もう一度、恋をしよう。
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翌日、私は休み時間を使って二組の教室へと足を運んでいた。目的は大石くんで、昨日の感謝と謝罪をするため。しかし、二組には中々来る機会がないせいで、彼の席など全く不明。今いるのかな、と教室の後ろ側の扉から見渡していると、聞き馴染みのある声が背後からかかった。
「あれ、名字。珍しいじゃん」
声をかけてきたのはサッカー部兼生徒会会計の男子だった。彼の方に振り返った私は、すぐさま用件を口にした。
「あのさ、大石くんいる?」
私が大石くんを呼ぶのが意外だったのか、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてから頷いた。
「大石? 呼ぼっか」
「お願いしてもいい?」
「おー、良いよ良いよ」
彼は扉にいる私より前に出て、教室の端で談笑している大石くんに向かって叫んだ。
「大石―、ちょい来て~」
大石くんがこちらに意識を向けた瞬間に、隣の彼は腕をぐんと伸ばして手招きをする。すると、大石くんは周囲のクラスメイトに丁寧な断りを入れてからこちらに駆け寄ってきた。
「名字が大石に用事だって」
私を指差しながら言うと、大石くんも一瞬だけ意外そうに目を丸くさせた。
「名字さん?」
「ごめんね、突然」
両の掌を合わせながら謝罪を告げると、大石くんは私が来た理由に合点がいったのか、ああ、と声を上げた。私は呼んでくれたお礼を言おうと隣を見たが、彼は既に姿を消していて、クラスメイトと話を弾ませていた。彼にならいつでもお礼を言えるし、と後回しすることを決めれば、私は大石くんに向き直った。
「いや、大丈夫さ。俺も気になってたし、」
あはは、と笑ってはいるが、表情は引き攣っている。理由は明らかに昨日のことで間違いない。それも当たり前だろう。相談を聞いていたら途中でいきなり泣き始めるし、途中で蚊帳の外にされるし、で散々だったろうから。
「うん。その気にしてることで……」
控えめに笑いながら、耳朶の裏を人差し指の腹で撫でた。すると、大石くんは私の目的をはっきりと言葉にした。
「手塚と、仲直り出来たんだろ?」
先に言われてしまったことで喉が詰まる。そして物言いも断定的で顔に疑問が浮かび上がったに違いない。すると、大石くんは理由をきちんと説明してくれた。
「さすがに気になって手塚に聞いたんだ。仲直りできたかって。そしたら、『ああ』とだけしか言ってくれなくてね。でも仲直り出来たなら良かった」
大石くんの話から、国光くんの様子が容易く想像出来てしまった。国光くんから大石くんに私のことを言いそうにないし、あるとすれば大石くんからのルートしかない。
国光くんのせいで気の抜けた笑い声を出しながら、大石くんに感謝を伝えた。左肘のことを本人の口から聞くのは不可能だったろうし、知らないままだったら仲直りもままならなかったはずだ。
「うん。大石くんのおかげでもあるからお礼を言いたくて」
「俺は何もしてないよ」
「ううん。あの時会ったのが大石くんで良かった。ありがとう」
首を横に振る大石くんに対して、感謝を強制的に手に握らせるように口調を強めた。あの出来事のおかげで前に進めると思うから、何が何でも伝えたかった。
大石くんへの用件を果たし、教室に戻ろうとしたけれど、彼の方がまだ何かあるようだった。ほんのりと頬が赤く、切り出しづらそうにもじもじとしている。
「その……前から気になってたんだが……名字さんは、手塚と、その……」
そう来たか、と目を閉じながら眉間に皺を寄せた。確かに勘違いされてもおかしくない。昨日のアレは痴話喧嘩に思われても仕方ない。でも、大石くんにまでそう思われてしまうとは。
「あー……大石くんが想像するような関係じゃないよ」
苦笑しながら否定すると、大石くんは頬が赤いまま後頭部に手をやった。
「そ、そうなのかい? すまない、俺はてっきり……」
「付き合ってると思った?」
「え、あ、いや、随分と仲が良いように思えて……はは……」
大石くんの乾いた笑いが周囲の喧騒に消える。さすがに抱きしめられたところは見られてないよね、と考えたけれど、知らなかった場合の対処方法に困るので言葉を飲み込んだ。それにしても彼でこんな様子なのだから、テニス部の全く知らない面々にも時間の問題だろうな、と他人事のように考えていた。
***
深い緑から雫が滴り落ちる。ザアザアと騒がしい天気を無視しながら私は人気のない三年六組に駆け込んだ。
「名前~!一緒に帰ろ~!」
勢いよく叫んだ先には、本に視線を落としていた名前。私の声が聞こえた瞬間に、大人びた目つきが緩やかにこちらを向いた。
「あれ、今日部活は?」
名前は手元を見ることなく本に栞を挟むと、唇を小さくすぼめて首を傾げた。
「雨酷すぎて無くなった」
鞄を肩に掛け直しながら名前の席へと近づく。そして、誰もいないからと周辺の机にお尻を乗っけた。彼女が先程まで読んでいた本の表紙を覘いたけれど、英語の出来ない私には何の本か分からない。
「やった。なんか久しぶりな気がする」
窓の外で降りつける雨さえも晴らしてしまいそうな笑顔が咲く。私は彼女の笑顔を見る度に、必要以上に安堵してしまう。笑顔以外の表情を見るのが、私の不安を酷く煽るからだ。今でも二年前に見た、泣き顔がどうしても忘れられないでいる。
入学してすぐ、名前は私の目を惹いた。見た目からでも、私に持ってないものを持っている子だと判断できた。すらりと伸びた手足に、落ち着いた雰囲気。そして、顔。多分これが一番の理由だと思う。私の恋愛対象は異性だけれど、同性の彼女の顔が好きだった。どこか影のある、すぐに折れてしまいそうな繊細さが見え隠れしていた。近づきたい。触れてみたい。そう思った時には、あの手この手で彼女に話しかけていた。想像通りの控えめな笑い方も、目をいっぱいに細めて笑う姿も、全部好きだった。でも、彼女と近づけば近づく程、壁があるように思えた。最後の一歩が近いはずなのに遠い。ふとしたときに見せる影も、その壁が理由なんじゃないかって考えた。
でも、私にそれを聞く勇気はなかった。たまたま本屋で会った夕方。普段からは想像もつかないボロボロの名前にショックを受けた。何があったのか、聞く勇気が、聞いたとしても受け止められる覚悟がなかった。私の頭の中で考えられる可能性は全部考えた。考え抜いて出来なかった。根本まで引っ張り出して助けてあげられない。そう悟ってしまったから、私はあの時、別の方法をとった。私の好きな彼女の笑顔を取り戻したかった。ただ、それだけで。
初めて二人で遊んでから少し経った頃、名前に変化が起きた。前よりも格段に笑顔に溌溂さが加わった。口を大きく開けて笑うようになったし、口数も増え、話し方も砕けるようになった。上手くいくようになったのかな、と一人でに安心していた。それでもまだ、名前に真実を聞く勇気がなかった。
あの出来事から二年過ぎた。今はまた、彼女が眩しく見える。最近特に綺麗に輝くから、今度は安心が一周回って不安が襲ってくる。良くも悪くもコロコロ変わる表情は私が原因じゃなく、手塚国光であることは一番近くにいる私が誰よりも分かっている。
生徒会発足当初、何となく女の勘ってやつで二人がお似合いだと思った。理由はないけど、運命だって感じた。私は面白半分で二人が仲良くなればいいと思って背中を押せば、いつの間にか上手くいっていた。私の知らないところで二人が距離を詰めていたことに嬉しくもあり、悲しくもあった。私が一番名前と仲が良いと思っていたから。名前はずっと友達としているようだけれど、むしろ友達でいられる方が嫌だった。この二年間が潰されたみたいで初めて嫉妬した。私の知らない名前を友達として知っていることに腹が立った。
つい最近、曇っていた彼女の表情を晴らしたのだって手塚国光だろうと思う。曇らせた原因も手塚国光。詳細は知らないけれど、人間関係において淡白に見える彼女が普段の顔を変えるほど影響を与えるのは、手塚国光しか思い当たらない。手塚くんは名前の最後の壁を壊せたのだろうか。友達として、全てを知ったのだろうか。もし、それが事実であるなら、私は羨ましがらずにはいられない。私に出来なかったことをあっという間にやってのけてしまったことが羨ましい。でも、そのおかげで彼女の素敵な笑顔が見られるのなら、手塚くんに感謝してもいいのかな、なんて微妙な感情が胸を締め付ける。
名前と靴箱に向かうまでの廊下。雨音に掻き消されそうな音量で呟いた。
「名前さあ、可愛くなったよね」
「な、なに、急に」
名前は耳が良いから、どれだけ小さくても私の声を正確に拾う。だから、今なんて突然ロボットみたいに動作がぎこちなくなる。そんな姿も二年前の私達からは想像出来ないけれど、今の私にとってはそれが可愛い。
「前も明るかったけど、今はなんか……輝いてる?」
真剣かつ淡々と告げると、名前は足を止めて訝しげに尋ねる。
「……変なものでも食べた?」
「ちっがうよ!」
私も足を止め、力のない拳で彼女の腕を突いた。彼女は口を大きく開けて、けらけらと年相応の顔をして笑っている。わざとらしく下げていた口角も、その笑顔のせいで簡単に上がってしまう。
「ごめんって。でも、ありがとう」
一頻り笑った後、目を細めて礼を口にする彼女は綺麗だった。思わず見惚れてしまって、少しの間ぼうっと呆けてしまった。やっぱり好きだなって思うから。
すると、彼女は突然笑みを消し、神妙な面持ちで「あのね」と切り出した。
「話したいことがあるの」
ドクン、と心臓が緊張を覚える。
「……いよいよ付き合うとか?」
茶化すような言い方で美帆に擦り寄るけれど、彼女は不満そうに顔を背けてしまった。
「違うから」
否定しながらでも、どことなく満更でもない顔をしている。手塚くんも早く言わないと、誰かにとられちゃうかもよ。
「それなら可愛くなった理由付けになるのにな~って」
「あのねえ」
「分かった、分かった。で、話したい事って?」
本題に戻すと、名前は朗々とした声で切り出した。国語の時間に聞く朗読とよく似ている声だった。
「今までずっと黙ってたこと、ちゃんと話しておきたくて」
彼女の言葉に、私は笑うことも、悲しい顔をすることもなく頷いた。問答無用で覚悟を決める時が来たんだと察知した。
彼女は周囲を確認すると、私を靴箱まで連れて行ってから口を開いた。彼女の方から壁を破り始めた。壁の向こう側から私に会いに来てくれたのだ。
ずっと知らなかったピアノとの関係。周りの環境。追いつかなくなった感情。彼女は一つ一つ丁寧に洗いざらい話してくれた。出会った当初、暗かった表情にもやっと合点がいった。それと同時に、二年前に聞かなくてよかったと思ってしまった。私には受け止められるほどの器量はないし、かけられる言葉も頭の引き出しには入っていない。
