華麗なる一族
誰かの回想
物心ついたとき初めに知ったのは、涙は意外と熱いということだった。俺の涙じゃない。父の物でもない。母の物だった。
母は毎日泣いていた。
「ねえ、あの人が私を見てくれないの、どうすればいいのかしら」
毎日そんな言葉を吐いては、またその事実に一人泣いていた。母さんは俺に対して優しかったから、こんな人を無視するなんて俺の父さんは酷い人だと思っていたんだ。メイドもみんなそう言っていたし。
それで、俺が父さんと話をつけてやる! なんて、息まいて部屋を飛び出したのが多分三歳とかその辺のころ。いやあ、やっぱ子どもって強いよね。超無鉄砲。危ない。
薔薇園を抜けて、テラスに出て、すっころんで泣いて、そこで慌ててかけ寄ってきた人がいた。そう、父さんだ。
「おい、大丈夫か?」
俺は最初、彼は客か何かだと思ったんだ。だって彼はたった十七歳の少年だったから。いいとこ二十歳くらいにしか見えなくて、んで、知らない人だったからもっと泣いた。
「まて、泣くなよ……弱ったな。どうしよう。……頭とか、撫でれば落ち着くか?」
少年は実に不器用で、手つきも言葉も下手くそだったが、その手の温度だけはいい感じの暖かさだった。それで俺は泣き止んだ。単純だろ? 子どもだからな。
泣き止んだ俺は、父の所在を聞くため、「アノヒト」とやらを知っているか少年に尋ねた。そうしたら当然だが「誰だ?」と聞かれたので、こいつは情報を持ってないな、と俺は判断した。コントのようなやり取りだが、俺はアノヒトが父の名前だと思っていたので仕方のないことだった。
「まったく、アノヒトをしらないとはけしからんな!」
「お前も知らないだろ……偉そうな幼児だな」
少年は呆れたように言った。それをきいて、俺は閃いた。
「しらないといえば、おれはまだおまえのなまえをきいていなかったな! ちなみにおれはベンジャミンだ!」
「知ってる」
「……なんで!? ちょうのうりょくしゃ?」
俺は非常に驚いたが、少年はそれを鼻で笑った。そして、
「デイビッド」
とだけ言った。ぽかんとする俺を見て、俺の名前だ、と少年が付け加えた。ふむ、と俺は考えた。
「デイビッド」
「なんだ」
「デイビッド」
「……どうした」
「デイビッド~~~~~!!」
俺は叫んだ。直後、うるさいと少年がぼやいた。
こうして俺たちのちょっと変わった形の関係がスタートした。
「デイビッドはさあ、どこからきたの?」
「逆にお前はどこから来たんだ」
「ばらがいっぱいさいてるほう!」
質問に質問で返されたにもかかわらず、俺は特に気にせず元気いっぱいに答えた。それを聞いてデイビッドは肩の力を抜いた。
「俺は向こうの……噴水のほうだ」
デイビッドの指さす先を見ると、確かに噴水と、それから小さめの扉が見えた。
「なんであれちっちゃいの?」
「裏口だからだな」
「デイビッド、にげてきたの?」
その質問に、デイビッドは頬をゆがめた。
「……そうだな」
逃げたいな、とデイビッドは囁いた。その顔があまりにも悲しそうだったので、俺は悲しくなった。自分でいうのもなんだが、俺は共感力が強いお子さんだった。
「……そんな顔するなよ」
デイビッドが悲しそうに笑って、俺を抱きしめた。
「おれ、あたまなでてあげようか?」
俺は訊ねた。どうにか嬉しい気持ちで笑ってほしいな、と思った。デイビッドは目を丸くした後、一つ頷いた。
いいこだな、と言いながら膝の上に立って頭をなでた。さっきたすけてくれてありがとうな、とも言った。デイビッドは静かに俯いていた。俺は前髪の隙間から落ちる雫を見ないふりしてやった。
それから一週間くらいだったか過ぎた後、俺は初めて母さんが一回も泣いていない日を体験した。メイドたち曰く、今日の晩にアノヒトが母さんのもとに訪れるらしい。俺はその時漸くアノヒトの存在を思い出した。デイビッドに会ってから忘れ去っていたのだが、どうにかなったらしい。俺の日ごろの行いかな……と鏡に格好つけた後、俺は喜びのダンスを披露した。メイドにもてはやされた。
そして運命の夜、アノヒトを見ようとしたら、メイドに止められた。
