僕とお兄さんの夏休み
窓の外には代り映えしない緑が流れている。つい数時間前までかろうじて残っていたアスファルトの舗装が、いつからかただの土に代わっていた。僕は不安と期待を胸に、じっとそれを見つめる。閑散としたバスの車内には僕と母、それから3つ前の椅子で舟をこぐ年配の男性しか乗客が乗っていない。やがて古びたアナウンスが聞こえた。
「○○村、○○村。終点です。お降りの際は足元に気をつけ、車内にお忘れ物のないようご確認ください__」
僕はドキリとして姿勢を正した。隣に座っている母はどこか固い面持ちですっと立ち上がり、僕に「降りるよ」と声をかけた。僕もあわてて荷物を抱きしめ、母の後に続く。初老の男性がゆっくりゆっくり降車した後、僕たちはついに○○村へ降り立った。遠ざかるバスの轟音は、どこか僕にある種の予感を与えるようだった。
ここは○○村。母の故郷で、僕の一度もあったことのないおばあちゃんが住んでいるところ。要するに僕たちは、夏休みに母親の実家を訪れているのである。
東北の村の、東京よりずいぶん涼しい炎天下を歩いていく。ガラゴロと音を鳴らすキャリーケースの横に並ぶ子供連れの母親を見て、道の片隅で村人がひそひそと何か話しているのが見えた。間違いなくここで生まれ育ったはずの母の背に突き刺さるそれらは、異質なものを見るような眼差しだった。早く母さんの家につきたい。緊張しているのか足の速い母の後ろで、僕はこっそり思った。
はたして村をずいぶん歩いた先、外れのほうに母の生家はあった。母は何のためらいもなく鍵のかかっていない硝子戸を音を立て開け放つ。良いのだろうか。というより不用心すぎないだろうか。僕は若干のためらいを覚えつつも一緒に中へ入った。
その瞬間、玄関先に立つ老婆が見えた。僕は腰を抜かしそうになり、靴箱の上に手をつく。はずみで眼鏡がずれるが、そんな僕に気づくこともなく、その人を見て母は呟く。
「母さん、」
そういったきりそのまま立ち尽くしてしまった母に、老婆__僕の祖母はただ一言言った。
「おかえりんさい、亜美」
その言葉に母は顔を泣き出しそうに歪めた。
「うん……うん、ただいま、母さん」
そのまま二人はきつく抱擁した。僕はそれをじっと見ていた。いつも背筋を伸ばした母が、その時だけ幼い子供のように見えた。
「おお坊主、おめえでかくなったなあ!」
「やあねお父さんたら、赤んぼだった頃だって1回も会ったことないでしょうに。ごめんね翔太君、ほら散らし寿司の卵がいっぱい乗ってる部分取ってあげましょうね」
「あ、ありがとうございます……」
「亜美もまあずいぶん都会に染まっちゃって! 旦那と駆け落ちするっつって出てったのがもう十二年だか前でしょう、あたしほんとびっくりしたのよ、あのじゃじゃ馬がうまくやってけんのかしらって!」
「麻里姉ちゃんのほうが業突く張りって言われてたくせに、私は昔っからいい女でしたよ!」
「あらなにこの子、生意気だわ! ちょっと奥さん聞いたわよね?」
挨拶を終えてから数十分後、僕は大歓迎を受けていた。近所に住む親類が一気に集まり、酒と肴の大宴会を繰り広げているのだ。やいのやいのとそれぞれ喋る大人たちはもうすっかり赤ら顔である。
僕も親類もお互い全く知らないはずなのに、みんなまるで僕が何十年も前からここにいたかのように話しかけてくる。酒の入った大人は恐ろしいなと僕は思った。いつのまにか母はすっかり馴染み、大人軍団の中心部で酒をかっ食らっている。正直、こわい。僕はじりじりと壁に近づいた。どうにかここから抜け出せないものだろうか。
ピーンポーン。
そんなことを考えていたその矢先、いささか間抜けなチャイムの音が鳴り、僕はちょっと出てきますね! と声をかけて宴会を脱出した。まったく、それは実にナイスなタイミングの呼び鈴であった。ありがとう、僕をここから連れ出してくれて。僕は感謝の念を抱きつつ、適当なサンダルに足を突っ掛け、引き戸に手をかけた。
「今開けますねー」
ガラガラと音を立てて扉が開く。するとそこには、僕と同じ年くらいの少年が立っていた。
おお、と少し感動する。久しぶりに同年代を見た。村の子かな。東京では道をちょっと歩くだけで大量に見つかる子供たちも、この村ではまれな存在のようで、僕はこの瞬間までこの村の子どもを見たことが無かった。
しかし、こんな夜更けに子供が何の用なのだろう。僕は訊ねようとした。
「あ、えっと__」
しかし、少年は僕の言葉を遮り、先に口を開いた。
「なんだお前、なまっちろい腕しよって。もしかして東京から帰ってきたっつう亜美さんの子か?」
「えっ、あ、うん」
僕は瞠目し、立ちすくむ。少年はふーん、といかにも興味がなさそうな声を出した。
「まあいいや。じゃあこれ頼んだからな。……あ、持てっか?」
そこでやっと、一瞬フリーズした脳が徐々に戻ってきた。白い腕、って……まさか僕のこの筋肉も日焼けも全然してくれない腕を馬鹿にしているのか⁉ なんだこのデリカシーのなさ! 人が気にしていることを! 僕は怒り心頭のまま、少年がぐいぐいと押し付けてきた酒を持つ。
「持てる! ……あと、人の見た目についてあれこれ言っちゃ良くないんだからな……‼」
「へ~……じゃあ色白だな!」
僕の忠告も気にせず、少年はニヤニヤ笑っている。悪口だけじゃなくて褒め言葉も含めてだよこの野郎。あと直前の言葉で本音が駄々洩れなんだよ。僕は怒りのままに扉を閉めた。
