もう一度、恋をしよう。
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翌日、欠伸をしながら教室へ入ると、騒がしい友人に絡まれた。朝から勢いよくぶつかろうとして来る菊丸を避けきれず、ふらふらと足元が悪くなる。
「ねえねえ、名前ってば~!」
「なに菊丸~……」
腕を掴んで寝ぼけ眼の私を揺さぶる。ほとんど閉じた瞼で菊丸の方に顔を向けると、彼の顔には焦りの色が見えた。何があったのか気にする元気はないため、菊丸を引き摺るように席へと移動する。その間にも菊丸は「ちゃんと聞いてよお!」と肩を揺らす。左右に揺れながら机に荷物を置いたとき、私はようやく菊丸の話に耳を傾けた。
「なに、じゃないよ!手塚とめっちゃ仲良しじゃんか~!」
聞き間違いをしたのかな。マフラーを外しながら「仲良し?」と一番引っかかった部分だけをピックアップして聞き返した。
「昨日手塚と一緒に出てきたじゃん!」
「あー……そうだね」
確かに昨日は手塚くんと校舎から出てきた。たった一回一緒に出てきただけで騒ぐことかと首を傾げる。
「なんでなんで~」
意地でも聞こうとしてくる菊丸に対して、溜息交じりに答えた。
「なんでって、生徒会の用事があったから一緒に出てきただけなんだけど」
「ほんとに?」
「本当だよ」
しつこく尋ねる菊丸を不思議に思った。他の人と一緒にいようとも何も言わないくせに、手塚くん相手だとこうも変わるのか。ようやく納得したのか、菊丸はそっと胸を撫で下ろしていた。
「そっかあ。俺ってば早とちり?」
にゃはは、と笑う。またも「早とちり」の部分が引っかかる。
「早とちりって……一緒に出てくるぐらいあるでしょ」
「ん~……でも、相手が手塚だからなあ」
不満げに言う私とは対照的に、菊丸はにこにこと笑顔で答える。余程手塚くんは異性と仲良くないと見た。確かに仲睦まじく誰か女の子といるところも想像できない。
「ねえ菊丸」
「ん、 何々?」
「手塚くんに詳しい人って誰?」
ようやく起きた目で真剣に尋ねる。手塚くんと仲良くなるなら情報は少しでも多い方がいい。菊丸の言葉からして、同性の友人達に尋ねても手塚くんに関する情報を入手するのは難しいはずだ。それなら同じテニス部の菊丸から攻めるのが賢い選択だろう。
「ん~……テニス部ってことだろ?」
菊丸は顎に手を当てて、天井を見上げた。
「ううん。詳しかったら誰でもいいんだけど、いる?」
テニス部でいなかったら誰に聞けばいいんだろう。菊丸と手塚くんってまず仲いいのかな。尋ねた後から不安が襲う。菊丸は当てはまる解答が見つかったのか、顔を綻ばせた。
「大石かな~。一年のときから結構話してたし」
「大石くんか……」
確かに部長、副部長の間柄だし、一年からちゃんと話してたなら手塚くんのことをよく知っていておかしくない。それに保健委員長の大石くんなら聞きやすそうだ。
大石くんに確定しようとした瞬間、菊丸はもう一人思い浮かんだようで、声を上げた。
「あっ、もう一人手塚の事知ってる相応しい奴がいるよん」
「誰」
食い気味に名前を聞こうとすると、菊丸は得意げに口角を上げた。
「一時間目の後、俺が連れてってあげる」
一時間目の後、菊丸は早速私を連れて他の教室へと向かった。どこに行くのか全く知らされていないせいで、微量の緊張感が走っていた。
「たーのもー!」
勢いよく教室の中を突っ切っていく菊丸。自分の友人がいないクラスのせいで、菊丸の後をこそこそと着いていった。辿り着いた先にいたのは、私も知っている乾くんだった。
「おっと、珍しい客人だな」
まるで来ることが分かっていたような口ぶりで開いていたノートを閉じる。菊丸の言ってた相応しい人物って、もしかして。
「乾くん?」
菊丸の方を見て確認すると、大きく頷いて肯定した。
「そそ。乾なら一番詳しいと思うよん」
乾くんとは今までこれといった接点がないため、いきなり手塚くんのことを尋ねても良いのだろうか。何となく躊躇っていると、乾くんは心の内を知っていたかのように言い当てる。
「名字さんは、手塚の情報を探りに来たのかな?」
「探りにって……間違ってはないけど言い方やだな……」
彼が手塚くんだと言い当てたのは、昨日の出来事のせいだろう。菊丸が目撃していたのだから、乾くんも見ていた可能性は十分にある。
「それで、手塚の何をご所望かな?」
ノートを捲り始める乾くんだけれど、突然のことでこれと言った質問はなかった。
「ん~別に特に決めてきたわけじゃないけど、好きな物ぐらいは聞きたいかな」
次に話す機会があるときに使える情報なら何でもいい。知らない事でも事前に調べれば話題は振りやすくなる。乾くんは再びノートを閉じると、眼鏡を光らせて交換条件を提示してきた。
「じゃあ教える代わりに、君のデータを取ってもいいかな?」
「私の?」
「ああ。その方がいろいろ面白いと思ってね」
「いろいろ」が酷く気になった。朝の菊丸の態度といい、今の乾くんといい、何か勘違いをされている気がする。私がなりたいのは、ただの友人であって、それ以上になりたい訳じゃない。
「交換条件だとしても嫌だなあ」
唇を尖らせ、あからさまに嫌な態度を取ると、彼は不敵に笑った。
「じゃあ考えておいてくれないか。いつでもデータは提供するさ」
「うーん。考えとく」
結局何も得ることなく、チャイムが鳴ってしまった。余分に揶揄われてしまい、これなら直接手塚くんに聞けばよかったと少しだけ後悔した。
***
翌日の休み時間。友人と会話をしている最中に、ふと、廊下を見ると手塚くんがいた。珍しいな、と感想を抱きながら目は彼を追いかける。どこに行くんだろう。すると、彼は私のいる教室で止まった。
「あれ、手塚。珍しいじゃん」
手塚くんの元に菊丸が駆け寄った。周囲の話し声で会話の内容は聞こえないけれど、大方部活の話だろうと結論付ける。
「もう、名前。聞いてる?」
「え、ああ、ごめん。聞いてなかった」
意識を友人の方へ戻すと、頬を膨らませて怒っていた。今のは私が明らかに悪かった。今度は彼女が廊下の方を見ると、一言言い放った。
「名前さあ、手塚くんのこと見すぎ」
「手塚」という固有名詞が心臓の動きを速める。長時間見ていた自覚がないせいで、強く否定できない。
「見てない」
「どうだか~」
目を逸らす私に、彼女は上目遣いで合わせようとしてくる。その顔は、新たなおもちゃを見つけた子供のようだった。昨日見た乾くんの顔と重なってむず痒くなる。
すると、菊丸がいつの間にか私達の元へ近寄ってきた。手塚くんと話が終わったのかと思っていたけれど、全く見当違いだった。
「手塚からお呼び出しだよん」
「私?」
自身を指差して確認すると、菊丸はにっこりと笑って頷いた。まただ。友人と乾くんと同じ顔をしている。菊丸を避けて扉の所に目をやれば手塚くんは扉のところで一人立っていた。この場から席を立つことを断ろうと友人に首だけ回したけれど、私の言葉を待つ前に彼女は呆れた顔で手を振っていた。力のなさが適当さを醸している。
「はいはい、いってらっしゃい」