「いけませんよベンジャミンさま、奥様と旦那様の逢瀬を邪魔してしまいます。……旦那様は明日の朝までいらっしゃいますから、そのときにお会いなさいまし」
俺は口をへの字に曲げたが、メイドが代わりに絵本を五回も読んでくれるというので、喜んで部屋に戻った。戻っちゃいけなかったかもな、と今では思う。
翌朝、俺は母さんの部屋の前で張っていた。ここなら確実にアノヒトを捕まえられる、と思ったのだ。どんな奴かな。でかいかな。でかいと首が痛くなるからちょっと大変だな、と想像を膨らませたところで、きい、とドアが鳴いた。きた! 俺は身構え、そして……そのまま固まった。
「……デイビッド?」
茫然と呟く俺を見て、デイビッドは息をのみ__そのまま走って逃げ去った。それを見て俺の硬直が解ける。
「まって!」
俺は走った。走った。薔薇園を抜けて、テラスに出て、そこで転んだ。だん、と我ながら痛そうな音が鳴り、デイビッドは振り返った。そして__
「大丈夫か!?」
そのまま走り寄ってきた。必死な顔をしたその姿を見て、母さんの悲しみの原因とか、俺の寂しさとか、そういうのが全部どうでもよくなっちゃって、俺は
「デイビッド!」
と言いながら抱き着いた。デイビッドがくしゃりと顔をゆがめた。それでそのまま俺たちは泣いた。
「デイビッドはさあ、おれのとうさんだったの? かあさんと、けっこんしてるんだね」
涙が落ち着いてから、俺は聞いた。
「ちが……いや、違わない。それは違わないけど、俺はあの女の旦那じゃない」
デイビッドが言った。なんでだ。母さんは泣いてるのに、と俺は問い詰めたくなったが、デイビッドの暗い暗い瞳に気圧され、俺は何も言わなかった。今思えば、本当に英断だったと思う。いい仕事したよ、過去の俺。そんな俺を見て、デイビッドは話しだした。
「俺、売られたんだ。十三の時に。ここんち、金持ちだろ? でも、一人娘は顔の理想が高いだとかで婿がいなかった。だから、村で一番きれいな顔してた俺が、援助金をもらう代わりとして差し出されたわけ。……サイアクだよ。なんで好きでもないやつと夫婦になんなきゃいけないんだよ。俺、俺、まだ子供なのに」
其処まで話すとデイビッドは泣いた。父さんも母さんも嫌いだ、みんな嫌いだ、誰も俺のことなんか愛していないんだ、と言って。手で顔を拭っても拭っても、涙が隙間から零れていく。
「あの女だって、俺の顔しか見てない。信じられるか、あいつ俺と会ってるとき、俺の顔だけ見て、後はずっと黙りこくってるんだ。いやだ。俺がどんどん汚れてく気がする。気持ち悪くて毎日洗ってるのに全然取れない。全然、ぜんぜん……」
デイビッドがぼろぼろと泣いているのを見て、俺は悲しくなった。
「あのな、デイビッド。おれ、いままであいにきてくれないとうさんのこときらいだったんだ」
追い打ちをかけるような俺の言葉に、デイビットは俯いた。うん、と言った。でも、これにはまだ続きがあった。
「でもな、あのな、デイビッドにあってからさみしくなくなったんだ。だからな、デイビッドがこれからいっしょにいてくれるなら、おれ、デイビッドのことすきになるよ」
「……本当に?」
デイビッドは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになってさえその顔は綺麗で、それがひどく辛かった。悲しい気持ちを紛らわすように、ほんとうだぞ、といって俺は頭をなでた。
「絶対一緒だからな」
そう言ったのがどちらだったかは、もはや覚えていない。
それから大体十か月後に、弟が生まれた。どきどきしながら俺はちびっこい掌に触れた。
「!」
俺の指を、柔らかくてクリームパンみたいな形をした手がきゅっと握る。
「!!!……!!!!!!!」
真顔でデイビッドを振り返ると、はいはい分かった可愛いんだな、と苦笑された。それに何度も頷く。可愛い! 可愛い!
「でも一番愛してるのは俺だな?」
にっこりと笑顔で脅され、俺はまた何度も頷く羽目になった。怖い! 怖い! 自分の息子その一からの愛を息子その二と競うな!