すると、名前は私の目を見た。膜の張った瞳は揺れていて、私は息を呑んだ。
「あの時、何も聞かずに背中を擦ってくれたことが嬉しかった。初めて人前で泣いたのがあの時だった。ずっと感謝してたのに、ちゃんと伝えきれてなくて。それが引っ掛かったままだった」
名前はそう言い切ると、ハア、と大きく息を吐いた。そして再び私の顔を見直した。
「ありがとう。傍にいてくれて」
完全に壊れた壁が、目の前で散っていく。破片がキラキラと眩しくて、鼻の奥が痛い。
そんなの今更だ。私が好きで傍にいるのに、今更感謝なんて要らないよ。
「当たり前だ、馬鹿やろ~!」
私は叫びながら、彼女を抱きしめた。
彼女から来てくれたことが嬉しい。でも、込み上げてきた感情が零れるところを見せるのは気恥ずかしくて、ハグで誤魔化した。
私は手塚くんと違って、すぐ抱きしめてあげられる。友達の一番は絶対に譲ってあげない。だからこそ、さっさと付き合ってほしい。早く付き合うことになったんだって私に笑顔で報告しに来て欲しい。私は誰よりも大きな声で「おめでとう」って言ってあげるから。
私は鼻をすすると、名前から体を剥がしてこう言ってやった。
「手塚くんのことも、ちゃーんと教えてよね」
***
建物の影が濃くなり始め、夏の近づく足音が聞こえる。湿度の高い空気はじっとりと肌を不快にさせ、気分も下げていく。とある日の休み時間、悪天候を掃うように乾はノートを持って私の元へと意気揚々と駆け込んできた。
「名字、ランキング戦だ」
「そんな待ってました、みたいな顔で言われても」
形容しがたい嫌な予感が当たってしまった。乾の顔が元気良いと私の顔は悪くなる。彼の表情が豊かだと、ろくでもない用件を持ち込んでくるのは恒例行事に近かった。すると、頬杖をついたままの私を知らんぶりして、乾は話を続けた。
「次ランキング戦があれば見に行くと言ってただろう。だから、お知らせに来たんだ」
雲に隠れた太陽のような顔をして言うから、彼自身に突っ込まずにはいられなかった。
「……随分と自信に溢れてるみたいだけど」
「まあね。俺は負けはしないよ」
見違えるほどの言い切りに、期待が膨らんだ。あの青と白が眩しいジャージに再び袖を通すのかと、私は頬杖を止めた。
「そう。じゃあ、観ようかな」
「テニスコートで?」
「ううん。空き教室で」
「うーん、残念」
肩をすくめて笑う乾に、鼻で笑ってしまった。乾との会話のラリーは飽きなくて、つい遊んでしまう。どうか今度はレギュラーに返り咲きますように。あと、今度は国光くんにバレないように覗こう。バレても乾目当てではないことははっきり伝えなければ。
目標を定めた私はふと、ランキング戦について気になった事があり、乾に尋ねた。
「そういえばさあ、ランキング戦の組み分けって竜崎先生が決めてるの?」
ただの興味から出た疑問だった。特に意味はない。
すると、乾はノートをパラパラと捲り始めた。
「いや、手塚だ。試合でのダブルスやシングルスも手塚が決めてる」
「へえ、」
国光くんが決めてるのか、と思うと同時に全校集会の一件を思い出した。プリントに私の名前だけが書かれたあの時。もしかして、オーダー表を作る時の癖が抜けなかったのかな。もう、してくれないのかな。随分と前のことを思えば国光くんが可愛く見えた。
くす、と思い出し笑いをしてしまうと、乾はそれを敏感に嗅ぎ取った。
「今、データの匂いが……」
「してない」
変に詮索されないように全て言い終わる前に掻き消してやった。下手したら菊丸や不二にまで伝わってしまう。
危なかった、と胸を撫で下ろすと、乾はあることを求めてきた。
「そうだ。三日目は必ず見てくれないか」
三日目、というと最後の日か。何か面白いことがあるのかと首を傾げた。
「……どうして?」
「当日になれば分かるよ」
それきり乾は口を割らなくて、ランキング戦の三日目を迎えた。
国光くんも乾もレギュラー入りを果たしたようで、空き教室で一人安堵していた。それにしても未だ乾の「三日目は必ず見てくれないか」の意図が理解できなくて、試合が始まるのを待っている。一体何が目的なのか、とコートを覗き込んでいると、目下に広がる状況を見て立ち上がってしまった。
「国光くんと……乾!?」
信じられなくて目を擦る。何度擦っても変わらない二人に、思わず窓を開けた。
もしかすると、乾が見てくれと言った理由はこれなのか。でも、乾の心は分からない。私に何を見せたいのだろうか。分からないまま国光くんと乾の試合は始まった。
***
二日目のレギュラー戦終わり、俺に声をかけてきたのは乾だった。自信に溢れた顔でこちらを見ている姿に、妙な不穏感が漂っている。
「手塚、」
「なんだ」
「勝負しないか」
乾の言葉に頬に力が入った。試合は明日だというのに、目的は何のつもりか。奴の言う勝負の詳細を待てば、笑みを作って言い放った。
「勝った方が名字をフォークダンスに誘える。乗らないか?」
俺は口を開かぬまま、奴の表情を見据えた。
今月ある体育祭の事だろう。最終種目として三年限定のフォークダンスがある。それの相手に名前を誘うか否かの話のようだが、俺に持ち掛ける理由が不明だ。だが、乾と名前が共に入場する姿を描けば、胸中は騒ぎ始める。
「余程自信があるようだな」
努めて顔に出ないよう言葉を濁した。互いにレギュラー入りを決定づけているものの、勝負事を持ち込んでくるのは自信の表れに違いない。
「明日こそ手塚に勝つつもりだからね」
眼鏡のブリッジを上げながら宣言する奴に、俺は不快感を募らせた。
述懐する節々から感じるのは、あいつへの想いの一端だろう。普段から名前の表情を見れば乾との仲は理解できる。俺よりも仲睦まじげに話す姿は、俺を腹立たせる要因の一つであった。
だが、フォークダンスの相手を決めるも決めないも任意だ。名前が誰と出ようが俺には関係ない。共に出たいと思う相手がいるのなら、尚更だろう。
「……最終的に決めるのは名前だ。俺達が何を言っても関係ないはずだが」
俺と乾が誘おうとも、全て名前次第だ。その前に俺達が争っても無意味だ。名前は、乾からの誘いを待っているのかもしれない。その可能性があると踏んでいるから奴は仕掛けて来たに違いない。
乾は手にしていたノートを開くと、口元に張り付けていた笑みを消した。
「既に名字は何人かから誘いを受けている」
何人かから、という部分が引っ掛かった。既に相手が決定済みである可能性もゼロではないということか。
「全部断ってはいるようだけど、人気は想像以上だな」
眉尻を下げながら奴は笑った。内心、奴の言葉に熱いものが広がった。まだ誰の手も取っていない事実に安堵してしまっている。
乾はノートを閉じると、俺の目を見た。奴の表情が俺の手に力を入れる。
「俺が負けたら、絶対に誘わない」
じゃあ、と言うと、乾は去った。俺は顔を上げ、誰もいない空き教室に目をやった。以前行ったランキング戦で名前を見つけた、あの教室。明日、来るのだろうか。先程の話は既に名前の元へ行っているのか。名前は乾のことをどう思っているのだろうか。
俺は顔を下げ、口端を一文字にきつく結んだ。
何があろうとも、俺は負けない。名前は関係なく、俺は絶対に勝つ。
乾との試合前、空き教室を見上げれば名前はいた。以前目的を聞けば、乾であったようだが、今回も奴を目当てに来ているのだろうか。ならば、乾がフォークダンスの相手に誘えばいいものを。
だが、頭で結論付けた解答が咀嚼できずに口内に残り続ける。俺が勝つことで名前を悲しませるのは心が痛むが、勝負事で、ましてやテニスで負けるつもりはない。
グリップを握り直し、ネットを挟んで乾と対面する。俺はテニスだけじゃない。名前のことでも絶対に負けはしない。誰が相手だろうと、引くつもりはない。
「なんか二人とも、いつも以上に気合入ってんね~」
菊丸の声が俺達にかかる。勝負が既に始まっていることは、俺達だけが知っている。
「手塚、」
奴は眼鏡のブリッジを上げ、宣言した。
「勝たせてもらうよ」
ランキング戦が終わり、校門へ向かえば乾が待ち構えていた。奴の目の前を過ぎようとすると、独り言のように呟いた。
「約束通り、俺は誘わないよ」
乾の言葉に、名前の泣き顔が浮かんだ。俺に負けるつもりはなくとも、名前の心緒を考えれば気持ちのいいものではない。
乾は俺の隣に立つと、気の抜けた声で肩を揺らした。
「それにしても、予想外に仲が良くて驚いていてね」
おかげで良いデータが取れているよ、と言葉を続けたが、俺は首を縦に振らなかった。
「……お前の方が、名前と仲が良いんじゃないのか」
だから今回のレギュラー戦も見に来ていた。俺にはそう取れた。以前から乾と話す名前は、俺と話すときよりも溌溂として見えていた。
だが、奴は語尾に被せるように言葉を発した。
「残念だけど、それは違う」
乾はラケットバッグを肩に掛け直し、飄々とした口調で今回の勝負について説明した。
「正直なところ、どう思ってるのか知りたくて。試合前に持ち掛けたのはそれが理由」
俺が、名前の事を。真実が飛び出しそうになるのを堪え、飲み込む。
「お前がそれを知ってどうする」
「ライバルかどうかの確認」
淡々と答えた乾に対して、闘争心に火が点いた。音を立てて燃えるそれは、俺の抱える名前への感情を明確にした。
「その顔は、俺と同類だと見做していいのかな?」
余裕のある笑みに、心は燃え続ける。だが、乾がいようといまいと、名前がどう思っているかが重要だ。俺達の争いの意味は、ほぼ皆無だと言っていい。
「好きにしろ」
乾にそう言い放ち、俺は帰路に着いた。
乾は、名前の事をどこまで知っているのだろうか。奴のことだ。詳細に調べているに違いない。だが、あいつの過去のことまで知っているのだろうか。名前は、人に話すのは初めてだと俺に言った。それが確かであるのならば。
俺は浮き上がった答えを掻き消すように瞬きをした。たとえ俺だけが知っていようとも、確実な理由にはならない。名前の口から聞いたことだけを俺は信じるしかない。
初めは名前のことを知らなかった。立候補すると聞き、候補者のみが招集されたときに初めて顔を合わせた。静かに佇む姿は同年代にはない落ち着きを掃っており、その上でどこか危うげな儚さを持ち合わせていた。それが第一印象であった。
その後、言葉を交わすことはなく、演説当日を迎えた。俺と後援者の演説の後に立ったあいつは、誰よりも堂々としており、以前見た姿とは対極的であった。
後援者の演説が終わり、名前が全生徒の前に立つ。スポットライトに当てられた名前は、上から吊るされたように真っ直ぐ背筋を伸ばし、前を見据えている。自分自身が中心であると分かっていて、光の下に立つことの慣れを感じさせた。
そして、名前はスウ、と深く息を吸い、マイクに声を通した。