彼女の態度が気に入らなくて、目を細めるけれど彼を待たせたくない。慌てて席を立ち、手塚くんの元へと向かった。
「どうしたの?」
私に用件があるなら生徒会の話だろうか。大概生徒会全員に話が回る前に、会長から副会長に話がいく。今回もそうであろうと予測したが、また私は見当はずれだった。
「昨日、乾に俺の事を聞いたのか」
「え、ああ……うん」
昨日の事を辿りながら頷く。しかし、私の動きはここで止まる。もしかして、私が聞きに行ったことを菊丸か乾くんが手塚くんに告げ口したのか。ご丁寧に言わなくてもいいじゃない、と恐らく犯人であろう二人を恨んだ。脳内で嘆いていると、手塚くんは腕を組んだまま、違う角度で切り込んできた。
「なぜ俺に聞かない」
「え?」
聞いたことには怒ってないのか。嗅ぎまわる真似をしたことに怒っているのか、と次の言葉を慎重に選ぶ。
「あ、ああ。ごめんね。でも、何も聞いてないから」
謝罪と共に、情報は何一つとして入手していないことを伝えると、彼は私を凝視した。勝手に回る口が言い訳を並べる。
「次話すとき、どういう話題だと盛り上がるかなって菊丸に相談したら乾くんを介されて。本人に聞かずに、嫌な気持ちにさせちゃったね」
しおらしく笑って見せるけれど、通常以上の鼓動が止まらない。
「手塚くんともっと話したかったから。それだけの理由なの」
そう言うと、彼の瞳が揺れ動いた。真っ直ぐ見つめてくれていた瞳が私から逸れる。相対している私だからこそ、一瞬の動きに気付けた。
「そう、なのか」
「うん、ごめんね。本人に聞かずコソコソと」
滅多に感情を表に出さない手塚くんの珍しい姿に口元が余裕を見せてしまう。素直すぎるぐらいが彼と話すには丁度良いのかもしれない。
「いや、かまわない。次からは直接俺に聞いてくれ」
「ん、そうする」
会話する壁が一気に下がった。みんな、知らないんだろうな。手塚くんが想像より表情が豊かで、真摯で優しいことを。他の女子が知らない、私だけが知ってる手塚くん。知らず内に欲深くなっていた私は、彼に一つの提案をした。調子に乗った今だから出来る業。両手を合わせて、たった今思いついたように声を上げて笑いかける。
「そうだ。手塚くんさえ良かったら一緒にお昼食べない? 週に一回だけでも」
高揚しているのか、声のトーンが上がっていた。完全にはしゃいでいるのが嫌でも分かる。普段誰といるのかは全く知らないけれど、一日ぐらい譲って欲しいと願った。私の提案に、彼の瞬きはあからさまに増える。面白いほど変わって見える彼の表情は見ていて飽きない。手塚くんへの探求心はとどまることを知らない。
「お前はそれでいいのか?」
「私から提案してるんだから、良いに決まってる」
もう一押しすると、彼は首を縦に振ってくれた。言ってみるものだなあ、と自分の行動力を密かに褒めた。
「わかった。ならば明日の昼に迎えに来る」
「うん。待ってるね」
手塚くんは小さく頷くと、自身の教室へと戻っていった。新たな約束を取り付けて気分が上がったせいか、去っていく手塚くんの背に小さく手を振り続けていた。明日かあ、と急な予定に頬が緩む。手塚くんも楽しみにしてくれてるのかな。だって、彼から「明日」と決めてくれたから。ふふ、と零れる笑顔を両手で覆い隠していると、隣から手塚くんとは違う低い声が降ってきた。
「ふむ。名字さんは意外と積極的なのか」
「わっ……びっくりした……」
全身が跳ね、声のする方へと体ごと向ける。いつの間に潜んでいたのか、私の隣にはノートに何かを書き込んでいる乾くんと気の抜けた笑顔を浮かべている菊丸がいた。
「菊丸に呼ばれてね。面白いデータが取れると」
乾くんは書き終えたのか、ノートを閉じた。手塚くんと話していただけなのに、面白い扱いされることに不満を覚える。
「何にも面白くないし」
溜息交じりに不満をぶつけると、菊丸は私の両肩に手を置いて明るい声で更に茶化した。
「いいじゃん、いいじゃん」
何がいいのか説明してほしい。私は菊丸を振りほどき、席へと戻った。二人に絡まれたせいで既に冷静さを取り戻していた。友人は目を細めて微笑みながら私の帰りを待っていたようだ。
「何の話だったの?」
彼女の質問に、私は何でもないような普通のトーンで答えた。
「一緒にお昼食べようって話」
「えっ、いつ?」
「明日」
「ええええええ!」
友人はひっくり返りそうな勢いでその場に飛び上がっていた。
次の日の昼休み。約束通り、手塚くんは私を迎えに来た。姿が見えた瞬間にお弁当を持って席を立った。
「名字」
教室を覗いて名前を呼んでくれる手塚くんの元へ駆け寄る。約束していたとはいえ、彼が私を迎えに来たという現実に喜びを隠せない。好きだからじゃなく、他にいないから自分が特別に思えて仕方がない。同学年で彼と一番仲のいい異性になれるんじゃないかと期待してしまっている。
「うん、行こっか」
二人で並んで歩く廊下。いつもより近い距離が心臓を騒がしくさせる。生徒会長と副会長という関係が功を奏したのか、周囲の同級生は私達を気にしない。少し上にある端正な顔は涼やかで私の目を奪う。まだ知らない彼の顔が見られると思うと胸が膨らむ。
「どうかしたか?」
「ううん、何も。見てただけ」
さすがに視線が煩かったのか、気付かれてしまった。残念に思いつつも、彼の態度を最後まで追った。普段と変わりはなかったけれど、近距離なだけで私にとっては十分過ぎる。
***
「あれ、今日名前は?」
机を合わせていると、一人の子が名前の存在がないことに気付いた。私は初めから気付いていたけど、あの子の性格を配慮して二人には言わなかった。いつも私と名前と二人の計四人でお昼を一緒に食べているけど、事前にしっかりと聞いていた私は名前の背中を押していた。それはもう驚いたけれど、私が提供してあげられないような顔をして喜ぶから「よかったね」としか言えなかった。少しだけ手塚くんを羨んだ。
「手塚くんとご飯だって」
唯一私だけが知っている情報を差し出すと、二人は目を丸くさせて驚いていた。席に着こうとすると、二人は声を潜め、本質を突いてきた。
「前から気になってたんだけど、あの二人って……」
「付き合ってないよ」
食い気味に訂正した。二人の相性が良さそうだと思ったのは事実。でも、突然仲良くなるなんて予想してなかったから不安で一杯になる。あの子との関係は二年程度だけれど、誰よりも濃密な関係を築いてきたつもり。距離を詰める事に時間ではないというけれど、どうしても苛立ちを隠せなかった。友達にも限界があるんだと突きつけられてしまったから。
そんな私の気持ちを知らない二人は、口をあんぐりと開けて瞬きを繰り返している。
「嘘」
「絶対付き合ってると思ってた……」
「ね、不思議だよね」
気持ちの籠ってない言葉で話を終わらせれば、お弁当箱の蓋を開けた。手塚くんとどうなろうが、私は名前と友達だもん。関係ない。そう何度思おうとしても、胸の中でつっかえたものは取れそうにない。
「ちょっと、寂しいなあ」
いつも甘い卵焼きが、今日ばかりは味気なかった。
