もう一度、恋をしよう。
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国光くんから逃げ出した後、ふらふらと家に帰っては自室に籠った。夜ご飯も喉を通らず、頭の中は国光くんのことばかり。何とかお風呂に入ったものの、気分は晴れないままで眠れない夜を過ごした。気付けば締め切ったカーテンからは光が零れ、そこで朝だと気付いた。気怠い体を起こし、鈍間な動きで身支度を整えても、沈んだ顔はどうにもならない。両親の心配の声も右から左へと流すばかりで、「ごめん」としか口を割らなかった。
「どうしたの。顔色最悪だけど」
「ちょっと……うん」
席に着いた途端、心配の声をかけてきたのは友人だった。ここ二、三日調子が悪いのは一目瞭然だったせいで、彼女にも心配をかけていた。笑顔を作ろうにも作れなくて、何も手につかない状態。抜け殻の私は、今日も変わらず口端をきゅっと結んで表情を変えない。あまりにも調子が変わらない私を不思議に思ったのだろう。友人は的確に私の急所を突いた。
「手塚くんと、何かあった?」
「……そうだけど、そうじゃない」
私に何かあると国光くん絡みだと思うのは止めて欲しい。でも、それが当たっているせいで否定も出来ない。
名前を出されれば、国光くんにしてしまった態度と、自分のままならない感情が混ざって黒い塊が私自身に圧し掛かる。もちろん、私の煮え切らない態度で伝わる訳もなく、彼女は首を傾げていた。
「なぞなぞ?」
「それぐらい簡単だったら良かった」
頬杖をついては溜息を吐いた。答えのない問題であるのに、いや、ないからこそ悩んでしまう。関係ある人間が私一人であれば良かった。自分が我慢すれば、客観的には丸く収まる。でも、対人関係においての問題は、自分ひとりでどうにか出来る問題じゃない。
再び深い溜息を吐くと共に、現代文なら読めば推測可能なのに、と人間の感情の複雑さを呪った。
「何かあったら言いなよ? 一人で抱え込むの、体に悪いんだから」
「そう、だね」
小さな手が私の頭をくしゃりと撫でる。眉間に皺を寄せて笑う私は、酷く醜い顔をしていた。
放課後、人がほとんどいなくなった校舎で黄昏ていた。渡り廊下から見える中庭の植物は青々と茂り、伸び伸びと育っている。それを羨ましく思いながら、そよぐ風に身体を任せていた。頭の中を占めるのは、決まって国光くんのことだった。
明日はお昼を一緒に食べる予定があるのに、このままでは一緒に食べられないどころか、話すら出来ない。全部自分が蒔いた種であるのに、自分で回収出来ない不甲斐なさに鼻の奥が痛む。今までだったら誰が近づいてこようが、離れようが関係ないと思っていたのに、国光くんだけは離れて欲しくない。もう言い逃れできない想いが競り上がっているような気がした。これが、周囲に言われる恋なのか。それとも、子供が両親を失う恐怖に似た寂寥なのか。私の中で国光くんの正確な位置情報が掴めなくて、未だ不明のまま彷徨っている。
「あれ、名字さん?」
沈む顔を上げさせたのは、保健委員長の大石くんだった。今は部活の時間じゃないのかと思ったけれど、それを口にしなかった。
「大石、くん?」
彼は私の元に近寄ると、対照的な笑顔を向けてくる。いつになく眩しいそれが、私の目を細める。
「手塚と一緒じゃないのかい?」
無邪気な問いが私の首を絞めた。言葉からして、国光くんを探しに来たのかな。でも、それを私に尋ねるのはお門違いもいいところ。一言も話してない私が知るわけがない。
「え、ああ……うん」
たどたどしく返事をすると、私の顔色を窺かった。寝不足と精神的不安が相まって、体調の予測は容易だろう。すると、大石くんは案の定、私の健康状態を探った。
「顔色が悪いようだけど、何かあったのかい?」
善意百%の気持ちが刺さった。彼の性格上、気にしないという方が無理なんだろう。前にもこんなことがあった気がするけれど、今は思い出せない。
「くにみ……手塚くんに、今日会った?」
彼の言葉を飛ばして、国光くんの現状に探りを入れる。普段の彼をよく知っているなら、何か違いを見出していて欲しい。
「ああ。会ったよ」
「普段と変わりなかった?」
「う~ん、どうだろうな。変わりないと思うけど」
収穫のない解答に肩が下がった。
「そう、」
大石くんは悪くない。元はと言えば、私が悪いんだから。そうは思っても、変化のない国光くんに動揺を隠せなかった。彼にとって私はどこにいるんだろう。何者に分類されるのか。何者にも分類されない、その他なのか。私ばかりが気にしているようで、唇に歯を立てた。
「俺で良かったら、聞こうか?」
ふいに告げられた言葉に、とぼけた声を上げてしまった。しゃきっとしない顔で大石くんの方を見ると、彼は頬を掻きながら和やかに微笑んだ。
「い、いやあ、第三者に聞いてもらった方が気持ちを整理出来るかなって」
大石くんの言うことも一理ある。でも、何と伝えればいいんだろう。
その瞬間、菊丸の言葉を思い出した。乾を紹介される前に、大石くんも国光くんに詳しいと言っていた気がする。私はそれに縋るように、彼に懇願した。
「少しだけ、時間もらってもいい?」
「ああ、もちろん」
私はさぞかし情けない顔をしているんだろう。大石くんも大石くんで、国光くんとは違う優しさを持っている。菊丸が懐く理由も分かる気がする。優しくされるのが嫌なくせに、私は大石くんに甘えてしまっている。
私は泣かないように努めながら、全貌は話さず掻い摘んで伝えた。大石くんはずっと「うん、うん」と適度に相槌を入れてくれた。
「手塚くんに酷いこと言っちゃって。自分が悪いのは分かってるのに」
滲んだ目頭を押さえ、溜息を吐く。大石くんに話したって解決するわけないけれど、少しでも気を楽にしたいという私のエゴが優先されている。
「素直に謝れば手塚も許してくれるさ。余程の事じゃない限り、手塚も怒らないだろうし」
「その余程の事だったら?」
「え!? えーっと……うーん、どうだろうな」
大石くんは、わたわたと慌てている。模範解答に対して意地悪な質問をしてしまったことは、どうか許してほしい。
国光くんが優しいことは、とうに知っている。私はそんな国光くんを相手に、無抵抗な状態で殴りつけたのだ。
「あのさ、大石くんの知ってる範囲でいいんだけど、手塚くんがテニス辞めそうになった時ってある?」
賭けのような質問に、大石くんの顔色が変わった。穏やかだった雰囲気は息を潜め、真剣な顔つきで口外を禁じた。
「……ここだけの話にしてくれるか?」
初めて見る大石くんの厳かな表情に、息を呑んだ。そして、一度だけ頷いた。私はこの時、国光くんの言いつけを破ったのだ。
「一年の頃に、先輩と対立したことがあってね」
「あの国光くんが?」
初手から驚きを隠せなかった。周囲から頼りにされて、先輩からの信頼もあったろう彼からは想像出来ない。
「ああ。部内で試合をしていて、手塚は本来左利きなのに先輩相手に右手で試合をしていたんだ」
「そんなこと可能なの?」
「先輩との試合は全部勝ってたよ。右手で」
「嘘……」
信じられなかった。いくら上手くとも、利き手ではない方で戦うなんて。
「それを知った先輩が怒ってしまってね。左肘をラケットで……」
全て言い終える前に、大石くんは口を噤んでしまった。目を閉じて首を横に振る姿に、焦燥感が募る。
「それで、左肘は?」
続きを催促すると、大石くんは変わらず硬い口調で話した。
「当時は痛みも引いたから大丈夫だろうって話だったんだ。だけど、練習量が多すぎたせいで二年の秋頃に完全に痛めてしまったんだ」
二年の秋。生徒会の任期が始まってすぐ。もしかしたら、出会ってすぐのときには違和感が生じていたんじゃないか。ぞくりと体が震え、大石くんの腕を掴んだ。
「テニスは出来るの? 出来るんだよね? この間大石くんと試合してるの見たよ!?」
そう問い詰めれば、彼は私を落ち着かせるように、柔らかに笑った。でも、眉は八の字になっていて、私は目線を下げた。
「ああ。軽くはね」
掴んでいた手を、関節ごとにゆっくり離した。じわじわと込み上げる後悔が熱を持って体中に広がっていく。
馬鹿だ。私は何てことを言ってしまったんだ。
私の罪はあまりにも重い。
「って、名字さん!?」
「ごめ、だいじょうぶ、だから」
突然泣き始める私を見ては、目を大きく見開く大石くん。泣くつもりじゃなかったのに、勝手に流れていく涙が廊下に小さな染みを作っていく。止めたくても止まらなくて、体中が発火しているような感覚だった。
何が「大切なものを失ったことがないくせに」だ。これから失うかもしれない恐怖の方が何倍も、何十倍も苦しいのに。不安で呼吸の仕方も忘れて、日に日に自身が死んでいくかもしれないのに。それなのに彼は腐ることなく、プロを目指している。将来を見据えた目標を立てて、走り続けている。どうやって強くいられるほどの覚悟を身に着けて来たのか。尊敬の混じった畏怖が私の体を震わせた。
すると、私達の元に、とある人物の声がかかった。ハリのある、強い声が届く。その瞬間に、誰だか気付いてしまった。嫌いだけれど、大好きな声だったから。
