もう一度、恋をしよう。
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三年生に進級した私は、六組の教室で授業を受けていた。一番仲のいい友達と菊丸と同じクラス。そして、不二とは菊丸を介して仲良くなった。なぜか菊丸や乾のせいで情報が漏れており、初対面時に「やあ、手塚の良い人なんだよね」と豪速球を投げられた。突然の死球に襲われた私はノーガードで心に怪我をした。綺麗な顔して言うことに遠慮がない。当時、持っていた紙パックのコーヒー牛乳を零したのはいい思い出……いや、今も悪夢のように思う。
そして、その国光くんとの関係だけれど、三年に上がっても関係はあまり変わりない。よくも悪くもつかず離れず。適度な友人の距離を取っているつもりだ。しかし、私の周囲はそれに納得していないようで、チクチクと棘を刺してくる。
「最近どうなの」
「どうって何が」
今日も同じように定期的に報告を催促してくる友人。週に一度の国光くんとのお昼の翌日に、決まって尋ねてくる。私はわざと尋ね返すのだけれど、それも最近は許してくれない。休み時間に聞いてくるのも今は彼女だけだからいいものの、酷いときは彼女に加え、菊丸、不二、乾の三人まで乱入してくる。そのしぶとさは、どこぞの雑誌の記者なのかと思わせるほど。
「とぼけないでよ~。会長とのことに決まってるじゃん」
彼女はつんつん、と人差し指で私の腕を突く。三年に進級してから恒例行事となった尋問の躱し方にも慣れつつある。
「普通にお弁当食べてるだけだよ」
眉を上げて答えるけれど、彼女は不満そうに否定する。
「普通の子は手塚くんと二人きりでご飯食べれないよ」
「そうかなあ」
彼女の言い分では、私は「普通の子」ではないらしい。私だって、国光くんだって、普通の中学生だというのに、何が「普通」と違うと言いたいんだろう。確かに国光くんに至っては、趣味の範囲が大規模であるのは分かる。でも、趣味の大きさなんて人それぞれだし、同じ土俵で戦わなくても分かり合える部分はあると思う。だって、実際私がそうなんだもの。
すると、彼女は私をじっと見つめると、普段言わないことを口にした。
「それでいつ付き合うの」
「つ、付き合う……!?」
今まで言わなかったくせに、とうとう言った。この人、言いました。はっきり言いました。無抵抗だったせいで、勢いよく顔に熱が集い始める。やかんが沸騰するときのような高い音が相応しいぐらい急激に体温が上昇していた。
「あはは、顔真っ赤だよ」
珍しく顔に出せたことを余程満足したのか、けらけらと気持ちよさそうに笑っている。絶対に言ってほしくなかった言葉なのに。あの乾や菊丸、不二の三人衆でさえ、まだ我慢していたというのに。
「そんなんじゃないって」
不貞腐れたように吐き捨てるけれど、彼女の耳は既に封鎖されていた。聞くだけ聞いてよ。
熱くなった顔を手で扇いでいると、彼女は何かに気付いたようで廊下を凝視していた。そして、私の目を誘った。素直に彼女と同じ方向、廊下に目をやると、そこには国光くんがいた。
「ほら、会長様のお出ましだよ」
わざとらしく笑って言う顔が気に食わなかった。付き合いたいという欲が欠落しているのをきちんと自覚しているから、余計に。
すると、廊下から私を呼ぶ声がした。声の主は、話題の主役だった国光くん。彼女はよりいやらしく笑うと、「あっち行け」と言いたげに雑に手を振った。
「国光くんのとこ行っておいで」
「も~……」
優しくない送り出し方を受け、すぐに国光くんの元へと向かった。一瞬だけ顔を俯かせて笑顔を作る。暗い顔は見せたくない。
笑顔で彼の元へ行くと、本が一冊入った紙袋を渡された。以前、私がお父さんから借りて、更に国光くんに又貸しした洋書だった。
「これを返しに来た」
「もう読んだの?」
厚い書物も容易く読破してしまう彼の実力に驚きを隠せず、紙袋と彼の顔を交互に見た。
「ああ。面白かった」
「良かった。お父さんも喜ぶよ」
へらりと気の抜けた顔で笑うと、彼も目元が和らいだ。
お父さんには絶対言えない秘密のやり取り。国光くんは友人だから言っても構わないと思う自分と、何となくお父さんに言いづらい自分が鬩ぎ合って、結局言い出せない。多分、簡単な洋書も借りているから、お父さんは私が洋書に興味を持ったと思っているけど、私としては国光くんが読んでいるから読んでみようと思っただけ。そこの解釈の違いを訂正していないから私はどんどん口を噤んでしまう。
「どうしたの」
用件は済んだと思っていたけれど、国光くんは私の顔をじっと見つめている。何か顔についているのかなと思って尋ねようとした瞬間、彼が先に口を開いた。
「顔が赤いが……大丈夫か」
顔が、赤い? 瞬時に理由を考えた後、友人からの言葉を思い出し、更に顔が赤らむ。
「へっ?ああ、大丈夫、大丈夫!気のせいだよ」
落ち着きはなく、ただ慌てている。本人に理由なんて説明出来ないし、したらしたで、国光くんを困らせるだけ。
国光くんは首を傾げながらも納得してくれたようで、頷いていた。
「そうか。無理はするなよ」
「うん。ありがとう」
笑顔でお礼を言うと、彼は教室へと戻っていった。一安心したところで席へ帰ったけれど、その道中、友人の独り言が聞こえるはずもなかった。
「なーんであれで付き合ってないかなあ……」
***
「さて、最近どうかな?」
「さて、じゃないよ。何も話すことないのに」
とある日の昼休み。空き教室にて私は乾に捕まっていた。国光くんと友人としての距離を縮めようとしている私に、彼は頻繁に声をかけてくるようになった。いつの間にか勝手に私のデータ、というか個人情報を入手しているし、国光くんとの関係も深堀りしてくる。
「手塚のあれやこれや聞きたくなってきたんじゃないかな?」
いつもの決まり文句が出た。毎度国光くんのデータで揺さぶりをかけてくる。私は以前本人から「俺から聞いてくれ」と言われたものだから、律儀に言いつけを守っている。
「国光くんのことは自分で聞くし」
拗ねたように寂しく呟くけれど、乾は淡々と返す。
「ほう。じゃあ部活中の話は要らない?」
さらっと言ってのける乾が憎い。一番欲しい部活中の話で誘うのは汚い。正直ものすごく聞きたい。出来るなら見たい。テニスしているところを見たい。でも、見学しに行くのは、彼の邪魔になりそうでどうしても二の足を踏んでしまう。確かに何人かの女子が見学しているのは見たことがある。でも、自分が行くのは違うような、何とも形容しがたい気持ちに襲われた。
はっきりと断れないまま押し黙ると、乾はにやりと口角を上げた。
「交渉成立、のようだね」
「まだ要るとは……!」
言ってない、と言おうとしたけれど、乾の言葉に掻き消される。
「百聞は一見に如かず、とも言うしね。コートが良く見える空き教室を教えてあげよう。そこから手塚を見ると良い」
人差し指を上にして提案する。断るつもりでいたのに妥協案が出されてしまったせいで、わなわなと体が震える。そして、出かけていた言葉を飲み込んでから恐る恐る尋ねた。
「……気付かれない?」
「余程の熱視線でなければ、ね」
肩を震わせて、くつくつと笑う乾。こちらは真面目に聞いているのに、と彼の腕を軽く殴った。
「なんてね。少し揶揄っただけさ」
乾の言い方だと、まるで私が国光くんのことを好きみたいに言う。確かに好きだけれど、他の人が言う「付き合いたい」という気持ちはないからカテゴリーは分けて欲しい。
すると乾は、突然思いついたかのように、もう一つ提案をした。
「ああ、そうだ。見ていて普段の手塚と違うところがあれば教えてくれないか」
普段の国光くん? そんなの毎日会っている乾の方が詳しいだろうに、と不思議に思った。「なんで?」と直接的に聞けば、乾は顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「そうだな。理由を挙げるとすればー……手塚の意外な面が知りたいだけかな」
国光くんの意外な面を挙げるとするなら何だろう。やっぱり感情表現が少ないから、そういった類の機微についてなのかな。それとも他にまだあるのかな。
真剣に考えていると、乾は再び肩を揺らして笑っていた。
「というのは建前で、試合中に揺さぶりをかけられたらなってだけさ」
試合中に揺さぶりって全然意味わからない。国光くんに何の話題を振るつもりなのか。乾と揃えるように顎に手を当てて考える。うんうん、と知恵を絞って出した答えは簡単だった。もしそれが本当に答えであるなら、とサーッと血の気が引いた。そして私は、乾の腕にしがみついた。
「待って、それは止めよう」
「あ、チャイムだ。じゃあ俺はこれで」
私に手のひらを見せると、私の手から逃れ、いとも簡単に離れる。詳細を聞くまで離すつもりはなかったのに、チャイムが鳴ったせいで乾には逃げられてしまった。なんでこういう時だけ逃げ足が速いかな。
「ほんっとに、も~!」
嘆く私を一度も見ることなく、乾は教室へと戻っていった。
数日後、乾は再び私の元へとやってきた。前回と同じく、空き教室へ行くと部活見学作戦の詳細が伝えられた。
「レギュラー戦があるんだ。これなら手塚の試合姿が見られる」
悪くないだろう?と誘ってくる乾に、私はまだ乗り気になれない。
「基本的なルールしか分かんないけど、何とかなる?」
「うん。テニスのルールを知るために見るわけじゃないからね」
「それはそうだけど」
完全に了承したわけではないから、悶々とした気持ちが残る。それでも見てみたい気持ちの方が勝ってしまって、結局乾からコートの見えやすい教室を教えてもらうことに。
「じゃあ、三階の指示した部屋で」
「うん。分かった」
本当にバレないんだよね、と未だ残る不安。それと同時に初めて見る国光くんの試合が待ち遠しかった。国光くんは部長だから強いんだろうけど、何しても様になってしまうから「かっこいいな」で終わってしまいそうなのが一番怖かった。
放課後、乾に教えられた教室に荷物を持って向かった。まだ始まったばかりのようで、準備運動をしているところだった。国光くんはどこのコートを使うんだろう。私の目は国光くんだけを追いかけていた。
少しして、国光くんと大石くんがコート上で向かい合っていた。部長と副部長だったら力の差はどうなんだろう。大石くんはダブルスのイメージが強いけど、シングルスと結構違うのかな。
いろんな疑問を抱きながら窓からじっと見つめていると、ふいに国光くんがこちらを向いた。ばっちりと合っているように思う目は全く動こうとしない。私は今三階にいる。さすがに気付かれていないだろうと余裕ぶるけれど、乾の言葉が脳裏を過った。
「余程の熱視線でなければ、ね」
カッと燃えるような熱さが体を覆う。そして未だに国光くんは私の方を見つめている。まさか、気付いてる?