***
私達が向かったのは、選択科目以外では使わない教室。誰もいないのを確認してから電気を点けると窓際の席へと移動した。先程まで使われていたのか、空気はほんのりと温かい。私達は向かい合って座ると、各々のお弁当箱を開いた。
「いただきます」
「いただきます」
同時に両手を合わせ、小さく頭を下げた。お箸を持つ手や姿勢、おかずを口に運ぶ姿まで絵になってしまう。ちらりと箱の中を覗くと、色鮮やかなおかずが並んでいた。運動部だからか、私のお弁当箱より随分と大きい。
「手塚くんのお弁当、すっごく美味しそう」
「そうか?」
「うん。お母さんが作ってくれたの?」
「ああ」
「料理上手でしょ。見た目から伝わる」
「そうだな。美味い」
今、雰囲気が優しくなった。小さく上がった口角が、お弁当を見つめる瞳が物語っている。それから今日の出来事を話した。頻繁に続くラリーではなかったけれど、それが良かったのかもしれない。ゆっくりと進む時間が心地よかった。
昼食を終え、約束していた話へと舵を切った。以前生徒会室で触れた、テニスの話。
「何から話せばいいだろうか」
話題は決まっているものの、初っ端のルート選択で迷ってしまう。腕を組んで話す順番を熟考する手塚くんの眉間には皺が寄っている。そんな真剣にならなくても、と思う反面、真摯に向き合ってくれる態度に喜びを感じてしまう。
「んーと、じゃあ……」
提案した私も私で、聞けることなんて溢れかえるほどあるせいで一番に迷う。初めは簡単なところから尋ねた方がいいだろうと思って、前のめりになって彼に尋ねた。
「いつからテニス始めたの?」
「七才からだな」
「へえ……じゃあもう七年?」
「そうだな。父が七才の誕生日にラケットをくれたんだ」
「手塚くんにとって、ぴったりだったんだね。お父さん、見抜いてたのかな」
「どうだろうな。だが、心の強さはテニスからもらった」
心の強さ、か。私と手塚くんの決定的な差が明確になった瞬間だった。歪みそうになる表情を必死に堪える。
「本当にテニスが好きなんだね」
「ああ。好きだ。と言いたいが、一言では片付けられない」
「……そっか」
対照的になっていく私と彼。差が浮き彫りになるのが、あまりにも惨めだ。必死に曇り空を掃うけれど、無意識で引き攣るものには耐えられない。蓋をしていた過去を少しだけ覗いてしまった私は、その中から一つだけ摘まみ出した。
「プロ、目指してるの?」
そう尋ねると、彼は一瞬だけ目を見開いた。そしてワンテンポ遅れて肯定した。
「……ああ」
「やっぱり。そんな顔してる」
伏目がちに微笑んだ。昔私に宣言した、あの男の子の瞳と、手塚くんの瞳が重なって見えた。私にはない、静かに燃える炎。
「嫌になった事、ないの?」
聞かなければいいのに、口は勝手に動く。自分が惨めになるだけなのに、彼の底まで知ろうとしている。醜い自殺行為に近い。私はいつの間にか、手の甲を撫でるように何度も触っている。手塚くんは私の異変を察知したのか、切れ長の瞳が鋭くなった。
「やっぱ何でもない。忘れて」
張りぼての笑顔が左右に揺れた。もし、私のことを聞かれれば、話せる自信がない。ヒリヒリと火傷しそうな線上で綱渡りをしている。命綱のない道化師のようで、今にも笑いだしそうだった。
手塚くんは一つ呼吸を整えると、硬度を増した声色で教えてくれた。
「……ないと言えば、嘘になる。だが、本気で辞めようと思ったことはない」
「それは、羨ましいな」
もう治療不能な心の傷。彼には一生分からないんだろう。私の気持ちが。しかし、羨ましい、という言葉が彼が抱いた私への違和感の確定的な証拠になってしまった。
「……名字?」
名前を呼んで、表情を窺ってくる。
「ううん。何でもない。気にしないで」
手をひらひらと羽ばたかせ、顔の前へと移動させる。力強く目を閉じて笑って見せた。彼の顔を見ていられない。舞台の上で戦う者として、私は彼と相対せないのだ。
「そう。私手塚くんにお願いしたいことがあって」
意識的に声の明度をワントーン高くして、両の掌を合わせた。先程の話題の区切りをつけた合図だった。
「なんだ」
「名前で呼んでもいい?国光くんって」
提案は面白半分だった。彼の事を名前で呼ぶ人を知らないから、初めて呼ぶ同級生になりたかっただけ。すると、意外にも手塚くんは二つ返事で私の提案を受け入れてくれた。
「ああ。構わない」
「本当に? やった」
あまりにもあっさりした了承だったから、反応が少し遅れた。手塚くん、いや国光くんは私の喜びようを見て、首を傾げていた。
「そんなに喜ぶことか?」
「もしかしたら断られるかもって思ってたから」
他に国光って呼ぶ人を知らないから。理由はそれだけだけど。
「名前を呼ばれるのに、断る理由がない」
「それもそっか」
国光くんの言い分に納得しつつ、私が呼び始めることで他の子まで呼び始めたらどうしようと若干不安を覚えた。ふと、この流れでいけば、ともう一つ案が浮かんだ。
「じゃあ、国光くんも私の事名前で呼んでもいいよ」
流石に呼ぶわけないか、と高を括っていたが、彼は簡単に飛び越えてくる。
「名前」
一気に顔に熱が集った。スポットライトに当てられた熱よりも比にならないくらいの熱さが私を襲う。言ったのは私だけれど、そんな突然に言われてしまったら心の準備が出来てない。国光くんの顔を見られなくなってしまった私は、真っ赤になった顔を手の甲で隠しながら目を背けた。
「ッ、け、結構照れるね……」
湯気が上がってるんじゃないかと思うほど頭がくらくらとする。一瞬だけ国光くんの方を見ると、拗ねたように口角が下がっていた。
「お前が先に始めたんだろう」
「そうだけど……」
国光くんに呼ばれるのと、菊丸に呼ばれるのじゃあ、明らかに格差がある。菊丸に何度呼ばれようとも体が熱くなるなんてことは全くないけれど、国光くんだとカテゴライズが違いすぎる。
「ふふ、特別感あっていいかも」
へらへらと笑って誤魔化すしか出来なかった。名前を呼ぶだけで面白いほど感情が変動する。その瞬間、丁度予鈴が鳴り、二人の時間が終わりを告げた。
「あー鳴っちゃった。戻ろっか」
先に席を立つと、国光くんは最後に尋ねた。
「一つ、聞いてもいいか」
「うん」
「なぜ俺に構う?」
彼の質問に目を背け、考えるふりをした。ただ友達になりたいだけで、それ以上でもそれ以下でもない。国光くんのことを知りたかった。好奇心が私を突き動かした。あの人達の思うような事ではない。自身の中で再確認してから、彼に伝えた。
「……仲良くなりたいから。それだけ」
控えめに微笑んで答えると、彼は全て呑み込めなかったようだ。ぎこちなく、「そうか」とだけ呟いた。
私はこの時気付いていた。尊敬や憧憬、羨望、嫉妬。全てひっくるめて彼に惹かれていた。奥底にある情は、如実に膨らんでいる。それでも知らないフリをし続けるのは、私に覚悟がなかったから。自分自身を曝け出す覚悟が。
***
「そうなんだ。お父さんも登山好きなんだ」
週に一度の国光くんとの昼食。初回から数度回数を増やしたところで、珍しく彼の方か私についての話が投げられた。
「名前、」
「ん?」