「皆さん、初めにあちらをご覧ください」
名前は指先まで神経を尖らせ、左側を差す。全生徒はそれにつられて顔を動かした。
「次にこちらをご覧ください」
手を変え、右側を差す。同じように全生徒の顔が動いた。
「最後に私を見てください」
最後の言葉で、異なる肌色が前を向いた。その瞬間に、名前は曇りなく笑った。
「ありがとうございます。私が生徒会副会長に立候補した名字名前です」
山の息吹が聞こえてきそうな程の、澄んだ声だった。
いとも簡単に俺の中に入ってきた名前は、俺に初めての熱を生んだ。そして、目を奪った。周囲の密かな笑い声も、奇異の目で見る奴らの話し声も、全て俺の耳には届かない。
「皆さんにとって、生徒会に相応しい人物とはどのような人だと思いますか?私は、堂々と声を上げ、人を引っ張っていくパワーを持つ人が相応しいと思っています。先程のように、私は一声で皆さんを動かしました。今の勢いのように、通常行う行事や活動を含め、新たな風を吹き込んでいきます」
名前が行った演説の三分間。俺は一秒たりとも名前から目を離さなかった。いや、離せなかった。
「決して後悔はさせません。皆様の清き一票を、よろしくお願いします」
名前の演説、いや、パフォーマンスが終わった。俺の意識は周囲からの拍手で戻った。俺は名前の声に、聞き惚れていた。
役職が決まり、全校集会の役割分担を任された。藁半紙には必要な役割が綴られている。一先ず名前に渡しておこうと一枚別に取っておいたつもりだった。だが、俺があいつに持って行ったのは、自分用だった。先生から受け取って無意識に書いた、名前が残った方を渡してしまっていた。
「なんで私の名前書いたの?」
純粋に理由を問う瞳が俺の調子を狂わせる。元はと言えば俺の不注意であるが、名前の姿を見ると演説時に感じた熱と同じ熱が俺を襲う。素直に理由を言えば、名前の頬は赤らんだ。その表情が妙にくすぐったく思えた。その後来た大石に見せるのは、何かが嫌で自身の背で隠した。理由は不明でも身体は動いた。
大石を連れて名前から離れた後、廊下に響く名前の声。俺だけに向けられた笑顔が、再び熱を発生させる。名前の表情が、声が、俺を穏やかにさせる。何故か、頬の辺りに違和感が走っていた。
それから行事を共にこなすものの、名前の笑顔を見ていなかった。笑ってはいたが、俺に向けられる笑顔がなかった。菊丸と仲が良いことは部活の合間に聞いたが、あいつは誰とでも仲が良いようだ。常に誰かが隣におり、笑顔は絶やさない。誰の口からも、名前はいつも笑顔であると何度も耳にした。だが、初対面時の表情が忘れられなかった。演説や普段の姿を見れば猶更、同一人物に見えなかった。あれは誰なんだと問いたくなるほどに。
名前から昼食に誘われたときは驚かざるを得なかった。俺を面白いと評したり、部活の面々に俺のことを尋ねたり、名前自身の行動に理解が追い付かなかった。だが、名前の昼食の誘いは素直に喜びを覚えた。名前のコロコロと変わる表情は見ていて飽きない。俺にない表現力を持っている。俺は饒舌ではないが、名前からの質問には答えたくなってしまう。
ある時、俺がお前のことを知りたいと言えば、あいつはみるみるうちに顔を曇らせた。初対面時に見た陰りが、そこにあった。踏み込むにはまだ早いと判断した俺は、菊丸が一方的に話していたことを辿りながら口にすると、名前は顔色をすぐに持ち直した。恐らく名前は何かを誤魔化し続けているんじゃないか。そう思えば思う程、俺の興味は名前自身へと向いてしまっていた。
名前の機嫌が損なわれたとき、全身の血の気が引く感覚を始めて味わった。あいつに振り払われた衝撃が手に熱と共に残り、悔恨が込み上げてくる。
乾なら上手くやったんだろうか。泣かせることも、悲しませることも、あいつが相手ならばなかったんだろうか。そう思えば思う程、無性に腹が立った。
翌日、学校へ着いてから思い出した。明日は名前と一緒に昼食をとる日だと。それに気づいてしまえば、一日中落ち着かなかった。名前が自分の想像より遥かに存在していることを、明確に理解させられた。それから休み時間の度に何度も六組へ向かおうとしたが、足は動かなかった。会って何を言う。本質を知らないというのに、言葉のかけ方を知るはずもない。
一度も姿を見ることなく、放課後を迎えた。あいつは部に入っていない。既に帰宅しているかもしれない。一抹の不安を覚えつつ、腹を括っては六組の教室に向かった。だが、そこに名前の姿はなかった。鞄のみを残して姿を消していた。まだ体調が悪いのか。それとも体調の悪化で倒れているんじゃないか。気持ちと足が急く。考えられる可能性を導き出しては校内を探した。すると、渡り廊下に泣きじゃくる名前と大石を見つけた。引き出しに言葉は何一つないが、俺は間に割って入った。名前に触れようとする大石を俺が拒んだ。目の前で俺以外の人間が名前に触れることを俺自身が嫌った。
そして二人きりになれば、名前はより涙を流した。俺に対して謝罪を口にしていたが、その謝罪は名前自身にも向けられているようだった。彼女は、過去の清算が出来ずにいる自分自身への贖罪を永遠に続けている。
お前をそこまで追い詰める理由は何だ。笑顔で全てを隠そうとするそれは何だ。俺に何が出来る。俺はお前にとって必要な者となれるだろうか。乾や菊丸、大石じゃなく、俺を誰よりも頼って欲しい。
だが、何よりも今は、その涙を拭うことの許可が欲しい。
蓋をしていた感情を受け、陰る意味をようやく理解した。今にも崩れ落ちてしまいそうな名前を、どうすれば受け止めてやれるのか。名前は確かに努力していて、それに応じた結果を残している。努力というものは目に見えない。結果が出て初めて己が確認出来る不明確な存在だ。
過去の出来事が名前にどこまで深く染みついているのか、俺には分からない。実際に受けた者にしか分からない傷だ。だが、俺は口を開いた。名前の気休めになればいい。一筋でも光を見てくれたらいい。俺は俺の思うままに言葉を紡いでいた。
「すこしだけ、このままでいさせて」
俺に身体を預ける名前が酷く小さく見えた。異性の中では小柄な方ではない。だが、俺の目には普段より一回りも、二回りも小さく見えた。一人で立つには、あまりにも儚く、脆い。だから、名前の身体を抱き締めた。華奢な身体が、初めに受けた想いを助長させる。
この顔は誰にも見せたくない。俺だけが受け止めて、帯びる熱を感じていたい。だから離したくない。そう思った。
後日、名前の顔色は明るくなった。すっきりと晴れ渡る空のように眩しく笑っていた。
「国光くんのために弾くから」
俺の我儘を受け入れた名前。本当のお前を知れると思うと、胸が熱くなった。大きく出た一歩が、お前との距離を確実に狭めた。
お前がそうしてくれるのであれば、俺もそれに応えたい。次は俺の事を知ってくれるだろうか。そして、この先の俺も一緒に知って欲しい。そう想うことは、許されないだろうか。ずっと、名前が俺の隣にいることを望むのは勝手過ぎるだろうか。
***
湿気の多い空気が部屋いっぱいに充満する。綺麗にまとまらなかった髪を気にしながら、私は国光くんと一緒にお昼を共にしていた。今は食後のトークタイムで、お茶を片手に話している。
「もうすぐ体育祭かあ」
今にも降りそうな雨雲が空に広がっている。そんな様子を横目に、彼に話題を振った。学校行事の一つであるから、私達が主軸になって盛り上げるのだろう。
「ああ。開会式と閉会式に役割はあるが、それ以外は他の委員会に役割を任せているから俺達に仕事はあまりない」
「ふうん、そっか」
国光くんの説明を受け、ずっと走り回らなくていいのだと安心した。
体育祭は十一組あるクラスを三組に分けて競う。一から四組が赤、五から八組が青色、九から十一組が黄色。だから国光くんは赤で、私は青。一緒ではないことに少しだけ落胆した。
「国光くんはさ、フォークダンスの入場のときの相手、決めた?」
最近の女子の話題と言えば、決まってフォークダンスだった。入場だけとは言え、恋人持ちからすれば自分の恋人を見せびらかすチャンス。片想い中でも誘われたり、誘ったりすることで新たなカップルの誕生が相次いでいる。もちろんそれ以外の子も適当に決めるよりは友達と、という気持ちから入場する相手を決めているようだった。
同性の友達に尋ねるときと同じテンションで国光くんにも興味本位で尋ねると、彼は深刻そうに目に鋭利さを備えた。
「……お前は、どうなんだ」
妙な緊張感が走る。間の開いた言葉に引っかかりながらも、気にすることなく現状を答えた。
「誘われたけど断ったんだよね」
最近他クラスの男子から呼び出されては、フォークダンスの相手の有無を問われていた。いないなら、と誘われても、私が首を縦に振ることはなかった。
へらへらと気の抜けた顔で笑って見せるけれど、国光くんの表情は硬いまま深堀してくる。
「誰に誘われた」
問い詰めるような強い口調。いつもより厳しい雰囲気に戸惑いを隠せない。
「えっと……野球部の主将と、バスケ部の人だったかな。あと、サッカー部の人、何人か」
誘いを受け入れるつもりが全くなかったせいで、記憶が曖昧になっている。早い人だと一か月前に来たかな。
指を折りながら答えると、国光くんは間髪入れずにある人の名前を出した。
「乾からは誘われたのか」
「乾? いや?」
どうして乾なのかな、と短時間で考えを張り巡らせる。出た答えは簡単で、国光くんの勘違いが続いていると決定づけた。それにしても安心していいのか、悪いのか、乾に誘われなくてよかった。まあ、あの乾が私を誘う訳ないから国光くんの盛大な勘違いなのだけれど。
「誘ってくれるのは嬉しいんだけど、全然知らない相手だから」
どうせなら菊丸とか不二とか、知ってる相手が良い。
一つ不満だったのは、断る度に「手塚と入場すんの?」と言われることだった。知らない人にまで言われるのは不愉快極まりない。もちろん国光くんと入場できるなら嬉しいけれど、そういうイベントに興味がなさそうだから誘うに誘えない。
すると、国光くんは変わらない調子で更に問いを重ねた。
「菊丸や不二はどうなんだ」
「さあ? よく誘われてる姿は見るけど、どうするかは知らないなあ」
人気過ぎて休み時間の度に姿を消している気がするぐらいだ。結局特定の相手は決めてないみたいだけれど、どうしたいのかは知らない。
「まあ、別に無理に決めなくていいから。付き合ってるならまだしも」
恐らく大半が決めずに入場するはずだ。皆が皆上手くいくはずもない。その上手くいかない面々の中に私も入るんだろう。
「……そうか」
私の答えを聞いた国光くんは心なしか、覇気が消えていた。先程まで続けざまに質問してきた意味は何だったのだろう。もしかして、と瞬きを多く重ねた瞬間に一つの答えを導いたけれど、自意識過剰が過ぎると掻き消した。