咄嗟に窓際から離れてしゃがんだけれど、手遅れだろう。あの目は、気付いている目だ。震える手と騒がしい心臓。今度会った時、何か言われるんじゃないか。国光くんが嫌そうな顔をした時のために、言い訳を考えておこう。悪いけど、乾のせいにしてしまおう。
私は再び窓から少し顔を出して試合が始まっているのを確認した。試合が始まれば、国光くんが気付くこともないだろう。ようやく国光くんと大石くんの打ち合いを安心して見届けた。
レギュラー戦が終わった翌日の昼休み、乾は凝りもせず三年六組の教室へと来た。
「やあ」
「やあ、じゃないよ」
口を歪めつつ、乾と共に廊下に出ては部活の話を振られた。内容はもちろん、レギュラー戦のこと。
「ちゃんと見てたみたいでよかった。手塚の試合」
微笑みながらノートをパラパラと捲りながら話す乾。それとは対照的に、私の胸中はもやもやと曇り空だ。国光くんにバレたのか、バレてないのか不明なままなため、彼を責めないでいる。
「見れる試合は見たよ。国光くんだけじゃない」
二、三日あるというから、どうせなら乾や菊丸、不二の試合も見てやろうと思っての行動だった。テニスの試合をまともに見るのは初めてだったけれど、初めてなりに楽しめたから良いんじゃないかな、と観客目線で考えていた。でも、私には気がかりなことがあって、彼の前で笑えない。すると、乾は珍しく眉を下げていた。
「おっと、それは困ったな」
何が困った、よ。乾本人が一番悔しいだろうに、何だか私まで悔しくなってしまった。彼がレギュラー落ちするなんて思ってなかったから、私までダメージを負ってしまった。もちろん、彼が感じている悔しさとは比較できなくとも、絶対に残ると思っていたせいで落胆は大きい。
「私に協力しすぎたんじゃない」
突っぱねるように自身の足元を見つめて言うと、彼はノートを閉じた。そして、硬くなった声色で淡々と述べた。
「それとこれは関係ない。単なる俺の努力不足」
既に次を見据えている力強さが伝わってくる。乾の事が急に眩しく見えた。
「……悔しい?」
「まあ、それはね。団体戦となれば強者が残る。当たり前のことだよ」
随分あっさりとしていた。私が聞かなくとも、知らないところで十分悔しがったんだろう。最後の年なのだから、普通当たり前だ。きゅ、と一瞬だけ目を細めた。
「もう、これきりなの?」
「いや、レギュラーに返り咲く可能性はあるよ。心配は無用」
「そう、なんだ」
少しだけ、ほっとした。テニス部の仕組みは分からないけれど、乾が可能性はあるというなら信じるしかない。私にとって、彼も大切な友人の一人だから。
すると乾は、眼鏡のブリッジを上げてこう言った。
「俺の心配をしてた確率六二%」
「微妙~……」
結構心配してたのに、と肩を落とさずにはいられなかった。そこは嘘でも百%と言えばよかったのに。
「結構高めに出したつもりだったんだが……」
「八〇%ぐらい心配してたよ」
照れ隠しで二〇%下げてやった。彼からしてみれば、私の小さな目論見などお見通しなのだろう。
「もう少し自惚れてても良かったみたいだな」
「今更」
そう言うと、乾はどことなく嬉しそうに口元が緩んでいた。
「手塚しか見ていない確率が五〇%だったからね」
「そんなことない。見てて面白かったから勿体ないと思って」
自分でも想像以上に見入っていた。可能なら、もう一度見られたらと思ってしまった。すると、乾は私の顔を覗き込むように背を丸めると、またもや提案してきた。
「次のレギュラー戦、もっと近くで見てみるのはどう?」
国光くんと恐らく目が合ったであろうことを思い出す。近くなんて、いろいろ耐えられない。ほんのりと赤くなった頬に気付かぬまま、彼の提案を「やだ」と一蹴した。すると、乾は私の態度さえも予想の範疇だったのか、クス、と笑って優しく誘引した。
「ギャラリーは何人いても構わない。気が変わればおいで」
「気が変わればね」
飽きれた顔で、海外ドラマのように肩を上下させた。多分、次もあの空き教室で試合を覗き見るんだろう。そう自分の行動を予測した。
それから乾は、ふむ、と数秒何かを考える素振りを見せ、話を本題へと移行させた。
「それで、感想は?」
「何の?」
「手塚の試合」
そこに戻るのか、と思わず片手で額を抑えた。
「い、言わなくちゃ、ダメ?」
「何でもいいから」
逃げようとしても、乾はあの手この手で追いかけてくるに違いない。かあ、と熱くなる顔が言葉の代わりになりそうだけれど、しどろもどろになりながら答えた。
「その、かっこいいなあとは思ったけど」
右足を上げ、左足の爪先に踵を乗せる。右の爪先がぐらぐらと揺れた。
「ほう。具体的に」
ノートを開き、書き込む準備は万端。証拠として残されるのは些か許せない。
「ッ、恥ずかし!本当に意味ある!?」
「どう活用するかは俺が決めるから問題はないさ」
「ありまくりなの!」
耐えられなくなった私は、とうとう弾けた。乾のせいで顔が熱い。ずっと蒸され続けている感覚から抜け出せない。
「もう、本当に……」
乾のせい、と悪態をつこうとした瞬間、乾は何かを見つけたようで、一組の教室がある廊下に目をやっていた。
「おや」
「ん?」
「名字、ご本人の登場だ」
「え?」
乾の言葉につられて、同じ方向を見ると、遠くには国光くんがいた。見たことのない気迫の顔でこちらに向かって歩いてきている。私は慌てて乾に尋ねた。
「なんであんな怖い顔してるの!」
「激怒している確率九八%」
「もう百って言いなよ!って、なんで!?」
「さあ?」
全く焦りの色を見せない乾に、私の顔は青ざめている事だろう。乾の腕を掴んで揺さぶろうとも、何もしようとしない。でも国光くんは明らかにこちらに焦点を合わせている。
「無駄データ!」
何のためのデータだと叫ぶと、乾はパタンとノートを閉じた。
「もう助けない」
「嘘、え、ごめんってば!助けて!」
突然の裏切り行為にパニックに陥る。隠れて部活見たのがいけなかったのか、何が彼の逆鱗に触れたのか一つも分からない。想定通り、国光くんは私達の元に来ると、いつもより色のない顔で私達の顔を見た。
「やあ手塚」
「く、国光くん、どうしたの」
乾はどこかウキウキとしているけれど、私は若干怯えている。国光くんもこんな顔するんだ。というより、乾のウキウキの理由が知りたい。
「何の話をしていた」
ピリピリとした空気が走る。どうして国光くんは苛立っているのか、見当がつかない。活火山のようにすぐ憤怒するような人じゃないことは知っているからこそ、どうして怒りを露わにしているのかが理解できなかった。
「えっと……」
迷いを見せながら乾に助け舟を出してもらおうと画策するも、この男はいとも簡単に裏切り行為をして見せた。
「あ、俺は不二に用があるから名字から聞いてくれないか。すまない。急ぎでね」
早口で全てを言い終えると、その場から逃げていった。残されたのは、怯える私と苛立ちを隠し切れていない国光くん。この状況をどうしろと?
もう一度、国光くんの顔色を窺うと、どことなく悲哀が滲んでいた。先程まで張り詰めていた空気が緩んだ気がした。
「乾と何を話していた」
「世間話だよ。もうすぐテストだねって」
努めて嘘を明るく話すと、国光くんは分かりやすく意気消沈した。
「……そうか」
私は彼の態度に余計戸惑ってしまった。乾が居る時には張り詰めていた空気も、今ではほんの少し和らいでいる。もしかして、乾と仲が悪い……?
「それで、国光くんは何か用だった?」
凄まじい勢いで私達の元に来たのだから、何か用があるのだと思っての事だった。すると、国光くんは切り出しづらそうに目を泳がせると、私にだけ聞こえる声で呟いた。
「用事……ではない」
「え」
「お前が見えたから、来てしまった」
国光くんの言葉に、フリーズせざるを得なかった。お前が見えたから、来てしまった。私がいるのを見つけて、わざわざ来たと。用もないのに?