「お前の事も、教えてくれないか」
真っ直ぐに見つめられ、目が泳ぐ。私が話せるのはピアノぐらいだから避けたかった。
「私?」
「ああ」
自身を指差してから確認する。そして少し唸った。
「私つまんないよ? 何もないから」
「何だっていい。名前の事が知りたい」
正面突破の物言いに、引くに引けない。
「え、えっと……何から話そうかな」
手の甲を触りながら話題を探す。人生の大半はピアノで出来ているし、楽観的に話せるのはここ一年の内容だけ。私があまりに切り出しづらそうにしていたせいか、国光くんは私について知っている事を口にした。
「菊丸が……国語の授業、朗読担当は名前だと言っていた」
気を利かせてくれたのか、菊丸から聞いた私を引き出してくれた。ピアノに触れなくていいんだ、と頭の中で菊丸にお礼を言った。
「あ、ああ。よく当てられるんだよね。日付がどうだろうと一番は私なの」
なんでだろうね、と笑いながら言った。
国語の授業、朗読すると寝始める子が多いのに先生は私を当てるのをやめない。読むだけだから一向に構わないけれど、昼食後の五時間目は地獄絵図のようにクラスメイトが寝始める。先生もやめればいいのに。
すると、国光くんはこちらを見ることなく、淡々と答えを教えてくれた。
「先生の気持ちも分からなくはない」
「……どうして?」
「お前の声は心地良い。よく通る、良い声だ」
顔の力が抜け、表情が柔らかくなる。その顔で、その言葉は、とても狡い。
「どうした? 顔が赤いぞ」
何も知らない顔をして戸惑う私を指摘する。質の悪い言葉が私をかき乱す。
「真正面から褒められると恥ずかしい……です」
ぽこぽこと水泡が浮かんでは弾け、浮かんでは弾けを繰り返すように赤くなる頬。相手が国光くんなのが悪い。
照れているのが伝わったのか、国光くんは狼狽えていた。顔には出ていないけれど、きょろきょろと動く瞳が教えてくれる。
「その、すまない」
「謝らないでよ。悪い事言ってるわけじゃないんだし」
手で顔を扇ぎ、彼の称賛を受け取った。
「ありがと。そんなこと初めて言われたから嬉しい」
「そうか」
まだ温かい頬にハリを持たせて微笑む。彼は安心したのか、目元が和らぐ。
「私も国光くんの声、素敵だなあって思うよ。ふくよかで、包み込むような温かさがある。安心感って言えばいいのかな。好きだな」
お返しをするように伝えれば、今度は国光くんに異変が起こった。
「……そうか」
私から目を逸らそうとしている首の動きがロボットのようにぎこちない。そこで私は自分の発した言葉を思い返した。最後に付け加えた「好きだな」の四文字。彼の態度が変わったのは、これか、と確定させると、すかさず突っ込んだ。
「照れてる」
「照れてない」
間髪入れずに否定してくる国光くんに声を出して笑ってしまった。ムキになって言い返す国光くんが意外だったから。
私が落ち着きを取り戻すと、彼は話を元に戻した。
「何か、トレーニングでもしているのか?」
「ん~……声の出し方かあ……」
顎に手を当てて考えてみると、一つだけ答えが浮かんだ。思わず、「あ、」と声が漏れる。
「私のお母さん、音大で声楽専攻してたんだよね。発声の仕方とか、喉の調子の整え方は教えてもらったな。でも、それぐらいだよ」
「ほう。そうなのか」
「うん。お母さんは歌で、お父さんはピアノ。他にもいろいろ出来るみたいだけど、基本的にはそんな感じ」
自分自身の事には触れずに答えた。このまま軌道が傾けばいいのに、と願っても、上手くいくわけがない。勿論彼は何も知らないのだから、当たり前なのだけれど。
「名前は何かやってないのか?」
予測していた質問がやってきた。人畜無害な顔をしてやってきた。
「あー……ピアノ、やってた」
食いしばるように言えば、彼は過去形を突いた。
「今はやってないのか」
「一年ぐらい前にやめちゃった。いろいろあって弾けなくなっちゃって」
無意識に手の甲を触り始めてしまう。事実を露呈しなければならない環境が迫りくるのを静かに耐える。
「でもね、昔は賞もらったりしたんだよ。もう、ずっと前の事だけど」
努めて明るく振舞うけれど、国光くんの表情は変わらない。読めない。いつもなら判断が何となくでもつくのに、今だけは分からない。
「なんか、暗くなっちゃったね。ごめん」
反応のない時間を恐れ、シャッターを下ろした。
「いや、いい。俺から聞いたんだ」
分からなかった顔が変化した。どこか物悲しそうな、悲哀が漂っていた。
***
春の陽気が訪れつつも、寒さの残る季節。休みの日に、私は父親のいる書斎の戸をコンコンとノックした。
「お父さん、今いい?」
「ああ、いいぞ」
戸を開けると、アンティークの家具と父が私を迎えた。壁一面には棚が一杯に敷き詰められ、様々な形の書籍が背を並べている。父は、体がすっぽり埋まるオフィスチェアに座ったまま笑顔を浮かべていた。
「どうしたんだ?」
相変わらず目尻に皺を寄せて笑う。幾分か、目尻の皺が濃くなったような気がする。私は壁の棚を一瞥してから父に問うた。
「お父さんって、洋書たくさん持ってたよね?」
普段と変わらない世間話のような調子で話す。今まで洋書について興味を持っていなかったせいか、父は目を白黒とさせて目尻の皺を伸ばした。
「ああ……持ってるが、それがどうしたんだ?」
「私でも読める本あるかな」
私の言葉に、きょとんとした顔が一気に晴れやかになった。突然立ち上がると、大声で叫ぶように肯定した。
「あ、ああ!もちろん!」
「ほんと?」
棚に近寄る父に次いで並んで背表紙を眺めた。年代物から最新のものまでぎっしりだった。英語は苦手ではないけれど、見慣れぬフォントのせいで読み取れない。
「どういう話が好きなんだ?」
「お父さんのオススメでいいや。わかんないし」
「んーとじゃあなあ、」
投げやりな態度に取られてもおかしくない返事でも、父は真剣に背表紙と睨めっこしている。洋書初心者の私にとっては、そんな真剣にならなくても、と暢気に考えていた。
比較的幅の狭い本を一冊、二冊取り出す父に、私は追加でお願いをした。
「あ、あとさ」
「ん?」
「お父さんのお気に入りってどれ?」
私が読むわけではないけれど、必要だった。理由は言えないけれど、どうしても必要だった。
父は真剣な表情を崩さず、棚の上の方から分厚い本を一冊取り出した。
「んー……僕が好きなのはこれかなあ」
「難しい?」
「そうだな。中学生にはまだ早いかもしれんなあ」
手に取ったまま、再び表紙と睨めっこをする父。少々の難易度は、彼なら軽く飛び越えるんだろうと勝手に予測して父から奪うように受け取った。
「これ、借りていい?」
「初心者だと、かなり時間かかるぞ?」
「いいの」
父に本心を悟られないように、目当ての本を数冊入手すると、私はすぐに部屋を出た。今度のお昼に彼に渡す用と、私が読む用。これでもっと話せる、と彼との昼食を待ち望んでいた。
その後、父はふらふらと部屋を出ると、母に涙ながらにこう言ったそうだ。
「母さん……聞いてくれ」
「どうしたの?」
「名前が洋書に興味を持ってくれたんだ……!」