「国光くんもいっぱい誘われたの?」
矛先を変え、目標を彼に定める。私のクラスから国光くんを誘おうとする子はいなかったけれど、他クラスならいるだろう。十人ぐらいに誘われたのかな、と予想を立てたけれど、答えは呆気なかった。
「いや、俺はない」
「嘘。絶対多いと思ったのに、」
大当たりすると思っていた予想が砕け散る。信じられなくて開いた口が塞がらない。
「勿体ないことするなあ」
溜息交じりに本音を口にする。
国光くんなら引く手あまただろうに。誘いたくても誘えない子がいっぱいなんだろう、と自分自身と重ね合わせた。
再び窓の外に目をやると、曇り空から光が差し込んでいた。放課後は晴れるのかな、なんて思っていると、国光くんに名を呼ばれた。
「名前」
「ん?」
「俺と出てくれないか」
国光くんの言葉が呑み込めなくて、何色にもならない顔で彼を見つめた。今、なんて。聞き返す言葉さえ出てこない。本能的な喜びが込み上げても、口がはくはくと動くばかりで現実として受け入れられていない。
すると、国光くんは顔と声を強ばらせて私を招いた。
「俺と、入場してくれ」
***
体育祭当日。見事に晴れ、燦燦と降り注ぐ日光が眩しい。
「名前~、集合だよ~」
「はい、ごめん!今行く!」
組ごとのブルーシートに水筒を置いて、友人の元へと走る。自分の出場する種目が近づき、決められた場所へと並ぶ。
「二人三脚、頑張って決勝行こうね!」
「もちろん」
入場待機場所の後方部で前方が並び終わるのを待つ。
私が出場するのは、個人種目の二人三脚と借り物競争、そして組対抗の大縄跳び、綱引き。最後に三年生全員参加のフォークダンス。二人三脚は特に目玉種目であるため、よく盛り上がる。陸上部で短距離専門の友人とペアを組むのは気が引けたが、練習の甲斐もあって優勝に向けて万全の体勢だ。
すると、二人三脚の順番待ちの最中、友人はこっそりと私に耳打ちをしてきた。
「ね、手塚くんのこと、誘ったの?」
フォークダンスの話が持ち上がり始めた頃からずっと言われていたことだった。一緒に出られるなら嬉しいけれど、国光くんがそういう事に興味があるように思えなかったから二の足を踏み続けていたのだ。まさか、彼から誘ってくれるわけもないだろうから余計に。
「誘ってない」
「え!?嘘じゃん」
私から誘わなかったと言えば、友人は目が飛び出そうなほどに目を見開いていた。
「本当」
「友達でも誘ってるんだよ、みんな」
あーあ、と嘆く友人に対し、私は零れる笑みが止まらない。だって、私からは誘ってないだけだから。
とうとう笑みが堪えきれなくなって、くすくすと笑ってしまう。未だあの時を思い出せば、表情はだらしなくなる。
「でも一緒には入場するよ」
緩み切った顔でヒントを出せば、友人は目を丸くさせて私の腕に触れた。
「え、ちょっと待って。どういうこと」
案の定、混乱する友人に声を上げて笑った。周囲からすれば騒がしい二人に見えるんだろうな、と思いつつ、嬉しい気持ちは抑えきれない。
「国光くんが誘ってくれた」
口元を手で覆いながら目を細める。友人は驚きと喜びとが入り混じって、口をぱくぱくとさせている。そして、全ての感情が弾けるように私に抱き着いた。
「き、聞いてない~!!」
友人から受けた衝撃で、私はその場で尻もちをついた。
***
「俺と、入場してくれ」
言葉にされた瞬間、理解が出来なくて黙り込んでしまった。まさか、国光くんが誘ってくれるなんて夢にも思ってなかったせいで、まともな言葉は出ない。
「……国光くんは、私でいいの?」
おどおどと怯えた様子で聞き返す。
国光くんが嘘や揶揄いの言葉を言うとは思えなかったけれど、今が現実かどうかが怖くて聞き返さずにはいられない。
国光くんがこうして誘ってくれたということは、フォークダンスの相手についての質問が続いたことの理由がつく。私を誘うかどうか迷っていたのだと確定してしまう。自意識過剰が過ぎたわけじゃなく、本当にそうだった。
「お前がいい」
目つきが鋭くなって、再度主張してくれる。「で」じゃなくて「が」だったのが嬉しかった。まるで私以外の選択肢がないみたいに聞こえるから、喜ばずにはいられない。
「なんか、予想以上に嬉しい」
だらしなく緩む口元に、思わず痛む目の奥。そして、自覚出来るほど顔に帯びる熱。他の子じゃなくて、本当に私なんだ。国光くんにとって私が良かったんだ。
「うん。お願いします」
震えを帯びた声で頷く。国光くんは少しだけ目を開いて、驚いた顔をしていた。
「良いのか」
「うん。私も、国光くんが良い」
***
「ふふ、」
つい先日の出来事を思い返し、口元の抑えが効かない。場所が場所のせいで詳細を話せないのがもどかしい。友人は頬を膨らませて口を歪ませると、痺れを切らしたのか、荒れた声を出した。
「あー!もう、体育祭終わったら絶対聞くからね」
プンプン、と音が鳴りそうな怒り方に私は反省一つしない。むしろ調子づく一方だった。
「お昼でもいいよ」
「この~!幸せ者め!」
うりうりと拳で腰のあたりを掘るように当ててくる。すると笛の合図があり、ようやく入場した。
一年生と二年生が終わり、とうとう私達の番が回ってきた。立ち上がって用意された手ぬぐいで足首を結び、深呼吸をする。そして座ったままで凝り固まった膝を動かした。
ピストルの乾いた音が響き、トップバッターが走り出す。私と友人は青色の鉢巻きを眺めては、叫ぶように応援の声を出していた。
二人三脚は、一組半周とアンカーが一周。私達はアンカーの一つ前で、ラストの菊丸と不二にバトンを渡す。あの二人なら陸上部も真っ青なのだろうけれど、少し意外だった。出るなら障害物とか普通のリレーだろうと思っていたから尚更。菊丸本人に聞けば、「大石が二人三脚に出るから負けてらんない!」とのことだった。不二も不二で「面白そうだから付き合うよ」と言ってたから私達にも気合が入る。
「名前、一番で渡そうね」
「もちろん」
気合十分なのは友人も同じようで目を輝かせている。私達は白線に並び、今の順位を確認した。赤組が一位、青色が二位、黄色が三位となっていた。差はあまり開いていないから順調にいけば、詰められない距離ではない。
友人がバトンを受け取り、数メートル遅れて飛び出す。お互いの肩を力強く掴み、足を回す。徐々に近づく、前方に揺れていた赤い鉢巻き。放送席から興奮した声が響く。
『青組が並んだ~!』
目前には菊丸と不二が笑顔で待っている。視界に赤色も黄色もない。
「菊丸くん!」
「不二!」
同時に叫ぶ私達に応えるように二人は微笑みを見せ、バトンを受け取った。
「任せろお!」
バタバタと足を止める。ほぼ同着と言っていいほど、三組は拮抗している。菊丸と不二はいつになく真剣な表情で足並みが揃っている。
私と友人はそれを見つめながら、砂だらけの身体を連れてトラック内へと戻った。
ゴールが近づくにつれ、歓声が大きくなる。黄色が赤色を抜き、青色に迫ろうとしている。このまま、このまま。友人と肩を寄せ合い、菊丸と不二に視線を送った。ゴールテープを切ったのは、もちろん。
『ゴーーール!一位は青組!』
ハウリングしそうなほどの声がグラウンド中に響き渡った。最高のゴールを決めた二人は笑顔で私達の元に駆けてきた。
「俺達かっこよかったっしょ!」
「かっこよかった!」
太陽にも勝る笑顔。退場する前に、四人でハイタッチをした。
二人三脚を一位で終え、安堵しながら応援席へと戻った。借り物競争もすぐ出番があるため、急いで自分の水筒を探して喉を潤す。借り物競争が終われば長い休憩が待っている。
ぐん、と背伸びをしながら再び入場待機場所に向かおうとすると、前方から国光くんの姿が見えた。
「名前、」
「あ、国光くん」
どちらからともなく同時に歩み寄れば、自然と会話は始まる。
「さっきは良い走りだったな」
どうやら二人三脚を見てくれていたようで、良いところを見せられたかなと密かにほくそ笑む。
「ありがとう。練習した甲斐があったかも」
そう言ってにこやかに笑えば、国光くんもそれに応えるように微笑んでくれる。
すると、私達の会話を終わらせるように招集の放送が鳴った。
「あ、そろそろ行かなきゃ」
「ああ。借り物競争か」
「うん。もしかしたら国光くん借りることになるかも」
なんてね、と笑って向かった。
そんなことあるわけないし、と楽観的に考えていた私は、お題を引いた瞬間に青ざめていた。ピストルの音を聞いて走り出してお題を引いたのはいいものの、封筒の中に入っていたものは先程の自分の言葉を髣髴とさせる。
「う、嘘でしょ……」
まさか現実に起こると思わないと思っていたせいで、他の人より遅れを取ってしまった。お題は皆人のようで、それぞれが走り出している。私はお題の紙と散り散りになっていく他の人を交互に見ては焦りを感じた。
自分の引いたお題に合う人は一人しか思いつかない。その一人と言うのは、国光くん。先程本人に言ってしまったせいで、見事なフラグ回収となってしまった。
でも、迷っている最中に一番を取られるのは絶対に嫌だ。負けるのだけは絶対に嫌だ。私は腹を括り、国光くんのいるだろう応援席へと向かった。
「国光くん! 一緒に来て!」
切らした息で名を呼ぶと、彼は頷いて私の手を取って走り出した。紙には「手を繋いで」なんて制約は書いてないけど、私は彼に連れて行かれるまま、ゴールへと走った。組み分けが違うのに協力してくれる国光くんには後でお礼を言わなければいけない。
応援団の声に包まれながら走っている最中、国光くんの手の力強さに意識せざるを得なかった。何度も触れたことのある手のはずなのに、手首から落っこちてしまいそうな熱が発生している。頼りがいのある心地よさと高鳴る鼓動。これは確実に近づいている夏のせいだと、季節のせいにした。
「やった~、一番だ」
二人でゴールテープを切り、両手を上げる。その拍子に手が離れる。
「お題を確認するので、こちらに来てください」
係に言われ、引いた紙を渡した。国光くんなら間違いなく通るはず。国光くんもお題が気になるのか、私の隣でお題の発表を待っている。そわそわと落ち着かない様子で結果を待っていると、係員はマイクを通して結果を伝える。
「お題は尊敬する人……会長を連れて来たんですね。オッケーです!」
満面の笑みでオッケーサインを作る。安堵すると同時に、肩を下げた。きっちりと一位を取ることが出来たのは嬉しい。
「ありがとう、国光くん」
隣にいる国光くんにお礼を伝えたが、彼の表情はあまり良くない。何となく寂しそうな顔をしている。
「……ああ」
「どうかした?」
体調でも悪いのかな、と思ったけれど、そうではないらしい。国光くんは眼鏡のブリッジを上げて位置を直した。
「いや、何もない」
私達の後にゴールした子のお題は「好きな人」だったようで、そのお題を引かなくてよかったと心底安堵していた。