デイビッドは少し、少しというか大分、俺に依存しているところがあった。まあそうだよな……未成年のうちにあんな事されりゃそうなるよな……。しかも多感な思春期の初め。その上使用人は母さんの味方だ。周りは敵だらけだった。それで味方は息子だけだと思い詰めたデイビッドは、後々とんでもないことをやらかすのだが、それは置いておこう。
ともかく、デイビッドは俺に依存していた。そして俺はそれを受け入れていた。なんでって? 無償の愛ってのは子から親に向かうもんなんだ。親がどんなのであろうと子どもはどうしても好きになってしまうし、まして親から一番に愛されるというのは子どもにとって最大の名誉だ。嫌えるはずがなかった。
そのせいでアルバートは俺を憎んだ。
なんで兄さんばかり、と言われた。自分がどれだけ頑張っても見てくれない。勉強も、運動も、僕は兄さんよりできるのに。俺は悩んだ。デイビッドが求めているのは愛であって能力ではない。ふむ。
「愛している、と言ってみたらどうだね」
俺はアルバートにアドバイスをした。効果は劇的だった。正直、助かったと思った。俺はその頃もう十一歳になっていて、自分の足で歩いてみたい頃合いだったから。それに弟妹も増えていた。双子の弟たちと、そのすぐ下の妹、それから末の男の子がもうじき生まれようとしていた。
デイビッドは母さんが嫌いだった。母さんはデイビットが好きだった。母さんのほうが、立場が上だった。それだけの話で、俺の弟妹はどんどん増えた。子が増えるたび、デイビッドは俺に縋って泣いた。俺はその頭を撫でることしかできなかった。地獄みたいだと思った。
そして末の弟が生まれたとき、転機は起こった。
母さんが駆け落ちした。相手は若い庭師の男。いつまでも冷たいデイビッドに嫌気がさしたのだそうだ。さもありなん。
「ああ、やった、やった……! ついに、ついにだ!」
当主としての権限で全使用人を解雇した後、だだっ広くなった屋敷でデイビッドに抱きしめられながら、俺は外の世界というものを知った。それまでの俺の人生というのはこの屋敷の中で完結していたのだが、この庭の外、それを俺は初めて意識した。
「どうなっているんだろう。……何がいるんだろう……! 見てみたい!」
いや、見るんだ、この目で!
俺は決意した。末弟が七歳になったら。その時アルバートは十五歳。もう成人間際だから、きっと大丈夫。その時になったら、俺は屋敷を出る。世界を見に行くんだ。
使用人は解雇されたが、それでは職務が何も回らない。デイビッドは有能で、十三歳から仕込まれた結果十分財をつなげていけるだけの才を発揮したが、さすがに家事は学んでいない。よって新しく最低限の使用人を雇った。昔のこの屋敷のことを何も知らない者を。そして、デイビッドや弟妹の目にも触れないくらい、影に徹して作業できるものを。
俺はほくそ笑んだ。
「ベン兄さん!」
セオドアが俺に抱き着く。軽く回って勢いを削ぎ、そのあと抱き上げる。うーん可愛い。十二歳の軽い体など成人男性である俺にとってはへでもなく持ち上げられる。
「なんだなんだどうしたセオドア~」
自分でも顔がにやけている自覚はあった。案の定セオドアには変な顔、とからかわれた。その後ろから、ゼイゼイと息を切らしてオリバーがやって来る。っはー可愛い。
「ヘイ! オリバーも来い!」
俺は声をかけたが、クールなオリバーは結構ですと首を横に振った。
「それより兄さん、アンとリックを見ませんでしたか?」
「えっ二人とも居ないのか?」
俺は目を瞬いた。アナベルはちょっとのんびりさんだがリチャードはしっかり者だし、二人とも双子に比べて大人しいので急に居なくなることはないはずだ。
「屋敷内はもう全部見たのか?」
俺が問えば、双子は全く同じ動きで頷いた。うーん……それなら庭か? 庭は俺とデイビッド以外は立ち入らないはずだが。そうそう、弟妹が成長するにつれ、二人きりの場所でなければデイビッドのことは父さんと呼ぶようになった。父親を呼び捨てはちょっと教育に悪いかもしれないと思ってな。
「じゃあ俺が庭探しに行ってくるよ。二人は戻ってケーキの飾りつけしてな」
俺は二人の頭を撫でると、そのまま廊下を歩いた。
「おーいアナベル、リチャード! どこだー?」
声を張り上げて庭を歩く。今日は庭師が来ない日なので気楽だ。何しても誰にもばれない。
「ベン兄さん?」
果たして二人はすぐに見つかった。薔薇園の中にいる。えっ妖精さんかな?