ガッツポーズをする父。母はそんな姿を見て微笑んでいたようだったが、それは父だけじゃなく、私にも向けられているようだった。
「ねえねえ、名前ってば~!」
「なに菊丸~……」
腕を掴んで寝ぼけ眼の私を揺さぶる。ほとんど閉じた瞼で菊丸の方に顔を向けると、彼の顔には焦りの色が見えた。何があったのか気にする元気はないため、菊丸を引き摺るように席へと移動する。その間にも菊丸は「ちゃんと聞いてよお!」と肩を揺らす。左右に揺れながら机に荷物を置いたとき、私はようやく菊丸の話に耳を傾けた。
「なに、じゃないよ!手塚とめっちゃ仲良しじゃんか~!」
聞き間違いをしたのかな。マフラーを外しながら「仲良し?」と一番引っかかった部分だけをピックアップして聞き返した。
「昨日手塚と一緒に出てきたじゃん!」
「あー……そうだね」
確かに昨日は手塚くんと校舎から出てきた。たった一回一緒に出てきただけで騒ぐことかと首を傾げる。
「なんでなんで~」
意地でも聞こうとしてくる菊丸に対して、溜息交じりに答えた。
「なんでって、生徒会の用事があったから一緒に出てきただけなんだけど」
「ほんとに?」
「本当だよ」
しつこく尋ねる菊丸を不思議に思った。他の人と一緒にいようとも何も言わないくせに、手塚くん相手だとこうも変わるのか。ようやく納得したのか、菊丸はそっと胸を撫で下ろしていた。
「そっかあ。俺ってば早とちり?」
にゃはは、と笑う。またも「早とちり」の部分が引っかかる。
「早とちりって……一緒に出てくるぐらいあるでしょ」
「ん~……でも、相手が手塚だからなあ」
不満げに言う私とは対照的に、菊丸はにこにこと笑顔で答える。余程手塚くんは異性と仲良くないと見た。確かに仲睦まじく誰か女の子といるところも想像できない。
「ねえ菊丸」
「ん、 何々?」
「手塚くんに詳しい人って誰?」
ようやく起きた目で真剣に尋ねる。手塚くんと仲良くなるなら情報は少しでも多い方がいい。菊丸の言葉からして、同性の友人達に尋ねても手塚くんに関する情報を入手するのは難しいはずだ。それなら同じテニス部の菊丸から攻めるのが賢い選択だろう。
「ん~……テニス部ってことだろ?」
菊丸は顎に手を当てて、天井を見上げた。
「ううん。詳しかったら誰でもいいんだけど、いる?」
テニス部でいなかったら誰に聞けばいいんだろう。菊丸と手塚くんってまず仲いいのかな。尋ねた後から不安が襲う。菊丸は当てはまる解答が見つかったのか、顔を綻ばせた。
「大石かな~。一年のときから結構話してたし」
「大石くんか……」
確かに部長、副部長の間柄だし、一年からちゃんと話してたなら手塚くんのことをよく知っていておかしくない。それに保健委員長の大石くんなら聞きやすそうだ。
大石くんに確定しようとした瞬間、菊丸はもう一人思い浮かんだようで、声を上げた。
「あっ、もう一人手塚の事知ってる相応しい奴がいるよん」
「誰」
食い気味に名前を聞こうとすると、菊丸は得意げに口角を上げた。
「一時間目の後、俺が連れてってあげる」
一時間目の後、菊丸は早速私を連れて他の教室へと向かった。どこに行くのか全く知らされていないせいで、微量の緊張感が走っていた。
「たーのもー!」
勢いよく教室の中を突っ切っていく菊丸。自分の友人がいないクラスのせいで、菊丸の後をこそこそと着いていった。辿り着いた先にいたのは、私も知っている乾くんだった。
「おっと、珍しい客人だな」
まるで来ることが分かっていたような口ぶりで開いていたノートを閉じる。菊丸の言ってた相応しい人物って、もしかして。
「乾くん?」
菊丸の方を見て確認すると、大きく頷いて肯定した。
「そそ。乾なら一番詳しいと思うよん」
乾くんとは今までこれといった接点がないため、いきなり手塚くんのことを尋ねても良いのだろうか。何となく躊躇っていると、乾くんは心の内を知っていたかのように言い当てる。
「名字さんは、手塚の情報を探りに来たのかな?」
「探りにって……間違ってはないけど言い方やだな……」
彼が手塚くんだと言い当てたのは、昨日の出来事のせいだろう。菊丸が目撃していたのだから、乾くんも見ていた可能性は十分にある。
「それで、手塚の何をご所望かな?」
ノートを捲り始める乾くんだけれど、突然のことでこれと言った質問はなかった。
「ん~別に特に決めてきたわけじゃないけど、好きな物ぐらいは聞きたいかな」
次に話す機会があるときに使える情報なら何でもいい。知らない事でも事前に調べれば話題は振りやすくなる。乾くんは再びノートを閉じると、眼鏡を光らせて交換条件を提示してきた。
「じゃあ教える代わりに、君のデータを取ってもいいかな?」
「私の?」
「ああ。その方がいろいろ面白いと思ってね」
「いろいろ」が酷く気になった。朝の菊丸の態度といい、今の乾くんといい、何か勘違いをされている気がする。私がなりたいのは、ただの友人であって、それ以上になりたい訳じゃない。
「交換条件だとしても嫌だなあ」
唇を尖らせ、あからさまに嫌な態度を取ると、彼は不敵に笑った。
「じゃあ考えておいてくれないか。いつでもデータは提供するさ」
「うーん。考えとく」
結局何も得ることなく、チャイムが鳴ってしまった。余分に揶揄われてしまい、これなら直接手塚くんに聞けばよかったと少しだけ後悔した。
***
翌日の休み時間。友人と会話をしている最中に、ふと、廊下を見ると手塚くんがいた。珍しいな、と感想を抱きながら目は彼を追いかける。どこに行くんだろう。すると、彼は私のいる教室で止まった。
「あれ、手塚。珍しいじゃん」
手塚くんの元に菊丸が駆け寄った。周囲の話し声で会話の内容は聞こえないけれど、大方部活の話だろうと結論付ける。
「もう、名前。聞いてる?」
「え、ああ、ごめん。聞いてなかった」
意識を友人の方へ戻すと、頬を膨らませて怒っていた。今のは私が明らかに悪かった。今度は彼女が廊下の方を見ると、一言言い放った。
「名前さあ、手塚くんのこと見すぎ」
「手塚」という固有名詞が心臓の動きを速める。長時間見ていた自覚がないせいで、強く否定できない。
「見てない」
「どうだか~」
目を逸らす私に、彼女は上目遣いで合わせようとしてくる。その顔は、新たなおもちゃを見つけた子供のようだった。昨日見た乾くんの顔と重なってむず痒くなる。
すると、菊丸がいつの間にか私達の元へ近寄ってきた。手塚くんと話が終わったのかと思っていたけれど、全く見当違いだった。
「手塚からお呼び出しだよん」
「私?」
自身を指差して確認すると、菊丸はにっこりと笑って頷いた。まただ。友人と乾くんと同じ顔をしている。菊丸を避けて扉の所に目をやれば手塚くんは扉のところで一人立っていた。この場から席を立つことを断ろうと友人に首だけ回したけれど、私の言葉を待つ前に彼女は呆れた顔で手を振っていた。力のなさが適当さを醸している。
「はいはい、いってらっしゃい」
彼女の態度が気に入らなくて、目を細めるけれど彼を待たせたくない。慌てて席を立ち、手塚くんの元へと向かった。
「どうしたの?」