これは後から聞いたことだけれど、お題が「好きな人」の場合のみ、手を繋いでゴールが必須だったらしい。
→
「あれ、名字。珍しいじゃん」
声をかけてきたのはサッカー部兼生徒会会計の男子だった。彼の方に振り返った私は、すぐさま用件を口にした。
「あのさ、大石くんいる?」
私が大石くんを呼ぶのが意外だったのか、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてから頷いた。
「大石? 呼ぼっか」
「お願いしてもいい?」
「おー、良いよ良いよ」
彼は扉にいる私より前に出て、教室の端で談笑している大石くんに向かって叫んだ。
「大石―、ちょい来て~」
大石くんがこちらに意識を向けた瞬間に、隣の彼は腕をぐんと伸ばして手招きをする。すると、大石くんは周囲のクラスメイトに丁寧な断りを入れてからこちらに駆け寄ってきた。
「名字が大石に用事だって」
私を指差しながら言うと、大石くんも一瞬だけ意外そうに目を丸くさせた。
「名字さん?」
「ごめんね、突然」
両の掌を合わせながら謝罪を告げると、大石くんは私が来た理由に合点がいったのか、ああ、と声を上げた。私は呼んでくれたお礼を言おうと隣を見たが、彼は既に姿を消していて、クラスメイトと話を弾ませていた。彼にならいつでもお礼を言えるし、と後回しすることを決めれば、私は大石くんに向き直った。
「いや、大丈夫さ。俺も気になってたし、」
あはは、と笑ってはいるが、表情は引き攣っている。理由は明らかに昨日のことで間違いない。それも当たり前だろう。相談を聞いていたら途中でいきなり泣き始めるし、途中で蚊帳の外にされるし、で散々だったろうから。
「うん。その気にしてることで……」
控えめに笑いながら、耳朶の裏を人差し指の腹で撫でた。すると、大石くんは私の目的をはっきりと言葉にした。
「手塚と、仲直り出来たんだろ?」
先に言われてしまったことで喉が詰まる。そして物言いも断定的で顔に疑問が浮かび上がったに違いない。すると、大石くんは理由をきちんと説明してくれた。
「さすがに気になって手塚に聞いたんだ。仲直りできたかって。そしたら、『ああ』とだけしか言ってくれなくてね。でも仲直り出来たなら良かった」
大石くんの話から、国光くんの様子が容易く想像出来てしまった。国光くんから大石くんに私のことを言いそうにないし、あるとすれば大石くんからのルートしかない。
国光くんのせいで気の抜けた笑い声を出しながら、大石くんに感謝を伝えた。左肘のことを本人の口から聞くのは不可能だったろうし、知らないままだったら仲直りもままならなかったはずだ。
「うん。大石くんのおかげでもあるからお礼を言いたくて」
「俺は何もしてないよ」
「ううん。あの時会ったのが大石くんで良かった。ありがとう」
首を横に振る大石くんに対して、感謝を強制的に手に握らせるように口調を強めた。あの出来事のおかげで前に進めると思うから、何が何でも伝えたかった。
大石くんへの用件を果たし、教室に戻ろうとしたけれど、彼の方がまだ何かあるようだった。ほんのりと頬が赤く、切り出しづらそうにもじもじとしている。
「その……前から気になってたんだが……名字さんは、手塚と、その……」
そう来たか、と目を閉じながら眉間に皺を寄せた。確かに勘違いされてもおかしくない。昨日のアレは痴話喧嘩に思われても仕方ない。でも、大石くんにまでそう思われてしまうとは。
「あー……大石くんが想像するような関係じゃないよ」
苦笑しながら否定すると、大石くんは頬が赤いまま後頭部に手をやった。
「そ、そうなのかい? すまない、俺はてっきり……」
「付き合ってると思った?」
「え、あ、いや、随分と仲が良いように思えて……はは……」
大石くんの乾いた笑いが周囲の喧騒に消える。さすがに抱きしめられたところは見られてないよね、と考えたけれど、知らなかった場合の対処方法に困るので言葉を飲み込んだ。それにしても彼でこんな様子なのだから、テニス部の全く知らない面々にも時間の問題だろうな、と他人事のように考えていた。
***
深い緑から雫が滴り落ちる。ザアザアと騒がしい天気を無視しながら私は人気のない三年六組に駆け込んだ。
「名前~!一緒に帰ろ~!」
勢いよく叫んだ先には、本に視線を落としていた名前。私の声が聞こえた瞬間に、大人びた目つきが緩やかにこちらを向いた。
「あれ、今日部活は?」
名前は手元を見ることなく本に栞を挟むと、唇を小さくすぼめて首を傾げた。
「雨酷すぎて無くなった」
鞄を肩に掛け直しながら名前の席へと近づく。そして、誰もいないからと周辺の机にお尻を乗っけた。彼女が先程まで読んでいた本の表紙を覘いたけれど、英語の出来ない私には何の本か分からない。
「やった。なんか久しぶりな気がする」
窓の外で降りつける雨さえも晴らしてしまいそうな笑顔が咲く。私は彼女の笑顔を見る度に、必要以上に安堵してしまう。笑顔以外の表情を見るのが、私の不安を酷く煽るからだ。今でも二年前に見た、泣き顔がどうしても忘れられないでいる。
入学してすぐ、名前は私の目を惹いた。見た目からでも、私に持ってないものを持っている子だと判断できた。すらりと伸びた手足に、落ち着いた雰囲気。そして、顔。多分これが一番の理由だと思う。私の恋愛対象は異性だけれど、同性の彼女の顔が好きだった。どこか影のある、すぐに折れてしまいそうな繊細さが見え隠れしていた。近づきたい。触れてみたい。そう思った時には、あの手この手で彼女に話しかけていた。想像通りの控えめな笑い方も、目をいっぱいに細めて笑う姿も、全部好きだった。でも、彼女と近づけば近づく程、壁があるように思えた。最後の一歩が近いはずなのに遠い。ふとしたときに見せる影も、その壁が理由なんじゃないかって考えた。
でも、私にそれを聞く勇気はなかった。たまたま本屋で会った夕方。普段からは想像もつかないボロボロの名前にショックを受けた。何があったのか、聞く勇気が、聞いたとしても受け止められる覚悟がなかった。私の頭の中で考えられる可能性は全部考えた。考え抜いて出来なかった。根本まで引っ張り出して助けてあげられない。そう悟ってしまったから、私はあの時、別の方法をとった。私の好きな彼女の笑顔を取り戻したかった。ただ、それだけで。
初めて二人で遊んでから少し経った頃、名前に変化が起きた。前よりも格段に笑顔に溌溂さが加わった。口を大きく開けて笑うようになったし、口数も増え、話し方も砕けるようになった。上手くいくようになったのかな、と一人でに安心していた。それでもまだ、名前に真実を聞く勇気がなかった。
あの出来事から二年過ぎた。今はまた、彼女が眩しく見える。最近特に綺麗に輝くから、今度は安心が一周回って不安が襲ってくる。良くも悪くもコロコロ変わる表情は私が原因じゃなく、手塚国光であることは一番近くにいる私が誰よりも分かっている。
生徒会発足当初、何となく女の勘ってやつで二人がお似合いだと思った。理由はないけど、運命だって感じた。私は面白半分で二人が仲良くなればいいと思って背中を押せば、いつの間にか上手くいっていた。私の知らないところで二人が距離を詰めていたことに嬉しくもあり、悲しくもあった。私が一番名前と仲が良いと思っていたから。名前はずっと友達としているようだけれど、むしろ友達でいられる方が嫌だった。この二年間が潰されたみたいで初めて嫉妬した。私の知らない名前を友達として知っていることに腹が立った。
つい最近、曇っていた彼女の表情を晴らしたのだって手塚国光だろうと思う。曇らせた原因も手塚国光。詳細は知らないけれど、人間関係において淡白に見える彼女が普段の顔を変えるほど影響を与えるのは、手塚国光しか思い当たらない。手塚くんは名前の最後の壁を壊せたのだろうか。友達として、全てを知ったのだろうか。もし、それが事実であるなら、私は羨ましがらずにはいられない。私に出来なかったことをあっという間にやってのけてしまったことが羨ましい。でも、そのおかげで彼女の素敵な笑顔が見られるのなら、手塚くんに感謝してもいいのかな、なんて微妙な感情が胸を締め付ける。
名前と靴箱に向かうまでの廊下。雨音に掻き消されそうな音量で呟いた。
「名前さあ、可愛くなったよね」
「な、なに、急に」
名前は耳が良いから、どれだけ小さくても私の声を正確に拾う。だから、今なんて突然ロボットみたいに動作がぎこちなくなる。そんな姿も二年前の私達からは想像出来ないけれど、今の私にとってはそれが可愛い。
「前も明るかったけど、今はなんか……輝いてる?」
真剣かつ淡々と告げると、名前は足を止めて訝しげに尋ねる。
「……変なものでも食べた?」
「ちっがうよ!」
私も足を止め、力のない拳で彼女の腕を突いた。彼女は口を大きく開けて、けらけらと年相応の顔をして笑っている。わざとらしく下げていた口角も、その笑顔のせいで簡単に上がってしまう。
「ごめんって。でも、ありがとう」
一頻り笑った後、目を細めて礼を口にする彼女は綺麗だった。思わず見惚れてしまって、少しの間ぼうっと呆けてしまった。やっぱり好きだなって思うから。
すると、彼女は突然笑みを消し、神妙な面持ちで「あのね」と切り出した。
「話したいことがあるの」
ドクン、と心臓が緊張を覚える。
「……いよいよ付き合うとか?」
茶化すような言い方で美帆に擦り寄るけれど、彼女は不満そうに顔を背けてしまった。
「違うから」
否定しながらでも、どことなく満更でもない顔をしている。手塚くんも早く言わないと、誰かにとられちゃうかもよ。
「それなら可愛くなった理由付けになるのにな~って」
「あのねえ」
「分かった、分かった。で、話したい事って?」
本題に戻すと、名前は朗々とした声で切り出した。国語の時間に聞く朗読とよく似ている声だった。
「今までずっと黙ってたこと、ちゃんと話しておきたくて」
彼女の言葉に、私は笑うことも、悲しい顔をすることもなく頷いた。問答無用で覚悟を決める時が来たんだと察知した。
彼女は周囲を確認すると、私を靴箱まで連れて行ってから口を開いた。彼女の方から壁を破り始めた。壁の向こう側から私に会いに来てくれたのだ。
ずっと知らなかったピアノとの関係。周りの環境。追いつかなくなった感情。彼女は一つ一つ丁寧に洗いざらい話してくれた。出会った当初、暗かった表情にもやっと合点がいった。それと同時に、二年前に聞かなくてよかったと思ってしまった。私には受け止められるほどの器量はないし、かけられる言葉も頭の引き出しには入っていない。
すると、名前は私の目を見た。膜の張った瞳は揺れていて、私は息を呑んだ。
「あの時、何も聞かずに背中を擦ってくれたことが嬉しかった。初めて人前で泣いたのがあの時だった。ずっと感謝してたのに、ちゃんと伝えきれてなくて。それが引っ掛かったままだった」