「大石」
「て、手塚!?」
いつもより強ばった顔で私達に近寄ると、間に割って入った。私の目の前には、国光くんの背中が広がっている。
「外してもらえるか」
「だが、」
「俺と名前の、二人にしてくれ」
「あ、ああ……わかった」
心配する大石くんを一蹴し、部活へと向かわせる。どうして国光くんが未だ制服姿のままでここにいるのか、理解できなかった。
大石くんの姿が見えなくなると、国光くんは私の方に振り返る。もう会えないと思っていたせいで、涙は余計に止まらなくなる。
「名前」
切なげに目を細める彼に、私は泣きじゃくるばかり。呼吸もままならなくて、何度拭おうとも濡れ続ける頬と、ぐらぐらと揺れながら痛みを覚える頭で限界だ。
「ごめん、くにみつくん……私、最悪だ、」
顔が見れなくなって、視界には私と、彼の上履きが目に入る。涙を拭っていた手の甲や頬が痛みを覚え始める。
「肘、怪我して……テニス、本気でできないんでしょ……?」
「大石から聞いたのか」
「聞いた。なのに、私最低なこと言った。大切なもの失ったことがないなんて、」
馬鹿だよね。そう自嘲する前に、国光くんの言葉に遮られた。
「俺は失ってない。俺はまだ諦めていない」
反射的に顔を上げると、彼の瞳には以前にも見た、静かに燃える炎が宿っていた。
「完治はしていないが必ず治す。それに、俺はテニスを辞めたわけじゃない。だから、お前の気持ちが分からないのも確かだ」
私は無言のまま、首を横に振った。
違う。それは違うの。分かって欲しいわけじゃない。こんな思い、知らない方がずっとずっと幸せだ。ただ真っ直ぐ目標に向かっていける国光くんが羨ましかっただけなんだ。何も悩みがないんだと、馬鹿な私がいたせいなんだ。
「本当は……自分で分かってるの。ただ、自分に自信が持てないの。私には、何も残ってないって」
一番大切だったピアノを捨てた。あの時の私は、捨てざるを得なかった。これ以上自分を殺すのなら、いっそ一思いに自殺を選ぶのがベストだと信じて疑わなかったから。何かに本気になったら、いつか失ってしまうんじゃないか。私の元から消えるんじゃないか。その消失感に耐えられそうにないから、本気にならないように自分の努力を否定し続けて、いつ崩壊するか分からない均衡を保っていたつもりだった。ただ羨ましかった。真っ直ぐ好きな事に向き合える国光くんのことが。楽しいことも、苦しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、いっぱいあったはずだ。これから先もっとあるだろう。それなのに覚悟を持った彼を羨望せずに、何をしろと言うのか。
「名前」
彼は私の名を呼ぶと、私に一歩近寄った。そして私の濡れた頬を親指で拭い、囁くように尋ねた。
「本当のお前を、教えてくれないか」
「……長くなるよ」
「構わない。何があったのか、全て俺にぶつけてくれ」
彼の申し出に、深呼吸をしながら目を閉じた。
彼になら、言ってもいいのかもしれない。彼なら、綺麗なところも汚いところも、全部受け止めてくれそうな気がした。
目を開けた私は、固く結んでいた過去の記憶を一つずつ、国光くんの前で解いた。誰かに全てを打ち明けるのは、初めてだった。
「前に話したよね。ピアノやってたって」
「ああ。今はもう弾いてないと」
「辞めた理由が、ピアノを弾けなくされたからなの」
言い方が気になったのか、国光くんはすぐさま聞き返した。
「弾けなく、された?」
「されたって言ったら、罪を擦り付けてるように聞こえちゃうかな。まあ、弾けなくなっちゃって」
ぼんやりと脳裏に先生の顔が浮かぶ。変わる形相を思い出せば、今も怖くなる。
「最初はすごく順調で、先生も優しくて。親もいっぱい褒めてくれるし、弾くのが楽しくて、ピアノ以外興味ない子だったの」
戻らない日々を思い出す度に、無知を羨んだ。知らないからこそ楽しめる世界があるのだと、身に染みて思い知った。
「私にはピアノを弾く適性……よく言う才能ってやつ。才能があったみたいで、コンクールでも賞を取ったんだ。全国で一位。すごいでしょ。その時、お父さんのために弾いたんだけど、自分でも感動しちゃった。一番楽しかったから」
ふう、と呼吸を整える。煌びやかな面が終わったせいで怖くなる。私は少し黙ってから再び話を続けた。
「それだけ言えば、すごく華やかで羨んでくれる人もいるんだけど、レッスンに耐えられなくなっちゃったんだ。先生の暴言と暴力に負けたの」
暴言と暴力。その単語が手の甲を触らせようと動かす。掴んだ皮膚がぐにぐにと化物のように動き始める。
「好きだからこそ、続けたかった。でもあの環境下ではやっていけないからって、やっとの思いで両親に伝えて、通ってた教室を辞めて、ようやく自由に弾けると思ってたら、現実はそんなに甘くなかった」
ジリジリと顔のあたりが痺れ始める。泣きすぎた弊害がやってきたのだ。
「全然弾けなかった。ピアノと向かい合うと幻聴が聞こえるの、先生の暴言が。下手くそ、辞めろ、調子に乗るな。手の甲をよく叩かれたから、今でも思い出したら触ってしまう」
抓るように触っていた手の甲は赤く染まっていた。
「頭痛や吐き気だって感じてしまって、トイレに駆け込んだこともあった。そこでやっと、ああ、私終わったなって」
ぽっかりと穴の開いた心は未だに塞がっていない。これからも完全に塞がることはないのだろう。時間がどれだけ和らげてくれようとも、本質的なものは何も解決に至らない。
「それから何にも没頭出来なくて。一人でいると辛いから、友達と遊ぶか、勉強するかのニ択で。親が気を利かせてピアノの代わりを見つけてくれようとしたんだけど、どれも手が付けられなかった。どうせピアノに勝るものはないから」
もっと自分が下手だったら良かった、とか、手が小さければ、とか、始めるのが遅ければ、とか、限りないたらればを唱えても何も戻らない。ただ、自分に虚無が残るだけだった。
「ピアノに賭けた情熱が一気に失われたせいで、何をやっても努力に見えないの。あの時ほどじゃない、とか、あの時の方がもっと辛かったからこれは違う、とか」
限界を超えることは悪い事じゃない。でも、限界が分からなくなるのも怖い。私は暴力と暴言の限界に一時的にでも慣れてしまったのが私を私でなくした要因。
「誰かに、真正面から肯定されたかったのかな。頑張ったね。頑張ったから賞がもらえたんだよって」
当時、先生からも、両親からも、「頑張ったね」という言葉は貰えなかった。両親は褒めてくれてはいたけれど、努力という過程については何一つ触れなかった。私が自ら進んで弾く子であったからなのと、二人が賞に固執していなかったのも理由だろう。「おめでとう」も嬉しかった。でも、私が欲しかったのは、「頑張ったね」の努力の認識だった。
正確な答えを見つけてしまった私の視界は再び滲み始める。既に出来た涙の跡を、新たに溢れた雫が辿っていく。初めて吐露した過去も一緒に流れ始める。枯れない涙が頭痛を誘引した。
すると、手に温かいものが触れた。大きくて、硬くて、厚い手のひら。私とは比べ物にならないくらい大きな手が、私の手を握った。
「国光くん……?」
擦り過ぎたせいで赤く染まった手の甲に、彼は優しく触れた。凍り付いた心がじわじわと彼の熱で溶かされていく。
「お前は、努力家だ」
そう言い切ると、彼は私の目を真っ直ぐに見据えた。正常に働かない脳が今を夢心地のように思わせる。
「この半年ほど、お前を見てきて物事に取り組む姿勢は伝わっている。先生方の話からも、菊丸や乾からも、よく耳にする。もちろん、俺の目から見ても変わらない」
国光くんは一呼吸置き、熱の籠った声で私を肯定した。
「もっと胸を張れ。お前の努力は見ている。もちろんピアノで培ったものも、今後必ず生きてくる。今は立ち向かえなくても、また立ち上がれる。立ち上がろうと思えば何度だって可能だ」
「くにみつ、くん」
大きな粒が、瞳から零れた。未だ枯れぬ涙は、濡れた頬の筋を通って顎から垂れる。瞬きをする度に、粒がぽろぽろと続いていく。
「お前は頑張っている。過去も、現在も。俺にはそう見えている」
断固たる響きに、懐の深さを知った。私はもう、言い逃れ出来ないところまで来ているのかもしれない。真実の瞳で、曇り空を晴れにしてくれる。
途切れ途切れに思う、国光くんへの感情を浮かべながら、彼の胸元に頭を預けた。
「すこしだけ、このままでいさせて」
今だけは許してほしい。明日からは戻るから。今だけと何度も唱えながら、国光くんの優しさに甘えた。
すると、私の手から彼の温もりが離れた。少しだけ物悲しさを覚えていると、洗剤の香りと、少しの制汗剤の匂いが私を包んだ。硬さのある温もりと、制服の擦れる衣の音で、国光くんに抱きしめられていると理解した。
「く、国光くん!?」
頭から丸め込むように抱きしめられ、その衝撃で涙が引っ込んでしまう。勢いよく顔を上げれば、至近距離に彼の顔。違う意味で熱くなる顔で、口をぱくぱくと動かせば、彼は不思議そうに首を傾げた。
「この方が顔が見えないだろうと思ったんだが、」