結局翌朝まで宴会は続き、我慢の限界に達した祖母が烈火のように怒って全員叩き出すまで終わらなかった。祖母は女傑であるらしい。僕は彼女に尊敬の念を抱きつつ後片付けを手伝った。僕の名誉のため言うが、けして祖母が怖かったのではない。尊敬の念を抱いたからである。嘘だ、本当は少し怖かった。
ともかく昼頃にはそれも終わり、僕は村へ散策に出かけた。今年の自由研究は草花についてにしようと思っていたからである。この村には、東京とはまた違った植物があるに違いない。それは理科好きの僕としては心の踊る話であった。わくわく顔で僕は散策に出かけた。途中からは道を外れて草むらを掻き分け、そして舗装されていない道に慣れない僕は数メートルと歩かないうちに転んだ。
「いっ……て……」
僕は転んでしりもちをついた。舞い散る草を涙目で見つめる。何かに引っ掛かったらしい。危ないな……と思ってよく見ると、それはただのちっぽけな石ころだった。なーんだ、と目をそらそうとして……いや、待てよ、と僕は訝しんだ。
「……草が、舞い散る?」
おかしい。こんな量の草が、地面に散らばっているはずがない。ここの草はやたら頑丈で、地面からしっかりと生えているのに。僕は恐る恐る、草を搔き分けた。僕の予想が、予感が正しければ、もしかするとこの下に。
「……あった」
隠されていたものが。僕の目の前には、長方形の切れ込みと、小さく鉄の取っ手が姿を現していた。僕は難しい問題を解けたときと同じ喜びをかみしめた。いつだって、自分の予想が見事に当たるというのは嬉しいものだ。そしてその喜びのまま、僕はその蓋を開けてしまった。
「う……」
中のあまりの暗さに、僕は思わず息を漏らした。どうも階段があるようだが、暗すぎて下の方がよく見えない。下に降りるのはやめた方が。そう思った時、僕は昨日の少年を思い出した。
『なまっちろい腕』
その言葉が僕に棘のように突き刺さって、ささやかな怒りと反発心を覚えさせた。
「……やってやる。男は度胸、そのはずだ」
僕は呟き、そしてそろりと右足を一段目に載せた。
後から思えば、そこでやめておくべきだったのだ。開けずに帰るべきだった。もしくはせめて一人で下りず、誰かに伝えるべきだった。そうすれば誰か一人くらいは助けてくれたかも知れないのに。
でもそうならなかった。僕はその時、いとも簡単に蓋を開け、そして現れた階段を下りてしまったんだ。
薄暗い階段を一段ずつ降りるごとに、息の詰まるような重たい雰囲気と、埃っぽさが僕を襲った。万一に備え開けておいた蓋から差し込む微かな陽光だけが僕の視界を支えていた。僕はいささか不安を覚える。
もしかして、これは不法侵入なんじゃないか? もしもここが誰かの持ち物だったら、僕は今すごくいけないことをしている。もう帰ろうか。あと数段、というところで僕は踵を返そうとした。しかしそのせいで空気が動き、埃が舞い散ってしまった。僕が思わず咳き込んだその瞬間。
「……誰だ?」
声がした。僕は飛び上がって驚き、その拍子に階段から滑ってしまった。底に強かに腰を打ち、僕は身動きを取れなくなった。
がしゃん、と重たい金属が擦れる音が響く。がしゃん、がしゃん、がしゃん。音がこちらに近づいてくる。座り込んだ僕の目の前__錆びた鉄格子の向こう側、ほど近い場所から白い手が伸びた。
それは黒い着流しを着た男だった。長い黒髪で表情は伺えないが、首の太さや手の大きさからそうだとわかった。僕はなおも動けない。男が僕を覗き込む。そして、ぽつりと呟いた。
「……正平?」
直後、男は鉄格子をひときわ大きな音を立てて掴んだ。
「正平、なあ、正平だよな? ごめんな、上手く見えないんだけど、そうだよな。ここで何もしないのは、そうだもんな。俺、俺、ずっとお前を待ってたんだ」
男が鉄格子を揺らす。がちゃがちゃと耳障りな音を気にも留めず、男は話し続けた。
「正平、なあ迎えに来てくれたんだろ、お前言ったよな、絶対だって約束だって。俺ずっと待ってた。毎晩毎晩お前に会いたくてそこの壁を削って会えなくて痛いだけだったけど、でもずっと待ってた!! お前約束いつも守ってくれてたもんな、いつも同じ時間に同じ日に会いに来たもんな。なあ早く鍵開けてくれよ持ってるんだろいつもと同じようにあ、違う、今日はここから出してくれるんだっけ? そっか、なあ開けてよ開けて開けて開けて開けろ」
だんだんとヒートアップする声と鉄格子の音。狂気的な色を帯びたそれが恐ろしくて仕方なくて、僕は後ずさりした。それを見とがめたのか、男は突然動きを止めた。しん、と地下全体が静まり返る。
「……正平? どうかしたのか。嫌だったか? 大声出したのが良くなかったか? ごめんな、わからないんだ、全然分からない。お願いだ、教えて、何が駄目だった? お前までいなくなったら」
鉄格子からずる、と手を離し、そのまま男はがりがりと地面をひっかいた。男の手が動くたび、その腕にはめられた手錠ががしゃがしゃと鳴った。先ほどの音はこれだったのだ。
怖い。そう思った。だって、手錠を嵌めているのは悪人だけだ。この人は、何をしたのだろう。
しかし。
「あの、僕!」
僕は勇気を出して、遮るように叫んだ。声が震える、でもこのままだと僕は嘘をついてしまう。本当に申し訳ないことだが、僕は彼の待ち人ではないのだから。それを聞いた男がどんな反応をするかは分からない。恐ろしい。しかし、だからと言って嘘をつくのは、それは人を傷つけることだ。
「僕、その、ショウヘイさん? じゃないんです。ごめんなさい、たまたまここを見つけて、好奇心で忍び込みました。鍵もないです。本当に、ごめんなさい……」