私に用件があるなら生徒会の話だろうか。大概生徒会全員に話が回る前に、会長から副会長に話がいく。今回もそうであろうと予測したが、また私は見当はずれだった。
「昨日、乾に俺の事を聞いたのか」
「え、ああ……うん」
昨日の事を辿りながら頷く。しかし、私の動きはここで止まる。もしかして、私が聞きに行ったことを菊丸か乾くんが手塚くんに告げ口したのか。ご丁寧に言わなくてもいいじゃない、と恐らく犯人であろう二人を恨んだ。脳内で嘆いていると、手塚くんは腕を組んだまま、違う角度で切り込んできた。
「なぜ俺に聞かない」
「え?」
聞いたことには怒ってないのか。嗅ぎまわる真似をしたことに怒っているのか、と次の言葉を慎重に選ぶ。
「あ、ああ。ごめんね。でも、何も聞いてないから」
謝罪と共に、情報は何一つとして入手していないことを伝えると、彼は私を凝視した。勝手に回る口が言い訳を並べる。
「次話すとき、どういう話題だと盛り上がるかなって菊丸に相談したら乾くんを介されて。本人に聞かずに、嫌な気持ちにさせちゃったね」
しおらしく笑って見せるけれど、通常以上の鼓動が止まらない。
「手塚くんともっと話したかったから。それだけの理由なの」
そう言うと、彼の瞳が揺れ動いた。真っ直ぐ見つめてくれていた瞳が私から逸れる。相対している私だからこそ、一瞬の動きに気付けた。
「そう、なのか」
「うん、ごめんね。本人に聞かずコソコソと」
滅多に感情を表に出さない手塚くんの珍しい姿に口元が余裕を見せてしまう。素直すぎるぐらいが彼と話すには丁度良いのかもしれない。
「いや、かまわない。次からは直接俺に聞いてくれ」
「ん、そうする」
会話する壁が一気に下がった。みんな、知らないんだろうな。手塚くんが想像より表情が豊かで、真摯で優しいことを。他の女子が知らない、私だけが知ってる手塚くん。知らず内に欲深くなっていた私は、彼に一つの提案をした。調子に乗った今だから出来る業。両手を合わせて、たった今思いついたように声を上げて笑いかける。
「そうだ。手塚くんさえ良かったら一緒にお昼食べない? 週に一回だけでも」
高揚しているのか、声のトーンが上がっていた。完全にはしゃいでいるのが嫌でも分かる。普段誰といるのかは全く知らないけれど、一日ぐらい譲って欲しいと願った。私の提案に、彼の瞬きはあからさまに増える。面白いほど変わって見える彼の表情は見ていて飽きない。手塚くんへの探求心はとどまることを知らない。
「お前はそれでいいのか?」
「私から提案してるんだから、良いに決まってる」
もう一押しすると、彼は首を縦に振ってくれた。言ってみるものだなあ、と自分の行動力を密かに褒めた。
「わかった。ならば明日の昼に迎えに来る」
「うん。待ってるね」
手塚くんは小さく頷くと、自身の教室へと戻っていった。新たな約束を取り付けて気分が上がったせいか、去っていく手塚くんの背に小さく手を振り続けていた。明日かあ、と急な予定に頬が緩む。手塚くんも楽しみにしてくれてるのかな。だって、彼から「明日」と決めてくれたから。ふふ、と零れる笑顔を両手で覆い隠していると、隣から手塚くんとは違う低い声が降ってきた。
「ふむ。名字さんは意外と積極的なのか」
「わっ……びっくりした……」
全身が跳ね、声のする方へと体ごと向ける。いつの間に潜んでいたのか、私の隣にはノートに何かを書き込んでいる乾くんと気の抜けた笑顔を浮かべている菊丸がいた。
「菊丸に呼ばれてね。面白いデータが取れると」
乾くんは書き終えたのか、ノートを閉じた。手塚くんと話していただけなのに、面白い扱いされることに不満を覚える。
「何にも面白くないし」
溜息交じりに不満をぶつけると、菊丸は私の両肩に手を置いて明るい声で更に茶化した。
「いいじゃん、いいじゃん」
何がいいのか説明してほしい。私は菊丸を振りほどき、席へと戻った。二人に絡まれたせいで既に冷静さを取り戻していた。友人は目を細めて微笑みながら私の帰りを待っていたようだ。
「何の話だったの?」
彼女の質問に、私は何でもないような普通のトーンで答えた。
「一緒にお昼食べようって話」
「えっ、いつ?」
「明日」
「ええええええ!」
友人はひっくり返りそうな勢いでその場に飛び上がっていた。
次の日の昼休み。約束通り、手塚くんは私を迎えに来た。姿が見えた瞬間にお弁当を持って席を立った。
「名字」
教室を覗いて名前を呼んでくれる手塚くんの元へ駆け寄る。約束していたとはいえ、彼が私を迎えに来たという現実に喜びを隠せない。好きだからじゃなく、他にいないから自分が特別に思えて仕方がない。同学年で彼と一番仲のいい異性になれるんじゃないかと期待してしまっている。
「うん、行こっか」
二人で並んで歩く廊下。いつもより近い距離が心臓を騒がしくさせる。生徒会長と副会長という関係が功を奏したのか、周囲の同級生は私達を気にしない。少し上にある端正な顔は涼やかで私の目を奪う。まだ知らない彼の顔が見られると思うと胸が膨らむ。
「どうかしたか?」
「ううん、何も。見てただけ」
さすがに視線が煩かったのか、気付かれてしまった。残念に思いつつも、彼の態度を最後まで追った。普段と変わりはなかったけれど、近距離なだけで私にとっては十分過ぎる。
***
「あれ、今日名前は?」
机を合わせていると、一人の子が名前の存在がないことに気付いた。私は初めから気付いていたけど、あの子の性格を配慮して二人には言わなかった。いつも私と名前と二人の計四人でお昼を一緒に食べているけど、事前にしっかりと聞いていた私は名前の背中を押していた。それはもう驚いたけれど、私が提供してあげられないような顔をして喜ぶから「よかったね」としか言えなかった。少しだけ手塚くんを羨んだ。
「手塚くんとご飯だって」
唯一私だけが知っている情報を差し出すと、二人は目を丸くさせて驚いていた。席に着こうとすると、二人は声を潜め、本質を突いてきた。
「前から気になってたんだけど、あの二人って……」
「付き合ってないよ」
食い気味に訂正した。二人の相性が良さそうだと思ったのは事実。でも、突然仲良くなるなんて予想してなかったから不安で一杯になる。あの子との関係は二年程度だけれど、誰よりも濃密な関係を築いてきたつもり。距離を詰める事に時間ではないというけれど、どうしても苛立ちを隠せなかった。友達にも限界があるんだと突きつけられてしまったから。
そんな私の気持ちを知らない二人は、口をあんぐりと開けて瞬きを繰り返している。
「嘘」
「絶対付き合ってると思ってた……」
「ね、不思議だよね」
気持ちの籠ってない言葉で話を終わらせれば、お弁当箱の蓋を開けた。手塚くんとどうなろうが、私は名前と友達だもん。関係ない。そう何度思おうとしても、胸の中でつっかえたものは取れそうにない。
「ちょっと、寂しいなあ」
いつも甘い卵焼きが、今日ばかりは味気なかった。
***
私達が向かったのは、選択科目以外では使わない教室。誰もいないのを確認してから電気を点けると窓際の席へと移動した。先程まで使われていたのか、空気はほんのりと温かい。私達は向かい合って座ると、各々のお弁当箱を開いた。