ようやく理解したところで、一気に体全部が熱くなる。彼の言葉が意識的か、無意識か。恐らく無意識だろうとしても、それはあまりにも狡い一言だと思う。未だ咀嚼し切れていない私を放って、彼は次々に話し続ける。
「俺と話すときには見えない表情で話しているのが気になった。それだけだ」
全然それだけじゃない。大分重要なことを口にしていることに気付いた方がいい。気付いてくれないと私がもたない。垂れた手がスカートに皺を作った。
「乾とは随分仲が良いようだな。この間、部活を見ていただろう」
「えっ、あ、それは……たまたまで。乾と話すのは色々相談に乗ってもらってるから、そう見えるのかも」
やはり隠れて見ていたことはバレていたか。でも、彼は私が乾目当てだと思っているのだろうか。そんな勘違いをされては困る、と慌てて乾との関係がただの友人であることを伝えたけれど、国光くんは突っかかるように次の質問を投げかけてきた。
「何の相談だ」
「え、っと……テスト、とか?」
苦し紛れで当たり障りのない答えを口にする。そんな話を乾とはしたことがない。あるとすれば一度だけ、化学を教えてもらったぐらい。それも数分の間に。
「苦手科目があるのか?」
「理系科目が躓きやすいから教えてもらおうかって思ってて。乾、理系得意だから」
よくもまあ、嘘をつらつらと。正直言えば苦手科目はほとんどない。理系科目が得意とは言えないけれど、不得意でもない。笑ってこの場を誤魔化そうとしていると、驚きの言葉を口にした。
「その役、俺では不十分か?」
「国光くんが?」
国光くんは自ら乾の代わりを名乗り出たのだ。思わぬ展開に、胸が高鳴る。
「乾ほど上手くは教えられないかもしれないが……ダメだろうか」
全然ダメじゃない。むしろ、良いのかと聞きたくなる。
「でも、国光くん忙しいんじゃ、」
「構わない」
俺を選べと言わんばかりの言葉の詰め方に瞬きが増える。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「ああ。もちろんだ」
約束が決まったところで、国光くんの雰囲気が柔らかくなった。いつも話す様子に戻ったから、私は胸を撫で下ろしていた。
国光くんと別れ、六組の教室へと戻った。菊丸と不二と一緒に、私を残した乾までもが当たり前の顔をしてこちらを見ている。
「ねえ、」
納得のいっていない顔で間に割って入ると、不二はきょとんとした顔で首を傾げている。
「もう良かったのかい?」
「うん。用事済んだから」
そう言うと、乾は眼鏡を上げ、求めた確率を披露した。
「俺のアシストが利いた確率、百%と言ったところかな」
アシストとは。助けてと言ったのに、逃げ出したのは誰。そう思っていると、菊丸が笑いながらも代弁してくれた。
「逃げ出したくせに~」
「終わりよければすべてよしって言うし、良かったんじゃないかな」
不二が乾の肩を持つものだから、つい口を滑らせてしまう。
「本当勝手言うよね」
不満を顔に出して言うけれど、三人は私の根底にある真実を見透かしているのか、にこにこと笑うばかりだった。そんな生暖かい目が更に居心地を悪くさせていた。
***
テスト週間が始まると、部活も休みになる。私と国光くんはお昼に使う空き教室で数学のテキストを開いていた。以前不明な形で決まった勉強会は、順調に進んでいる。
「ここなんだけど、解説だけじゃわかんなくて」
開いているページの最後の問題をシャーペンで差す。計算量の多い大問は理解するまでにどうしても時間が掛かってしまう。
彼は出していたシャーペンの芯を引っ込めると、先端で解答にある図形を差した。静かな教室に彼の低音が響き、私の鼓膜を震わせる。風がそよぐ度に、外側にはねた彼の毛先が揺れた。
「分かったか?」
説明し終えると、カチカチとシャーペンの芯を出した。
「うん。ばっちり。国光くん教えるの上手だね」
「そうか?」
「的確で無駄なことないし。乾だったらすぐ脱線しちゃうもん」
口が勝手に比較対象として乾を出した。
私が乾と話すとき、一が十になる。お互い話があっちやこっちやと寄り道してしまうのは、ある意味気が合うのかもしれない。テスト勉強には不向きだけど。
ふふ、と思い出し笑いをすると、国光くんの口角が下がった。
「名前は、乾の前だと表情がよく変わるな」
「……そうかな?」
他の友人と乾を比較しても、自身の中で差異は見つからない。むしろ、乾を含めた他の友人と国光くんとを比較した方が分かりやすいと思う。天変地異が起こっても本人に口外は出来ないけれど。
「笑うだけではなく、怒ったり悲しんだり、喜怒哀楽がはっきりしている」
彼の言葉に、口が閉まらない。呆気にとられたまま、瞬きを繰り返す。確かに乾の前では良くも悪くも正直に話している気がする。国光くんに対しては、いつも良い面しか見せていない。というより、見せられないと言った方が正しい。
「乾が好き勝手言うからさ。私だって怒りたくて怒ってるわけじゃないよ」
好き勝手言うのは、完全に国光くんの話題ばかり。乾に助けられている部分は多いけれど、一言余計なのは直してほしいところ。それに乾は私の言動を見越しているから、嘘を吐いても無駄なように感じてしまう。
「俺には、見せてくれないのか」
彼の問いの意味が理解出来なかった。文脈は理解できているけれど、それを言葉にする意味が分からなかった。
「だって国光くんに怒るようなことも悲しむようなこともないのに。出来ないよ」
肩をすくめて跳ね返すと、彼は腕を組んでから顎に手を当てた。
「ふむ……」
「別に私の怒った顔なんて面白くないし……」
芯が出たままの先端を親指で突きながら、口を三角形にした。
すると、国光くんはシャーペンの芯を出して、私のノートに何かを書き始めた。顔を近づけてシャーペンの先端の跡を追うと、そこにはうさいぬが遠慮がちに描かれていた。
「ふふ、うさいぬだ。可愛い」
国光くんが落書きを、それもうさいぬを選択するところに意外性を感じた。
「怒らないのか」
「こんな事じゃ怒んないよ。怒ったら心狭すぎでしょ」
彼の選択肢に、つい口元が綻ぶ。うさいぬのこと、知ってたんだ。
「国光くんの絵、可愛い」
「絵はあまり得意じゃない」
「そう?上手いと思うよ」
私も負けじとつられてうさいぬの横に落書きしていく。「完成するまで見ちゃダメ」と手元を隠してサラサラと描いた。
「見て。国光くん」
パッと手を外して彼に披露した。デフォルトした彼の似顔絵を描いたのだ。我ながら上手だと拍手を送りたい。
「上手いな」
「へへ。可愛いでしょ。……って誰、それ」
国光くんからの褒め言葉に気分を良くしていたのに、追加で描かれたものに対し目を疑った。
「乾と話しているときの名前だ」
「待って!?私こんななの!?」
衝撃の出来に思わず声を張る。デフォルトされた私は顔のパーツさえ変えれば可愛らしいはずなのに、三角になった目や、なぜか生やされた角に目がいってしまう。
怒りよりも驚きの方が強くて、彼がどんな表情でこれを描いたのかと表情を窺うと、彼は私から顔を背けていた。そして、肩を揺らして静かに笑っている。
「ねえ、笑いすぎ」
不服そうに睨んでみる。しかし、彼は顔を私の方に戻したときには、既にいつもの涼やかな表情へと戻っていた。
「笑ってない」
「肩がたがただったよ」
彼が私を描いてくれたことの嬉しさと、絵の私の顔が怒ってなかったら良かったのにと思う無念さが鬩ぎ合う。つん、と窓の方へ目を向けると、彼は首をすくめて尋ねた。
「……怒ったか?」
もしかして、と彼の行動の原因を探り当てる。
「わざと?」
目を丸くして尋ねたけれど、彼は黙ったまま眼鏡を直した。どうやら当たりらしい。握っていたシャーペンが震え、尖り声で言った。
「黙るの禁止!」
***
「最悪だ……」
テストは終わり、今週は結果が返却されていくのだけれど、私の体調は最悪を極めていた。理由は定期的に訪れるアレ。女の子の日が邪魔をするのだ。普段あまり重くないはずなのに、今月は酷い。本当に酷い。酷いしか言えないくらい酷い。薬を飲んで痛みを軽減させても精神的なものは解消されず、無駄に怒りを覚えてしまう。こういう日に、国光くんには会いたくない。避けられない出来事が起こっても、国光くんに暗い顔は見せたくなかった。今日はお昼の予定もないし、明日には軽くなるだろうと少し安心していたけれど、すぐに打ち砕かれてしまった。
放課後になり、改善されない体を引き摺って帰ろうとしていたときだった。ピロティーで偶然、国光くんと出くわしたのだ。一番会いたくなかったのに、と悔やんでも彼を無視することはできない。
「これから部活?」
「ああ」
笑顔の仮面を装着して声をかける。絶対に気付かれないという自負があるから、服を着替えるように行える。予定通り国光くんに悟られはしなかったものの、会話は続いた。早く切り上げたいと気持ちが急く。
「結果はどうだったんだ」
どこから聞いたのか、数学のテスト結果を尋ねてくる。別に今度のお昼の時でもいいじゃない、と思ったけれど、すぐに気を持ち直した。
「おかげで満点だったよ。苦手意識もなくなったし、国光くんのおかげだよ」
先生の意地の悪い問題も、顔を歪ませることなく解けた。彼が勉強会を持ちかけて、教えてくれたからなのは間違いない。
「いや、お前の努力があったからだろう」
さらっと言ってのける彼に対して、チクリ、と胸に小さな棘が刺さった。『努力』という言葉が、喉に引っかかって飲み込めない。彼に言われることで飲み込みにくくなる。一番嫌いな言葉で褒められるのは、じわじわと私の機嫌を損ねていく。
「努力、かあ……」
ふいに、手の甲を擦った。普段の私なら流せたのに、今の私は拾わなくていい言葉まで拾ってしまう。拾って吐き気を催して、自傷する。傷口から垂れる血で顔を塗りたくると、汚れた私が完成する。嘘が吐けなくなる。
「名前……?」