国光くんって、もしかして天然? もっと他に選択肢があっただろうと考えても、口に出せない。
「ひ、人に見られたら、大変だって」
「そうか……」
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下で抱きしめられている姿を見られれば、噂で終わらない。確定的な事実として話が流れるはずだ。
国光くんの胸元に手を置いて離れようと力を入れると、彼は名残惜しそうに私の身体を離した。収まる気配のない心臓の音と熱は諦めないといけない。
「ごめんね、時間取らせちゃって」
恥じらいを誤魔化すように、軽くなった身体で笑顔を作る。過去を受け止め、肯定してくれた彼には感謝しかない。国光くんは少しだけ口端を上げている。
「いや、構わない。あのままお前を放っておく方が出来ない」
「それは……ごめん」
目の前で泣き喚けば、立ち去るに立ち去れないだろう。私も同じ立場なら、国光くんと同じ選択肢を取った気がする。
「気にするな。今日はゆっくり休め」
分かりやすく消沈する私に気遣ってか、穏やかな声で励ましてくれる。元々原因が私の体調不良のせいだったこともあり、心配の言葉は尽きない。
「……帰れるか?」
「うん、それは大丈夫」
なんだかお父さんのようで笑ってしまった。言ってしまったら国光くんは拗ねてしまうかな。それに、所々で私のお父さんにも似てる気がする。
彼を部活に送り出すために別れを切り出そうとすると、彼は改まった様子で私の名を呼んだ。
「名前、」
「ん?」
「こんなことを言っては何だが……」
ひと呼吸置いてから言葉が続かない。普段の国光くんなら言い淀んだりしないのに、と不思議に思った。
「何? 言って」
発言を催促すると、ひどく神妙な顔つきで尋ねた。
「もうピアノを弾くつもりは一切ないか?」
私は分かりやすく戸惑いを見せた。あの話を聞いてからの問いは、もう弾けないと断定してしまっている私には重たかった。何と答えたらいいか分からず、口をはくはくとさせては言葉が詰まる。一生弾くことはないと思っていたのに、国光くんの真っ直ぐな瞳を見てしまったら一筋の光を感じてしまう。
「どうしてか、聞いてもいい?」
私は彼の好きな音楽を知らない。実はピアノが好きだったのか、それとも特定の音楽が好きなのか。思いつくだけの可能性を頭の中で浮かべては、彼の出方を待った。すると、国光くんは表情を変えることなく言い放った。
「お前の奏でる音色を、聞きたいと思ってしまった」
それは、私にとって熱烈な告白にも取れる言葉だった。彼の言った、「全て教えてくれないか」が真実なのだと、理解ってしまった。そこまで彼は知ろうとしてくれている。あれきり弾かなくなったピアノ。一番大切な友人にさえ聞かせたことのない演奏。二年の空白がどれほどの重みか、まだ実感がない。彼の言葉を受け取っていいのか、ダメなのか、判断がつかない。
「もちろん、無理にとは言わない。いつになっても構わない。いつか、俺のために弾いてくれないか」
強烈なラブコールに耳を塞ぎたくなる。空き瓶が満たされて、終には溢れかえってしまいそうになる。彼は一体、どこまで空いた穴を埋めようとしてくれるのか。
「……いつになるか、分かんないよ? 一生弾けないかもよ」
幻聴がなくなったのかさえも分からない。怖くて試せないままなのに。拒むような口調で不可能を匂わせたけれど、彼の前では無駄だった。
「それならそれでいい。だが、俺は待つ」
嘘を吐かない瞳が訴える。心の最深部で泣き続ける音が、ようやく泣き止んだ。
「……ありがと」
私は、私を信じてくれる国光くんの存在だけで、救われた気がした。彼の性格が、言動が、真実を映し出すから私は信じざるを得ない。
落ち着きを取り戻した私は、ずっと気になっていた事を尋ねた。
「そう、一つ聞いてもいい?」
「なんだ」
「どうして放課後に、こんなとこまで来たの」
大石くんは部活に行ったけれど、部長がこんなところにいていいのか、と気になっていた。部活に遅刻すれば、グラウンド走るんじゃなかったっけ、と記憶を辿る。部長は免除されるのだろうか。
すると、国光くんは当たり前のように答えた。
「明日、約束の日だろう」
「約束の日?」
何か大切なことがあったっけ、と頭の中でスケジュール帳を捲るも、重要そうな用件は何も出てこない。頭を捻り続けていると、国光くんは答えを教えてくれた。
「一緒に昼食をとる約束だ。あのままでは……不可能だと思っていた。だから、お前を探していたんだ」
国光くんの言葉を、ゆっくりと噛み砕いて飲み込んだ。その瞬間からじわじわと熱が広がって、人差し指で耳朶の裏を触った。
確かに私も気がかりだったけれど、明日までに解決するとは一ミリも考えていなかった。むしろ、これきりになってしまうんじゃないかって思っていたぐらいだ。
なんだか国光くんの新たな一面を見てしまったようで、口元が歪んだ。
「私とのお昼、結構好き?」
ここまで言われてしまうと、聞かずにはいられなかった。悪戯を仕掛けるときのように笑いながら直接的な質問をぶつけると、彼は柔らかい雰囲気を纏って答えた。
「ああ。自分が思うより、ずっと、だな」
***
週末、私は父の書斎にいた。窓から差し込む光が柔らかくて、気持ちを穏やかにさせる。
「お父さん。これ、返すの忘れてた。ありがとう」
国光くんに貸していた洋書と、私が借りた洋書を、オフィスチェアに座ったままの父に渡した。テストが挟まって返すタイミングを失っていたため、予定から何日も遅れた返却日となった。
すると、父は嬉しそうに表紙を眺めながら、こう尋ねた。
「読めたかい? 少し難しくなかったかな」
国光くんに貸していた厚い方の表紙を撫でながら聞いてくる。私は全く読んでいないから解答に困ってしまった。私が読んでないことを知れば、悲しむだろうか。父にはまだ国光くんに貸していることを言ったことがない。でも、難易度に差があったから薄々気付いているかもしれない。
「うん。面白かったって」
言ってもいいか、と軽い気持ちで答えると、父は一瞬納得したが、すぐに言葉の違和感に気付いた。
「そうか……って、名前は読んでないのかい?」
疑問を呈すると同時に、目尻に刻まれていた皺が伸びた。
「うん。洋書好きな人がいるから貸しただけ」
「そっかあ……」
さり気なく声と肩を落とす。さすがに上級者向けのは読めないよ、と心の中で不可能を告げた。
「また、借りてもいい?」
改めて許可を乞うと、父は再び目尻に皺を寄せた。
「ああ。構わないよ」
父の笑顔につられて、私も目を細める。正式な許可を得て、部屋を出ようとした瞬間、父は私を止めた。
「名前」
「ん?」
「その友達っていうのは、男の子かい?」
ドキリ、と心臓が大きく跳ねる。どこで気付いたんだろう。はっきり友達と言わなかったところだろうか。父の問いかけに、両の手の指同士を絡めた。
「……まあ、うん」
はっきりとしない言葉で肯定すると、父の顔は分かりやすく変わった。
「そ、そっか……」
寂しそうに私から目線を外した。もしかして、勘違いされているのか。
私は空気を換えるためにも、いずれ頼もうとしていたことを口にした。また改めて言うには、勇気が足りそうになかったから。
「あ、あと、お願いがあって、」
目をウロウロと彷徨わせながら、父に一歩、二歩と近寄った。
心づもりは出来ているはずなのに、いざ口にしようとすると唇が固く締まる。一度逃げ出してしまったから、そう簡単に戻ってくるわけない。重々承知しているけれど、お礼の意を込めて彼に聞いて欲しいと思う自分がいる。
「そんなに改まって、どうしたんだ?」
大きな手のひらが、私の手を包む。父の声色と相まって、身体に走っていた緊張が徐々に解けていく。
もう一度、チャンスが欲しい。自分らしく演奏できるチャンスが。場所なんてどこだっていい。大切な人が聞いてくれるだけで、十分すぎる。そこが最高の舞台になる。
深呼吸をして、父の目を捉えた。これは自分で決めたことだから、絶対に逃げない。そう伝えるように。
「ピアノ、教えて欲しいの」
頼む声が上擦る。父は目を大きく見開いては、口も開けていた。
「……ピアノ?」
「ダメかな」
不安から手の甲に触れた。ドクドクと心臓が煩く響き始める。
私のせいで封じられたピアノ。父さえも触れなくなっていたのに、こんな易々と口にしていいのだろうか。
父が何と言葉を返すのか、そればかりが気になった。当たり前のことだけれど、随分と驚いているような様子だったから返答が遅れている。父の顔を恐る恐る窺えば、笑っているのか、驚いているのか、よく分からない呼吸で慌てているように見えた。手を上下に動かしたり、グーパーに作り変えたりと、挙動が忙しい。そんな姿をじっと見つめていると、父は笑い声を零しながら、目に薄らと膜を張っていた。
「ううん、もちろん。弾きたい曲が出来たのかい?」
「そうじゃないんだけど……もう一度、弾けるようになりたい」
国光くんへのお礼がしたかった。二年のブランクがどれだけ響くか分からないけれど、精一杯の想いは彼に伝えたかった。
「よし。分かった」