僕は誠心誠意頭を下げた。しばらく沈黙がその場を支配した。僕は怖くて頭を上げられない。やがて男が、息を深く吐いた。そしてそれから口を開いた。
「……そ、っか。そうだよな、今東京で働いてるんだもんな、正平は。なかなかこんなところまで来られないよな。そうだよな……」
それは迷子のような声だった。その響きがあんまりに辛そうで、悲しくて、僕は恐る恐るかを上げ男を見遣った。すると、男の前髪の下からいくらか滴が滴るのが見えた。その見えないはずの顔が昨日の母と重なり、僕は無性に彼を抱きしめてやりたくなった。
鉄格子の隙間から手を伸ばす。今抱きしめることはこれのせいで出来ないが、せめてもと僕は背伸びしてその頭を撫でた。男は驚いたように顔を上げ、それからまたゆっくりと俯き、ただ僕の手が頭をかき回すのに任せていた。
「あの、落ち着きましたか」
「ああ、もういい。迷惑かけて悪かったな」
「いえ、そもそもここに侵入した僕が悪いので……」
本当に、ぬか喜びさせてしまい申し訳ない。僕が鉄格子の前に座って俯くと、男は笑った。
「いいんだよ、どうせこんなところ誰も来ないし。……正平だってとっくに俺のことなんか忘れてるだろ、むしろ待ってる俺の方がおかしいんだよな」
男は後半部分を自分に言い聞かせるように言った。僕はそれがどうにも悲しく聞こえて、それである提案をした。
「あの、僕普段東京に住んでるんです。東京はとにかく人が多いので約束はできないんですが、ショウヘイさんのお名前と住所と、あと職業だけ教えてもらえれば、どうにか探して伝言しますよ」
それを聞いた男はパッと雰囲気を明るくした。
「いいのか!? といっても、俺は大した情報を持っていないんだが……ああ、村人に聞けばもう少し情報が集まるかもしれないな」
そういう男が言うには、ショウヘイさんの本名は浅木正平。東京隅田川の辺りに住み、新聞記者をしているらしい。
「伝言内容としては__そうだな、和が待ってる、と。それだけで伝わるはずだ」
カズ、というのは男の名前であるらしい。正確にはあだ名だそうだが、正平さんはどうせ本名を覚えていないのであだ名で良い、と男__カズさんは言った。
「わかりました、伝えておきます」
僕は全てきちんと覚えると、カズさんにそう言った。
彼は罪人かもしれない。手錠で地下に繋がれているのだから。しかし僕はどうしても僕が傷つけてしまった人をどうでもいいと放り出せなかった。悪人でも、いたずらに傷ついていいはずがないと、どうしても思ってしまうのだ。
それから何となく、いくらかぽつぽつと話をした。僕が今祖母の家に泊まりに来ていること、十歳であること、一昨日家を出発した時家のすぐ前に蝉の抜け殻があって驚いたこと__全て、僕の話だった。カズさんにねだられたのだ。僕が1つ話す度、カズさんは驚いたり笑ったりしてくれた。僕は何か役者にでもなった気分だったが、しかし、カズさんについては何も分からなかった。なぜここにいるのか、手錠で繋がれているのか、食事はどうしているのか。僕が聞きたくてたまらなかったことは、いつも次を催促する声にかき消されてしまった。
「あ……」
やがてすっかり時間がたち、僕は気付いた。そろそろ帰らなければ祖母の手伝いができない。
「どうした?」
「あの、そろそろ僕、帰らないと……」
そう言いかけたとき、急に服の裾を引っ張られた。カズさんだった。
「帰る? もう?」
「え、はい。祖母の手伝いが……」
「俺を置いて?」
そう問われ、僕は何も言えなくなって俯いた。たった幾ばくかの時間を共に過ごしただけだが、そんな僕にも分かることはあった。この地下室は、牢は寒い。夏だというのに、日差しも気温も冬の夜のようだ。そして、もう1つ。ここには彼と鉄製の拘束具以外の何もないのだ。
僕はこれから温かい家に帰る。そして祖母や母と話すのだろう。カズさんはこの後僕の声も消えたこの場所で一人きり。それはどれほど寂しくて虚しいのかと僕は思った。
しかし。自分のことを話したがらない彼は、一体何の罪を犯してここにいるのだろう。それが分からない僕は、彼に何もすることができない。
カズさんは無言でこちらをただ見つめている。何か言わなきゃ。でも、何を言えるというのだろう。彼のことを何も知らないのに。しばし膠着状態が続く。気まずい気持ちが拭えないまま胸中に渦巻いた。どんよりとした空気が落ち、そしてその次の瞬間、軽い笑い声がそれを破った。
「冗談だよ! ごめんな、からかって」
いや、本当に冗談だ、悪かったよ気にしないでくれと笑う声。でもその声の主であるカズさんの表情はちっとも笑っていなかった。寂しいのだ、彼は。でも僕に何ができるのか。何も返せない。僕は鍵を持っていないし、由それを持っていたとしてそれを使っていいのかも分からない。僕は罪悪感を抱き、代わりに1つ言った。
「明日も、同じ時間に来ます。だから……」
その後に続く言葉を僕は持っていなかったが、それでも彼は息をのみ、そして嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。……そうか! ありがとう」
その拍子に、髪が揺れて顔がちらりと覗いた。僕はそれを見て驚いた。整っていたこともそうだが、何よりも。
僕の見間違いでなければ、彼の目は海のような青色をしていた。
「……日本人でも、青目っているのかな」
階段を登り切り、閉じた蓋の上に草を掛けつつ僕は呟いた。後で調べてみよう。