「どうしてこんなところにいるんだ二人とも。セオドアとオリバーが探してたぞ」
俺が訊ねると二人は縮こまり、
「「ごめんなさい……」」
と謝った。曰く、リチャードの胸ポケットの飾る薔薇が欲しかったとかで、探しに来てしまったらしい。まあ父さんに見つかる前に帰ればいいだろ、俺も選ぶの手伝うよ、とかなんとか言いながらキュートな二人と一緒に薔薇の前にしゃがむ。
「そういえば、ベン兄さん」
リチャードが訊く。
「どうして僕たちは屋敷から出てはいけないんですか?」
「ああそれか。ううんと、説明が難しいんだけど……」
俺は少し考えこむ。母さんの不倫とかデイビッドが売られた話とか言わない方がいいよな。そしておもむろに口を開いた。
「えっと、父さんはまずいろんな人に酷いことをされてだな。それでその酷いことをしてきた人を追い出したんだけど、その人たちに悪口を言われているんだ、今」
「えっかわいそう……」
泣きそうな顔をするアナベル。リチャードも深刻そうな顔でこちらを見た。
「それで、もしみんなが傷つけられたら嫌だな、あともう誰にも嫌われたくないな、と思って、誰も屋敷から出られないようにしているんだ」
「使用人さんが少ないのもそれが理由ですか?」
「それもあるし、あの人にとって使用人って存在自体がもうトラウマっていうのもあるし、好き嫌いが激しいっていうのもある」
ふむふむ、と頷く二人に、俺は訊ねた。
「なあ、二人は父さん好きか?」
「大好きですよ」
「私もー」
二人が当たり前のように答える。そうか。……デイビットももう、愛してくれる人が十分にできたな。それならやはり、問題ないだろう。
俺は今晩、この屋敷を出ていく。もう、すべて整理はついた。
「父さん。俺、この屋敷を出るよ」
楽しい晩餐会も終わり、ホールに全員出たタイミングで、俺は宣言した。外は嵐。あまり良いコンディションとは言えないが、有言実行だ。
「今何て言った」
予想通り、デイビッドの反対。ここまではいい。
「外の世界が見たいんだ」
ずっと決めていたことだったんだ、外にもう準備はしてある、もう弟妹もいるし大丈夫だろう。そんなことを並べ立てる俺と、対峙しているデイビッドとを、アルバートがじっと見つめている。隅の方で、弟妹がおびえているのが見えた。年長者二人が喧嘩してるの怖いよな、ごめんな。あとちょっとで終わるから、勘弁してくれよな。
「それに、父さんもいい加減俺離れするべきだ。そう思わない?」
俺は問う。答えは知っている。
「思わない」
ほら、やっぱり。反対された。そのままデイビッドが手を振り上げた。暴力に走るつもりだアイツ。親父にも今までぶたれたことないのに! なんてね、と俺が外に出ようとしたその瞬間、光が激しく辺りを包んだ。雷だ。雷が屋敷に直撃した。まずい。もしかすると、庭が。そこまで予想した途端、今度は赤い炎が辺りを包むのが見えた。ああ、最悪の事態だ。
この屋敷はアホかと思うほど広い。そして頑丈だ。だが、ひいばあさんたってのご希望で、ここの、玄関ホールだけは木造なのだ。なんでもシノワズリとやらが好きだったらしい。エレガントは非常時に役に立たねえ、と俺は吐き捨てたくなった。
「逃げるぞ! 二階に上がりさえすれば勝ちだ!」
俺は叫んだ。一斉に走り出すが、隅の方に固まっていた弟妹は、まだ足がもつれているのか進めない。俺とデイビッドとアルバートがそれぞれの首根っこを引っ掴んで、手分けして走る。
「話は後でにするからな!」
俺はそういったが、その時アルバートが俺を見て叫んだ。
「兄さん、後ろ!」
「は……」
燃え落ちた木材が俺に突き刺さろうとしている。デイビッドが抱き上げていたセオドアをアルバートに受け渡し、俺のほうに走ってくるのが見える。ああ、間に合わないな。やけにスローになった視界の中、俺は抱えていたリチャードをどうにか突き飛ばし、そして__ああ、熱いな、と思ったところで意識を飛ばした。あの日の涙よりずっと熱いのに、不思議と気分はずいぶんマシな気がした。
