友達百年生きてくれ
その日は梅雨の盛りで、土砂降りの雨が降っていた。陸はさっさと洗濯物を仕舞い込んで窓を閉め切った部屋にいたので、急に鳴ったインターホンにかなり驚いた。
誰だろう、と考えていると、すぐにインターホンは扉を連続で激しく叩く音へと変わった。ので、大也だと分かった。陸の数少ない知り合いの中で、借金取りのような勢いでドアを叩く暴挙に出るのは大也だけである。
陸が扉を開けた瞬間、わかりやすく予定通りの男が立っているのが見えた。
「おい大也。もっとドアを大事にしてくれよ、賃貸なんだぞここ……」
小言を言う陸の方を少しも気に留めず、濡れた髪から滴る水滴を拭いもしないまま、大也はややくぐもった声で簡潔に用件を述べた。
「家居られなくなった。泊めて」
少しの間でいいんだ。すぐ出ていくから。
「久しぶりだなあ、陸くんの家」
空々しいほど普段通りの軽薄な明るい声が響く。とりあえず風呂に突っ込んだ友人に着替えを手渡すべく近くにいた陸は、ひたすら黙り込んでいた。
悪い予感がする。今までとは比例にならないほど、嫌な予感が。
「陸くんの家は風呂とトイレが一緒の場所にあるんだね」
「…………まあ、安アパートにはありがちな間取りだよ。こういう言い方は叔父さんには悪いけど」
「そうなんだ! 俺あの家出たことなかったからさ、知らなかった」
「……」
やっと重い口を開いたが、表情は依然沈み切っている。そんな陸とは反対に、大也は気持ちの悪いほどハイテンションだった。
「ねえ俺の家の間取り知りたい?」
「あんまり。行くことももう二度となさそうだし」
「やっぱ知りたいよな! 陸くんは特別だから教えてあげる」
「話を聞け」
「俺の家の間取りはさ」
バン、とシャワールームの扉が叩かれ、陸は肩を跳ねさせた。大也が拳で叩いたらしい。おい人の家に何してくれてんだ、と文句が出そうになるが、それより先に大也は口を開いた。
「一階にリビングとダイニング、風呂がある。親の寝る場所も。二階建て。二階には俺と妹の部屋、あと物置」
「……だからいいって」
「だから父親が俺を殴るときにはいつも階段を上って、俺を引きずり出しに来る。俺の部屋は階段のすぐそばで、足音がよく聞こえる。先に母親と揉めるから、その音が聞こえたら逃げなきゃいけないのに、階段の下に親がいるから逃げられない」
「…………」
陸は思わずその光景を想像してしまった。怒鳴り声と破壊音。足音。それを聞いても何もできず、ただ体を硬直させている大也。いや、これはただの想像じゃなかった。そこには、初めて陸が大也の家に行った日の記憶が紛れもなく含まれていた。
「でも、もうね、俺は何もされないんだ」
「…………それは、今僕の家にいるから?」
「いや。俺の家にいても何もされない。だって、今の王様は俺だから」
自然と話に引き込まれていた陸に、大也は痛みを叩きつけるように言った。それは、あの日に陸があたりをつけた答えと全く同じだった。
「中学の時に抵抗したら手が父親に当たった。そのあと頭が白く染まって__で、いつのまにか俺の両親は手足の一部が不自由になって、俺は少年院に入った」
過剰防衛、だってさ。大也が笑った気配がした。陸は何も言わずに聞いていた。何も言うことはできなかった。
「戻ってきたらびっくりしたよ。俺以外の三人は仲良し家族だった。妹の文化祭も行ったんだって。俺には一度も面会が来なかった。俺だけが異分子で____でも、そんなの許せなかった」
たった一人、元の暴力と地獄に残された大也は、それから一年間破壊と暴虐の限りを尽くした。親を打ち据え妹を怯えさせ犯罪に手を染め、やがて一度は修復された三人家族が壊れた四人家族に戻るまで。
その再度破壊された家が、陸の見たものだった。陸は再演された舞台を目にしていたのだ。
「でもね、それも今日で終わりだって。妹、妊娠したんだ。新しい家族ができるみたい」
「え!? でも、妹ってまだいいとこ高校生じゃ…………」