「母さん、もし今使っていなければスマホを貸して欲しいんですが……」
家に帰ると、母はすでに復活し、くるくると立ち働いていた。僕の手は必要なさそうだ、と判断し、代わりにスマホをねだる。
「うん? 珍しいね、どうしたの?」
「少し調べ物があって」
人参を刻む手を止めず尋ねる母に、僕はぼかして答えた。急に青い目なんて言えば、怪しまれてしまうかもしれない。それにもしかするとあんな地下にいたカズさんは、親が子どもに見せたくない存在なのかもしれない。教育に悪いとか、そういう理由で。それならやっぱり、僕があそこに行ったのは良くなかったのかもしれないな。母さん、すみません。快くスマホを貸してくれる母に少し申し訳なくなりつつ、僕はありがたく検索サイトを開いた。
青目、と検索する。駄目だ。日本人 青目。ヒットした。ええと、何々。僕は画面をスクロールする。そのサイトによれば、日本人にはめったにいない色だが、東北地方には度々現れるらしい。さらに青目は黒目よりも紫外線に弱いらしい。なるほど……不思議だ。しかしこれでなぜ青目の人が日本の農村に住んでいるのか納得はついた。
僕は頷き、母にスマホを返したが、そこでふと思い出した。
「あ、そうだ、母さんってこの村で育ったんですよね? 浅木正平さんって知ってます?」
浅木正平。カズさんの待ち人だが、どうも毎回外から訪れていたようだからカズさんから聞いたのだとはバレるまい。しかし母は目を丸くした。
「え? 知ってるけど……翔ちゃんもお写真見てるよ、昨日。ほら、そこ」
母が指差す先を振り返る。そこにあったのは仏壇だった。
「正平さんは私のひいお祖母ちゃんのお兄さんで……翔ちゃんから見たらお祖母ちゃんのお祖母ちゃんのお兄さんなのかな。もう百年も前に亡くなってるはずだけど、どうして翔ちゃんが知ってるの?」
僕は口をぽかんと開けた。百年前? でもカズさんは今東京で働いてると言っていたはずだ。これは、一体。
しかしとにかく僕はこの質問に答えなければならない。僕は頭をフル回転させた。
「あ、いや、その、昨日、正平さんに似てるねって言われて……でも誰に言われたか思い出せないしその人もすごく酔っぱらっていたから、多分相手も覚えていないと思います」
そう答えれば、母はなるほどね、確かに顔似てるかも、と納得したように頷き、夕食の支度に戻った。ありがとう、酔っ払い。ありがとう、酒好きの親戚。僕は昨日宴会があって本当に良かったと思った。
「それにしても、正平さんも可哀想な人だったよね……まさかあんなことになるなんて」
夕食の支度に戻る直前、宴会へ感謝を捧げる僕の前で、母がぽつりと口にした言葉が妙に尾を引いて耳に響いた。
昨日と同じく蓋をずらし、僕は階段を降りる。薄暗い。これから言わなければならないことが重く肩にのしかかっている。しかし踵を返すことなく、僕は一番下まで降り立った。
かしゃん。目の前の鉄格子を揺らし、僕は呼びかけた。
「カズさん。僕です、翔太です。約束通り今日も来ました」
直後、強く鉄同士のぶつかる音が響いた。そのまま音は僕の方へと近づき、そして白い手がにゅっと伸びてきた。
「翔太! 良かった、ちゃんと今日も来てくれたんだな」
「僕は約束をきちんと守る子ですよ」
「ああ、昨日言ってたな……でも、もし気が変わったら、もし誰かに止められたらって昨日の晩からずっと考えて考えて頭がおかしくなりそうだった」
こうして無事に来られて良かった。そう言って伸ばされた指先は赤く染まっていて、僕はギョッとした。
「え、カズさん、それ、血……!」
「ん?」
カズさんは億劫そうに自分の指を見遣る。それからいくらか動かし確認すると、適当に着物で拭い誤魔化した。
「……あー、大丈夫。ちょっと昨日そこの鍵をやった時のだから。すぐ治る。いつものことだ」
「大丈夫じゃないですけど⁉︎ 理科の先生が破傷風のリスクがって……え? 鍵?」
「あ、そうだ。それを伝えようと思ってたんだよ。よし、翔太。少し下がれ」
僕は訝しく思いながらも、言われた通り3歩ほど下がった。とはいえそもそも狭い空間だ。これ以上下がるならば階段を登るしかない。下がるのに上がるのがどこかチグハグで面白い。
「ああ、そこで良い。そのまま……」
そう言いながらカズさんは二、三度深呼吸をし、その次の瞬間__鉄格子を思いきり蹴った。丁度彼の足首に嵌まった足枷と鉄格子が、耳障りな音を立ててぶつかる。僕は思わず耳をふさぎ、目をぎゅっと瞑った。
「翔太、もう目を開けていいぞ」
僕はカズさんの声に、恐る恐る瞼を上げ鉄格子を__正確にはその一部分にはめ込まれていた扉を見た。今まで錠前で閉じられていたそこは、今はただきい、きいと音を立ててわずかな開閉を繰り返すまでだった。
「昨日鍵が崩れかけてるのに気づいてな、あとちょっと壊せばいけそうだったからやってみた。……ほら翔太、こっち来いよ。俺は枷があるから行けないんだ」
「……」
僕はただ、唖然としてそれを眺めるだけだった。鉄だぞ? 鉄……いくら崩れかけていたとはいえ。
彼は、一体何者なんだろう。「何」なんだろう。
「ほら、来ないのか」
立ち尽くす僕に手招きする。僕は本当に呼びかけに答えていいものか逡巡した。だって、そうだ。怖い。でも、いまだ黙り込んでいた僕に向かい合う彼の眼が、そのとき揺れたのを見て__僕は、一歩前へ踏み出した。大丈夫。何とかなるさと心の中で呟いた。
「……良かった」