父は頷くと、椅子から立ち上がった。
「今から、やってみるかい?」
「うん!」
私が頷いたのを見計らってから、父は楽譜の詰まった棚へと向かった。私も父も、何度も使用した楽譜達。久しぶりの対面になる。
「じゃあ、これを渡しておこう。まずは感覚を戻していこうか」
父はそう言いながら、私に一冊差し出した。受け取った瞬間から、ずっしりと感じる重みが懐かしい。紺碧の表紙が眩しく映る。鮮やかな青が、彼を髣髴とさせた。限られた者だけが許されるレギュラージャージの青。海や空のように、深くて広いあの人。私は瞼を閉じて、表紙をゆっくりと撫でた。
「名前、無理はしないようにね」
父の言葉に、私は大きく頷いた。
父は楽譜を選んでから降りると言い、私は先に一階に降りた。すると、母はちょうど洗い物をしていた。私は母に何も言わずに、インテリアと化しているピアノに近寄った。埃一つない、黒い体に歪んだ私が映る。右手で固く閉ざされていた蓋を開け、紫檀の布を取っ払った。
「……久しぶり、」
二年ぶりに対面する八十八の白と黒。込み上げる感情の中に恐怖はなかった。懐古と幸福が入り混じって、胸がいっぱいに満たされる。弾きたいと心が叫んでいる。私は逸る心を抑え、徐に黒レザーを張った専用のベンチに座ってから、譜面台に紺碧の表紙を置いた。指を絡めて不規則に動かしながら深呼吸をする。どれだけ指が動くのか、全く分からない。深く息を吸って、教本の中の一番を開いた。単純な指運も意識一つで、ぐんと変わる。
ずっと放っていたことを許してほしい。そう願いを込めてから鍵盤に触れ、声を聞いた。二年前と変わらない、音が声となって私の鼓膜を震わせる。その瞬間、私の手は止まった。
音が、変わってない。
狂いのない声が、確かに聞こえた。ピアノの声が教えてくれた思いを全身で浴び、それが形となって零れ落ちる。滲む視界の中で、鍵盤に雫が垂れないように顔を覆った。
音楽自体が禁忌に変遷していった二年間。ずっと触らなかったのに、音のズレがないことがおかしい。弾いてなくても空気の変化だけで劣化は続いていく。それなのに、変わっていない理由は一つ。両親が、ピアノの調律を欠かさないように手配してくれていたから。
母はピアノに時たま触れていたけれど、父は全く触れなくなっていた。そんな環境の中で、調律をする必要はない。もう不要物に成り下がっているに違いないのに。それでも二人は私に賭けてくれていたのか。私の知らない間に調律師を呼んで、ピアノの調子を整え続けてくれていた。
私がいつか弾くかもしれない。その可能性だけで。
「どうだい?」
父は、私の肩にそっと触れた。
「おと、さ……」
涙で言葉に詰まる。手から伝わる熱で全てを知る。
「ごめん……ありがと……」
溢れ返る思い全てを受け止めるように、父は私を抱きしめた。私はそんな父にしがみつくように腕を背中に回しては、肩に染みを作る。
「名前なら、もう一度弾くだろうって。そう信じてたから」
大きな手が私の頭を撫でる。
一方的にピアノごと突き放したのに。永遠の別れとさえも思ったのに。それは大きな間違いだった。客席には父も母もいた。そして国光くんもいてくれる。独りよがりはおしまいだ。この三人が待っていてくれるなら大丈夫。
幕が上がるのは、今。再びスポットライトに照らされるのは、今からだった。
***
後日、私は一組の教室へと向かった。目的はもちろん国光くん。スキップにも似た歩調で教室に着いた瞬間に、彼の姿を探そうとした。しかし、そんな暇も必要なく、戸のところで生徒会で一緒の一つ下の委員長と話している姿を見つけた。二人の間に割り込んで、邪魔をするのも悪い。用件が済むまで待っておこう。廊下の壁に背を預け、何の話をしているのか予測を立てる。何か行事が直近であるわけじゃないのに、何を聞きに来たんだろう。後輩の委員長に意識がいってしまうせいか、私の目は二人へと注がれる。後輩の子は手にしている資料を胸に抱えて、ずっと笑顔を咲かせていた。きらきらと輝いて、眩しい。国光くんは至って普通で、澄ました顔で口を動かしている。わざわざ二年生の子が三年生の階にくるなんて、余程の事がない限り遭遇しない。二人を見ていると、休み時間中に終わりそうにない雰囲気に思えてくる。もっと早く教室を出てくればよかった。胸の辺りに靄がかかっているようで、スッキリとしない。
なんだろう、この気持ちは。国光くんの交友関係がどうだって、私には関係ない。私には私の友達や知り合いがいるし、国光くんには国光くんの友達や知り合いがいる。知らなくて、当然なのに。
釈然としない気持ちが渦巻いて、目が回りそうになる。もう教室に戻ろうとした瞬間、見ていた場所から声が飛んだ。
「名前」
声に応じて振り返る。国光くんの声ははっきりと私に届いていて、その場に留まらせた。再び国光くんと後輩の二人へと目線を送ると、彼は私のことを見つめていた。後輩の子も私を見つめている。でも、二人から注がれる視線は、あまりにも対照的だった。
「何か用事だったか」
まだ後輩が彼の真正面にいるのに、私を優先するような言葉を発する。視線が煩いせいで邪魔をしてしまったんだ、と密かに反省した。
「あ、後でいいよ。大した事ないから」
表面を繕って、あくまで後輩を優先して欲しいと促す。しかし、私の思いとは裏腹に、国光くんは後輩との会話を切り上げようとしている。
「すぐ行く」
国光くんは私に向かって言い放つと、後輩の子に対して再び口を開いた。
「後は資料通りやってくれ」
「か、会長、」
後輩の子を置いていくように告げると、国光くんは私の元に早足でやってきた。罪悪感から後輩の子の顔色を無意識に窺えば、眉間に皺を寄せながら私達を見つめていた。申し訳なさが一挙に押し上げてきて、後輩の子から顔を背ける。見てはいけないものを見た気がして、身の毛がよだった。
「名前?」
国光くんの声で我に返る。瞬きを繰り返してから彼の顔を見た後、妙に落ち着いてしまった。
「良かったの?」
後輩の存在を気にした問いかけをするけれど、彼の中では終わった事のようで、何の気なしに頷いた。
「ああ。ほとんど終わっていたからな」
国光くんはそう言うけれど、納得は出来なかった。後輩の威圧的な表情を見れば猶更。私の存在が国光くんは良くても、後輩にとって邪魔であったのは一目瞭然だった。
「それで用事はなんだ」
刻々と迫る休み時間の終了。元々少ない時間をこれ以上削る訳にはいかない。深呼吸をひとつ吐いて、気を取り直す。
「用事っていうか、報告」
そう言って、口角を斜め上に引っ張った。
「ピアノ、もう一度やってみようと思って」
宣言に近い告白。彼に伝える事で逃げ道を無くし、もう振り返らないという決意だった。
「無理はするなよ」
「うん。この間弾いてみたんだけど、幻聴はなかったよ。国光くんが肯定してくれたおかげかも」
嬉しさが口から洩れて、ふすふすと口元を手で隠しながら笑う。
「……そうか」
国光くんも心なしか、微笑んでくれているようで余計に嬉しくなってしまう。
「それでね。前、聞きたいって言ってくれたでしょ? リクエストあるかなって」
「リクエストか……」
国光くんは顎に手を当てると、随分と考え込み始めた。
「何でもいいよ。普段よく聞く曲とか」
ブランクはあるけれど、難易度が高ければ高いほど燃える。どんな曲であっても弾き切る自信があった。全く根拠はないのに、意欲だけが私を先へと連れて行く。
「クラシックはよく聞く」
「本当? じゃあぴったりだ」
「ベートーヴェンを聞くことが多いな」
「うん、分かった。頑張って練習するね」
帰ったらお父さんとお母さんに選曲を手伝ってもらおう。これから楽しくなるなあ、と胸が高鳴る。
「無理はするなよ」
「うん、大丈夫だよ。国光くんのために弾くから」
私の中では告白の答えのつもりだった。でも、国光くんにそのつもりはないから、私はひっそりと終わらせてしまう。
「じゃあね」
休み時間も終わってしまうからと国光くんに背を向けようとした瞬間、彼の一声に止められる。
「待ってくれ」
何のことかと黙って待っていると、彼は妙に緊張した面持ちで口を開いた。
「俺も、言いたいことがある」
「……何?」
一瞬、悪い事じゃないよね、と不安が過る。
「以前、大石から聞いただろう。肘の事を」
一つ、頷く。両の手に力が入り、拳に形を変える。私の目は、彼の左肘へと向かう。
「先日病院に行ったんだが、完治の診断を受けた」
彼の言葉に、自分でも分かるほどに眉が上がった気がした。咄嗟に込み上げる思いもぶつけるように、彼に一歩近づく。
「ほ、本当? じゃあ気にせずテニス出来るの?」
「長時間は良くないが、前よりは動かせる」
「良かった……」
はあ、と盛大に安堵の息を吐いた。自分の事より嬉しくて、この場で飛び回りたい衝動に襲われる。でも、さすがに照れが優先されてしまうから、とびきりの笑顔だけで堪えた。
「教えてくれてありがとう」
「ああ。お前には、伝えておきたかった」
大石くんの口から聞いてしまった件については申し訳ないけれど、聞けて良かったと思う。もし大石くんがいなかったら、私と国光くんは平行線のままだったかもしれない。