俯きがちの顔に笑顔はない。笑顔をつくる余裕がない。彼に名前を呼ばれようとも、表情に光が差すことはない。
「何か、悩んでるのか」
「……気のせいじゃない?」
国光くんの心配の声を他所に、ピリピリと逆立ち始める心が彼を拒絶する。冷気を孕んだ声は尖り、彼を掻っ切ろうと企んでいる。私の中の二面性が分かりやすく乖離していく。
「何かあったんじゃないのか」
確定的な言葉で私を攻める。逃げ出す場所が如実に無くなっていく。笑顔のない、冷ややかな言葉を放つ私は、彼にとって私じゃない。見られたくない。知られたくない。彼から伸ばされた手が一寸先に待機している。このまま伸びてくる手に触れられれば、全て知られてしまう。これ以上、踏み入られたくない。国光くんの思う私はここにいないから。
恐れた私は、パシ、と彼の手を弾いた。
「何かあっても、国光くんには関係ないでしょ」
シン、とピロティーに静寂が走った。私達二人の空間のせいで、更に閑寂さが増幅する。払った手のひらを見れば、カタカタと小刻みに震えていた。それを自身の目で確認したことで、今の状況を認識した。急激に冷やされていく身体が、私の招いた惨劇を物語っている。言った後に気付いても遅い。心配する彼の手を払いのけ、突き放した。完全なる拒絶をしてしまった。
「っ、ごめん、違うの、」
引っ込められていく手と引き換えに冷静さを取り戻す。わざわざ心配してくれた彼の好意を無下にした。咄嗟に伸ばした手は空を切り、彼は私に背を向けた。
「……すまなかった」
そう言い残すと、彼は私の元から離れて行く。いつになく肩が下がった姿は覇気がない。一組の靴箱に向かっていく背中があっという間に遠くなり、私は自分自身を責めた。失敗だ。大失敗だ。だから会いたくなかったのに。
彼を止められる言葉など持ち合わせていなくて、私はその場にしゃがみ込んだ。視界が歪み始めると、足元に幾つもの小さな水溜まりを作った。
碌に眠れない夜を過ごし、翌日の放課後で私はピロティーで彼を待った。一日中一組に行くかどうか迷うばかりで、行動に移せないまま放課後になってしまった。友人に心配されてしまったけれど、国光くんの話をするのは何となく嫌だった。謝罪することは端から決めていたから、それでいいと思っていた。
彼を待つ間、そわそわと落ち着かない心が私の体を動かす。謝って許してくれるか分からない。でも、言わないよりはずっといい。未だ体の方は本調子ではないけれど、彼との仲がこれで終わってしまう方がずっと嫌だった。
すると、国光くんの姿が見え、すぐに近寄った。周囲にあまり人がいない事にも救われた。彼も私の姿が見えると、その場に立ち止まった。
「昨日は、ごめんね……その、体調が悪くて……」
たどたどしく謝罪を口にするけれど、後ろめたさから彼の顔を見ることが出来ない。仄かな緊張が全身に痺れを催した。国光くんはゆっくりと瞬きを一度した後、確認の言葉をかけた。
「体調はもう良いのか」
「うん、昨日よりは」
「無理はするなよ」
「……ありがとう、」
身体から緊張が抜けていき、自然と頬が緩む。話しかけたときより、彼の雰囲気も丸くなったような気がして、そっと胸を撫で下ろした。これで昨日の出来事に対する蟠りは解消できたかと安堵した後、急に眩暈がした。その拍子に足元が崩れ、よろめいてしまう。睡眠不足が祟ったのか。
「わっ、」
声を出して転びそうになった瞬間、国光くんは私の腕を掴んでいた。
「大丈夫か」
「はは……ちょっと貧血みたい……」
隠していた不調を笑って誤魔化そうとするも、彼の目は完全に嘘だと見抜いている。目つきを鋭くさせると、私の手をとった。
「来い」
「っ、国光くん?」
力強く握られた手に引っ張られる。離そうにも彼の力には敵わないから、連れてかれるまま後を追った。そして、周囲を見渡して誰も私達を見ていないことに安堵した。連れられる道中、私よりも圧倒的に大きな手のひらが私の手を包み込んでおり、伝わる体温があまりにも優しいから私は違和感を覚えた。
道中、一言も言葉を交わさないまま、私が連れてこられたのは保健室。放課後なのに、と首を傾げつつ、保健室に入ると、中に先生はおらず私達二人。国光くんは気にすることなく、手を繋いだままの私をベッドに連れて行く。
「先生には俺から言っておく。休んでおけ」
「でも帰るだけだよ」
「帰る途中に何かあったらどうする。俺が送っていくからそれまで休め」
絶対に聞き入れないという意志が手から伝わる。ただ昨日の仲直りがしたかっただけなのに、情けなさで鼻の奥が痛くなる。昨日の今日の話だから、過度に心配させてしまっているのかもしれない。
「ごめん、迷惑かけて」
「構わない。気にしなくていい」
もっと突き放してくれたら良いのに。体調管理ぐらい出来ないのかって叱って欲しい。甘やかされることが一番こたえる。
私の顔は、ズンと下を向いた。
「……優しいね」
消え入るような声で呟くと、国光くんも独り言のように呟いた。
「俺は、お前のように器用ではない」
違う。違うよ。私は国光くんが思うような人間じゃない。それ以上、言わないで。耳を塞ぎたいのに、彼と手を繋いでいるせいで出来ない。その続きは、聞けないのに。
「だから……誰にでも優しい訳ではない」
きゅう、と胸が痛んだ。私は国光くんに優しくされるような人間じゃない。選ばれるような人間じゃない。喜ばしい事であるはずなのに、今の私には響かない。
どうしてそれを私に向けてしまうの。他人より大きな感情を向けられたら、私は耐えられない。
「なぜ泣くんだ」
はらはらと落ちていく水の玉。上履きを弾いて雫が散る。制御できない気持ちが涙となって溢れていく。
国光くんの優しさが嫌いだ。優しさに中てられて、恥ずかしくなる。大きな彼に慰められるのが辛い。過去を引き摺り続ける自分がちっぽけで、努力が分からなくなった自分が空っぽに思える。誰にでもではないと言っても、私にはそう見えない。彼は確かに優しい。
「一つ、聞いてもいい?」
「ああ」
「努力って、何をもって努力だと思う?」
彼の優しさに甘えた問いだった。涙ながらに尋ねるけれど、彼の顔は見えない。見れないままなのだ。
「ずっと分からないの。だから、教えて」
繋いだ手に力が入った。彼は何と答えを出すのか、知りたかった。彼の答えによって、歩み寄れないほど突き放されることを求めていた。もう、隠すことが限界だった。
「お前は努力しているだろう」
彼は私に向き直ると、言葉に熱を込めた。握られた手が熱い。
「勉強であろうと、運動であろうと、物事を熟すには経験がいる。その積み重ねた経験が自分の糧となり、結果に結びつく。今回のテストでもそうだっただろう。名前の出した結果には、必ずお前の努力が裏付けされている。自分の努力を否定するな」
ほら、優しいでしょ。優しさが意地悪く思える。決して負の感情が乗っているわけではないのに、そう思いたかった。思い込む方が、自分が救われると思った。国光くんは何も知らないから、そう言える。私の過去を何も知らないから。彼には想像出来ないだろうから、余計に。
真っ直ぐな言葉が何度も修復した心に刺さる。欠片がどれだけ散り散りになろうとも、拾っては繋げて、拾っては繋げて、と繰り返した心が今、粉々になった。
「……私のこと、何も知らないのに、」
声が頼りなく震え、自分自身を嘲る。不気味に上がる口角が、彼に違和感を植え付けた。今まで作り上げた国光くんへの私が、音を立てて崩れていく。
「……名前、」
好きだった声も、今は嫌いだ。包み込んでくれるような温かい声も、頼りがいのあるハキハキとした声も、全部。名前を呼ばれる度に密かに喜んでいた私はどこにもいない。隠してきた私が出現してしまうことで、昨日と同じ過ちを繰り返してしまうと警鐘を鳴らしているのに止まらない。嫌いなのに好きで、好きなのに嫌いだから、私はほとほと困り果ててしまう。自分を殺した上で好意を突き通すのか、反感を買う態度を取るのか。しかし既に糸の切れた私は、あっさりと後者を選んだ。私は、繋いでいた彼の手を振りほどいたのだ。
「何も、大切な物を失ったことがないくせに……勝手なこと言わないで、」
憎悪を睨みつけて吐き捨てた。熱の溜まった体、荒む呼吸。冷静でいないことは百も承知だった。
「帰る」
彼の顔を見ることなく背を向けては、戸に手をかけた。
「体は……」
「っ、ほっといて」
彼の静止を無視して、その場から逃げ出した。これ以上、嫌な人間になりたくない。嫌われた方が圧倒的に楽なんじゃないか。そう思うと、あの行動を反射的に選択してしまった。もう戻れない。私が今まで作り上げたものは全て水泡に帰した。以前のように光のない海底に沈んで、薄らと見える光の眩しさに悶え苦しむんだ。到底手の届かない光に焦がれては、自らの首に手をかけた。
学校を出ても無我夢中で走った。体が壊れるぐらい走った。季節に似合わないほどの汗が流れ、微妙な温度が気持ち悪く背中に張り付く。
最悪だ。関係ない国光くんに八つ当たりをした。体調が悪いのも、過去を引きずったままなのも、全部、全部、私が悪い。もう会えない。どんな顔をしても会えない。
体が限界を訴え、よろよろと電柱に手を当てると、足がようやく止まった。肩が上下に動き、胸のあたりが大きく収縮する。頭皮に流れる汗が落ちて、背中に落ちた。私はまた、逃げ出すのか。好きなものを手放すのか。脳内で激しく響く声に吐き気がした。そして、ぎゅう、と胸元を掴んで皺を寄せた。ジリジリと迫りくるような夕陽。歪に鳴り続けたローファーの音。溢れ出る涙。痛む心臓。一緒だ、あの時と。ピアノから逃げ出したあの時と。
「最ッ悪……!」
ちょうど二年前だった。私は何も変わってない。私はまた、同じ過ちを繰り返す。
暗闇の舞台の上で、独りぼっち。独りよがりの舞台に、次の演奏は求められていない。
そして、その国光くんとの関係だけれど、三年に上がっても関係はあまり変わりない。よくも悪くもつかず離れず。適度な友人の距離を取っているつもりだ。しかし、私の周囲はそれに納得していないようで、チクチクと棘を刺してくる。