「いただきます」
「いただきます」
同時に両手を合わせ、小さく頭を下げた。お箸を持つ手や姿勢、おかずを口に運ぶ姿まで絵になってしまう。ちらりと箱の中を覗くと、色鮮やかなおかずが並んでいた。運動部だからか、私のお弁当箱より随分と大きい。
「手塚くんのお弁当、すっごく美味しそう」
「そうか?」
「うん。お母さんが作ってくれたの?」
「ああ」
「料理上手でしょ。見た目から伝わる」
「そうだな。美味い」
今、雰囲気が優しくなった。小さく上がった口角が、お弁当を見つめる瞳が物語っている。それから今日の出来事を話した。頻繁に続くラリーではなかったけれど、それが良かったのかもしれない。ゆっくりと進む時間が心地よかった。
昼食を終え、約束していた話へと舵を切った。以前生徒会室で触れた、テニスの話。
「何から話せばいいだろうか」
話題は決まっているものの、初っ端のルート選択で迷ってしまう。腕を組んで話す順番を熟考する手塚くんの眉間には皺が寄っている。そんな真剣にならなくても、と思う反面、真摯に向き合ってくれる態度に喜びを感じてしまう。
「んーと、じゃあ……」
提案した私も私で、聞けることなんて溢れかえるほどあるせいで一番に迷う。初めは簡単なところから尋ねた方がいいだろうと思って、前のめりになって彼に尋ねた。
「いつからテニス始めたの?」
「七才からだな」
「へえ……じゃあもう七年?」
「そうだな。父が七才の誕生日にラケットをくれたんだ」
「手塚くんにとって、ぴったりだったんだね。お父さん、見抜いてたのかな」
「どうだろうな。だが、心の強さはテニスからもらった」
心の強さ、か。私と手塚くんの決定的な差が明確になった瞬間だった。歪みそうになる表情を必死に堪える。
「本当にテニスが好きなんだね」
「ああ。好きだ。と言いたいが、一言では片付けられない」
「……そっか」
対照的になっていく私と彼。差が浮き彫りになるのが、あまりにも惨めだ。必死に曇り空を掃うけれど、無意識で引き攣るものには耐えられない。蓋をしていた過去を少しだけ覗いてしまった私は、その中から一つだけ摘まみ出した。
「プロ、目指してるの?」
そう尋ねると、彼は一瞬だけ目を見開いた。そしてワンテンポ遅れて肯定した。
「……ああ」
「やっぱり。そんな顔してる」
伏目がちに微笑んだ。昔私に宣言した、あの男の子の瞳と、手塚くんの瞳が重なって見えた。私にはない、静かに燃える炎。
「嫌になった事、ないの?」
聞かなければいいのに、口は勝手に動く。自分が惨めになるだけなのに、彼の底まで知ろうとしている。醜い自殺行為に近い。私はいつの間にか、手の甲を撫でるように何度も触っている。手塚くんは私の異変を察知したのか、切れ長の瞳が鋭くなった。
「やっぱ何でもない。忘れて」
張りぼての笑顔が左右に揺れた。もし、私のことを聞かれれば、話せる自信がない。ヒリヒリと火傷しそうな線上で綱渡りをしている。命綱のない道化師のようで、今にも笑いだしそうだった。
手塚くんは一つ呼吸を整えると、硬度を増した声色で教えてくれた。
「……ないと言えば、嘘になる。だが、本気で辞めようと思ったことはない」
「それは、羨ましいな」
もう治療不能な心の傷。彼には一生分からないんだろう。私の気持ちが。しかし、羨ましい、という言葉が彼が抱いた私への違和感の確定的な証拠になってしまった。
「……名字?」
名前を呼んで、表情を窺ってくる。
「ううん。何でもない。気にしないで」
手をひらひらと羽ばたかせ、顔の前へと移動させる。力強く目を閉じて笑って見せた。彼の顔を見ていられない。舞台の上で戦う者として、私は彼と相対せないのだ。
「そう。私手塚くんにお願いしたいことがあって」
意識的に声の明度をワントーン高くして、両の掌を合わせた。先程の話題の区切りをつけた合図だった。
「なんだ」
「名前で呼んでもいい?国光くんって」
提案は面白半分だった。彼の事を名前で呼ぶ人を知らないから、初めて呼ぶ同級生になりたかっただけ。すると、意外にも手塚くんは二つ返事で私の提案を受け入れてくれた。
「ああ。構わない」
「本当に? やった」
あまりにもあっさりした了承だったから、反応が少し遅れた。手塚くん、いや国光くんは私の喜びようを見て、首を傾げていた。
「そんなに喜ぶことか?」
「もしかしたら断られるかもって思ってたから」
他に国光って呼ぶ人を知らないから。理由はそれだけだけど。
「名前を呼ばれるのに、断る理由がない」
「それもそっか」
国光くんの言い分に納得しつつ、私が呼び始めることで他の子まで呼び始めたらどうしようと若干不安を覚えた。ふと、この流れでいけば、ともう一つ案が浮かんだ。
「じゃあ、国光くんも私の事名前で呼んでもいいよ」
流石に呼ぶわけないか、と高を括っていたが、彼は簡単に飛び越えてくる。
「名前」
一気に顔に熱が集った。スポットライトに当てられた熱よりも比にならないくらいの熱さが私を襲う。言ったのは私だけれど、そんな突然に言われてしまったら心の準備が出来てない。国光くんの顔を見られなくなってしまった私は、真っ赤になった顔を手の甲で隠しながら目を背けた。
「ッ、け、結構照れるね……」
湯気が上がってるんじゃないかと思うほど頭がくらくらとする。一瞬だけ国光くんの方を見ると、拗ねたように口角が下がっていた。
「お前が先に始めたんだろう」
「そうだけど……」
国光くんに呼ばれるのと、菊丸に呼ばれるのじゃあ、明らかに格差がある。菊丸に何度呼ばれようとも体が熱くなるなんてことは全くないけれど、国光くんだとカテゴライズが違いすぎる。
「ふふ、特別感あっていいかも」
へらへらと笑って誤魔化すしか出来なかった。名前を呼ぶだけで面白いほど感情が変動する。その瞬間、丁度予鈴が鳴り、二人の時間が終わりを告げた。
「あー鳴っちゃった。戻ろっか」
先に席を立つと、国光くんは最後に尋ねた。
「一つ、聞いてもいいか」
「うん」
「なぜ俺に構う?」
彼の質問に目を背け、考えるふりをした。ただ友達になりたいだけで、それ以上でもそれ以下でもない。国光くんのことを知りたかった。好奇心が私を突き動かした。あの人達の思うような事ではない。自身の中で再確認してから、彼に伝えた。
「……仲良くなりたいから。それだけ」
控えめに微笑んで答えると、彼は全て呑み込めなかったようだ。ぎこちなく、「そうか」とだけ呟いた。
私はこの時気付いていた。尊敬や憧憬、羨望、嫉妬。全てひっくるめて彼に惹かれていた。奥底にある情は、如実に膨らんでいる。それでも知らないフリをし続けるのは、私に覚悟がなかったから。自分自身を曝け出す覚悟が。
***
「そうなんだ。お父さんも登山好きなんだ」
週に一度の国光くんとの昼食。初回から数度回数を増やしたところで、珍しく彼の方か私についての話が投げられた。
「名前、」
「ん?」
「お前の事も、教えてくれないか」
真っ直ぐに見つめられ、目が泳ぐ。私が話せるのはピアノぐらいだから避けたかった。
「私?」