カズさんがそう零したのを聞いて、ああ、これで合っていたんだと僕も頷いた。頭で鳴り響いていた危険信号は、全く聞こえなかったことになった。
「○○村、○○村。終点です。お降りの際は足元に気をつけ、車内にお忘れ物のないようご確認ください__」
僕はドキリとして姿勢を正した。隣に座っている母はどこか固い面持ちですっと立ち上がり、僕に「降りるよ」と声をかけた。僕もあわてて荷物を抱きしめ、母の後に続く。初老の男性がゆっくりゆっくり降車した後、僕たちはついに○○村へ降り立った。遠ざかるバスの轟音は、どこか僕にある種の予感を与えるようだった。
ここは○○村。母の故郷で、僕の一度もあったことのないおばあちゃんが住んでいるところ。要するに僕たちは、夏休みに母親の実家を訪れているのである。
東北の村の、東京よりずいぶん涼しい炎天下を歩いていく。ガラゴロと音を鳴らすキャリーケースの横に並ぶ子供連れの母親を見て、道の片隅で村人がひそひそと何か話しているのが見えた。間違いなくここで生まれ育ったはずの母の背に突き刺さるそれらは、異質なものを見るような眼差しだった。早く母さんの家につきたい。緊張しているのか足の速い母の後ろで、僕はこっそり思った。
はたして村をずいぶん歩いた先、外れのほうに母の生家はあった。母は何のためらいもなく鍵のかかっていない硝子戸を音を立て開け放つ。良いのだろうか。というより不用心すぎないだろうか。僕は若干のためらいを覚えつつも一緒に中へ入った。
その瞬間、玄関先に立つ老婆が見えた。僕は腰を抜かしそうになり、靴箱の上に手をつく。はずみで眼鏡がずれるが、そんな僕に気づくこともなく、その人を見て母は呟く。
「母さん、」
そういったきりそのまま立ち尽くしてしまった母に、老婆__僕の祖母はただ一言言った。
「おかえりんさい、亜美」
その言葉に母は顔を泣き出しそうに歪めた。
「うん……うん、ただいま、母さん」
そのまま二人はきつく抱擁した。僕はそれをじっと見ていた。いつも背筋を伸ばした母が、その時だけ幼い子供のように見えた。
「おお坊主、おめえでかくなったなあ!」
「やあねお父さんたら、赤んぼだった頃だって1回も会ったことないでしょうに。ごめんね翔太君、ほら散らし寿司の卵がいっぱい乗ってる部分取ってあげましょうね」
「あ、ありがとうございます……」
「亜美もまあずいぶん都会に染まっちゃって! 旦那と駆け落ちするっつって出てったのがもう十二年だか前でしょう、あたしほんとびっくりしたのよ、あのじゃじゃ馬がうまくやってけんのかしらって!」
「麻里姉ちゃんのほうが業突く張りって言われてたくせに、私は昔っからいい女でしたよ!」
「あらなにこの子、生意気だわ! ちょっと奥さん聞いたわよね?」
挨拶を終えてから数十分後、僕は大歓迎を受けていた。近所に住む親類が一気に集まり、酒と肴の大宴会を繰り広げているのだ。やいのやいのとそれぞれ喋る大人たちはもうすっかり赤ら顔である。
僕も親類もお互い全く知らないはずなのに、みんなまるで僕が何十年も前からここにいたかのように話しかけてくる。酒の入った大人は恐ろしいなと僕は思った。いつのまにか母はすっかり馴染み、大人軍団の中心部で酒をかっ食らっている。正直、こわい。僕はじりじりと壁に近づいた。どうにかここから抜け出せないものだろうか。
ピーンポーン。
そんなことを考えていたその矢先、いささか間抜けなチャイムの音が鳴り、僕はちょっと出てきますね! と声をかけて宴会を脱出した。まったく、それは実にナイスなタイミングの呼び鈴であった。ありがとう、僕をここから連れ出してくれて。僕は感謝の念を抱きつつ、適当なサンダルに足を突っ掛け、引き戸に手をかけた。
「今開けますねー」
ガラガラと音を立てて扉が開く。するとそこには、僕と同じ年くらいの少年が立っていた。
おお、と少し感動する。久しぶりに同年代を見た。村の子かな。東京では道をちょっと歩くだけで大量に見つかる子供たちも、この村ではまれな存在のようで、僕はこの瞬間までこの村の子どもを見たことが無かった。
しかし、こんな夜更けに子供が何の用なのだろう。僕は訊ねようとした。
「あ、えっと__」
しかし、少年は僕の言葉を遮り、先に口を開いた。
「なんだお前、なまっちろい腕しよって。もしかして東京から帰ってきたっつう亜美さんの子か?」
「えっ、あ、うん」
僕は瞠目し、立ちすくむ。少年はふーん、といかにも興味がなさそうな声を出した。
「まあいいや。じゃあこれ頼んだからな。……あ、持てっか?」
そこでやっと、一瞬フリーズした脳が徐々に戻ってきた。白い腕、って……まさか僕のこの筋肉も日焼けも全然してくれない腕を馬鹿にしているのか⁉ なんだこのデリカシーのなさ! 人が気にしていることを! 僕は怒り心頭のまま、少年がぐいぐいと押し付けてきた酒を持つ。
「持てる! ……あと、人の見た目についてあれこれ言っちゃ良くないんだからな……‼」
「へ~……じゃあ色白だな!」
僕の忠告も気にせず、少年はニヤニヤ笑っている。悪口だけじゃなくて褒め言葉も含めてだよこの野郎。あと直前の言葉で本音が駄々洩れなんだよ。僕は怒りのままに扉を閉めた。
結局翌朝まで宴会は続き、我慢の限界に達した祖母が烈火のように怒って全員叩き出すまで終わらなかった。祖母は女傑であるらしい。僕は彼女に尊敬の念を抱きつつ後片付けを手伝った。僕の名誉のため言うが、けして祖母が怖かったのではない。尊敬の念を抱いたからである。嘘だ、本当は少し怖かった。