物心ついたとき初めに知ったのは、涙は意外と熱いということだった。俺の涙じゃない。父の物でもない。母の物だった。
母は毎日泣いていた。
「ねえ、あの人が私を見てくれないの、どうすればいいのかしら」
毎日そんな言葉を吐いては、またその事実に一人泣いていた。母さんは俺に対して優しかったから、こんな人を無視するなんて俺の父さんは酷い人だと思っていたんだ。メイドもみんなそう言っていたし。
それで、俺が父さんと話をつけてやる! なんて、息まいて部屋を飛び出したのが多分三歳とかその辺のころ。いやあ、やっぱ子どもって強いよね。超無鉄砲。危ない。
薔薇園を抜けて、テラスに出て、すっころんで泣いて、そこで慌ててかけ寄ってきた人がいた。そう、父さんだ。
「おい、大丈夫か?」
俺は最初、彼は客か何かだと思ったんだ。だって彼はたった十七歳の少年だったから。いいとこ二十歳くらいにしか見えなくて、んで、知らない人だったからもっと泣いた。
「まて、泣くなよ……弱ったな。どうしよう。……頭とか、撫でれば落ち着くか?」
少年は実に不器用で、手つきも言葉も下手くそだったが、その手の温度だけはいい感じの暖かさだった。それで俺は泣き止んだ。単純だろ? 子どもだからな。
泣き止んだ俺は、父の所在を聞くため、「アノヒト」とやらを知っているか少年に尋ねた。そうしたら当然だが「誰だ?」と聞かれたので、こいつは情報を持ってないな、と俺は判断した。コントのようなやり取りだが、俺はアノヒトが父の名前だと思っていたので仕方のないことだった。
「まったく、アノヒトをしらないとはけしからんな!」
「お前も知らないだろ……偉そうな幼児だな」
少年は呆れたように言った。それをきいて、俺は閃いた。
「しらないといえば、おれはまだおまえのなまえをきいていなかったな! ちなみにおれはベンジャミンだ!」
「知ってる」
「……なんで!? ちょうのうりょくしゃ?」
俺は非常に驚いたが、少年はそれを鼻で笑った。そして、
「デイビッド」
とだけ言った。ぽかんとする俺を見て、俺の名前だ、と少年が付け加えた。ふむ、と俺は考えた。
「デイビッド」
「なんだ」
「デイビッド」
「……どうした」
「デイビッド~~~~~!!」
俺は叫んだ。直後、うるさいと少年がぼやいた。
こうして俺たちのちょっと変わった形の関係がスタートした。
「デイビッドはさあ、どこからきたの?」
「逆にお前はどこから来たんだ」
「ばらがいっぱいさいてるほう!」
質問に質問で返されたにもかかわらず、俺は特に気にせず元気いっぱいに答えた。それを聞いてデイビッドは肩の力を抜いた。
「俺は向こうの……噴水のほうだ」
デイビッドの指さす先を見ると、確かに噴水と、それから小さめの扉が見えた。
「なんであれちっちゃいの?」
「裏口だからだな」
「デイビッド、にげてきたの?」
その質問に、デイビッドは頬をゆがめた。
「……そうだな」
逃げたいな、とデイビッドは囁いた。その顔があまりにも悲しそうだったので、俺は悲しくなった。自分でいうのもなんだが、俺は共感力が強いお子さんだった。
「……そんな顔するなよ」
デイビッドが悲しそうに笑って、俺を抱きしめた。
「おれ、あたまなでてあげようか?」
俺は訊ねた。どうにか嬉しい気持ちで笑ってほしいな、と思った。デイビッドは目を丸くした後、一つ頷いた。
いいこだな、と言いながら膝の上に立って頭をなでた。さっきたすけてくれてありがとうな、とも言った。デイビッドは静かに俯いていた。俺は前髪の隙間から落ちる雫を見ないふりしてやった。
それから一週間くらいだったか過ぎた後、俺は初めて母さんが一回も泣いていない日を体験した。メイドたち曰く、今日の晩にアノヒトが母さんのもとに訪れるらしい。俺はその時漸くアノヒトの存在を思い出した。デイビッドに会ってから忘れ去っていたのだが、どうにかなったらしい。俺の日ごろの行いかな……と鏡に格好つけた後、俺は喜びのダンスを披露した。メイドにもてはやされた。
そして運命の夜、アノヒトを見ようとしたら、メイドに止められた。