「テニス、応援してるからね」
「ああ」
私は彼に手を振り、教室へと戻った。浮かれた気持ちが隠せないままだったけれど、気にする頭も失われていた。
もう少し落ち着いたら、友達にも全てを話してみようかな。あの子も、私を救ってくれた一人だから。
「どうしたの。顔色最悪だけど」
「ちょっと……うん」
席に着いた途端、心配の声をかけてきたのは友人だった。ここ二、三日調子が悪いのは一目瞭然だったせいで、彼女にも心配をかけていた。笑顔を作ろうにも作れなくて、何も手につかない状態。抜け殻の私は、今日も変わらず口端をきゅっと結んで表情を変えない。あまりにも調子が変わらない私を不思議に思ったのだろう。友人は的確に私の急所を突いた。
「手塚くんと、何かあった?」
「……そうだけど、そうじゃない」
私に何かあると国光くん絡みだと思うのは止めて欲しい。でも、それが当たっているせいで否定も出来ない。
名前を出されれば、国光くんにしてしまった態度と、自分のままならない感情が混ざって黒い塊が私自身に圧し掛かる。もちろん、私の煮え切らない態度で伝わる訳もなく、彼女は首を傾げていた。
「なぞなぞ?」
「それぐらい簡単だったら良かった」
頬杖をついては溜息を吐いた。答えのない問題であるのに、いや、ないからこそ悩んでしまう。関係ある人間が私一人であれば良かった。自分が我慢すれば、客観的には丸く収まる。でも、対人関係においての問題は、自分ひとりでどうにか出来る問題じゃない。
再び深い溜息を吐くと共に、現代文なら読めば推測可能なのに、と人間の感情の複雑さを呪った。
「何かあったら言いなよ? 一人で抱え込むの、体に悪いんだから」
「そう、だね」
小さな手が私の頭をくしゃりと撫でる。眉間に皺を寄せて笑う私は、酷く醜い顔をしていた。
放課後、人がほとんどいなくなった校舎で黄昏ていた。渡り廊下から見える中庭の植物は青々と茂り、伸び伸びと育っている。それを羨ましく思いながら、そよぐ風に身体を任せていた。頭の中を占めるのは、決まって国光くんのことだった。
明日はお昼を一緒に食べる予定があるのに、このままでは一緒に食べられないどころか、話すら出来ない。全部自分が蒔いた種であるのに、自分で回収出来ない不甲斐なさに鼻の奥が痛む。今までだったら誰が近づいてこようが、離れようが関係ないと思っていたのに、国光くんだけは離れて欲しくない。もう言い逃れできない想いが競り上がっているような気がした。これが、周囲に言われる恋なのか。それとも、子供が両親を失う恐怖に似た寂寥なのか。私の中で国光くんの正確な位置情報が掴めなくて、未だ不明のまま彷徨っている。
「あれ、名字さん?」
沈む顔を上げさせたのは、保健委員長の大石くんだった。今は部活の時間じゃないのかと思ったけれど、それを口にしなかった。
「大石、くん?」
彼は私の元に近寄ると、対照的な笑顔を向けてくる。いつになく眩しいそれが、私の目を細める。
「手塚と一緒じゃないのかい?」
無邪気な問いが私の首を絞めた。言葉からして、国光くんを探しに来たのかな。でも、それを私に尋ねるのはお門違いもいいところ。一言も話してない私が知るわけがない。
「え、ああ……うん」
たどたどしく返事をすると、私の顔色を窺かった。寝不足と精神的不安が相まって、体調の予測は容易だろう。すると、大石くんは案の定、私の健康状態を探った。
「顔色が悪いようだけど、何かあったのかい?」
善意百%の気持ちが刺さった。彼の性格上、気にしないという方が無理なんだろう。前にもこんなことがあった気がするけれど、今は思い出せない。
「くにみ……手塚くんに、今日会った?」
彼の言葉を飛ばして、国光くんの現状に探りを入れる。普段の彼をよく知っているなら、何か違いを見出していて欲しい。
「ああ。会ったよ」
「普段と変わりなかった?」
「う~ん、どうだろうな。変わりないと思うけど」
収穫のない解答に肩が下がった。
「そう、」
大石くんは悪くない。元はと言えば、私が悪いんだから。そうは思っても、変化のない国光くんに動揺を隠せなかった。彼にとって私はどこにいるんだろう。何者に分類されるのか。何者にも分類されない、その他なのか。私ばかりが気にしているようで、唇に歯を立てた。
「俺で良かったら、聞こうか?」
ふいに告げられた言葉に、とぼけた声を上げてしまった。しゃきっとしない顔で大石くんの方を見ると、彼は頬を掻きながら和やかに微笑んだ。
「い、いやあ、第三者に聞いてもらった方が気持ちを整理出来るかなって」
大石くんの言うことも一理ある。でも、何と伝えればいいんだろう。
その瞬間、菊丸の言葉を思い出した。乾を紹介される前に、大石くんも国光くんに詳しいと言っていた気がする。私はそれに縋るように、彼に懇願した。
「少しだけ、時間もらってもいい?」
「ああ、もちろん」
私はさぞかし情けない顔をしているんだろう。大石くんも大石くんで、国光くんとは違う優しさを持っている。菊丸が懐く理由も分かる気がする。優しくされるのが嫌なくせに、私は大石くんに甘えてしまっている。
私は泣かないように努めながら、全貌は話さず掻い摘んで伝えた。大石くんはずっと「うん、うん」と適度に相槌を入れてくれた。
「手塚くんに酷いこと言っちゃって。自分が悪いのは分かってるのに」
滲んだ目頭を押さえ、溜息を吐く。大石くんに話したって解決するわけないけれど、少しでも気を楽にしたいという私のエゴが優先されている。
「素直に謝れば手塚も許してくれるさ。余程の事じゃない限り、手塚も怒らないだろうし」
「その余程の事だったら?」
「え!? えーっと……うーん、どうだろうな」
大石くんは、わたわたと慌てている。模範解答に対して意地悪な質問をしてしまったことは、どうか許してほしい。
国光くんが優しいことは、とうに知っている。私はそんな国光くんを相手に、無抵抗な状態で殴りつけたのだ。
「あのさ、大石くんの知ってる範囲でいいんだけど、手塚くんがテニス辞めそうになった時ってある?」
賭けのような質問に、大石くんの顔色が変わった。穏やかだった雰囲気は息を潜め、真剣な顔つきで口外を禁じた。
「……ここだけの話にしてくれるか?」
初めて見る大石くんの厳かな表情に、息を呑んだ。そして、一度だけ頷いた。私はこの時、国光くんの言いつけを破ったのだ。
「一年の頃に、先輩と対立したことがあってね」
「あの国光くんが?」
初手から驚きを隠せなかった。周囲から頼りにされて、先輩からの信頼もあったろう彼からは想像出来ない。
「ああ。部内で試合をしていて、手塚は本来左利きなのに先輩相手に右手で試合をしていたんだ」
「そんなこと可能なの?」
「先輩との試合は全部勝ってたよ。右手で」
「嘘……」
信じられなかった。いくら上手くとも、利き手ではない方で戦うなんて。
「それを知った先輩が怒ってしまってね。左肘をラケットで……」
全て言い終える前に、大石くんは口を噤んでしまった。目を閉じて首を横に振る姿に、焦燥感が募る。
「それで、左肘は?」
続きを催促すると、大石くんは変わらず硬い口調で話した。
「当時は痛みも引いたから大丈夫だろうって話だったんだ。だけど、練習量が多すぎたせいで二年の秋頃に完全に痛めてしまったんだ」
二年の秋。生徒会の任期が始まってすぐ。もしかしたら、出会ってすぐのときには違和感が生じていたんじゃないか。ぞくりと体が震え、大石くんの腕を掴んだ。
「テニスは出来るの? 出来るんだよね? この間大石くんと試合してるの見たよ!?」
そう問い詰めれば、彼は私を落ち着かせるように、柔らかに笑った。でも、眉は八の字になっていて、私は目線を下げた。
「ああ。軽くはね」
掴んでいた手を、関節ごとにゆっくり離した。じわじわと込み上げる後悔が熱を持って体中に広がっていく。
馬鹿だ。私は何てことを言ってしまったんだ。
私の罪はあまりにも重い。
「って、名字さん!?」
「ごめ、だいじょうぶ、だから」
突然泣き始める私を見ては、目を大きく見開く大石くん。泣くつもりじゃなかったのに、勝手に流れていく涙が廊下に小さな染みを作っていく。止めたくても止まらなくて、体中が発火しているような感覚だった。
何が「大切なものを失ったことがないくせに」だ。これから失うかもしれない恐怖の方が何倍も、何十倍も苦しいのに。不安で呼吸の仕方も忘れて、日に日に自身が死んでいくかもしれないのに。それなのに彼は腐ることなく、プロを目指している。将来を見据えた目標を立てて、走り続けている。どうやって強くいられるほどの覚悟を身に着けて来たのか。尊敬の混じった畏怖が私の体を震わせた。
すると、私達の元に、とある人物の声がかかった。ハリのある、強い声が届く。その瞬間に、誰だか気付いてしまった。嫌いだけれど、大好きな声だったから。
「大石」
「て、手塚!?」
いつもより強ばった顔で私達に近寄ると、間に割って入った。私の目の前には、国光くんの背中が広がっている。
「外してもらえるか」
「だが、」
「俺と名前の、二人にしてくれ」
「あ、ああ……わかった」