名前はそう言い切ると、ハア、と大きく息を吐いた。そして再び私の顔を見直した。
「ありがとう。傍にいてくれて」
完全に壊れた壁が、目の前で散っていく。破片がキラキラと眩しくて、鼻の奥が痛い。
そんなの今更だ。私が好きで傍にいるのに、今更感謝なんて要らないよ。
「当たり前だ、馬鹿やろ~!」
私は叫びながら、彼女を抱きしめた。
彼女から来てくれたことが嬉しい。でも、込み上げてきた感情が零れるところを見せるのは気恥ずかしくて、ハグで誤魔化した。
私は手塚くんと違って、すぐ抱きしめてあげられる。友達の一番は絶対に譲ってあげない。だからこそ、さっさと付き合ってほしい。早く付き合うことになったんだって私に笑顔で報告しに来て欲しい。私は誰よりも大きな声で「おめでとう」って言ってあげるから。
私は鼻をすすると、名前から体を剥がしてこう言ってやった。
「手塚くんのことも、ちゃーんと教えてよね」
***
建物の影が濃くなり始め、夏の近づく足音が聞こえる。湿度の高い空気はじっとりと肌を不快にさせ、気分も下げていく。とある日の休み時間、悪天候を掃うように乾はノートを持って私の元へと意気揚々と駆け込んできた。
「名字、ランキング戦だ」
「そんな待ってました、みたいな顔で言われても」
形容しがたい嫌な予感が当たってしまった。乾の顔が元気良いと私の顔は悪くなる。彼の表情が豊かだと、ろくでもない用件を持ち込んでくるのは恒例行事に近かった。すると、頬杖をついたままの私を知らんぶりして、乾は話を続けた。
「次ランキング戦があれば見に行くと言ってただろう。だから、お知らせに来たんだ」
雲に隠れた太陽のような顔をして言うから、彼自身に突っ込まずにはいられなかった。
「……随分と自信に溢れてるみたいだけど」
「まあね。俺は負けはしないよ」
見違えるほどの言い切りに、期待が膨らんだ。あの青と白が眩しいジャージに再び袖を通すのかと、私は頬杖を止めた。
「そう。じゃあ、観ようかな」
「テニスコートで?」
「ううん。空き教室で」
「うーん、残念」
肩をすくめて笑う乾に、鼻で笑ってしまった。乾との会話のラリーは飽きなくて、つい遊んでしまう。どうか今度はレギュラーに返り咲きますように。あと、今度は国光くんにバレないように覗こう。バレても乾目当てではないことははっきり伝えなければ。
目標を定めた私はふと、ランキング戦について気になった事があり、乾に尋ねた。
「そういえばさあ、ランキング戦の組み分けって竜崎先生が決めてるの?」
ただの興味から出た疑問だった。特に意味はない。
すると、乾はノートをパラパラと捲り始めた。
「いや、手塚だ。試合でのダブルスやシングルスも手塚が決めてる」
「へえ、」
国光くんが決めてるのか、と思うと同時に全校集会の一件を思い出した。プリントに私の名前だけが書かれたあの時。もしかして、オーダー表を作る時の癖が抜けなかったのかな。もう、してくれないのかな。随分と前のことを思えば国光くんが可愛く見えた。
くす、と思い出し笑いをしてしまうと、乾はそれを敏感に嗅ぎ取った。
「今、データの匂いが……」
「してない」
変に詮索されないように全て言い終わる前に掻き消してやった。下手したら菊丸や不二にまで伝わってしまう。
危なかった、と胸を撫で下ろすと、乾はあることを求めてきた。
「そうだ。三日目は必ず見てくれないか」
三日目、というと最後の日か。何か面白いことがあるのかと首を傾げた。
「……どうして?」
「当日になれば分かるよ」
それきり乾は口を割らなくて、ランキング戦の三日目を迎えた。
国光くんも乾もレギュラー入りを果たしたようで、空き教室で一人安堵していた。それにしても未だ乾の「三日目は必ず見てくれないか」の意図が理解できなくて、試合が始まるのを待っている。一体何が目的なのか、とコートを覗き込んでいると、目下に広がる状況を見て立ち上がってしまった。
「国光くんと……乾!?」
信じられなくて目を擦る。何度擦っても変わらない二人に、思わず窓を開けた。
もしかすると、乾が見てくれと言った理由はこれなのか。でも、乾の心は分からない。私に何を見せたいのだろうか。分からないまま国光くんと乾の試合は始まった。
***
二日目のレギュラー戦終わり、俺に声をかけてきたのは乾だった。自信に溢れた顔でこちらを見ている姿に、妙な不穏感が漂っている。
「手塚、」
「なんだ」
「勝負しないか」
乾の言葉に頬に力が入った。試合は明日だというのに、目的は何のつもりか。奴の言う勝負の詳細を待てば、笑みを作って言い放った。
「勝った方が名字をフォークダンスに誘える。乗らないか?」
俺は口を開かぬまま、奴の表情を見据えた。
今月ある体育祭の事だろう。最終種目として三年限定のフォークダンスがある。それの相手に名前を誘うか否かの話のようだが、俺に持ち掛ける理由が不明だ。だが、乾と名前が共に入場する姿を描けば、胸中は騒ぎ始める。
「余程自信があるようだな」
努めて顔に出ないよう言葉を濁した。互いにレギュラー入りを決定づけているものの、勝負事を持ち込んでくるのは自信の表れに違いない。
「明日こそ手塚に勝つつもりだからね」
眼鏡のブリッジを上げながら宣言する奴に、俺は不快感を募らせた。
述懐する節々から感じるのは、あいつへの想いの一端だろう。普段から名前の表情を見れば乾との仲は理解できる。俺よりも仲睦まじげに話す姿は、俺を腹立たせる要因の一つであった。
だが、フォークダンスの相手を決めるも決めないも任意だ。名前が誰と出ようが俺には関係ない。共に出たいと思う相手がいるのなら、尚更だろう。
「……最終的に決めるのは名前だ。俺達が何を言っても関係ないはずだが」
俺と乾が誘おうとも、全て名前次第だ。その前に俺達が争っても無意味だ。名前は、乾からの誘いを待っているのかもしれない。その可能性があると踏んでいるから奴は仕掛けて来たに違いない。
乾は手にしていたノートを開くと、口元に張り付けていた笑みを消した。
「既に名字は何人かから誘いを受けている」
何人かから、という部分が引っ掛かった。既に相手が決定済みである可能性もゼロではないということか。
「全部断ってはいるようだけど、人気は想像以上だな」
眉尻を下げながら奴は笑った。内心、奴の言葉に熱いものが広がった。まだ誰の手も取っていない事実に安堵してしまっている。
乾はノートを閉じると、俺の目を見た。奴の表情が俺の手に力を入れる。
「俺が負けたら、絶対に誘わない」
じゃあ、と言うと、乾は去った。俺は顔を上げ、誰もいない空き教室に目をやった。以前行ったランキング戦で名前を見つけた、あの教室。明日、来るのだろうか。先程の話は既に名前の元へ行っているのか。名前は乾のことをどう思っているのだろうか。
俺は顔を下げ、口端を一文字にきつく結んだ。
何があろうとも、俺は負けない。名前は関係なく、俺は絶対に勝つ。
乾との試合前、空き教室を見上げれば名前はいた。以前目的を聞けば、乾であったようだが、今回も奴を目当てに来ているのだろうか。ならば、乾がフォークダンスの相手に誘えばいいものを。
だが、頭で結論付けた解答が咀嚼できずに口内に残り続ける。俺が勝つことで名前を悲しませるのは心が痛むが、勝負事で、ましてやテニスで負けるつもりはない。
グリップを握り直し、ネットを挟んで乾と対面する。俺はテニスだけじゃない。名前のことでも絶対に負けはしない。誰が相手だろうと、引くつもりはない。
「なんか二人とも、いつも以上に気合入ってんね~」
菊丸の声が俺達にかかる。勝負が既に始まっていることは、俺達だけが知っている。
「手塚、」
奴は眼鏡のブリッジを上げ、宣言した。
「勝たせてもらうよ」
ランキング戦が終わり、校門へ向かえば乾が待ち構えていた。奴の目の前を過ぎようとすると、独り言のように呟いた。
「約束通り、俺は誘わないよ」
乾の言葉に、名前の泣き顔が浮かんだ。俺に負けるつもりはなくとも、名前の心緒を考えれば気持ちのいいものではない。
乾は俺の隣に立つと、気の抜けた声で肩を揺らした。
「それにしても、予想外に仲が良くて驚いていてね」
おかげで良いデータが取れているよ、と言葉を続けたが、俺は首を縦に振らなかった。
「……お前の方が、名前と仲が良いんじゃないのか」
だから今回のレギュラー戦も見に来ていた。俺にはそう取れた。以前から乾と話す名前は、俺と話すときよりも溌溂として見えていた。
だが、奴は語尾に被せるように言葉を発した。
「残念だけど、それは違う」
乾はラケットバッグを肩に掛け直し、飄々とした口調で今回の勝負について説明した。
「正直なところ、どう思ってるのか知りたくて。試合前に持ち掛けたのはそれが理由」
俺が、名前の事を。真実が飛び出しそうになるのを堪え、飲み込む。
「お前がそれを知ってどうする」
「ライバルかどうかの確認」
淡々と答えた乾に対して、闘争心に火が点いた。音を立てて燃えるそれは、俺の抱える名前への感情を明確にした。
「その顔は、俺と同類だと見做していいのかな?」
余裕のある笑みに、心は燃え続ける。だが、乾がいようといまいと、名前がどう思っているかが重要だ。俺達の争いの意味は、ほぼ皆無だと言っていい。
「好きにしろ」
乾にそう言い放ち、俺は帰路に着いた。
乾は、名前の事をどこまで知っているのだろうか。奴のことだ。詳細に調べているに違いない。だが、あいつの過去のことまで知っているのだろうか。名前は、人に話すのは初めてだと俺に言った。それが確かであるのならば。
俺は浮き上がった答えを掻き消すように瞬きをした。たとえ俺だけが知っていようとも、確実な理由にはならない。名前の口から聞いたことだけを俺は信じるしかない。
初めは名前のことを知らなかった。立候補すると聞き、候補者のみが招集されたときに初めて顔を合わせた。静かに佇む姿は同年代にはない落ち着きを掃っており、その上でどこか危うげな儚さを持ち合わせていた。それが第一印象であった。
その後、言葉を交わすことはなく、演説当日を迎えた。俺と後援者の演説の後に立ったあいつは、誰よりも堂々としており、以前見た姿とは対極的であった。
後援者の演説が終わり、名前が全生徒の前に立つ。スポットライトに当てられた名前は、上から吊るされたように真っ直ぐ背筋を伸ばし、前を見据えている。自分自身が中心であると分かっていて、光の下に立つことの慣れを感じさせた。
そして、名前はスウ、と深く息を吸い、マイクに声を通した。
「皆さん、初めにあちらをご覧ください」
名前は指先まで神経を尖らせ、左側を差す。全生徒はそれにつられて顔を動かした。
「次にこちらをご覧ください」
手を変え、右側を差す。同じように全生徒の顔が動いた。
「最後に私を見てください」