「いけませんよベンジャミンさま、奥様と旦那様の逢瀬を邪魔してしまいます。……旦那様は明日の朝までいらっしゃいますから、そのときにお会いなさいまし」
俺は口をへの字に曲げたが、メイドが代わりに絵本を五回も読んでくれるというので、喜んで部屋に戻った。戻っちゃいけなかったかもな、と今では思う。
翌朝、俺は母さんの部屋の前で張っていた。ここなら確実にアノヒトを捕まえられる、と思ったのだ。どんな奴かな。でかいかな。でかいと首が痛くなるからちょっと大変だな、と想像を膨らませたところで、きい、とドアが鳴いた。きた! 俺は身構え、そして……そのまま固まった。
「……デイビッド?」
茫然と呟く俺を見て、デイビッドは息をのみ__そのまま走って逃げ去った。それを見て俺の硬直が解ける。
「まって!」
俺は走った。走った。薔薇園を抜けて、テラスに出て、そこで転んだ。だん、と我ながら痛そうな音が鳴り、デイビッドは振り返った。そして__
「大丈夫か!?」
そのまま走り寄ってきた。必死な顔をしたその姿を見て、母さんの悲しみの原因とか、俺の寂しさとか、そういうのが全部どうでもよくなっちゃって、俺は
「デイビッド!」
と言いながら抱き着いた。デイビッドがくしゃりと顔をゆがめた。それでそのまま俺たちは泣いた。
「デイビッドはさあ、おれのとうさんだったの? かあさんと、けっこんしてるんだね」
涙が落ち着いてから、俺は聞いた。
「ちが……いや、違わない。それは違わないけど、俺はあの女の旦那じゃない」
デイビッドが言った。なんでだ。母さんは泣いてるのに、と俺は問い詰めたくなったが、デイビッドの暗い暗い瞳に気圧され、俺は何も言わなかった。今思えば、本当に英断だったと思う。いい仕事したよ、過去の俺。そんな俺を見て、デイビッドは話しだした。
「俺、売られたんだ。十三の時に。ここんち、金持ちだろ? でも、一人娘は顔の理想が高いだとかで婿がいなかった。だから、村で一番きれいな顔してた俺が、援助金をもらう代わりとして差し出されたわけ。……サイアクだよ。なんで好きでもないやつと夫婦になんなきゃいけないんだよ。俺、俺、まだ子供なのに」
其処まで話すとデイビッドは泣いた。父さんも母さんも嫌いだ、みんな嫌いだ、誰も俺のことなんか愛していないんだ、と言って。手で顔を拭っても拭っても、涙が隙間から零れていく。
「あの女だって、俺の顔しか見てない。信じられるか、あいつ俺と会ってるとき、俺の顔だけ見て、後はずっと黙りこくってるんだ。いやだ。俺がどんどん汚れてく気がする。気持ち悪くて毎日洗ってるのに全然取れない。全然、ぜんぜん……」
デイビッドがぼろぼろと泣いているのを見て、俺は悲しくなった。
「あのな、デイビッド。おれ、いままであいにきてくれないとうさんのこときらいだったんだ」
追い打ちをかけるような俺の言葉に、デイビットは俯いた。うん、と言った。でも、これにはまだ続きがあった。
「でもな、あのな、デイビッドにあってからさみしくなくなったんだ。だからな、デイビッドがこれからいっしょにいてくれるなら、おれ、デイビッドのことすきになるよ」
「……本当に?」
デイビッドは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになってさえその顔は綺麗で、それがひどく辛かった。悲しい気持ちを紛らわすように、ほんとうだぞ、といって俺は頭をなでた。
「絶対一緒だからな」
そう言ったのがどちらだったかは、もはや覚えていない。
それから大体十か月後に、弟が生まれた。どきどきしながら俺はちびっこい掌に触れた。
「!」
俺の指を、柔らかくてクリームパンみたいな形をした手がきゅっと握る。
「!!!……!!!!!!!」
真顔でデイビッドを振り返ると、はいはい分かった可愛いんだな、と苦笑された。それに何度も頷く。可愛い! 可愛い!
「でも一番愛してるのは俺だな?」
にっこりと笑顔で脅され、俺はまた何度も頷く羽目になった。怖い! 怖い! 自分の息子その一からの愛を息子その二と競うな!