「ああ」
自身を指差してから確認する。そして少し唸った。
「私つまんないよ? 何もないから」
「何だっていい。名前の事が知りたい」
正面突破の物言いに、引くに引けない。
「え、えっと……何から話そうかな」
手の甲を触りながら話題を探す。人生の大半はピアノで出来ているし、楽観的に話せるのはここ一年の内容だけ。私があまりに切り出しづらそうにしていたせいか、国光くんは私について知っている事を口にした。
「菊丸が……国語の授業、朗読担当は名前だと言っていた」
気を利かせてくれたのか、菊丸から聞いた私を引き出してくれた。ピアノに触れなくていいんだ、と頭の中で菊丸にお礼を言った。
「あ、ああ。よく当てられるんだよね。日付がどうだろうと一番は私なの」
なんでだろうね、と笑いながら言った。
国語の授業、朗読すると寝始める子が多いのに先生は私を当てるのをやめない。読むだけだから一向に構わないけれど、昼食後の五時間目は地獄絵図のようにクラスメイトが寝始める。先生もやめればいいのに。
すると、国光くんはこちらを見ることなく、淡々と答えを教えてくれた。
「先生の気持ちも分からなくはない」
「……どうして?」
「お前の声は心地良い。よく通る、良い声だ」
顔の力が抜け、表情が柔らかくなる。その顔で、その言葉は、とても狡い。
「どうした? 顔が赤いぞ」
何も知らない顔をして戸惑う私を指摘する。質の悪い言葉が私をかき乱す。
「真正面から褒められると恥ずかしい……です」
ぽこぽこと水泡が浮かんでは弾け、浮かんでは弾けを繰り返すように赤くなる頬。相手が国光くんなのが悪い。
照れているのが伝わったのか、国光くんは狼狽えていた。顔には出ていないけれど、きょろきょろと動く瞳が教えてくれる。
「その、すまない」
「謝らないでよ。悪い事言ってるわけじゃないんだし」
手で顔を扇ぎ、彼の称賛を受け取った。
「ありがと。そんなこと初めて言われたから嬉しい」
「そうか」
まだ温かい頬にハリを持たせて微笑む。彼は安心したのか、目元が和らぐ。
「私も国光くんの声、素敵だなあって思うよ。ふくよかで、包み込むような温かさがある。安心感って言えばいいのかな。好きだな」
お返しをするように伝えれば、今度は国光くんに異変が起こった。
「……そうか」
私から目を逸らそうとしている首の動きがロボットのようにぎこちない。そこで私は自分の発した言葉を思い返した。最後に付け加えた「好きだな」の四文字。彼の態度が変わったのは、これか、と確定させると、すかさず突っ込んだ。
「照れてる」
「照れてない」
間髪入れずに否定してくる国光くんに声を出して笑ってしまった。ムキになって言い返す国光くんが意外だったから。
私が落ち着きを取り戻すと、彼は話を元に戻した。
「何か、トレーニングでもしているのか?」
「ん~……声の出し方かあ……」
顎に手を当てて考えてみると、一つだけ答えが浮かんだ。思わず、「あ、」と声が漏れる。
「私のお母さん、音大で声楽専攻してたんだよね。発声の仕方とか、喉の調子の整え方は教えてもらったな。でも、それぐらいだよ」
「ほう。そうなのか」
「うん。お母さんは歌で、お父さんはピアノ。他にもいろいろ出来るみたいだけど、基本的にはそんな感じ」
自分自身の事には触れずに答えた。このまま軌道が傾けばいいのに、と願っても、上手くいくわけがない。勿論彼は何も知らないのだから、当たり前なのだけれど。
「名前は何かやってないのか?」
予測していた質問がやってきた。人畜無害な顔をしてやってきた。
「あー……ピアノ、やってた」
食いしばるように言えば、彼は過去形を突いた。
「今はやってないのか」
「一年ぐらい前にやめちゃった。いろいろあって弾けなくなっちゃって」
無意識に手の甲を触り始めてしまう。事実を露呈しなければならない環境が迫りくるのを静かに耐える。
「でもね、昔は賞もらったりしたんだよ。もう、ずっと前の事だけど」
努めて明るく振舞うけれど、国光くんの表情は変わらない。読めない。いつもなら判断が何となくでもつくのに、今だけは分からない。
「なんか、暗くなっちゃったね。ごめん」
反応のない時間を恐れ、シャッターを下ろした。
「いや、いい。俺から聞いたんだ」
分からなかった顔が変化した。どこか物悲しそうな、悲哀が漂っていた。
***
春の陽気が訪れつつも、寒さの残る季節。休みの日に、私は父親のいる書斎の戸をコンコンとノックした。
「お父さん、今いい?」
「ああ、いいぞ」
戸を開けると、アンティークの家具と父が私を迎えた。壁一面には棚が一杯に敷き詰められ、様々な形の書籍が背を並べている。父は、体がすっぽり埋まるオフィスチェアに座ったまま笑顔を浮かべていた。
「どうしたんだ?」
相変わらず目尻に皺を寄せて笑う。幾分か、目尻の皺が濃くなったような気がする。私は壁の棚を一瞥してから父に問うた。
「お父さんって、洋書たくさん持ってたよね?」
普段と変わらない世間話のような調子で話す。今まで洋書について興味を持っていなかったせいか、父は目を白黒とさせて目尻の皺を伸ばした。
「ああ……持ってるが、それがどうしたんだ?」
「私でも読める本あるかな」
私の言葉に、きょとんとした顔が一気に晴れやかになった。突然立ち上がると、大声で叫ぶように肯定した。
「あ、ああ!もちろん!」
「ほんと?」
棚に近寄る父に次いで並んで背表紙を眺めた。年代物から最新のものまでぎっしりだった。英語は苦手ではないけれど、見慣れぬフォントのせいで読み取れない。
「どういう話が好きなんだ?」
「お父さんのオススメでいいや。わかんないし」
「んーとじゃあなあ、」
投げやりな態度に取られてもおかしくない返事でも、父は真剣に背表紙と睨めっこしている。洋書初心者の私にとっては、そんな真剣にならなくても、と暢気に考えていた。
比較的幅の狭い本を一冊、二冊取り出す父に、私は追加でお願いをした。
「あ、あとさ」
「ん?」
「お父さんのお気に入りってどれ?」
私が読むわけではないけれど、必要だった。理由は言えないけれど、どうしても必要だった。
父は真剣な表情を崩さず、棚の上の方から分厚い本を一冊取り出した。
「んー……僕が好きなのはこれかなあ」
「難しい?」
「そうだな。中学生にはまだ早いかもしれんなあ」
手に取ったまま、再び表紙と睨めっこをする父。少々の難易度は、彼なら軽く飛び越えるんだろうと勝手に予測して父から奪うように受け取った。
「これ、借りていい?」
「初心者だと、かなり時間かかるぞ?」
「いいの」
父に本心を悟られないように、目当ての本を数冊入手すると、私はすぐに部屋を出た。今度のお昼に彼に渡す用と、私が読む用。これでもっと話せる、と彼との昼食を待ち望んでいた。
その後、父はふらふらと部屋を出ると、母に涙ながらにこう言ったそうだ。
「母さん……聞いてくれ」
「どうしたの?」
「名前が洋書に興味を持ってくれたんだ……!」
ガッツポーズをする父。母はそんな姿を見て微笑んでいたようだったが、それは父だけじゃなく、私にも向けられているようだった。