最後の言葉で、異なる肌色が前を向いた。その瞬間に、名前は曇りなく笑った。
「ありがとうございます。私が生徒会副会長に立候補した名字名前です」
山の息吹が聞こえてきそうな程の、澄んだ声だった。
いとも簡単に俺の中に入ってきた名前は、俺に初めての熱を生んだ。そして、目を奪った。周囲の密かな笑い声も、奇異の目で見る奴らの話し声も、全て俺の耳には届かない。
「皆さんにとって、生徒会に相応しい人物とはどのような人だと思いますか?私は、堂々と声を上げ、人を引っ張っていくパワーを持つ人が相応しいと思っています。先程のように、私は一声で皆さんを動かしました。今の勢いのように、通常行う行事や活動を含め、新たな風を吹き込んでいきます」
名前が行った演説の三分間。俺は一秒たりとも名前から目を離さなかった。いや、離せなかった。
「決して後悔はさせません。皆様の清き一票を、よろしくお願いします」
名前の演説、いや、パフォーマンスが終わった。俺の意識は周囲からの拍手で戻った。俺は名前の声に、聞き惚れていた。
役職が決まり、全校集会の役割分担を任された。藁半紙には必要な役割が綴られている。一先ず名前に渡しておこうと一枚別に取っておいたつもりだった。だが、俺があいつに持って行ったのは、自分用だった。先生から受け取って無意識に書いた、名前が残った方を渡してしまっていた。
「なんで私の名前書いたの?」
純粋に理由を問う瞳が俺の調子を狂わせる。元はと言えば俺の不注意であるが、名前の姿を見ると演説時に感じた熱と同じ熱が俺を襲う。素直に理由を言えば、名前の頬は赤らんだ。その表情が妙にくすぐったく思えた。その後来た大石に見せるのは、何かが嫌で自身の背で隠した。理由は不明でも身体は動いた。
大石を連れて名前から離れた後、廊下に響く名前の声。俺だけに向けられた笑顔が、再び熱を発生させる。名前の表情が、声が、俺を穏やかにさせる。何故か、頬の辺りに違和感が走っていた。
それから行事を共にこなすものの、名前の笑顔を見ていなかった。笑ってはいたが、俺に向けられる笑顔がなかった。菊丸と仲が良いことは部活の合間に聞いたが、あいつは誰とでも仲が良いようだ。常に誰かが隣におり、笑顔は絶やさない。誰の口からも、名前はいつも笑顔であると何度も耳にした。だが、初対面時の表情が忘れられなかった。演説や普段の姿を見れば猶更、同一人物に見えなかった。あれは誰なんだと問いたくなるほどに。
名前から昼食に誘われたときは驚かざるを得なかった。俺を面白いと評したり、部活の面々に俺のことを尋ねたり、名前自身の行動に理解が追い付かなかった。だが、名前の昼食の誘いは素直に喜びを覚えた。名前のコロコロと変わる表情は見ていて飽きない。俺にない表現力を持っている。俺は饒舌ではないが、名前からの質問には答えたくなってしまう。
ある時、俺がお前のことを知りたいと言えば、あいつはみるみるうちに顔を曇らせた。初対面時に見た陰りが、そこにあった。踏み込むにはまだ早いと判断した俺は、菊丸が一方的に話していたことを辿りながら口にすると、名前は顔色をすぐに持ち直した。恐らく名前は何かを誤魔化し続けているんじゃないか。そう思えば思う程、俺の興味は名前自身へと向いてしまっていた。
名前の機嫌が損なわれたとき、全身の血の気が引く感覚を始めて味わった。あいつに振り払われた衝撃が手に熱と共に残り、悔恨が込み上げてくる。
乾なら上手くやったんだろうか。泣かせることも、悲しませることも、あいつが相手ならばなかったんだろうか。そう思えば思う程、無性に腹が立った。
翌日、学校へ着いてから思い出した。明日は名前と一緒に昼食をとる日だと。それに気づいてしまえば、一日中落ち着かなかった。名前が自分の想像より遥かに存在していることを、明確に理解させられた。それから休み時間の度に何度も六組へ向かおうとしたが、足は動かなかった。会って何を言う。本質を知らないというのに、言葉のかけ方を知るはずもない。
一度も姿を見ることなく、放課後を迎えた。あいつは部に入っていない。既に帰宅しているかもしれない。一抹の不安を覚えつつ、腹を括っては六組の教室に向かった。だが、そこに名前の姿はなかった。鞄のみを残して姿を消していた。まだ体調が悪いのか。それとも体調の悪化で倒れているんじゃないか。気持ちと足が急く。考えられる可能性を導き出しては校内を探した。すると、渡り廊下に泣きじゃくる名前と大石を見つけた。引き出しに言葉は何一つないが、俺は間に割って入った。名前に触れようとする大石を俺が拒んだ。目の前で俺以外の人間が名前に触れることを俺自身が嫌った。
そして二人きりになれば、名前はより涙を流した。俺に対して謝罪を口にしていたが、その謝罪は名前自身にも向けられているようだった。彼女は、過去の清算が出来ずにいる自分自身への贖罪を永遠に続けている。
お前をそこまで追い詰める理由は何だ。笑顔で全てを隠そうとするそれは何だ。俺に何が出来る。俺はお前にとって必要な者となれるだろうか。乾や菊丸、大石じゃなく、俺を誰よりも頼って欲しい。
だが、何よりも今は、その涙を拭うことの許可が欲しい。
蓋をしていた感情を受け、陰る意味をようやく理解した。今にも崩れ落ちてしまいそうな名前を、どうすれば受け止めてやれるのか。名前は確かに努力していて、それに応じた結果を残している。努力というものは目に見えない。結果が出て初めて己が確認出来る不明確な存在だ。
過去の出来事が名前にどこまで深く染みついているのか、俺には分からない。実際に受けた者にしか分からない傷だ。だが、俺は口を開いた。名前の気休めになればいい。一筋でも光を見てくれたらいい。俺は俺の思うままに言葉を紡いでいた。
「すこしだけ、このままでいさせて」
俺に身体を預ける名前が酷く小さく見えた。異性の中では小柄な方ではない。だが、俺の目には普段より一回りも、二回りも小さく見えた。一人で立つには、あまりにも儚く、脆い。だから、名前の身体を抱き締めた。華奢な身体が、初めに受けた想いを助長させる。
この顔は誰にも見せたくない。俺だけが受け止めて、帯びる熱を感じていたい。だから離したくない。そう思った。
後日、名前の顔色は明るくなった。すっきりと晴れ渡る空のように眩しく笑っていた。
「国光くんのために弾くから」
俺の我儘を受け入れた名前。本当のお前を知れると思うと、胸が熱くなった。大きく出た一歩が、お前との距離を確実に狭めた。
お前がそうしてくれるのであれば、俺もそれに応えたい。次は俺の事を知ってくれるだろうか。そして、この先の俺も一緒に知って欲しい。そう想うことは、許されないだろうか。ずっと、名前が俺の隣にいることを望むのは勝手過ぎるだろうか。
***
湿気の多い空気が部屋いっぱいに充満する。綺麗にまとまらなかった髪を気にしながら、私は国光くんと一緒にお昼を共にしていた。今は食後のトークタイムで、お茶を片手に話している。
「もうすぐ体育祭かあ」
今にも降りそうな雨雲が空に広がっている。そんな様子を横目に、彼に話題を振った。学校行事の一つであるから、私達が主軸になって盛り上げるのだろう。
「ああ。開会式と閉会式に役割はあるが、それ以外は他の委員会に役割を任せているから俺達に仕事はあまりない」
「ふうん、そっか」
国光くんの説明を受け、ずっと走り回らなくていいのだと安心した。
体育祭は十一組あるクラスを三組に分けて競う。一から四組が赤、五から八組が青色、九から十一組が黄色。だから国光くんは赤で、私は青。一緒ではないことに少しだけ落胆した。
「国光くんはさ、フォークダンスの入場のときの相手、決めた?」
最近の女子の話題と言えば、決まってフォークダンスだった。入場だけとは言え、恋人持ちからすれば自分の恋人を見せびらかすチャンス。片想い中でも誘われたり、誘ったりすることで新たなカップルの誕生が相次いでいる。もちろんそれ以外の子も適当に決めるよりは友達と、という気持ちから入場する相手を決めているようだった。
同性の友達に尋ねるときと同じテンションで国光くんにも興味本位で尋ねると、彼は深刻そうに目に鋭利さを備えた。
「……お前は、どうなんだ」
妙な緊張感が走る。間の開いた言葉に引っかかりながらも、気にすることなく現状を答えた。
「誘われたけど断ったんだよね」
最近他クラスの男子から呼び出されては、フォークダンスの相手の有無を問われていた。いないなら、と誘われても、私が首を縦に振ることはなかった。
へらへらと気の抜けた顔で笑って見せるけれど、国光くんの表情は硬いまま深堀してくる。
「誰に誘われた」
問い詰めるような強い口調。いつもより厳しい雰囲気に戸惑いを隠せない。
「えっと……野球部の主将と、バスケ部の人だったかな。あと、サッカー部の人、何人か」
誘いを受け入れるつもりが全くなかったせいで、記憶が曖昧になっている。早い人だと一か月前に来たかな。
指を折りながら答えると、国光くんは間髪入れずにある人の名前を出した。
「乾からは誘われたのか」
「乾? いや?」
どうして乾なのかな、と短時間で考えを張り巡らせる。出た答えは簡単で、国光くんの勘違いが続いていると決定づけた。それにしても安心していいのか、悪いのか、乾に誘われなくてよかった。まあ、あの乾が私を誘う訳ないから国光くんの盛大な勘違いなのだけれど。
「誘ってくれるのは嬉しいんだけど、全然知らない相手だから」
どうせなら菊丸とか不二とか、知ってる相手が良い。
一つ不満だったのは、断る度に「手塚と入場すんの?」と言われることだった。知らない人にまで言われるのは不愉快極まりない。もちろん国光くんと入場できるなら嬉しいけれど、そういうイベントに興味がなさそうだから誘うに誘えない。
すると、国光くんは変わらない調子で更に問いを重ねた。
「菊丸や不二はどうなんだ」
「さあ? よく誘われてる姿は見るけど、どうするかは知らないなあ」
人気過ぎて休み時間の度に姿を消している気がするぐらいだ。結局特定の相手は決めてないみたいだけれど、どうしたいのかは知らない。
「まあ、別に無理に決めなくていいから。付き合ってるならまだしも」
恐らく大半が決めずに入場するはずだ。皆が皆上手くいくはずもない。その上手くいかない面々の中に私も入るんだろう。
「……そうか」
私の答えを聞いた国光くんは心なしか、覇気が消えていた。先程まで続けざまに質問してきた意味は何だったのだろう。もしかして、と瞬きを多く重ねた瞬間に一つの答えを導いたけれど、自意識過剰が過ぎると掻き消した。
「国光くんもいっぱい誘われたの?」
矛先を変え、目標を彼に定める。私のクラスから国光くんを誘おうとする子はいなかったけれど、他クラスならいるだろう。十人ぐらいに誘われたのかな、と予想を立てたけれど、答えは呆気なかった。