「最近どうなの」
「どうって何が」
今日も同じように定期的に報告を催促してくる友人。週に一度の国光くんとのお昼の翌日に、決まって尋ねてくる。私はわざと尋ね返すのだけれど、それも最近は許してくれない。休み時間に聞いてくるのも今は彼女だけだからいいものの、酷いときは彼女に加え、菊丸、不二、乾の三人まで乱入してくる。そのしぶとさは、どこぞの雑誌の記者なのかと思わせるほど。
「とぼけないでよ~。会長とのことに決まってるじゃん」
彼女はつんつん、と人差し指で私の腕を突く。三年に進級してから恒例行事となった尋問の躱し方にも慣れつつある。
「普通にお弁当食べてるだけだよ」
眉を上げて答えるけれど、彼女は不満そうに否定する。
「普通の子は手塚くんと二人きりでご飯食べれないよ」
「そうかなあ」
彼女の言い分では、私は「普通の子」ではないらしい。私だって、国光くんだって、普通の中学生だというのに、何が「普通」と違うと言いたいんだろう。確かに国光くんに至っては、趣味の範囲が大規模であるのは分かる。でも、趣味の大きさなんて人それぞれだし、同じ土俵で戦わなくても分かり合える部分はあると思う。だって、実際私がそうなんだもの。
すると、彼女は私をじっと見つめると、普段言わないことを口にした。
「それでいつ付き合うの」
「つ、付き合う……!?」
今まで言わなかったくせに、とうとう言った。この人、言いました。はっきり言いました。無抵抗だったせいで、勢いよく顔に熱が集い始める。やかんが沸騰するときのような高い音が相応しいぐらい急激に体温が上昇していた。
「あはは、顔真っ赤だよ」
珍しく顔に出せたことを余程満足したのか、けらけらと気持ちよさそうに笑っている。絶対に言ってほしくなかった言葉なのに。あの乾や菊丸、不二の三人衆でさえ、まだ我慢していたというのに。
「そんなんじゃないって」
不貞腐れたように吐き捨てるけれど、彼女の耳は既に封鎖されていた。聞くだけ聞いてよ。
熱くなった顔を手で扇いでいると、彼女は何かに気付いたようで廊下を凝視していた。そして、私の目を誘った。素直に彼女と同じ方向、廊下に目をやると、そこには国光くんがいた。
「ほら、会長様のお出ましだよ」
わざとらしく笑って言う顔が気に食わなかった。付き合いたいという欲が欠落しているのをきちんと自覚しているから、余計に。
すると、廊下から私を呼ぶ声がした。声の主は、話題の主役だった国光くん。彼女はよりいやらしく笑うと、「あっち行け」と言いたげに雑に手を振った。
「国光くんのとこ行っておいで」
「も~……」
優しくない送り出し方を受け、すぐに国光くんの元へと向かった。一瞬だけ顔を俯かせて笑顔を作る。暗い顔は見せたくない。
笑顔で彼の元へ行くと、本が一冊入った紙袋を渡された。以前、私がお父さんから借りて、更に国光くんに又貸しした洋書だった。
「これを返しに来た」
「もう読んだの?」
厚い書物も容易く読破してしまう彼の実力に驚きを隠せず、紙袋と彼の顔を交互に見た。
「ああ。面白かった」
「良かった。お父さんも喜ぶよ」
へらりと気の抜けた顔で笑うと、彼も目元が和らいだ。
お父さんには絶対言えない秘密のやり取り。国光くんは友人だから言っても構わないと思う自分と、何となくお父さんに言いづらい自分が鬩ぎ合って、結局言い出せない。多分、簡単な洋書も借りているから、お父さんは私が洋書に興味を持ったと思っているけど、私としては国光くんが読んでいるから読んでみようと思っただけ。そこの解釈の違いを訂正していないから私はどんどん口を噤んでしまう。
「どうしたの」
用件は済んだと思っていたけれど、国光くんは私の顔をじっと見つめている。何か顔についているのかなと思って尋ねようとした瞬間、彼が先に口を開いた。
「顔が赤いが……大丈夫か」
顔が、赤い? 瞬時に理由を考えた後、友人からの言葉を思い出し、更に顔が赤らむ。
「へっ?ああ、大丈夫、大丈夫!気のせいだよ」
落ち着きはなく、ただ慌てている。本人に理由なんて説明出来ないし、したらしたで、国光くんを困らせるだけ。
国光くんは首を傾げながらも納得してくれたようで、頷いていた。
「そうか。無理はするなよ」
「うん。ありがとう」
笑顔でお礼を言うと、彼は教室へと戻っていった。一安心したところで席へ帰ったけれど、その道中、友人の独り言が聞こえるはずもなかった。
「なーんであれで付き合ってないかなあ……」
***
「さて、最近どうかな?」
「さて、じゃないよ。何も話すことないのに」
とある日の昼休み。空き教室にて私は乾に捕まっていた。国光くんと友人としての距離を縮めようとしている私に、彼は頻繁に声をかけてくるようになった。いつの間にか勝手に私のデータ、というか個人情報を入手しているし、国光くんとの関係も深堀りしてくる。
「手塚のあれやこれや聞きたくなってきたんじゃないかな?」
いつもの決まり文句が出た。毎度国光くんのデータで揺さぶりをかけてくる。私は以前本人から「俺から聞いてくれ」と言われたものだから、律儀に言いつけを守っている。
「国光くんのことは自分で聞くし」
拗ねたように寂しく呟くけれど、乾は淡々と返す。
「ほう。じゃあ部活中の話は要らない?」
さらっと言ってのける乾が憎い。一番欲しい部活中の話で誘うのは汚い。正直ものすごく聞きたい。出来るなら見たい。テニスしているところを見たい。でも、見学しに行くのは、彼の邪魔になりそうでどうしても二の足を踏んでしまう。確かに何人かの女子が見学しているのは見たことがある。でも、自分が行くのは違うような、何とも形容しがたい気持ちに襲われた。
はっきりと断れないまま押し黙ると、乾はにやりと口角を上げた。
「交渉成立、のようだね」
「まだ要るとは……!」
言ってない、と言おうとしたけれど、乾の言葉に掻き消される。
「百聞は一見に如かず、とも言うしね。コートが良く見える空き教室を教えてあげよう。そこから手塚を見ると良い」
人差し指を上にして提案する。断るつもりでいたのに妥協案が出されてしまったせいで、わなわなと体が震える。そして、出かけていた言葉を飲み込んでから恐る恐る尋ねた。
「……気付かれない?」
「余程の熱視線でなければ、ね」
肩を震わせて、くつくつと笑う乾。こちらは真面目に聞いているのに、と彼の腕を軽く殴った。
「なんてね。少し揶揄っただけさ」
乾の言い方だと、まるで私が国光くんのことを好きみたいに言う。確かに好きだけれど、他の人が言う「付き合いたい」という気持ちはないからカテゴリーは分けて欲しい。
すると乾は、突然思いついたかのように、もう一つ提案をした。
「ああ、そうだ。見ていて普段の手塚と違うところがあれば教えてくれないか」
普段の国光くん? そんなの毎日会っている乾の方が詳しいだろうに、と不思議に思った。「なんで?」と直接的に聞けば、乾は顎に手を当てて考える素振りを見せた。
「そうだな。理由を挙げるとすればー……手塚の意外な面が知りたいだけかな」
国光くんの意外な面を挙げるとするなら何だろう。やっぱり感情表現が少ないから、そういった類の機微についてなのかな。それとも他にまだあるのかな。
真剣に考えていると、乾は再び肩を揺らして笑っていた。
「というのは建前で、試合中に揺さぶりをかけられたらなってだけさ」
試合中に揺さぶりって全然意味わからない。国光くんに何の話題を振るつもりなのか。乾と揃えるように顎に手を当てて考える。うんうん、と知恵を絞って出した答えは簡単だった。もしそれが本当に答えであるなら、とサーッと血の気が引いた。そして私は、乾の腕にしがみついた。
「待って、それは止めよう」
「あ、チャイムだ。じゃあ俺はこれで」
私に手のひらを見せると、私の手から逃れ、いとも簡単に離れる。詳細を聞くまで離すつもりはなかったのに、チャイムが鳴ったせいで乾には逃げられてしまった。なんでこういう時だけ逃げ足が速いかな。
「ほんっとに、も~!」
嘆く私を一度も見ることなく、乾は教室へと戻っていった。
数日後、乾は再び私の元へとやってきた。前回と同じく、空き教室へ行くと部活見学作戦の詳細が伝えられた。
「レギュラー戦があるんだ。これなら手塚の試合姿が見られる」
悪くないだろう?と誘ってくる乾に、私はまだ乗り気になれない。
「基本的なルールしか分かんないけど、何とかなる?」
「うん。テニスのルールを知るために見るわけじゃないからね」
「それはそうだけど」
完全に了承したわけではないから、悶々とした気持ちが残る。それでも見てみたい気持ちの方が勝ってしまって、結局乾からコートの見えやすい教室を教えてもらうことに。
「じゃあ、三階の指示した部屋で」
「うん。分かった」
本当にバレないんだよね、と未だ残る不安。それと同時に初めて見る国光くんの試合が待ち遠しかった。国光くんは部長だから強いんだろうけど、何しても様になってしまうから「かっこいいな」で終わってしまいそうなのが一番怖かった。
放課後、乾に教えられた教室に荷物を持って向かった。まだ始まったばかりのようで、準備運動をしているところだった。国光くんはどこのコートを使うんだろう。私の目は国光くんだけを追いかけていた。
少しして、国光くんと大石くんがコート上で向かい合っていた。部長と副部長だったら力の差はどうなんだろう。大石くんはダブルスのイメージが強いけど、シングルスと結構違うのかな。
いろんな疑問を抱きながら窓からじっと見つめていると、ふいに国光くんがこちらを向いた。ばっちりと合っているように思う目は全く動こうとしない。私は今三階にいる。さすがに気付かれていないだろうと余裕ぶるけれど、乾の言葉が脳裏を過った。
「余程の熱視線でなければ、ね」
カッと燃えるような熱さが体を覆う。そして未だに国光くんは私の方を見つめている。まさか、気付いてる?