心配する大石くんを一蹴し、部活へと向かわせる。どうして国光くんが未だ制服姿のままでここにいるのか、理解できなかった。
大石くんの姿が見えなくなると、国光くんは私の方に振り返る。もう会えないと思っていたせいで、涙は余計に止まらなくなる。
「名前」
切なげに目を細める彼に、私は泣きじゃくるばかり。呼吸もままならなくて、何度拭おうとも濡れ続ける頬と、ぐらぐらと揺れながら痛みを覚える頭で限界だ。
「ごめん、くにみつくん……私、最悪だ、」
顔が見れなくなって、視界には私と、彼の上履きが目に入る。涙を拭っていた手の甲や頬が痛みを覚え始める。
「肘、怪我して……テニス、本気でできないんでしょ……?」
「大石から聞いたのか」
「聞いた。なのに、私最低なこと言った。大切なもの失ったことがないなんて、」
馬鹿だよね。そう自嘲する前に、国光くんの言葉に遮られた。
「俺は失ってない。俺はまだ諦めていない」
反射的に顔を上げると、彼の瞳には以前にも見た、静かに燃える炎が宿っていた。
「完治はしていないが必ず治す。それに、俺はテニスを辞めたわけじゃない。だから、お前の気持ちが分からないのも確かだ」
私は無言のまま、首を横に振った。
違う。それは違うの。分かって欲しいわけじゃない。こんな思い、知らない方がずっとずっと幸せだ。ただ真っ直ぐ目標に向かっていける国光くんが羨ましかっただけなんだ。何も悩みがないんだと、馬鹿な私がいたせいなんだ。
「本当は……自分で分かってるの。ただ、自分に自信が持てないの。私には、何も残ってないって」
一番大切だったピアノを捨てた。あの時の私は、捨てざるを得なかった。これ以上自分を殺すのなら、いっそ一思いに自殺を選ぶのがベストだと信じて疑わなかったから。何かに本気になったら、いつか失ってしまうんじゃないか。私の元から消えるんじゃないか。その消失感に耐えられそうにないから、本気にならないように自分の努力を否定し続けて、いつ崩壊するか分からない均衡を保っていたつもりだった。ただ羨ましかった。真っ直ぐ好きな事に向き合える国光くんのことが。楽しいことも、苦しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、いっぱいあったはずだ。これから先もっとあるだろう。それなのに覚悟を持った彼を羨望せずに、何をしろと言うのか。
「名前」
彼は私の名を呼ぶと、私に一歩近寄った。そして私の濡れた頬を親指で拭い、囁くように尋ねた。
「本当のお前を、教えてくれないか」
「……長くなるよ」
「構わない。何があったのか、全て俺にぶつけてくれ」
彼の申し出に、深呼吸をしながら目を閉じた。
彼になら、言ってもいいのかもしれない。彼なら、綺麗なところも汚いところも、全部受け止めてくれそうな気がした。
目を開けた私は、固く結んでいた過去の記憶を一つずつ、国光くんの前で解いた。誰かに全てを打ち明けるのは、初めてだった。
「前に話したよね。ピアノやってたって」
「ああ。今はもう弾いてないと」
「辞めた理由が、ピアノを弾けなくされたからなの」
言い方が気になったのか、国光くんはすぐさま聞き返した。
「弾けなく、された?」
「されたって言ったら、罪を擦り付けてるように聞こえちゃうかな。まあ、弾けなくなっちゃって」
ぼんやりと脳裏に先生の顔が浮かぶ。変わる形相を思い出せば、今も怖くなる。
「最初はすごく順調で、先生も優しくて。親もいっぱい褒めてくれるし、弾くのが楽しくて、ピアノ以外興味ない子だったの」
戻らない日々を思い出す度に、無知を羨んだ。知らないからこそ楽しめる世界があるのだと、身に染みて思い知った。
「私にはピアノを弾く適性……よく言う才能ってやつ。才能があったみたいで、コンクールでも賞を取ったんだ。全国で一位。すごいでしょ。その時、お父さんのために弾いたんだけど、自分でも感動しちゃった。一番楽しかったから」
ふう、と呼吸を整える。煌びやかな面が終わったせいで怖くなる。私は少し黙ってから再び話を続けた。
「それだけ言えば、すごく華やかで羨んでくれる人もいるんだけど、レッスンに耐えられなくなっちゃったんだ。先生の暴言と暴力に負けたの」
暴言と暴力。その単語が手の甲を触らせようと動かす。掴んだ皮膚がぐにぐにと化物のように動き始める。
「好きだからこそ、続けたかった。でもあの環境下ではやっていけないからって、やっとの思いで両親に伝えて、通ってた教室を辞めて、ようやく自由に弾けると思ってたら、現実はそんなに甘くなかった」
ジリジリと顔のあたりが痺れ始める。泣きすぎた弊害がやってきたのだ。
「全然弾けなかった。ピアノと向かい合うと幻聴が聞こえるの、先生の暴言が。下手くそ、辞めろ、調子に乗るな。手の甲をよく叩かれたから、今でも思い出したら触ってしまう」
抓るように触っていた手の甲は赤く染まっていた。
「頭痛や吐き気だって感じてしまって、トイレに駆け込んだこともあった。そこでやっと、ああ、私終わったなって」
ぽっかりと穴の開いた心は未だに塞がっていない。これからも完全に塞がることはないのだろう。時間がどれだけ和らげてくれようとも、本質的なものは何も解決に至らない。
「それから何にも没頭出来なくて。一人でいると辛いから、友達と遊ぶか、勉強するかのニ択で。親が気を利かせてピアノの代わりを見つけてくれようとしたんだけど、どれも手が付けられなかった。どうせピアノに勝るものはないから」
もっと自分が下手だったら良かった、とか、手が小さければ、とか、始めるのが遅ければ、とか、限りないたらればを唱えても何も戻らない。ただ、自分に虚無が残るだけだった。
「ピアノに賭けた情熱が一気に失われたせいで、何をやっても努力に見えないの。あの時ほどじゃない、とか、あの時の方がもっと辛かったからこれは違う、とか」
限界を超えることは悪い事じゃない。でも、限界が分からなくなるのも怖い。私は暴力と暴言の限界に一時的にでも慣れてしまったのが私を私でなくした要因。
「誰かに、真正面から肯定されたかったのかな。頑張ったね。頑張ったから賞がもらえたんだよって」
当時、先生からも、両親からも、「頑張ったね」という言葉は貰えなかった。両親は褒めてくれてはいたけれど、努力という過程については何一つ触れなかった。私が自ら進んで弾く子であったからなのと、二人が賞に固執していなかったのも理由だろう。「おめでとう」も嬉しかった。でも、私が欲しかったのは、「頑張ったね」の努力の認識だった。
正確な答えを見つけてしまった私の視界は再び滲み始める。既に出来た涙の跡を、新たに溢れた雫が辿っていく。初めて吐露した過去も一緒に流れ始める。枯れない涙が頭痛を誘引した。
すると、手に温かいものが触れた。大きくて、硬くて、厚い手のひら。私とは比べ物にならないくらい大きな手が、私の手を握った。
「国光くん……?」
擦り過ぎたせいで赤く染まった手の甲に、彼は優しく触れた。凍り付いた心がじわじわと彼の熱で溶かされていく。
「お前は、努力家だ」
そう言い切ると、彼は私の目を真っ直ぐに見据えた。正常に働かない脳が今を夢心地のように思わせる。
「この半年ほど、お前を見てきて物事に取り組む姿勢は伝わっている。先生方の話からも、菊丸や乾からも、よく耳にする。もちろん、俺の目から見ても変わらない」
国光くんは一呼吸置き、熱の籠った声で私を肯定した。
「もっと胸を張れ。お前の努力は見ている。もちろんピアノで培ったものも、今後必ず生きてくる。今は立ち向かえなくても、また立ち上がれる。立ち上がろうと思えば何度だって可能だ」
「くにみつ、くん」
大きな粒が、瞳から零れた。未だ枯れぬ涙は、濡れた頬の筋を通って顎から垂れる。瞬きをする度に、粒がぽろぽろと続いていく。
「お前は頑張っている。過去も、現在も。俺にはそう見えている」
断固たる響きに、懐の深さを知った。私はもう、言い逃れ出来ないところまで来ているのかもしれない。真実の瞳で、曇り空を晴れにしてくれる。
途切れ途切れに思う、国光くんへの感情を浮かべながら、彼の胸元に頭を預けた。
「すこしだけ、このままでいさせて」
今だけは許してほしい。明日からは戻るから。今だけと何度も唱えながら、国光くんの優しさに甘えた。
すると、私の手から彼の温もりが離れた。少しだけ物悲しさを覚えていると、洗剤の香りと、少しの制汗剤の匂いが私を包んだ。硬さのある温もりと、制服の擦れる衣の音で、国光くんに抱きしめられていると理解した。
「く、国光くん!?」
頭から丸め込むように抱きしめられ、その衝撃で涙が引っ込んでしまう。勢いよく顔を上げれば、至近距離に彼の顔。違う意味で熱くなる顔で、口をぱくぱくと動かせば、彼は不思議そうに首を傾げた。
「この方が顔が見えないだろうと思ったんだが、」
国光くんって、もしかして天然? もっと他に選択肢があっただろうと考えても、口に出せない。
「ひ、人に見られたら、大変だって」
「そうか……」
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下で抱きしめられている姿を見られれば、噂で終わらない。確定的な事実として話が流れるはずだ。