「うん。でも、産むんだって。親もサポートするらしくて。気持ち悪いよね。自分はまともに育てられなかったくせに。妹も、まだまともな大人になってないくせにガキ産むんだよ」
不意に予想していなかった言葉を投げられ思わず問い返せば、大也は吐き捨てるように肯定した。あまりにサイクルの早い話だと陸も思ったが、大也の態度はいささか硬質にすぎる。陸は窘めるべきか迷って__でも言わないでおいた。きっと今、大也は傷ついているんだと思った。
ここまで柔らかい部分を見せられる相手が、この日彼にどれだけ居ただろうか。恐らく陸しかいなかった。大也はクラスメイトには敬遠され、あらゆる友人とつるむのをやめ、今日家族とも縁を切ったのだった。
自分しかいないのだ。
陸の頭にその一言が駆け巡った。脳の全てがちかちかと瞬いているようだった。しかしそれは、決して昏い喜びや優越感ではなかった。ただ、ひたすらな責任感だけが陸の体を覆っていた。クソ、と陸は舌打ちしたい気分だった。あいもかわらず僕一人に二人分の命運が任されている。
落ち着け。間違えるな。自分に言い聞かせる。
「……それで、大也は…………どう思ったんだ」
「え? だから、気持ち悪いなって。それで出てきた」
深呼吸して、陸は慎重に問いかけた。大也は奇妙なほど軽い調子で答えた。
ずっと、ざあざあとシャワーの音が鳴っていた。二人が会話をしている最中、陸が脱衣所に服を届けに来た時から、ずっと。
脱衣所には服が一枚も置かれていなかった。陸の服だけでなく、大也の服も。
陸は聞こえないようため息をついて、一気にシャワールームのドアを開けた。あ、と困ったような声がした。
「……服も脱がずに泣いてるなら、もっと分かりやすく僕に縋ればよかったのに」
「泣いたあと良い方に転がったこと無かったんだ。…………今俺めちゃくちゃ濡れてるけど、抱きしめてくれるの」
「別に濡れるくらいいいよ。僕も後で風呂に入るから」
雨の中かシャワーの中くらいでしか泣けないらしい友人が蹲っているのを、陸は黙って抱きしめた。きっとこれで正解だ。あ、でも水道代だけはあとで請求してやろう。
誰だろう、と考えていると、すぐにインターホンは扉を連続で激しく叩く音へと変わった。ので、大也だと分かった。陸の数少ない知り合いの中で、借金取りのような勢いでドアを叩く暴挙に出るのは大也だけである。
陸が扉を開けた瞬間、わかりやすく予定通りの男が立っているのが見えた。
「おい大也。もっとドアを大事にしてくれよ、賃貸なんだぞここ……」
小言を言う陸の方を少しも気に留めず、濡れた髪から滴る水滴を拭いもしないまま、大也はややくぐもった声で簡潔に用件を述べた。
「家居られなくなった。泊めて」
少しの間でいいんだ。すぐ出ていくから。
「久しぶりだなあ、陸くんの家」
空々しいほど普段通りの軽薄な明るい声が響く。とりあえず風呂に突っ込んだ友人に着替えを手渡すべく近くにいた陸は、ひたすら黙り込んでいた。
悪い予感がする。今までとは比例にならないほど、嫌な予感が。
「陸くんの家は風呂とトイレが一緒の場所にあるんだね」
「…………まあ、安アパートにはありがちな間取りだよ。こういう言い方は叔父さんには悪いけど」
「そうなんだ! 俺あの家出たことなかったからさ、知らなかった」
「……」
やっと重い口を開いたが、表情は依然沈み切っている。そんな陸とは反対に、大也は気持ちの悪いほどハイテンションだった。
「ねえ俺の家の間取り知りたい?」
「あんまり。行くことももう二度となさそうだし」
「やっぱ知りたいよな! 陸くんは特別だから教えてあげる」
「話を聞け」
「俺の家の間取りはさ」
バン、とシャワールームの扉が叩かれ、陸は肩を跳ねさせた。大也が拳で叩いたらしい。おい人の家に何してくれてんだ、と文句が出そうになるが、それより先に大也は口を開いた。
「一階にリビングとダイニング、風呂がある。親の寝る場所も。二階建て。二階には俺と妹の部屋、あと物置」
「……だからいいって」