咄嗟に窓際から離れてしゃがんだけれど、手遅れだろう。あの目は、気付いている目だ。震える手と騒がしい心臓。今度会った時、何か言われるんじゃないか。国光くんが嫌そうな顔をした時のために、言い訳を考えておこう。悪いけど、乾のせいにしてしまおう。
私は再び窓から少し顔を出して試合が始まっているのを確認した。試合が始まれば、国光くんが気付くこともないだろう。ようやく国光くんと大石くんの打ち合いを安心して見届けた。
レギュラー戦が終わった翌日の昼休み、乾は凝りもせず三年六組の教室へと来た。
「やあ」
「やあ、じゃないよ」
口を歪めつつ、乾と共に廊下に出ては部活の話を振られた。内容はもちろん、レギュラー戦のこと。
「ちゃんと見てたみたいでよかった。手塚の試合」
微笑みながらノートをパラパラと捲りながら話す乾。それとは対照的に、私の胸中はもやもやと曇り空だ。国光くんにバレたのか、バレてないのか不明なままなため、彼を責めないでいる。
「見れる試合は見たよ。国光くんだけじゃない」
二、三日あるというから、どうせなら乾や菊丸、不二の試合も見てやろうと思っての行動だった。テニスの試合をまともに見るのは初めてだったけれど、初めてなりに楽しめたから良いんじゃないかな、と観客目線で考えていた。でも、私には気がかりなことがあって、彼の前で笑えない。すると、乾は珍しく眉を下げていた。
「おっと、それは困ったな」
何が困った、よ。乾本人が一番悔しいだろうに、何だか私まで悔しくなってしまった。彼がレギュラー落ちするなんて思ってなかったから、私までダメージを負ってしまった。もちろん、彼が感じている悔しさとは比較できなくとも、絶対に残ると思っていたせいで落胆は大きい。
「私に協力しすぎたんじゃない」
突っぱねるように自身の足元を見つめて言うと、彼はノートを閉じた。そして、硬くなった声色で淡々と述べた。
「それとこれは関係ない。単なる俺の努力不足」
既に次を見据えている力強さが伝わってくる。乾の事が急に眩しく見えた。
「……悔しい?」
「まあ、それはね。団体戦となれば強者が残る。当たり前のことだよ」
随分あっさりとしていた。私が聞かなくとも、知らないところで十分悔しがったんだろう。最後の年なのだから、普通当たり前だ。きゅ、と一瞬だけ目を細めた。
「もう、これきりなの?」
「いや、レギュラーに返り咲く可能性はあるよ。心配は無用」
「そう、なんだ」
少しだけ、ほっとした。テニス部の仕組みは分からないけれど、乾が可能性はあるというなら信じるしかない。私にとって、彼も大切な友人の一人だから。
すると乾は、眼鏡のブリッジを上げてこう言った。
「俺の心配をしてた確率六二%」
「微妙~……」
結構心配してたのに、と肩を落とさずにはいられなかった。そこは嘘でも百%と言えばよかったのに。
「結構高めに出したつもりだったんだが……」
「八〇%ぐらい心配してたよ」
照れ隠しで二〇%下げてやった。彼からしてみれば、私の小さな目論見などお見通しなのだろう。
「もう少し自惚れてても良かったみたいだな」
「今更」
そう言うと、乾はどことなく嬉しそうに口元が緩んでいた。
「手塚しか見ていない確率が五〇%だったからね」
「そんなことない。見てて面白かったから勿体ないと思って」
自分でも想像以上に見入っていた。可能なら、もう一度見られたらと思ってしまった。すると、乾は私の顔を覗き込むように背を丸めると、またもや提案してきた。
「次のレギュラー戦、もっと近くで見てみるのはどう?」
国光くんと恐らく目が合ったであろうことを思い出す。近くなんて、いろいろ耐えられない。ほんのりと赤くなった頬に気付かぬまま、彼の提案を「やだ」と一蹴した。すると、乾は私の態度さえも予想の範疇だったのか、クス、と笑って優しく誘引した。
「ギャラリーは何人いても構わない。気が変わればおいで」
「気が変わればね」
飽きれた顔で、海外ドラマのように肩を上下させた。多分、次もあの空き教室で試合を覗き見るんだろう。そう自分の行動を予測した。
それから乾は、ふむ、と数秒何かを考える素振りを見せ、話を本題へと移行させた。
「それで、感想は?」
「何の?」
「手塚の試合」
そこに戻るのか、と思わず片手で額を抑えた。
「い、言わなくちゃ、ダメ?」
「何でもいいから」
逃げようとしても、乾はあの手この手で追いかけてくるに違いない。かあ、と熱くなる顔が言葉の代わりになりそうだけれど、しどろもどろになりながら答えた。
「その、かっこいいなあとは思ったけど」
右足を上げ、左足の爪先に踵を乗せる。右の爪先がぐらぐらと揺れた。
「ほう。具体的に」
ノートを開き、書き込む準備は万端。証拠として残されるのは些か許せない。
「ッ、恥ずかし!本当に意味ある!?」
「どう活用するかは俺が決めるから問題はないさ」
「ありまくりなの!」
耐えられなくなった私は、とうとう弾けた。乾のせいで顔が熱い。ずっと蒸され続けている感覚から抜け出せない。
「もう、本当に……」
乾のせい、と悪態をつこうとした瞬間、乾は何かを見つけたようで、一組の教室がある廊下に目をやっていた。
「おや」
「ん?」
「名字、ご本人の登場だ」
「え?」
乾の言葉につられて、同じ方向を見ると、遠くには国光くんがいた。見たことのない気迫の顔でこちらに向かって歩いてきている。私は慌てて乾に尋ねた。
「なんであんな怖い顔してるの!」
「激怒している確率九八%」
「もう百って言いなよ!って、なんで!?」
「さあ?」
全く焦りの色を見せない乾に、私の顔は青ざめている事だろう。乾の腕を掴んで揺さぶろうとも、何もしようとしない。でも国光くんは明らかにこちらに焦点を合わせている。
「無駄データ!」
何のためのデータだと叫ぶと、乾はパタンとノートを閉じた。
「もう助けない」
「嘘、え、ごめんってば!助けて!」
突然の裏切り行為にパニックに陥る。隠れて部活見たのがいけなかったのか、何が彼の逆鱗に触れたのか一つも分からない。想定通り、国光くんは私達の元に来ると、いつもより色のない顔で私達の顔を見た。
「やあ手塚」
「く、国光くん、どうしたの」
乾はどこかウキウキとしているけれど、私は若干怯えている。国光くんもこんな顔するんだ。というより、乾のウキウキの理由が知りたい。
「何の話をしていた」
ピリピリとした空気が走る。どうして国光くんは苛立っているのか、見当がつかない。活火山のようにすぐ憤怒するような人じゃないことは知っているからこそ、どうして怒りを露わにしているのかが理解できなかった。
「えっと……」
迷いを見せながら乾に助け舟を出してもらおうと画策するも、この男はいとも簡単に裏切り行為をして見せた。
「あ、俺は不二に用があるから名字から聞いてくれないか。すまない。急ぎでね」
早口で全てを言い終えると、その場から逃げていった。残されたのは、怯える私と苛立ちを隠し切れていない国光くん。この状況をどうしろと?
もう一度、国光くんの顔色を窺うと、どことなく悲哀が滲んでいた。先程まで張り詰めていた空気が緩んだ気がした。
「乾と何を話していた」
「世間話だよ。もうすぐテストだねって」
努めて嘘を明るく話すと、国光くんは分かりやすく意気消沈した。
「……そうか」
私は彼の態度に余計戸惑ってしまった。乾が居る時には張り詰めていた空気も、今ではほんの少し和らいでいる。もしかして、乾と仲が悪い……?
「それで、国光くんは何か用だった?」
凄まじい勢いで私達の元に来たのだから、何か用があるのだと思っての事だった。すると、国光くんは切り出しづらそうに目を泳がせると、私にだけ聞こえる声で呟いた。
「用事……ではない」
「え」
「お前が見えたから、来てしまった」
国光くんの言葉に、フリーズせざるを得なかった。お前が見えたから、来てしまった。私がいるのを見つけて、わざわざ来たと。用もないのに?
