友達百年生きてくれ

「おはよう、田中陸くん!」
 
 努めて朗らかな声がして、目が覚めた。何か妙な悪夢を見ていた気がする。ぼやけて見えない視界の中、陸はなんとか眼鏡を探した。頭の横にあったそれを掛け、なんとかクリアになった視界に映ったのは。
 
「なんで返事しないの? おはよう! 陸くん!」
 
 悪夢だと思っていた、例の男だった。
 
「な…………なんであなたがここに……!?」
 
 思わず呟くと、青年は微笑んで答えた。
 
「え? そりゃ俺の家だし」
 
 答えながら、陸の顔スレスレに拳を打ち当てた。
 
「うわ!?」
 
 それで一気に目が覚め、慌てて飛び起きる。何するんですか! とほとんど叫ぶように問えば、一転して不機嫌そうな声が返ってきた。
 
「挨拶って基本だろ? なんで当たり前のことできないの。俺がおはようって言ってんだからお前も言えよ」
 
 予想外の返答に、陸は目を瞬く。え? この状況で? と辺りを見渡す。間違いなく知らない部屋。人一人誘拐して、パニックになってる相手に挨拶しろだって?
 冗談だろこいつ、と陸は思った。思ったが、確かに挨拶を無視するのは良くなかった。一応……本当に一応、助けてくれた恩人……でもあるし。そのあと命刈り取られかけてるけど。
 
「…………えっと、はい、混乱してたもので無視してすみません…………おはようございます」
「まあ分かればいいよ。でも次やったらダメだからね」
「はい…………」
 
 意味がわからない状況ながら、とにかくなんとか許してもらえたので陸は素直に頷いておいた。
 
「ところで、ここは……僕はなぜここに?」
「覚えてない? 昨日、陸くん気絶しちゃったんだよ。でもその場に放置したらまた別のやつに殴られそうだったからさ、俺の家連れてきた。春休みで良かったね」
 
 だんだんと陸には状況が飲み込めてきた。昨日の好きになったかどうかとかいう意味の分からない問答の後、陸は気絶した。まあ首を絞められて酸欠にでもなったのだろう。可哀想に。
 そしてその場に放置するのは流石に気が引けたらしい青年が家に連れ帰った。そしてその過程でたぶん身分証か何かを見て陸の名前を知った。なるほどな、と陸は思った。なるほど。
 
「いや傷害・誘拐じゃないですか。めちゃくちゃ犯罪ですよ。あと人の身分証勝手に見ないで」
 
 陸は勇敢にもツッコミを入れた。明らかな狂人を前に、どうにも危機感の薄い少年である。
 
「大丈夫! 俺もう年少入ったことあるから!」
 
 青年は何かを打ち消すように手をぱたぱたと振った。年少とは少年院のことだろうか、と陸は考える。何が大丈夫なのかは不明だが、その前歴には「だろうな」と思った。どう見ても危険人物すぎるし。まあでも。
 
「でも…………その、まあ、放置しないでくれてありがとう? ございます。昨日の午後は雷雨だって予報で言ってましたし」
 
 別に感謝というほどのつもりもなかった。また、おはようの時みたく挨拶を強要されるかな、と思ったのだ。だから先に言っておいた。
 しかしただそれだけの軽い気持ちで言った陸の予想に反して、青年は奇妙な表情をしていた。どこか居心地の悪そうな、きまり悪げな。そういう表情だった。
 
「いや……だからその、ありがとうって…………」
 
 青年が何か言い掛けた時、ドン! と音が鳴った。
 部屋の外からだった。続いて、何かガラスが割れたような音と、陸の知らない人の怒鳴り声。そして泣き声。直後に破裂音、嘔吐音、泣き声、怒声、泣き声、そして硬いものがぶつかる音。
 陸が戸惑って目を彷徨わせる一方、青年は凍りついたように目を見開き、扉の方に顔を向けたまま微動だにしない。そしてその音は、20分経っても鳴りやむことはなかった。
 
「ど……どうしたんでしょう。ここの近所の音ですか?何かあったんじゃ」
「あー…………うるせえな」
 
 陸が不安になって様子を見に行こうかと提案しかけた時、一言も発しなかった青年がぼそりと小さな声で呟いた。直後急な動作で立ち上がり、止める間もなく部屋の扉を蹴り飛ばす。急な行動に陸が硬直していると、青年はそのまま廊下に出て、階段に向けて怒鳴りつけた。
 
「おいうるせえってんだよ馬鹿が! 来客中だっつってんだろ!?」
 
 すぐにシン、と階下が静まり返る。陸はその怒鳴り声よりも、開いた扉から見た廊下の様子に驚いていた。
 めちゃくちゃだった。床に散乱し壁際にも積まれているゴミの山に何かの紙。壁には茶色いシミがベッタリと付いていて、その上からどこかのお菓子のおまけシールが乱雑に貼り付けられている。ガラスの破片とタバコの吸い殻が至る所に落ちていた。
 怒鳴って少しだけ落ち着いたのだろうか、青年が再び陸の方に顔を向けた。けれど、その表情を見れば彼は全く冷静でないことは明白だった。息が上がり、口の端が引き攣っている。
 
「……陸くん、俺ちょっと下行かなきゃ。ここで待っててくれる?」
「ああ、その、はい……待ちますけど…………」
 
 あまりにも衝撃的な状況に、陸はそう言うしかなかった。そのまま、バタンと勢いよく扉が閉まる。階段を降りていく足音がして、その後再び怒声がした。けれど今度は知っている声だった。またさっきの知らない人の宥めるような、媚びへつらうような声が2つして、それらの声はだんだんと泣き声に変わっていった。
 
 なんという家だ____というよりも地獄だ。
 僕は今、地獄に来ているんだ。陸はそう思った。

 

「今日は家に来てくれて嬉しかったよ」
 
 何もかもがめちゃくちゃな男は、家を出て一つ目の角を曲がったところで立ち止まり、感情のこもらない声で述べた。絶対そんなこと思ってないだろ。対して、陸の頭の中は聞きたいことで埋まっている。
 この男はそもそも結局どこの誰だ? あの家はなんなんだ? なんであんなに汚れているんだ? なんであの家に初対面の相手を連れ込もうと思った? というかネカフェじゃ駄目だったのか? 急な暴力への謝罪は? あの怒鳴り声の主は? 階下に何をしに行ったんだ?
 その全部になんとなくの答えが付いていて、またなんとなくの疑問が残っていた。けれど陸には何もかも尋ねるほどの勇気も気力もなかった。代わりに一つだけ聞いた。
 
「あなた、どこの誰なんですか?」
 
 教室でクラスメイトに自己紹介をするような、気軽な調子で男は答えた。
 
「△高1年3組17番、瀬尾大也。大也って呼んでいいよ。歳は陸くんの一個上だけど、俺は中学でダブったからタメ。よろしく__」
 
 大也はそこで言葉を切り、陸の目をしっかりと見つめた。まさか。あれ。僕の出席番号って確か。嫌な予感がして、陸は自分の顔が強張るのを感じた。
 
「__△高1年3組18番、田中陸くん?」
 
 仲良くしよう、と手を差し出す大也を前に、陸は静かに絶望した。
 同じ高校なだけじゃなくて、同じクラスの連番だなんて、陸はつくづく運に見放されているらしい。
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