「だから父親が俺を殴るときにはいつも階段を上って、俺を引きずり出しに来る。俺の部屋は階段のすぐそばで、足音がよく聞こえる。先に母親と揉めるから、その音が聞こえたら逃げなきゃいけないのに、階段の下に親がいるから逃げられない」
「…………」
陸は思わずその光景を想像してしまった。怒鳴り声と破壊音。足音。それを聞いても何もできず、ただ体を硬直させている大也。いや、これはただの想像じゃなかった。そこには、初めて陸が大也の家に行った日の記憶が紛れもなく含まれていた。
「でも、もうね、俺は何もされないんだ」
「…………それは、今僕の家にいるから?」
「いや。俺の家にいても何もされない。だって、今の王様は俺だから」
自然と話に引き込まれていた陸に、大也は痛みを叩きつけるように言った。それは、あの日に陸があたりをつけた答えと全く同じだった。
「中学の時に抵抗したら手が父親に当たった。そのあと頭が白く染まって__で、いつのまにか俺の両親は手足の一部が不自由になって、俺は少年院に入った」
過剰防衛、だってさ。大也が笑った気配がした。陸は何も言わずに聞いていた。何も言うことはできなかった。
「戻ってきたらびっくりしたよ。俺以外の三人は仲良し家族だった。妹の文化祭も行ったんだって。俺には一度も面会が来なかった。俺だけが異分子で____でも、そんなの許せなかった」
たった一人、元の暴力と地獄に残された大也は、それから一年間破壊と暴虐の限りを尽くした。親を打ち据え妹を怯えさせ犯罪に手を染め、やがて一度は修復された三人家族が壊れた四人家族に戻るまで。
その再度破壊された家が、陸の見たものだった。陸は再演された舞台を目にしていたのだ。
「でもね、それも今日で終わりだって。妹、妊娠したんだ。新しい家族ができるみたい」
「え!? でも、妹ってまだいいとこ高校生じゃ…………」
「うん。でも、産むんだって。親もサポートするらしくて。気持ち悪いよね。自分はまともに育てられなかったくせに。妹も、まだまともな大人になってないくせにガキ産むんだよ」
不意に予想していなかった言葉を投げられ思わず問い返せば、大也は吐き捨てるように肯定した。あまりにサイクルの早い話だと陸も思ったが、大也の態度はいささか硬質にすぎる。陸は窘めるべきか迷って__でも言わないでおいた。きっと今、大也は傷ついているんだと思った。
ここまで柔らかい部分を見せられる相手が、この日彼にどれだけ居ただろうか。恐らく陸しかいなかった。大也はクラスメイトには敬遠され、あらゆる友人とつるむのをやめ、今日家族とも縁を切ったのだった。
自分しかいないのだ。
陸の頭にその一言が駆け巡った。脳の全てがちかちかと瞬いているようだった。しかしそれは、決して昏い喜びや優越感ではなかった。ただ、ひたすらな責任感だけが陸の体を覆っていた。クソ、と陸は舌打ちしたい気分だった。あいもかわらず僕一人に二人分の命運が任されている。
落ち着け。間違えるな。自分に言い聞かせる。
「……それで、大也は…………どう思ったんだ」
「え? だから、気持ち悪いなって。それで出てきた」
深呼吸して、陸は慎重に問いかけた。大也は奇妙なほど軽い調子で答えた。
ずっと、ざあざあとシャワーの音が鳴っていた。二人が会話をしている最中、陸が脱衣所に服を届けに来た時から、ずっと。
脱衣所には服が一枚も置かれていなかった。陸の服だけでなく、大也の服も。
陸は聞こえないようため息をついて、一気にシャワールームのドアを開けた。あ、と困ったような声がした。
「……服も脱がずに泣いてるなら、もっと分かりやすく僕に縋ればよかったのに」
「泣いたあと良い方に転がったこと無かったんだ。…………今俺めちゃくちゃ濡れてるけど、抱きしめてくれるの」
「別に濡れるくらいいいよ。僕も後で風呂に入るから」
雨の中かシャワーの中くらいでしか泣けないらしい友人が蹲っているのを、陸は黙って抱きしめた。きっとこれで正解だ。あ、でも水道代だけはあとで請求してやろう。