ようやく理解したところで、一気に体全部が熱くなる。彼の言葉が意識的か、無意識か。恐らく無意識だろうとしても、それはあまりにも狡い一言だと思う。未だ咀嚼し切れていない私を放って、彼は次々に話し続ける。
「俺と話すときには見えない表情で話しているのが気になった。それだけだ」
全然それだけじゃない。大分重要なことを口にしていることに気付いた方がいい。気付いてくれないと私がもたない。垂れた手がスカートに皺を作った。
「乾とは随分仲が良いようだな。この間、部活を見ていただろう」
「えっ、あ、それは……たまたまで。乾と話すのは色々相談に乗ってもらってるから、そう見えるのかも」
やはり隠れて見ていたことはバレていたか。でも、彼は私が乾目当てだと思っているのだろうか。そんな勘違いをされては困る、と慌てて乾との関係がただの友人であることを伝えたけれど、国光くんは突っかかるように次の質問を投げかけてきた。
「何の相談だ」
「え、っと……テスト、とか?」
苦し紛れで当たり障りのない答えを口にする。そんな話を乾とはしたことがない。あるとすれば一度だけ、化学を教えてもらったぐらい。それも数分の間に。
「苦手科目があるのか?」
「理系科目が躓きやすいから教えてもらおうかって思ってて。乾、理系得意だから」
よくもまあ、嘘をつらつらと。正直言えば苦手科目はほとんどない。理系科目が得意とは言えないけれど、不得意でもない。笑ってこの場を誤魔化そうとしていると、驚きの言葉を口にした。
「その役、俺では不十分か?」
「国光くんが?」
国光くんは自ら乾の代わりを名乗り出たのだ。思わぬ展開に、胸が高鳴る。
「乾ほど上手くは教えられないかもしれないが……ダメだろうか」
全然ダメじゃない。むしろ、良いのかと聞きたくなる。
「でも、国光くん忙しいんじゃ、」
「構わない」
俺を選べと言わんばかりの言葉の詰め方に瞬きが増える。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「ああ。もちろんだ」
約束が決まったところで、国光くんの雰囲気が柔らかくなった。いつも話す様子に戻ったから、私は胸を撫で下ろしていた。
国光くんと別れ、六組の教室へと戻った。菊丸と不二と一緒に、私を残した乾までもが当たり前の顔をしてこちらを見ている。
「ねえ、」
納得のいっていない顔で間に割って入ると、不二はきょとんとした顔で首を傾げている。
「もう良かったのかい?」
「うん。用事済んだから」
そう言うと、乾は眼鏡を上げ、求めた確率を披露した。
「俺のアシストが利いた確率、百%と言ったところかな」
アシストとは。助けてと言ったのに、逃げ出したのは誰。そう思っていると、菊丸が笑いながらも代弁してくれた。
「逃げ出したくせに~」
「終わりよければすべてよしって言うし、良かったんじゃないかな」
不二が乾の肩を持つものだから、つい口を滑らせてしまう。
「本当勝手言うよね」
不満を顔に出して言うけれど、三人は私の根底にある真実を見透かしているのか、にこにこと笑うばかりだった。そんな生暖かい目が更に居心地を悪くさせていた。
***
テスト週間が始まると、部活も休みになる。私と国光くんはお昼に使う空き教室で数学のテキストを開いていた。以前不明な形で決まった勉強会は、順調に進んでいる。
「ここなんだけど、解説だけじゃわかんなくて」
開いているページの最後の問題をシャーペンで差す。計算量の多い大問は理解するまでにどうしても時間が掛かってしまう。
彼は出していたシャーペンの芯を引っ込めると、先端で解答にある図形を差した。静かな教室に彼の低音が響き、私の鼓膜を震わせる。風がそよぐ度に、外側にはねた彼の毛先が揺れた。
「分かったか?」
説明し終えると、カチカチとシャーペンの芯を出した。
「うん。ばっちり。国光くん教えるの上手だね」
「そうか?」
「的確で無駄なことないし。乾だったらすぐ脱線しちゃうもん」
口が勝手に比較対象として乾を出した。
私が乾と話すとき、一が十になる。お互い話があっちやこっちやと寄り道してしまうのは、ある意味気が合うのかもしれない。テスト勉強には不向きだけど。
ふふ、と思い出し笑いをすると、国光くんの口角が下がった。
「名前は、乾の前だと表情がよく変わるな」
「……そうかな?」
他の友人と乾を比較しても、自身の中で差異は見つからない。むしろ、乾を含めた他の友人と国光くんとを比較した方が分かりやすいと思う。天変地異が起こっても本人に口外は出来ないけれど。
「笑うだけではなく、怒ったり悲しんだり、喜怒哀楽がはっきりしている」
彼の言葉に、口が閉まらない。呆気にとられたまま、瞬きを繰り返す。確かに乾の前では良くも悪くも正直に話している気がする。国光くんに対しては、いつも良い面しか見せていない。というより、見せられないと言った方が正しい。
「乾が好き勝手言うからさ。私だって怒りたくて怒ってるわけじゃないよ」
好き勝手言うのは、完全に国光くんの話題ばかり。乾に助けられている部分は多いけれど、一言余計なのは直してほしいところ。それに乾は私の言動を見越しているから、嘘を吐いても無駄なように感じてしまう。
「俺には、見せてくれないのか」
彼の問いの意味が理解出来なかった。文脈は理解できているけれど、それを言葉にする意味が分からなかった。
「だって国光くんに怒るようなことも悲しむようなこともないのに。出来ないよ」
肩をすくめて跳ね返すと、彼は腕を組んでから顎に手を当てた。
「ふむ……」
「別に私の怒った顔なんて面白くないし……」
芯が出たままの先端を親指で突きながら、口を三角形にした。
すると、国光くんはシャーペンの芯を出して、私のノートに何かを書き始めた。顔を近づけてシャーペンの先端の跡を追うと、そこにはうさいぬが遠慮がちに描かれていた。
「ふふ、うさいぬだ。可愛い」
国光くんが落書きを、それもうさいぬを選択するところに意外性を感じた。
「怒らないのか」
「こんな事じゃ怒んないよ。怒ったら心狭すぎでしょ」
彼の選択肢に、つい口元が綻ぶ。うさいぬのこと、知ってたんだ。
「国光くんの絵、可愛い」
「絵はあまり得意じゃない」
「そう?上手いと思うよ」
私も負けじとつられてうさいぬの横に落書きしていく。「完成するまで見ちゃダメ」と手元を隠してサラサラと描いた。
「見て。国光くん」
パッと手を外して彼に披露した。デフォルトした彼の似顔絵を描いたのだ。我ながら上手だと拍手を送りたい。
「上手いな」
「へへ。可愛いでしょ。……って誰、それ」
国光くんからの褒め言葉に気分を良くしていたのに、追加で描かれたものに対し目を疑った。
「乾と話しているときの名前だ」
「待って!?私こんななの!?」
衝撃の出来に思わず声を張る。デフォルトされた私は顔のパーツさえ変えれば可愛らしいはずなのに、三角になった目や、なぜか生やされた角に目がいってしまう。
怒りよりも驚きの方が強くて、彼がどんな表情でこれを描いたのかと表情を窺うと、彼は私から顔を背けていた。そして、肩を揺らして静かに笑っている。
「ねえ、笑いすぎ」
不服そうに睨んでみる。しかし、彼は顔を私の方に戻したときには、既にいつもの涼やかな表情へと戻っていた。
「笑ってない」
「肩がたがただったよ」
彼が私を描いてくれたことの嬉しさと、絵の私の顔が怒ってなかったら良かったのにと思う無念さが鬩ぎ合う。つん、と窓の方へ目を向けると、彼は首をすくめて尋ねた。
「……怒ったか?」
もしかして、と彼の行動の原因を探り当てる。
「わざと?」
目を丸くして尋ねたけれど、彼は黙ったまま眼鏡を直した。どうやら当たりらしい。握っていたシャーペンが震え、尖り声で言った。
「黙るの禁止!」
***
「最悪だ……」
テストは終わり、今週は結果が返却されていくのだけれど、私の体調は最悪を極めていた。理由は定期的に訪れるアレ。女の子の日が邪魔をするのだ。普段あまり重くないはずなのに、今月は酷い。本当に酷い。酷いしか言えないくらい酷い。薬を飲んで痛みを軽減させても精神的なものは解消されず、無駄に怒りを覚えてしまう。こういう日に、国光くんには会いたくない。避けられない出来事が起こっても、国光くんに暗い顔は見せたくなかった。今日はお昼の予定もないし、明日には軽くなるだろうと少し安心していたけれど、すぐに打ち砕かれてしまった。
放課後になり、改善されない体を引き摺って帰ろうとしていたときだった。ピロティーで偶然、国光くんと出くわしたのだ。一番会いたくなかったのに、と悔やんでも彼を無視することはできない。
「これから部活?」
「ああ」
笑顔の仮面を装着して声をかける。絶対に気付かれないという自負があるから、服を着替えるように行える。予定通り国光くんに悟られはしなかったものの、会話は続いた。早く切り上げたいと気持ちが急く。
「結果はどうだったんだ」
どこから聞いたのか、数学のテスト結果を尋ねてくる。別に今度のお昼の時でもいいじゃない、と思ったけれど、すぐに気を持ち直した。
「おかげで満点だったよ。苦手意識もなくなったし、国光くんのおかげだよ」
先生の意地の悪い問題も、顔を歪ませることなく解けた。彼が勉強会を持ちかけて、教えてくれたからなのは間違いない。
「いや、お前の努力があったからだろう」
さらっと言ってのける彼に対して、チクリ、と胸に小さな棘が刺さった。『努力』という言葉が、喉に引っかかって飲み込めない。彼に言われることで飲み込みにくくなる。一番嫌いな言葉で褒められるのは、じわじわと私の機嫌を損ねていく。
「努力、かあ……」
ふいに、手の甲を擦った。普段の私なら流せたのに、今の私は拾わなくていい言葉まで拾ってしまう。拾って吐き気を催して、自傷する。傷口から垂れる血で顔を塗りたくると、汚れた私が完成する。嘘が吐けなくなる。