国光くんの胸元に手を置いて離れようと力を入れると、彼は名残惜しそうに私の身体を離した。収まる気配のない心臓の音と熱は諦めないといけない。
「ごめんね、時間取らせちゃって」
恥じらいを誤魔化すように、軽くなった身体で笑顔を作る。過去を受け止め、肯定してくれた彼には感謝しかない。国光くんは少しだけ口端を上げている。
「いや、構わない。あのままお前を放っておく方が出来ない」
「それは……ごめん」
目の前で泣き喚けば、立ち去るに立ち去れないだろう。私も同じ立場なら、国光くんと同じ選択肢を取った気がする。
「気にするな。今日はゆっくり休め」
分かりやすく消沈する私に気遣ってか、穏やかな声で励ましてくれる。元々原因が私の体調不良のせいだったこともあり、心配の言葉は尽きない。
「……帰れるか?」
「うん、それは大丈夫」
なんだかお父さんのようで笑ってしまった。言ってしまったら国光くんは拗ねてしまうかな。それに、所々で私のお父さんにも似てる気がする。
彼を部活に送り出すために別れを切り出そうとすると、彼は改まった様子で私の名を呼んだ。
「名前、」
「ん?」
「こんなことを言っては何だが……」
ひと呼吸置いてから言葉が続かない。普段の国光くんなら言い淀んだりしないのに、と不思議に思った。
「何? 言って」
発言を催促すると、ひどく神妙な顔つきで尋ねた。
「もうピアノを弾くつもりは一切ないか?」
私は分かりやすく戸惑いを見せた。あの話を聞いてからの問いは、もう弾けないと断定してしまっている私には重たかった。何と答えたらいいか分からず、口をはくはくとさせては言葉が詰まる。一生弾くことはないと思っていたのに、国光くんの真っ直ぐな瞳を見てしまったら一筋の光を感じてしまう。
「どうしてか、聞いてもいい?」
私は彼の好きな音楽を知らない。実はピアノが好きだったのか、それとも特定の音楽が好きなのか。思いつくだけの可能性を頭の中で浮かべては、彼の出方を待った。すると、国光くんは表情を変えることなく言い放った。
「お前の奏でる音色を、聞きたいと思ってしまった」
それは、私にとって熱烈な告白にも取れる言葉だった。彼の言った、「全て教えてくれないか」が真実なのだと、理解ってしまった。そこまで彼は知ろうとしてくれている。あれきり弾かなくなったピアノ。一番大切な友人にさえ聞かせたことのない演奏。二年の空白がどれほどの重みか、まだ実感がない。彼の言葉を受け取っていいのか、ダメなのか、判断がつかない。
「もちろん、無理にとは言わない。いつになっても構わない。いつか、俺のために弾いてくれないか」
強烈なラブコールに耳を塞ぎたくなる。空き瓶が満たされて、終には溢れかえってしまいそうになる。彼は一体、どこまで空いた穴を埋めようとしてくれるのか。
「……いつになるか、分かんないよ? 一生弾けないかもよ」
幻聴がなくなったのかさえも分からない。怖くて試せないままなのに。拒むような口調で不可能を匂わせたけれど、彼の前では無駄だった。
「それならそれでいい。だが、俺は待つ」
嘘を吐かない瞳が訴える。心の最深部で泣き続ける音が、ようやく泣き止んだ。
「……ありがと」
私は、私を信じてくれる国光くんの存在だけで、救われた気がした。彼の性格が、言動が、真実を映し出すから私は信じざるを得ない。
落ち着きを取り戻した私は、ずっと気になっていた事を尋ねた。
「そう、一つ聞いてもいい?」
「なんだ」
「どうして放課後に、こんなとこまで来たの」
大石くんは部活に行ったけれど、部長がこんなところにいていいのか、と気になっていた。部活に遅刻すれば、グラウンド走るんじゃなかったっけ、と記憶を辿る。部長は免除されるのだろうか。
すると、国光くんは当たり前のように答えた。
「明日、約束の日だろう」
「約束の日?」
何か大切なことがあったっけ、と頭の中でスケジュール帳を捲るも、重要そうな用件は何も出てこない。頭を捻り続けていると、国光くんは答えを教えてくれた。
「一緒に昼食をとる約束だ。あのままでは……不可能だと思っていた。だから、お前を探していたんだ」
国光くんの言葉を、ゆっくりと噛み砕いて飲み込んだ。その瞬間からじわじわと熱が広がって、人差し指で耳朶の裏を触った。
確かに私も気がかりだったけれど、明日までに解決するとは一ミリも考えていなかった。むしろ、これきりになってしまうんじゃないかって思っていたぐらいだ。
なんだか国光くんの新たな一面を見てしまったようで、口元が歪んだ。
「私とのお昼、結構好き?」
ここまで言われてしまうと、聞かずにはいられなかった。悪戯を仕掛けるときのように笑いながら直接的な質問をぶつけると、彼は柔らかい雰囲気を纏って答えた。
「ああ。自分が思うより、ずっと、だな」
***
週末、私は父の書斎にいた。窓から差し込む光が柔らかくて、気持ちを穏やかにさせる。
「お父さん。これ、返すの忘れてた。ありがとう」
国光くんに貸していた洋書と、私が借りた洋書を、オフィスチェアに座ったままの父に渡した。テストが挟まって返すタイミングを失っていたため、予定から何日も遅れた返却日となった。
すると、父は嬉しそうに表紙を眺めながら、こう尋ねた。
「読めたかい? 少し難しくなかったかな」
国光くんに貸していた厚い方の表紙を撫でながら聞いてくる。私は全く読んでいないから解答に困ってしまった。私が読んでないことを知れば、悲しむだろうか。父にはまだ国光くんに貸していることを言ったことがない。でも、難易度に差があったから薄々気付いているかもしれない。
「うん。面白かったって」
言ってもいいか、と軽い気持ちで答えると、父は一瞬納得したが、すぐに言葉の違和感に気付いた。
「そうか……って、名前は読んでないのかい?」
疑問を呈すると同時に、目尻に刻まれていた皺が伸びた。
「うん。洋書好きな人がいるから貸しただけ」
「そっかあ……」
さり気なく声と肩を落とす。さすがに上級者向けのは読めないよ、と心の中で不可能を告げた。
「また、借りてもいい?」
改めて許可を乞うと、父は再び目尻に皺を寄せた。
「ああ。構わないよ」
父の笑顔につられて、私も目を細める。正式な許可を得て、部屋を出ようとした瞬間、父は私を止めた。
「名前」
「ん?」
「その友達っていうのは、男の子かい?」
ドキリ、と心臓が大きく跳ねる。どこで気付いたんだろう。はっきり友達と言わなかったところだろうか。父の問いかけに、両の手の指同士を絡めた。
「……まあ、うん」
はっきりとしない言葉で肯定すると、父の顔は分かりやすく変わった。
「そ、そっか……」
寂しそうに私から目線を外した。もしかして、勘違いされているのか。
私は空気を換えるためにも、いずれ頼もうとしていたことを口にした。また改めて言うには、勇気が足りそうになかったから。
「あ、あと、お願いがあって、」
目をウロウロと彷徨わせながら、父に一歩、二歩と近寄った。
心づもりは出来ているはずなのに、いざ口にしようとすると唇が固く締まる。一度逃げ出してしまったから、そう簡単に戻ってくるわけない。重々承知しているけれど、お礼の意を込めて彼に聞いて欲しいと思う自分がいる。
「そんなに改まって、どうしたんだ?」
大きな手のひらが、私の手を包む。父の声色と相まって、身体に走っていた緊張が徐々に解けていく。
もう一度、チャンスが欲しい。自分らしく演奏できるチャンスが。場所なんてどこだっていい。大切な人が聞いてくれるだけで、十分すぎる。そこが最高の舞台になる。
深呼吸をして、父の目を捉えた。これは自分で決めたことだから、絶対に逃げない。そう伝えるように。
「ピアノ、教えて欲しいの」
頼む声が上擦る。父は目を大きく見開いては、口も開けていた。
「……ピアノ?」
「ダメかな」
不安から手の甲に触れた。ドクドクと心臓が煩く響き始める。
私のせいで封じられたピアノ。父さえも触れなくなっていたのに、こんな易々と口にしていいのだろうか。
父が何と言葉を返すのか、そればかりが気になった。当たり前のことだけれど、随分と驚いているような様子だったから返答が遅れている。父の顔を恐る恐る窺えば、笑っているのか、驚いているのか、よく分からない呼吸で慌てているように見えた。手を上下に動かしたり、グーパーに作り変えたりと、挙動が忙しい。そんな姿をじっと見つめていると、父は笑い声を零しながら、目に薄らと膜を張っていた。
「ううん、もちろん。弾きたい曲が出来たのかい?」
「そうじゃないんだけど……もう一度、弾けるようになりたい」
国光くんへのお礼がしたかった。二年のブランクがどれだけ響くか分からないけれど、精一杯の想いは彼に伝えたかった。
「よし。分かった」
父は頷くと、椅子から立ち上がった。
「今から、やってみるかい?」
「うん!」
私が頷いたのを見計らってから、父は楽譜の詰まった棚へと向かった。私も父も、何度も使用した楽譜達。久しぶりの対面になる。
「じゃあ、これを渡しておこう。まずは感覚を戻していこうか」