デイビッドは少し、少しというか大分、俺に依存しているところがあった。まあそうだよな……未成年のうちにあんな事されりゃそうなるよな……。しかも多感な思春期の初め。その上使用人は母さんの味方だ。周りは敵だらけだった。それで味方は息子だけだと思い詰めたデイビッドは、後々とんでもないことをやらかすのだが、それは置いておこう。
ともかく、デイビッドは俺に依存していた。そして俺はそれを受け入れていた。なんでって? 無償の愛ってのは子から親に向かうもんなんだ。親がどんなのであろうと子どもはどうしても好きになってしまうし、まして親から一番に愛されるというのは子どもにとって最大の名誉だ。嫌えるはずがなかった。
そのせいでアルバートは俺を憎んだ。
なんで兄さんばかり、と言われた。自分がどれだけ頑張っても見てくれない。勉強も、運動も、僕は兄さんよりできるのに。俺は悩んだ。デイビッドが求めているのは愛であって能力ではない。ふむ。
「愛している、と言ってみたらどうだね」
俺はアルバートにアドバイスをした。効果は劇的だった。正直、助かったと思った。俺はその頃もう十一歳になっていて、自分の足で歩いてみたい頃合いだったから。それに弟妹も増えていた。双子の弟たちと、そのすぐ下の妹、それから末の男の子がもうじき生まれようとしていた。
デイビッドは母さんが嫌いだった。母さんはデイビットが好きだった。母さんのほうが、立場が上だった。それだけの話で、俺の弟妹はどんどん増えた。子が増えるたび、デイビッドは俺に縋って泣いた。俺はその頭を撫でることしかできなかった。地獄みたいだと思った。
そして末の弟が生まれたとき、転機は起こった。
母さんが駆け落ちした。相手は若い庭師の男。いつまでも冷たいデイビッドに嫌気がさしたのだそうだ。さもありなん。
「ああ、やった、やった……! ついに、ついにだ!」
当主としての権限で全使用人を解雇した後、だだっ広くなった屋敷でデイビッドに抱きしめられながら、俺は外の世界というものを知った。それまでの俺の人生というのはこの屋敷の中で完結していたのだが、この庭の外、それを俺は初めて意識した。
「どうなっているんだろう。……何がいるんだろう……! 見てみたい!」
いや、見るんだ、この目で!
俺は決意した。末弟が七歳になったら。その時アルバートは十五歳。もう成人間際だから、きっと大丈夫。その時になったら、俺は屋敷を出る。世界を見に行くんだ。
使用人は解雇されたが、それでは職務が何も回らない。デイビッドは有能で、十三歳から仕込まれた結果十分財をつなげていけるだけの才を発揮したが、さすがに家事は学んでいない。よって新しく最低限の使用人を雇った。昔のこの屋敷のことを何も知らない者を。そして、デイビッドや弟妹の目にも触れないくらい、影に徹して作業できるものを。
俺はほくそ笑んだ。
「ベン兄さん!」
セオドアが俺に抱き着く。軽く回って勢いを削ぎ、そのあと抱き上げる。うーん可愛い。十二歳の軽い体など成人男性である俺にとってはへでもなく持ち上げられる。
「なんだなんだどうしたセオドア~」
自分でも顔がにやけている自覚はあった。案の定セオドアには変な顔、とからかわれた。その後ろから、ゼイゼイと息を切らしてオリバーがやって来る。っはー可愛い。
「ヘイ! オリバーも来い!」
俺は声をかけたが、クールなオリバーは結構ですと首を横に振った。
「それより兄さん、アンとリックを見ませんでしたか?」
「えっ二人とも居ないのか?」
俺は目を瞬いた。アナベルはちょっとのんびりさんだがリチャードはしっかり者だし、二人とも双子に比べて大人しいので急に居なくなることはないはずだ。
「屋敷内はもう全部見たのか?」
俺が問えば、双子は全く同じ動きで頷いた。うーん……それなら庭か? 庭は俺とデイビッド以外は立ち入らないはずだが。そうそう、弟妹が成長するにつれ、二人きりの場所でなければデイビッドのことは父さんと呼ぶようになった。父親を呼び捨てはちょっと教育に悪いかもしれないと思ってな。
「じゃあ俺が庭探しに行ってくるよ。二人は戻ってケーキの飾りつけしてな」
俺は二人の頭を撫でると、そのまま廊下を歩いた。
「おーいアナベル、リチャード! どこだー?」
声を張り上げて庭を歩く。今日は庭師が来ない日なので気楽だ。何しても誰にもばれない。
「ベン兄さん?」
果たして二人はすぐに見つかった。薔薇園の中にいる。えっ妖精さんかな?