「いや、俺はない」
「嘘。絶対多いと思ったのに、」
大当たりすると思っていた予想が砕け散る。信じられなくて開いた口が塞がらない。
「勿体ないことするなあ」
溜息交じりに本音を口にする。
国光くんなら引く手あまただろうに。誘いたくても誘えない子がいっぱいなんだろう、と自分自身と重ね合わせた。
再び窓の外に目をやると、曇り空から光が差し込んでいた。放課後は晴れるのかな、なんて思っていると、国光くんに名を呼ばれた。
「名前」
「ん?」
「俺と出てくれないか」
国光くんの言葉が呑み込めなくて、何色にもならない顔で彼を見つめた。今、なんて。聞き返す言葉さえ出てこない。本能的な喜びが込み上げても、口がはくはくと動くばかりで現実として受け入れられていない。
すると、国光くんは顔と声を強ばらせて私を招いた。
「俺と、入場してくれ」
***
体育祭当日。見事に晴れ、燦燦と降り注ぐ日光が眩しい。
「名前~、集合だよ~」
「はい、ごめん!今行く!」
組ごとのブルーシートに水筒を置いて、友人の元へと走る。自分の出場する種目が近づき、決められた場所へと並ぶ。
「二人三脚、頑張って決勝行こうね!」
「もちろん」
入場待機場所の後方部で前方が並び終わるのを待つ。
私が出場するのは、個人種目の二人三脚と借り物競争、そして組対抗の大縄跳び、綱引き。最後に三年生全員参加のフォークダンス。二人三脚は特に目玉種目であるため、よく盛り上がる。陸上部で短距離専門の友人とペアを組むのは気が引けたが、練習の甲斐もあって優勝に向けて万全の体勢だ。
すると、二人三脚の順番待ちの最中、友人はこっそりと私に耳打ちをしてきた。
「ね、手塚くんのこと、誘ったの?」
フォークダンスの話が持ち上がり始めた頃からずっと言われていたことだった。一緒に出られるなら嬉しいけれど、国光くんがそういう事に興味があるように思えなかったから二の足を踏み続けていたのだ。まさか、彼から誘ってくれるわけもないだろうから余計に。
「誘ってない」
「え!?嘘じゃん」
私から誘わなかったと言えば、友人は目が飛び出そうなほどに目を見開いていた。
「本当」
「友達でも誘ってるんだよ、みんな」
あーあ、と嘆く友人に対し、私は零れる笑みが止まらない。だって、私からは誘ってないだけだから。
とうとう笑みが堪えきれなくなって、くすくすと笑ってしまう。未だあの時を思い出せば、表情はだらしなくなる。
「でも一緒には入場するよ」
緩み切った顔でヒントを出せば、友人は目を丸くさせて私の腕に触れた。
「え、ちょっと待って。どういうこと」
案の定、混乱する友人に声を上げて笑った。周囲からすれば騒がしい二人に見えるんだろうな、と思いつつ、嬉しい気持ちは抑えきれない。
「国光くんが誘ってくれた」
口元を手で覆いながら目を細める。友人は驚きと喜びとが入り混じって、口をぱくぱくとさせている。そして、全ての感情が弾けるように私に抱き着いた。
「き、聞いてない~!!」
友人から受けた衝撃で、私はその場で尻もちをついた。
***
「俺と、入場してくれ」
言葉にされた瞬間、理解が出来なくて黙り込んでしまった。まさか、国光くんが誘ってくれるなんて夢にも思ってなかったせいで、まともな言葉は出ない。
「……国光くんは、私でいいの?」
おどおどと怯えた様子で聞き返す。
国光くんが嘘や揶揄いの言葉を言うとは思えなかったけれど、今が現実かどうかが怖くて聞き返さずにはいられない。
国光くんがこうして誘ってくれたということは、フォークダンスの相手についての質問が続いたことの理由がつく。私を誘うかどうか迷っていたのだと確定してしまう。自意識過剰が過ぎたわけじゃなく、本当にそうだった。
「お前がいい」
目つきが鋭くなって、再度主張してくれる。「で」じゃなくて「が」だったのが嬉しかった。まるで私以外の選択肢がないみたいに聞こえるから、喜ばずにはいられない。
「なんか、予想以上に嬉しい」
だらしなく緩む口元に、思わず痛む目の奥。そして、自覚出来るほど顔に帯びる熱。他の子じゃなくて、本当に私なんだ。国光くんにとって私が良かったんだ。
「うん。お願いします」
震えを帯びた声で頷く。国光くんは少しだけ目を開いて、驚いた顔をしていた。
「良いのか」
「うん。私も、国光くんが良い」
***
「ふふ、」
つい先日の出来事を思い返し、口元の抑えが効かない。場所が場所のせいで詳細を話せないのがもどかしい。友人は頬を膨らませて口を歪ませると、痺れを切らしたのか、荒れた声を出した。
「あー!もう、体育祭終わったら絶対聞くからね」
プンプン、と音が鳴りそうな怒り方に私は反省一つしない。むしろ調子づく一方だった。
「お昼でもいいよ」
「この~!幸せ者め!」
うりうりと拳で腰のあたりを掘るように当ててくる。すると笛の合図があり、ようやく入場した。
一年生と二年生が終わり、とうとう私達の番が回ってきた。立ち上がって用意された手ぬぐいで足首を結び、深呼吸をする。そして座ったままで凝り固まった膝を動かした。
ピストルの乾いた音が響き、トップバッターが走り出す。私と友人は青色の鉢巻きを眺めては、叫ぶように応援の声を出していた。
二人三脚は、一組半周とアンカーが一周。私達はアンカーの一つ前で、ラストの菊丸と不二にバトンを渡す。あの二人なら陸上部も真っ青なのだろうけれど、少し意外だった。出るなら障害物とか普通のリレーだろうと思っていたから尚更。菊丸本人に聞けば、「大石が二人三脚に出るから負けてらんない!」とのことだった。不二も不二で「面白そうだから付き合うよ」と言ってたから私達にも気合が入る。
「名前、一番で渡そうね」
「もちろん」
気合十分なのは友人も同じようで目を輝かせている。私達は白線に並び、今の順位を確認した。赤組が一位、青色が二位、黄色が三位となっていた。差はあまり開いていないから順調にいけば、詰められない距離ではない。
友人がバトンを受け取り、数メートル遅れて飛び出す。お互いの肩を力強く掴み、足を回す。徐々に近づく、前方に揺れていた赤い鉢巻き。放送席から興奮した声が響く。
『青組が並んだ~!』
目前には菊丸と不二が笑顔で待っている。視界に赤色も黄色もない。
「菊丸くん!」
「不二!」
同時に叫ぶ私達に応えるように二人は微笑みを見せ、バトンを受け取った。
「任せろお!」
バタバタと足を止める。ほぼ同着と言っていいほど、三組は拮抗している。菊丸と不二はいつになく真剣な表情で足並みが揃っている。
私と友人はそれを見つめながら、砂だらけの身体を連れてトラック内へと戻った。
ゴールが近づくにつれ、歓声が大きくなる。黄色が赤色を抜き、青色に迫ろうとしている。このまま、このまま。友人と肩を寄せ合い、菊丸と不二に視線を送った。ゴールテープを切ったのは、もちろん。
『ゴーーール!一位は青組!』
ハウリングしそうなほどの声がグラウンド中に響き渡った。最高のゴールを決めた二人は笑顔で私達の元に駆けてきた。
「俺達かっこよかったっしょ!」
「かっこよかった!」
太陽にも勝る笑顔。退場する前に、四人でハイタッチをした。
二人三脚を一位で終え、安堵しながら応援席へと戻った。借り物競争もすぐ出番があるため、急いで自分の水筒を探して喉を潤す。借り物競争が終われば長い休憩が待っている。
ぐん、と背伸びをしながら再び入場待機場所に向かおうとすると、前方から国光くんの姿が見えた。
「名前、」
「あ、国光くん」
どちらからともなく同時に歩み寄れば、自然と会話は始まる。
「さっきは良い走りだったな」
どうやら二人三脚を見てくれていたようで、良いところを見せられたかなと密かにほくそ笑む。
「ありがとう。練習した甲斐があったかも」
そう言ってにこやかに笑えば、国光くんもそれに応えるように微笑んでくれる。
すると、私達の会話を終わらせるように招集の放送が鳴った。
「あ、そろそろ行かなきゃ」
「ああ。借り物競争か」
「うん。もしかしたら国光くん借りることになるかも」
なんてね、と笑って向かった。
そんなことあるわけないし、と楽観的に考えていた私は、お題を引いた瞬間に青ざめていた。ピストルの音を聞いて走り出してお題を引いたのはいいものの、封筒の中に入っていたものは先程の自分の言葉を髣髴とさせる。
「う、嘘でしょ……」
まさか現実に起こると思わないと思っていたせいで、他の人より遅れを取ってしまった。お題は皆人のようで、それぞれが走り出している。私はお題の紙と散り散りになっていく他の人を交互に見ては焦りを感じた。
自分の引いたお題に合う人は一人しか思いつかない。その一人と言うのは、国光くん。先程本人に言ってしまったせいで、見事なフラグ回収となってしまった。
でも、迷っている最中に一番を取られるのは絶対に嫌だ。負けるのだけは絶対に嫌だ。私は腹を括り、国光くんのいるだろう応援席へと向かった。
「国光くん! 一緒に来て!」
切らした息で名を呼ぶと、彼は頷いて私の手を取って走り出した。紙には「手を繋いで」なんて制約は書いてないけど、私は彼に連れて行かれるまま、ゴールへと走った。組み分けが違うのに協力してくれる国光くんには後でお礼を言わなければいけない。
応援団の声に包まれながら走っている最中、国光くんの手の力強さに意識せざるを得なかった。何度も触れたことのある手のはずなのに、手首から落っこちてしまいそうな熱が発生している。頼りがいのある心地よさと高鳴る鼓動。これは確実に近づいている夏のせいだと、季節のせいにした。
「やった~、一番だ」
二人でゴールテープを切り、両手を上げる。その拍子に手が離れる。
「お題を確認するので、こちらに来てください」
係に言われ、引いた紙を渡した。国光くんなら間違いなく通るはず。国光くんもお題が気になるのか、私の隣でお題の発表を待っている。そわそわと落ち着かない様子で結果を待っていると、係員はマイクを通して結果を伝える。
「お題は尊敬する人……会長を連れて来たんですね。オッケーです!」
満面の笑みでオッケーサインを作る。安堵すると同時に、肩を下げた。きっちりと一位を取ることが出来たのは嬉しい。
「ありがとう、国光くん」
隣にいる国光くんにお礼を伝えたが、彼の表情はあまり良くない。何となく寂しそうな顔をしている。
「……ああ」
「どうかした?」
体調でも悪いのかな、と思ったけれど、そうではないらしい。国光くんは眼鏡のブリッジを上げて位置を直した。
「いや、何もない」
私達の後にゴールした子のお題は「好きな人」だったようで、そのお題を引かなくてよかったと心底安堵していた。
これは後から聞いたことだけれど、お題が「好きな人」の場合のみ、手を繋いでゴールが必須だったらしい。
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