ともかく昼頃にはそれも終わり、僕は村へ散策に出かけた。今年の自由研究は草花についてにしようと思っていたからである。この村には、東京とはまた違った植物があるに違いない。それは理科好きの僕としては心の踊る話であった。わくわく顔で僕は散策に出かけた。途中からは道を外れて草むらを掻き分け、そして舗装されていない道に慣れない僕は数メートルと歩かないうちに転んだ。
「いっ……て……」
僕は転んでしりもちをついた。舞い散る草を涙目で見つめる。何かに引っ掛かったらしい。危ないな……と思ってよく見ると、それはただのちっぽけな石ころだった。なーんだ、と目をそらそうとして……いや、待てよ、と僕は訝しんだ。
「……草が、舞い散る?」
おかしい。こんな量の草が、地面に散らばっているはずがない。ここの草はやたら頑丈で、地面からしっかりと生えているのに。僕は恐る恐る、草を搔き分けた。僕の予想が、予感が正しければ、もしかするとこの下に。
「……あった」
隠されていたものが。僕の目の前には、長方形の切れ込みと、小さく鉄の取っ手が姿を現していた。僕は難しい問題を解けたときと同じ喜びをかみしめた。いつだって、自分の予想が見事に当たるというのは嬉しいものだ。そしてその喜びのまま、僕はその蓋を開けてしまった。
「う……」
中のあまりの暗さに、僕は思わず息を漏らした。どうも階段があるようだが、暗すぎて下の方がよく見えない。下に降りるのはやめた方が。そう思った時、僕は昨日の少年を思い出した。
『なまっちろい腕』
その言葉が僕に棘のように突き刺さって、ささやかな怒りと反発心を覚えさせた。
「……やってやる。男は度胸、そのはずだ」
僕は呟き、そしてそろりと右足を一段目に載せた。
後から思えば、そこでやめておくべきだったのだ。開けずに帰るべきだった。もしくはせめて一人で下りず、誰かに伝えるべきだった。そうすれば誰か一人くらいは助けてくれたかも知れないのに。
でもそうならなかった。僕はその時、いとも簡単に蓋を開け、そして現れた階段を下りてしまったんだ。
薄暗い階段を一段ずつ降りるごとに、息の詰まるような重たい雰囲気と、埃っぽさが僕を襲った。万一に備え開けておいた蓋から差し込む微かな陽光だけが僕の視界を支えていた。僕はいささか不安を覚える。
もしかして、これは不法侵入なんじゃないか? もしもここが誰かの持ち物だったら、僕は今すごくいけないことをしている。もう帰ろうか。あと数段、というところで僕は踵を返そうとした。しかしそのせいで空気が動き、埃が舞い散ってしまった。僕が思わず咳き込んだその瞬間。
「……誰だ?」
声がした。僕は飛び上がって驚き、その拍子に階段から滑ってしまった。底に強かに腰を打ち、僕は身動きを取れなくなった。
がしゃん、と重たい金属が擦れる音が響く。がしゃん、がしゃん、がしゃん。音がこちらに近づいてくる。座り込んだ僕の目の前__錆びた鉄格子の向こう側、ほど近い場所から白い手が伸びた。
それは黒い着流しを着た男だった。長い黒髪で表情は伺えないが、首の太さや手の大きさからそうだとわかった。僕はなおも動けない。男が僕を覗き込む。そして、ぽつりと呟いた。
「……正平?」
直後、男は鉄格子をひときわ大きな音を立てて掴んだ。
「正平、なあ、正平だよな? ごめんな、上手く見えないんだけど、そうだよな。ここで何もしないのは、そうだもんな。俺、俺、ずっとお前を待ってたんだ」
男が鉄格子を揺らす。がちゃがちゃと耳障りな音を気にも留めず、男は話し続けた。
「正平、なあ迎えに来てくれたんだろ、お前言ったよな、絶対だって約束だって。俺ずっと待ってた。毎晩毎晩お前に会いたくてそこの壁を削って会えなくて痛いだけだったけど、でもずっと待ってた!! お前約束いつも守ってくれてたもんな、いつも同じ時間に同じ日に会いに来たもんな。なあ早く鍵開けてくれよ持ってるんだろいつもと同じようにあ、違う、今日はここから出してくれるんだっけ? そっか、なあ開けてよ開けて開けて開けて開けろ」
だんだんとヒートアップする声と鉄格子の音。狂気的な色を帯びたそれが恐ろしくて仕方なくて、僕は後ずさりした。それを見とがめたのか、男は突然動きを止めた。しん、と地下全体が静まり返る。
「……正平? どうかしたのか。嫌だったか? 大声出したのが良くなかったか? ごめんな、わからないんだ、全然分からない。お願いだ、教えて、何が駄目だった? お前までいなくなったら」
鉄格子からずる、と手を離し、そのまま男はがりがりと地面をひっかいた。男の手が動くたび、その腕にはめられた手錠ががしゃがしゃと鳴った。先ほどの音はこれだったのだ。
怖い。そう思った。だって、手錠を嵌めているのは悪人だけだ。この人は、何をしたのだろう。
しかし。
「あの、僕!」
僕は勇気を出して、遮るように叫んだ。声が震える、でもこのままだと僕は嘘をついてしまう。本当に申し訳ないことだが、僕は彼の待ち人ではないのだから。それを聞いた男がどんな反応をするかは分からない。恐ろしい。しかし、だからと言って嘘をつくのは、それは人を傷つけることだ。
「僕、その、ショウヘイさん? じゃないんです。ごめんなさい、たまたまここを見つけて、好奇心で忍び込みました。鍵もないです。本当に、ごめんなさい……」
僕は誠心誠意頭を下げた。しばらく沈黙がその場を支配した。僕は怖くて頭を上げられない。やがて男が、息を深く吐いた。そしてそれから口を開いた。