父はそう言いながら、私に一冊差し出した。受け取った瞬間から、ずっしりと感じる重みが懐かしい。紺碧の表紙が眩しく映る。鮮やかな青が、彼を髣髴とさせた。限られた者だけが許されるレギュラージャージの青。海や空のように、深くて広いあの人。私は瞼を閉じて、表紙をゆっくりと撫でた。
「名前、無理はしないようにね」
父の言葉に、私は大きく頷いた。
父は楽譜を選んでから降りると言い、私は先に一階に降りた。すると、母はちょうど洗い物をしていた。私は母に何も言わずに、インテリアと化しているピアノに近寄った。埃一つない、黒い体に歪んだ私が映る。右手で固く閉ざされていた蓋を開け、紫檀の布を取っ払った。
「……久しぶり、」
二年ぶりに対面する八十八の白と黒。込み上げる感情の中に恐怖はなかった。懐古と幸福が入り混じって、胸がいっぱいに満たされる。弾きたいと心が叫んでいる。私は逸る心を抑え、徐に黒レザーを張った専用のベンチに座ってから、譜面台に紺碧の表紙を置いた。指を絡めて不規則に動かしながら深呼吸をする。どれだけ指が動くのか、全く分からない。深く息を吸って、教本の中の一番を開いた。単純な指運も意識一つで、ぐんと変わる。
ずっと放っていたことを許してほしい。そう願いを込めてから鍵盤に触れ、声を聞いた。二年前と変わらない、音が声となって私の鼓膜を震わせる。その瞬間、私の手は止まった。
音が、変わってない。
狂いのない声が、確かに聞こえた。ピアノの声が教えてくれた思いを全身で浴び、それが形となって零れ落ちる。滲む視界の中で、鍵盤に雫が垂れないように顔を覆った。
音楽自体が禁忌に変遷していった二年間。ずっと触らなかったのに、音のズレがないことがおかしい。弾いてなくても空気の変化だけで劣化は続いていく。それなのに、変わっていない理由は一つ。両親が、ピアノの調律を欠かさないように手配してくれていたから。
母はピアノに時たま触れていたけれど、父は全く触れなくなっていた。そんな環境の中で、調律をする必要はない。もう不要物に成り下がっているに違いないのに。それでも二人は私に賭けてくれていたのか。私の知らない間に調律師を呼んで、ピアノの調子を整え続けてくれていた。
私がいつか弾くかもしれない。その可能性だけで。
「どうだい?」
父は、私の肩にそっと触れた。
「おと、さ……」
涙で言葉に詰まる。手から伝わる熱で全てを知る。
「ごめん……ありがと……」
溢れ返る思い全てを受け止めるように、父は私を抱きしめた。私はそんな父にしがみつくように腕を背中に回しては、肩に染みを作る。
「名前なら、もう一度弾くだろうって。そう信じてたから」
大きな手が私の頭を撫でる。
一方的にピアノごと突き放したのに。永遠の別れとさえも思ったのに。それは大きな間違いだった。客席には父も母もいた。そして国光くんもいてくれる。独りよがりはおしまいだ。この三人が待っていてくれるなら大丈夫。
幕が上がるのは、今。再びスポットライトに照らされるのは、今からだった。
***
後日、私は一組の教室へと向かった。目的はもちろん国光くん。スキップにも似た歩調で教室に着いた瞬間に、彼の姿を探そうとした。しかし、そんな暇も必要なく、戸のところで生徒会で一緒の一つ下の委員長と話している姿を見つけた。二人の間に割り込んで、邪魔をするのも悪い。用件が済むまで待っておこう。廊下の壁に背を預け、何の話をしているのか予測を立てる。何か行事が直近であるわけじゃないのに、何を聞きに来たんだろう。後輩の委員長に意識がいってしまうせいか、私の目は二人へと注がれる。後輩の子は手にしている資料を胸に抱えて、ずっと笑顔を咲かせていた。きらきらと輝いて、眩しい。国光くんは至って普通で、澄ました顔で口を動かしている。わざわざ二年生の子が三年生の階にくるなんて、余程の事がない限り遭遇しない。二人を見ていると、休み時間中に終わりそうにない雰囲気に思えてくる。もっと早く教室を出てくればよかった。胸の辺りに靄がかかっているようで、スッキリとしない。
なんだろう、この気持ちは。国光くんの交友関係がどうだって、私には関係ない。私には私の友達や知り合いがいるし、国光くんには国光くんの友達や知り合いがいる。知らなくて、当然なのに。
釈然としない気持ちが渦巻いて、目が回りそうになる。もう教室に戻ろうとした瞬間、見ていた場所から声が飛んだ。
「名前」
声に応じて振り返る。国光くんの声ははっきりと私に届いていて、その場に留まらせた。再び国光くんと後輩の二人へと目線を送ると、彼は私のことを見つめていた。後輩の子も私を見つめている。でも、二人から注がれる視線は、あまりにも対照的だった。
「何か用事だったか」
まだ後輩が彼の真正面にいるのに、私を優先するような言葉を発する。視線が煩いせいで邪魔をしてしまったんだ、と密かに反省した。
「あ、後でいいよ。大した事ないから」
表面を繕って、あくまで後輩を優先して欲しいと促す。しかし、私の思いとは裏腹に、国光くんは後輩との会話を切り上げようとしている。
「すぐ行く」
国光くんは私に向かって言い放つと、後輩の子に対して再び口を開いた。
「後は資料通りやってくれ」
「か、会長、」
後輩の子を置いていくように告げると、国光くんは私の元に早足でやってきた。罪悪感から後輩の子の顔色を無意識に窺えば、眉間に皺を寄せながら私達を見つめていた。申し訳なさが一挙に押し上げてきて、後輩の子から顔を背ける。見てはいけないものを見た気がして、身の毛がよだった。
「名前?」
国光くんの声で我に返る。瞬きを繰り返してから彼の顔を見た後、妙に落ち着いてしまった。
「良かったの?」
後輩の存在を気にした問いかけをするけれど、彼の中では終わった事のようで、何の気なしに頷いた。
「ああ。ほとんど終わっていたからな」
国光くんはそう言うけれど、納得は出来なかった。後輩の威圧的な表情を見れば猶更。私の存在が国光くんは良くても、後輩にとって邪魔であったのは一目瞭然だった。
「それで用事はなんだ」
刻々と迫る休み時間の終了。元々少ない時間をこれ以上削る訳にはいかない。深呼吸をひとつ吐いて、気を取り直す。
「用事っていうか、報告」
そう言って、口角を斜め上に引っ張った。
「ピアノ、もう一度やってみようと思って」
宣言に近い告白。彼に伝える事で逃げ道を無くし、もう振り返らないという決意だった。
「無理はするなよ」
「うん。この間弾いてみたんだけど、幻聴はなかったよ。国光くんが肯定してくれたおかげかも」
嬉しさが口から洩れて、ふすふすと口元を手で隠しながら笑う。
「……そうか」
国光くんも心なしか、微笑んでくれているようで余計に嬉しくなってしまう。
「それでね。前、聞きたいって言ってくれたでしょ? リクエストあるかなって」
「リクエストか……」
国光くんは顎に手を当てると、随分と考え込み始めた。
「何でもいいよ。普段よく聞く曲とか」
ブランクはあるけれど、難易度が高ければ高いほど燃える。どんな曲であっても弾き切る自信があった。全く根拠はないのに、意欲だけが私を先へと連れて行く。
「クラシックはよく聞く」
「本当? じゃあぴったりだ」
「ベートーヴェンを聞くことが多いな」
「うん、分かった。頑張って練習するね」
帰ったらお父さんとお母さんに選曲を手伝ってもらおう。これから楽しくなるなあ、と胸が高鳴る。
「無理はするなよ」
「うん、大丈夫だよ。国光くんのために弾くから」
私の中では告白の答えのつもりだった。でも、国光くんにそのつもりはないから、私はひっそりと終わらせてしまう。
「じゃあね」
休み時間も終わってしまうからと国光くんに背を向けようとした瞬間、彼の一声に止められる。
「待ってくれ」
何のことかと黙って待っていると、彼は妙に緊張した面持ちで口を開いた。
「俺も、言いたいことがある」
「……何?」
一瞬、悪い事じゃないよね、と不安が過る。
「以前、大石から聞いただろう。肘の事を」
一つ、頷く。両の手に力が入り、拳に形を変える。私の目は、彼の左肘へと向かう。
「先日病院に行ったんだが、完治の診断を受けた」
彼の言葉に、自分でも分かるほどに眉が上がった気がした。咄嗟に込み上げる思いもぶつけるように、彼に一歩近づく。
「ほ、本当? じゃあ気にせずテニス出来るの?」
「長時間は良くないが、前よりは動かせる」
「良かった……」
はあ、と盛大に安堵の息を吐いた。自分の事より嬉しくて、この場で飛び回りたい衝動に襲われる。でも、さすがに照れが優先されてしまうから、とびきりの笑顔だけで堪えた。
「教えてくれてありがとう」
「ああ。お前には、伝えておきたかった」
大石くんの口から聞いてしまった件については申し訳ないけれど、聞けて良かったと思う。もし大石くんがいなかったら、私と国光くんは平行線のままだったかもしれない。
「テニス、応援してるからね」
「ああ」
私は彼に手を振り、教室へと戻った。浮かれた気持ちが隠せないままだったけれど、気にする頭も失われていた。
もう少し落ち着いたら、友達にも全てを話してみようかな。あの子も、私を救ってくれた一人だから。
