おかしなことでもない。
 ともかく、彼の横を通り抜けなければ階段を登れない。俺は行きよりも荷物の分遅くなったスピードで男の方に歩み寄った。

「こんにちは」

 初めは聞き間違いかと思った。俺が振り返ると、青年が微笑んでいた。こんにちは。もう一度繰り返される。

「あ……こんにちは……?」

 俺は少し戸惑いながらも挨拶を返した。青年の整った顔にますます深くなった笑みの色が載った。

「……ここに住んでるんですか?」

 なんと彼は会話を続けようとしてきた。買ったものを早く冷蔵庫に押し込めなくちゃいけないんだけどな、と思いながらも仕方がないので返事する。

「ああ、まあ」
「先ほどはぼうっとしていたらぶつかってしまって……本当にすみません」
「え? いや全然。俺もあまり前を見てませんでしたし、お互い様でしょう」

 この年頃の若者には珍しく、しっかりした口調で話すんだな、なんて失礼な感想が頭をよぎった。動作も控えめで感じがいい。なかなかの好青年じゃないか。
 彼は少し沈黙を作って、それから目線だけで俺の荷物を差し示した。

「それ、重そうですね」
「これですか? そうですね、かなり。2週間分を買い込んだものだから」

 買い物袋を掛けたまま肩をすくめて見せようとしたが、流石に難しい。こうしている間にも持ち手は着々と肩に食い込んできている。早く部屋に戻りたい。

「…………持ちましょうか。オレが。ね、運びますよ」
「え?」

 俺は当惑して相手を見つめた。俺の部屋に入るということだろうか。初対面でそれは少し……なんというか、行き過ぎな気がする。

「あ、いや……ここ、階段きついから」

 困ったように眉を下げて彼が言った。俺もああ、とかうん、とか相槌を打つ。

「その、大丈夫ですよ。すみません。お気遣いありがとうございます」

 俺は愛想笑いを浮かべながら拒絶した。彼は、なんというか……少し人との距離の取り方が特殊らしい。入り口を塞ぐように立っている彼の横を通って、俺は階段を2、3段上がった。その瞬間、腕を掴まれる。

「待って!」

 咄嗟に声と手が出たらしい。動作を止めた俺を前に、彼は言葉を探していた。

「……何か?」

 俺はなるべく優しく問いかけたが、実際にはそっけなく聞こえたかもしれない。荷物はいよいよ重く俺の肩にのしかかり、この変わった青年の相手をするだけの余裕は俺にはもはやなかったのだ。
 彼は唇を結んで、うっすら頬を赤く染めていた。

「す、みません……なんでもないです」

 ぱ、と手が離される。俺は今度こそ階段を上り出した。途中で何気なく振り返ると、彼はまだそこにいて、じっと俺を見上げていた。…………少し、冷たかっただろうか。
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