「……そ、っか。そうだよな、今東京で働いてるんだもんな、正平は。なかなかこんなところまで来られないよな。そうだよな……」
それは迷子のような声だった。その響きがあんまりに辛そうで、悲しくて、僕は恐る恐るかを上げ男を見遣った。すると、男の前髪の下からいくらか滴が滴るのが見えた。その見えないはずの顔が昨日の母と重なり、僕は無性に彼を抱きしめてやりたくなった。
鉄格子の隙間から手を伸ばす。今抱きしめることはこれのせいで出来ないが、せめてもと僕は背伸びしてその頭を撫でた。男は驚いたように顔を上げ、それからまたゆっくりと俯き、ただ僕の手が頭をかき回すのに任せていた。
「あの、落ち着きましたか」
「ああ、もういい。迷惑かけて悪かったな」
「いえ、そもそもここに侵入した僕が悪いので……」
本当に、ぬか喜びさせてしまい申し訳ない。僕が鉄格子の前に座って俯くと、男は笑った。
「いいんだよ、どうせこんなところ誰も来ないし。……正平だってとっくに俺のことなんか忘れてるだろ、むしろ待ってる俺の方がおかしいんだよな」
男は後半部分を自分に言い聞かせるように言った。僕はそれがどうにも悲しく聞こえて、それである提案をした。
「あの、僕普段東京に住んでるんです。東京はとにかく人が多いので約束はできないんですが、ショウヘイさんのお名前と住所と、あと職業だけ教えてもらえれば、どうにか探して伝言しますよ」
それを聞いた男はパッと雰囲気を明るくした。
「いいのか!? といっても、俺は大した情報を持っていないんだが……ああ、村人に聞けばもう少し情報が集まるかもしれないな」
そういう男が言うには、ショウヘイさんの本名は浅木正平。東京隅田川の辺りに住み、新聞記者をしているらしい。
「伝言内容としては__そうだな、和が待ってる、と。それだけで伝わるはずだ」
カズ、というのは男の名前であるらしい。正確にはあだ名だそうだが、正平さんはどうせ本名を覚えていないのであだ名で良い、と男__カズさんは言った。
「わかりました、伝えておきます」
僕は全てきちんと覚えると、カズさんにそう言った。
彼は罪人かもしれない。手錠で地下に繋がれているのだから。しかし僕はどうしても僕が傷つけてしまった人をどうでもいいと放り出せなかった。悪人でも、いたずらに傷ついていいはずがないと、どうしても思ってしまうのだ。
それから何となく、いくらかぽつぽつと話をした。僕が今祖母の家に泊まりに来ていること、十歳であること、一昨日家を出発した時家のすぐ前に蝉の抜け殻があって驚いたこと__全て、僕の話だった。カズさんにねだられたのだ。僕が1つ話す度、カズさんは驚いたり笑ったりしてくれた。僕は何か役者にでもなった気分だったが、しかし、カズさんについては何も分からなかった。なぜここにいるのか、手錠で繋がれているのか、食事はどうしているのか。僕が聞きたくてたまらなかったことは、いつも次を催促する声にかき消されてしまった。
「あ……」
やがてすっかり時間がたち、僕は気付いた。そろそろ帰らなければ祖母の手伝いができない。
「どうした?」
「あの、そろそろ僕、帰らないと……」
そう言いかけたとき、急に服の裾を引っ張られた。カズさんだった。
「帰る? もう?」
「え、はい。祖母の手伝いが……」
「俺を置いて?」
そう問われ、僕は何も言えなくなって俯いた。たった幾ばくかの時間を共に過ごしただけだが、そんな僕にも分かることはあった。この地下室は、牢は寒い。夏だというのに、日差しも気温も冬の夜のようだ。そして、もう1つ。ここには彼と鉄製の拘束具以外の何もないのだ。
僕はこれから温かい家に帰る。そして祖母や母と話すのだろう。カズさんはこの後僕の声も消えたこの場所で一人きり。それはどれほど寂しくて虚しいのかと僕は思った。
しかし。自分のことを話したがらない彼は、一体何の罪を犯してここにいるのだろう。それが分からない僕は、彼に何もすることができない。
カズさんは無言でこちらをただ見つめている。何か言わなきゃ。でも、何を言えるというのだろう。彼のことを何も知らないのに。しばし膠着状態が続く。気まずい気持ちが拭えないまま胸中に渦巻いた。どんよりとした空気が落ち、そしてその次の瞬間、軽い笑い声がそれを破った。
「冗談だよ! ごめんな、からかって」
いや、本当に冗談だ、悪かったよ気にしないでくれと笑う声。でもその声の主であるカズさんの表情はちっとも笑っていなかった。寂しいのだ、彼は。でも僕に何ができるのか。何も返せない。僕は鍵を持っていないし、由それを持っていたとしてそれを使っていいのかも分からない。僕は罪悪感を抱き、代わりに1つ言った。
「明日も、同じ時間に来ます。だから……」
その後に続く言葉を僕は持っていなかったが、それでも彼は息をのみ、そして嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。……そうか! ありがとう」
その拍子に、髪が揺れて顔がちらりと覗いた。僕はそれを見て驚いた。整っていたこともそうだが、何よりも。
僕の見間違いでなければ、彼の目は海のような青色をしていた。
「……日本人でも、青目っているのかな」
階段を登り切り、閉じた蓋の上に草を掛けつつ僕は呟いた。後で調べてみよう。
「母さん、もし今使っていなければスマホを貸して欲しいんですが……」
家に帰ると、母はすでに復活し、くるくると立ち働いていた。僕の手は必要なさそうだ、と判断し、代わりにスマホをねだる。