「名前……?」
俯きがちの顔に笑顔はない。笑顔をつくる余裕がない。彼に名前を呼ばれようとも、表情に光が差すことはない。
「何か、悩んでるのか」
「……気のせいじゃない?」
国光くんの心配の声を他所に、ピリピリと逆立ち始める心が彼を拒絶する。冷気を孕んだ声は尖り、彼を掻っ切ろうと企んでいる。私の中の二面性が分かりやすく乖離していく。
「何かあったんじゃないのか」
確定的な言葉で私を攻める。逃げ出す場所が如実に無くなっていく。笑顔のない、冷ややかな言葉を放つ私は、彼にとって私じゃない。見られたくない。知られたくない。彼から伸ばされた手が一寸先に待機している。このまま伸びてくる手に触れられれば、全て知られてしまう。これ以上、踏み入られたくない。国光くんの思う私はここにいないから。
恐れた私は、パシ、と彼の手を弾いた。
「何かあっても、国光くんには関係ないでしょ」
シン、とピロティーに静寂が走った。私達二人の空間のせいで、更に閑寂さが増幅する。払った手のひらを見れば、カタカタと小刻みに震えていた。それを自身の目で確認したことで、今の状況を認識した。急激に冷やされていく身体が、私の招いた惨劇を物語っている。言った後に気付いても遅い。心配する彼の手を払いのけ、突き放した。完全なる拒絶をしてしまった。
「っ、ごめん、違うの、」
引っ込められていく手と引き換えに冷静さを取り戻す。わざわざ心配してくれた彼の好意を無下にした。咄嗟に伸ばした手は空を切り、彼は私に背を向けた。
「……すまなかった」
そう言い残すと、彼は私の元から離れて行く。いつになく肩が下がった姿は覇気がない。一組の靴箱に向かっていく背中があっという間に遠くなり、私は自分自身を責めた。失敗だ。大失敗だ。だから会いたくなかったのに。
彼を止められる言葉など持ち合わせていなくて、私はその場にしゃがみ込んだ。視界が歪み始めると、足元に幾つもの小さな水溜まりを作った。
碌に眠れない夜を過ごし、翌日の放課後で私はピロティーで彼を待った。一日中一組に行くかどうか迷うばかりで、行動に移せないまま放課後になってしまった。友人に心配されてしまったけれど、国光くんの話をするのは何となく嫌だった。謝罪することは端から決めていたから、それでいいと思っていた。
彼を待つ間、そわそわと落ち着かない心が私の体を動かす。謝って許してくれるか分からない。でも、言わないよりはずっといい。未だ体の方は本調子ではないけれど、彼との仲がこれで終わってしまう方がずっと嫌だった。
すると、国光くんの姿が見え、すぐに近寄った。周囲にあまり人がいない事にも救われた。彼も私の姿が見えると、その場に立ち止まった。
「昨日は、ごめんね……その、体調が悪くて……」
たどたどしく謝罪を口にするけれど、後ろめたさから彼の顔を見ることが出来ない。仄かな緊張が全身に痺れを催した。国光くんはゆっくりと瞬きを一度した後、確認の言葉をかけた。
「体調はもう良いのか」
「うん、昨日よりは」
「無理はするなよ」
「……ありがとう、」
身体から緊張が抜けていき、自然と頬が緩む。話しかけたときより、彼の雰囲気も丸くなったような気がして、そっと胸を撫で下ろした。これで昨日の出来事に対する蟠りは解消できたかと安堵した後、急に眩暈がした。その拍子に足元が崩れ、よろめいてしまう。睡眠不足が祟ったのか。
「わっ、」
声を出して転びそうになった瞬間、国光くんは私の腕を掴んでいた。
「大丈夫か」
「はは……ちょっと貧血みたい……」
隠していた不調を笑って誤魔化そうとするも、彼の目は完全に嘘だと見抜いている。目つきを鋭くさせると、私の手をとった。
「来い」
「っ、国光くん?」
力強く握られた手に引っ張られる。離そうにも彼の力には敵わないから、連れてかれるまま後を追った。そして、周囲を見渡して誰も私達を見ていないことに安堵した。連れられる道中、私よりも圧倒的に大きな手のひらが私の手を包み込んでおり、伝わる体温があまりにも優しいから私は違和感を覚えた。
道中、一言も言葉を交わさないまま、私が連れてこられたのは保健室。放課後なのに、と首を傾げつつ、保健室に入ると、中に先生はおらず私達二人。国光くんは気にすることなく、手を繋いだままの私をベッドに連れて行く。
「先生には俺から言っておく。休んでおけ」
「でも帰るだけだよ」
「帰る途中に何かあったらどうする。俺が送っていくからそれまで休め」
絶対に聞き入れないという意志が手から伝わる。ただ昨日の仲直りがしたかっただけなのに、情けなさで鼻の奥が痛くなる。昨日の今日の話だから、過度に心配させてしまっているのかもしれない。
「ごめん、迷惑かけて」
「構わない。気にしなくていい」
もっと突き放してくれたら良いのに。体調管理ぐらい出来ないのかって叱って欲しい。甘やかされることが一番こたえる。
私の顔は、ズンと下を向いた。
「……優しいね」
消え入るような声で呟くと、国光くんも独り言のように呟いた。
「俺は、お前のように器用ではない」
違う。違うよ。私は国光くんが思うような人間じゃない。それ以上、言わないで。耳を塞ぎたいのに、彼と手を繋いでいるせいで出来ない。その続きは、聞けないのに。
「だから……誰にでも優しい訳ではない」
きゅう、と胸が痛んだ。私は国光くんに優しくされるような人間じゃない。選ばれるような人間じゃない。喜ばしい事であるはずなのに、今の私には響かない。
どうしてそれを私に向けてしまうの。他人より大きな感情を向けられたら、私は耐えられない。
「なぜ泣くんだ」
はらはらと落ちていく水の玉。上履きを弾いて雫が散る。制御できない気持ちが涙となって溢れていく。
国光くんの優しさが嫌いだ。優しさに中てられて、恥ずかしくなる。大きな彼に慰められるのが辛い。過去を引き摺り続ける自分がちっぽけで、努力が分からなくなった自分が空っぽに思える。誰にでもではないと言っても、私にはそう見えない。彼は確かに優しい。
「一つ、聞いてもいい?」
「ああ」
「努力って、何をもって努力だと思う?」
彼の優しさに甘えた問いだった。涙ながらに尋ねるけれど、彼の顔は見えない。見れないままなのだ。
「ずっと分からないの。だから、教えて」
繋いだ手に力が入った。彼は何と答えを出すのか、知りたかった。彼の答えによって、歩み寄れないほど突き放されることを求めていた。もう、隠すことが限界だった。
「お前は努力しているだろう」
彼は私に向き直ると、言葉に熱を込めた。握られた手が熱い。
「勉強であろうと、運動であろうと、物事を熟すには経験がいる。その積み重ねた経験が自分の糧となり、結果に結びつく。今回のテストでもそうだっただろう。名前の出した結果には、必ずお前の努力が裏付けされている。自分の努力を否定するな」
ほら、優しいでしょ。優しさが意地悪く思える。決して負の感情が乗っているわけではないのに、そう思いたかった。思い込む方が、自分が救われると思った。国光くんは何も知らないから、そう言える。私の過去を何も知らないから。彼には想像出来ないだろうから、余計に。
真っ直ぐな言葉が何度も修復した心に刺さる。欠片がどれだけ散り散りになろうとも、拾っては繋げて、拾っては繋げて、と繰り返した心が今、粉々になった。
「……私のこと、何も知らないのに、」
声が頼りなく震え、自分自身を嘲る。不気味に上がる口角が、彼に違和感を植え付けた。今まで作り上げた国光くんへの私が、音を立てて崩れていく。
「……名前、」
好きだった声も、今は嫌いだ。包み込んでくれるような温かい声も、頼りがいのあるハキハキとした声も、全部。名前を呼ばれる度に密かに喜んでいた私はどこにもいない。隠してきた私が出現してしまうことで、昨日と同じ過ちを繰り返してしまうと警鐘を鳴らしているのに止まらない。嫌いなのに好きで、好きなのに嫌いだから、私はほとほと困り果ててしまう。自分を殺した上で好意を突き通すのか、反感を買う態度を取るのか。しかし既に糸の切れた私は、あっさりと後者を選んだ。私は、繋いでいた彼の手を振りほどいたのだ。
「何も、大切な物を失ったことがないくせに……勝手なこと言わないで、」
憎悪を睨みつけて吐き捨てた。熱の溜まった体、荒む呼吸。冷静でいないことは百も承知だった。
「帰る」
彼の顔を見ることなく背を向けては、戸に手をかけた。
「体は……」
「っ、ほっといて」
彼の静止を無視して、その場から逃げ出した。これ以上、嫌な人間になりたくない。嫌われた方が圧倒的に楽なんじゃないか。そう思うと、あの行動を反射的に選択してしまった。もう戻れない。私が今まで作り上げたものは全て水泡に帰した。以前のように光のない海底に沈んで、薄らと見える光の眩しさに悶え苦しむんだ。到底手の届かない光に焦がれては、自らの首に手をかけた。
学校を出ても無我夢中で走った。体が壊れるぐらい走った。季節に似合わないほどの汗が流れ、微妙な温度が気持ち悪く背中に張り付く。
最悪だ。関係ない国光くんに八つ当たりをした。体調が悪いのも、過去を引きずったままなのも、全部、全部、私が悪い。もう会えない。どんな顔をしても会えない。
体が限界を訴え、よろよろと電柱に手を当てると、足がようやく止まった。肩が上下に動き、胸のあたりが大きく収縮する。頭皮に流れる汗が落ちて、背中に落ちた。私はまた、逃げ出すのか。好きなものを手放すのか。脳内で激しく響く声に吐き気がした。そして、ぎゅう、と胸元を掴んで皺を寄せた。ジリジリと迫りくるような夕陽。歪に鳴り続けたローファーの音。溢れ出る涙。痛む心臓。一緒だ、あの時と。ピアノから逃げ出したあの時と。
「最ッ悪……!」
ちょうど二年前だった。私は何も変わってない。私はまた、同じ過ちを繰り返す。
暗闇の舞台の上で、独りぼっち。独りよがりの舞台に、次の演奏は求められていない。