「どうしてこんなところにいるんだ二人とも。セオドアとオリバーが探してたぞ」
俺が訊ねると二人は縮こまり、
「「ごめんなさい……」」
と謝った。曰く、リチャードの胸ポケットの飾る薔薇が欲しかったとかで、探しに来てしまったらしい。まあ父さんに見つかる前に帰ればいいだろ、俺も選ぶの手伝うよ、とかなんとか言いながらキュートな二人と一緒に薔薇の前にしゃがむ。
「そういえば、ベン兄さん」
リチャードが訊く。
「どうして僕たちは屋敷から出てはいけないんですか?」
「ああそれか。ううんと、説明が難しいんだけど……」
俺は少し考えこむ。母さんの不倫とかデイビッドが売られた話とか言わない方がいいよな。そしておもむろに口を開いた。
「えっと、父さんはまずいろんな人に酷いことをされてだな。それでその酷いことをしてきた人を追い出したんだけど、その人たちに悪口を言われているんだ、今」
「えっかわいそう……」
泣きそうな顔をするアナベル。リチャードも深刻そうな顔でこちらを見た。
「それで、もしみんなが傷つけられたら嫌だな、あともう誰にも嫌われたくないな、と思って、誰も屋敷から出られないようにしているんだ」
「使用人さんが少ないのもそれが理由ですか?」
「それもあるし、あの人にとって使用人って存在自体がもうトラウマっていうのもあるし、好き嫌いが激しいっていうのもある」
ふむふむ、と頷く二人に、俺は訊ねた。
「なあ、二人は父さん好きか?」
「大好きですよ」
「私もー」
二人が当たり前のように答える。そうか。……デイビットももう、愛してくれる人が十分にできたな。それならやはり、問題ないだろう。
俺は今晩、この屋敷を出ていく。もう、すべて整理はついた。
「父さん。俺、この屋敷を出るよ」
楽しい晩餐会も終わり、ホールに全員出たタイミングで、俺は宣言した。外は嵐。あまり良いコンディションとは言えないが、有言実行だ。
「今何て言った」
予想通り、デイビッドの反対。ここまではいい。
「外の世界が見たいんだ」
ずっと決めていたことだったんだ、外にもう準備はしてある、もう弟妹もいるし大丈夫だろう。そんなことを並べ立てる俺と、対峙しているデイビッドとを、アルバートがじっと見つめている。隅の方で、弟妹がおびえているのが見えた。年長者二人が喧嘩してるの怖いよな、ごめんな。あとちょっとで終わるから、勘弁してくれよな。
「それに、父さんもいい加減俺離れするべきだ。そう思わない?」
俺は問う。答えは知っている。
「思わない」
ほら、やっぱり。反対された。そのままデイビッドが手を振り上げた。暴力に走るつもりだアイツ。親父にも今までぶたれたことないのに! なんてね、と俺が外に出ようとしたその瞬間、光が激しく辺りを包んだ。雷だ。雷が屋敷に直撃した。まずい。もしかすると、庭が。そこまで予想した途端、今度は赤い炎が辺りを包むのが見えた。ああ、最悪の事態だ。
この屋敷はアホかと思うほど広い。そして頑丈だ。だが、ひいばあさんたってのご希望で、ここの、玄関ホールだけは木造なのだ。なんでもシノワズリとやらが好きだったらしい。エレガントは非常時に役に立たねえ、と俺は吐き捨てたくなった。
「逃げるぞ! 二階に上がりさえすれば勝ちだ!」
俺は叫んだ。一斉に走り出すが、隅の方に固まっていた弟妹は、まだ足がもつれているのか進めない。俺とデイビッドとアルバートがそれぞれの首根っこを引っ掴んで、手分けして走る。
「話は後でにするからな!」
俺はそういったが、その時アルバートが俺を見て叫んだ。
「兄さん、後ろ!」
「は……」
燃え落ちた木材が俺に突き刺さろうとしている。デイビッドが抱き上げていたセオドアをアルバートに受け渡し、俺のほうに走ってくるのが見える。ああ、間に合わないな。やけにスローになった視界の中、俺は抱えていたリチャードをどうにか突き飛ばし、そして__ああ、熱いな、と思ったところで意識を飛ばした。あの日の涙よりずっと熱いのに、不思議と気分はずいぶんマシな気がした。