「うん? 珍しいね、どうしたの?」
「少し調べ物があって」
人参を刻む手を止めず尋ねる母に、僕はぼかして答えた。急に青い目なんて言えば、怪しまれてしまうかもしれない。それにもしかするとあんな地下にいたカズさんは、親が子どもに見せたくない存在なのかもしれない。教育に悪いとか、そういう理由で。それならやっぱり、僕があそこに行ったのは良くなかったのかもしれないな。母さん、すみません。快くスマホを貸してくれる母に少し申し訳なくなりつつ、僕はありがたく検索サイトを開いた。
青目、と検索する。駄目だ。日本人 青目。ヒットした。ええと、何々。僕は画面をスクロールする。そのサイトによれば、日本人にはめったにいない色だが、東北地方には度々現れるらしい。さらに青目は黒目よりも紫外線に弱いらしい。なるほど……不思議だ。しかしこれでなぜ青目の人が日本の農村に住んでいるのか納得はついた。
僕は頷き、母にスマホを返したが、そこでふと思い出した。
「あ、そうだ、母さんってこの村で育ったんですよね? 浅木正平さんって知ってます?」
浅木正平。カズさんの待ち人だが、どうも毎回外から訪れていたようだからカズさんから聞いたのだとはバレるまい。しかし母は目を丸くした。
「え? 知ってるけど……翔ちゃんもお写真見てるよ、昨日。ほら、そこ」
母が指差す先を振り返る。そこにあったのは仏壇だった。
「正平さんは私のひいお祖母ちゃんのお兄さんで……翔ちゃんから見たらお祖母ちゃんのお祖母ちゃんのお兄さんなのかな。もう百年も前に亡くなってるはずだけど、どうして翔ちゃんが知ってるの?」
僕は口をぽかんと開けた。百年前? でもカズさんは今東京で働いてると言っていたはずだ。これは、一体。
しかしとにかく僕はこの質問に答えなければならない。僕は頭をフル回転させた。
「あ、いや、その、昨日、正平さんに似てるねって言われて……でも誰に言われたか思い出せないしその人もすごく酔っぱらっていたから、多分相手も覚えていないと思います」
そう答えれば、母はなるほどね、確かに顔似てるかも、と納得したように頷き、夕食の支度に戻った。ありがとう、酔っ払い。ありがとう、酒好きの親戚。僕は昨日宴会があって本当に良かったと思った。
「それにしても、正平さんも可哀想な人だったよね……まさかあんなことになるなんて」
夕食の支度に戻る直前、宴会へ感謝を捧げる僕の前で、母がぽつりと口にした言葉が妙に尾を引いて耳に響いた。
昨日と同じく蓋をずらし、僕は階段を降りる。薄暗い。これから言わなければならないことが重く肩にのしかかっている。しかし踵を返すことなく、僕は一番下まで降り立った。
かしゃん。目の前の鉄格子を揺らし、僕は呼びかけた。
「カズさん。僕です、翔太です。約束通り今日も来ました」
直後、強く鉄同士のぶつかる音が響いた。そのまま音は僕の方へと近づき、そして白い手がにゅっと伸びてきた。
「翔太! 良かった、ちゃんと今日も来てくれたんだな」
「僕は約束をきちんと守る子ですよ」
「ああ、昨日言ってたな……でも、もし気が変わったら、もし誰かに止められたらって昨日の晩からずっと考えて考えて頭がおかしくなりそうだった」
こうして無事に来られて良かった。そう言って伸ばされた指先は赤く染まっていて、僕はギョッとした。
「え、カズさん、それ、血……!」
「ん?」
カズさんは億劫そうに自分の指を見遣る。それからいくらか動かし確認すると、適当に着物で拭い誤魔化した。
「……あー、大丈夫。ちょっと昨日そこの鍵をやった時のだから。すぐ治る。いつものことだ」
「大丈夫じゃないですけど⁉︎ 理科の先生が破傷風のリスクがって……え? 鍵?」
「あ、そうだ。それを伝えようと思ってたんだよ。よし、翔太。少し下がれ」
僕は訝しく思いながらも、言われた通り3歩ほど下がった。とはいえそもそも狭い空間だ。これ以上下がるならば階段を登るしかない。下がるのに上がるのがどこかチグハグで面白い。
「ああ、そこで良い。そのまま……」
そう言いながらカズさんは二、三度深呼吸をし、その次の瞬間__鉄格子を思いきり蹴った。丁度彼の足首に嵌まった足枷と鉄格子が、耳障りな音を立ててぶつかる。僕は思わず耳をふさぎ、目をぎゅっと瞑った。
「翔太、もう目を開けていいぞ」
僕はカズさんの声に、恐る恐る瞼を上げ鉄格子を__正確にはその一部分にはめ込まれていた扉を見た。今まで錠前で閉じられていたそこは、今はただきい、きいと音を立ててわずかな開閉を繰り返すまでだった。
「昨日鍵が崩れかけてるのに気づいてな、あとちょっと壊せばいけそうだったからやってみた。……ほら翔太、こっち来いよ。俺は枷があるから行けないんだ」
「……」
僕はただ、唖然としてそれを眺めるだけだった。鉄だぞ? 鉄……いくら崩れかけていたとはいえ。
彼は、一体何者なんだろう。「何」なんだろう。
「ほら、来ないのか」
立ち尽くす僕に手招きする。僕は本当に呼びかけに答えていいものか逡巡した。だって、そうだ。怖い。でも、いまだ黙り込んでいた僕に向かい合う彼の眼が、そのとき揺れたのを見て__僕は、一歩前へ踏み出した。大丈夫。何とかなるさと心の中で呟いた。
「……良かった」
カズさんがそう零したのを聞いて、ああ、これで合っていたんだと僕も頷いた。頭で鳴り響いていた危険信号は、全く聞こえなかったことになった。
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