もう一度、恋をしよう。
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木々が色づき、鮮やかな黄色が窓際から映る。窓際の席ではよく見える景色でも、今の私にはただの陳腐な風景に成り下がる。ついた頬杖のせいで顔は歪んでおり、思考まで歪んでいく気分に陥る。
ギギ、と椅子を引きずる音で歪んだ頬が戻った。私の目の前には、友人がにこやかに座って待ち構えている。
「何か考え事?」
「うーん……」
首を傾げる彼女に対して曖昧な態度で返す。右から左へ抜けていく彼女の声は、周囲の雑音とさして変わりはない。再び頬を潰すように杖をつけば、彼女は私の態度を気にする素振り一つ見せず、会話を先に進めた。
「当てたげよっか」
人差し指を向けて、ぐるぐると指先を回す。それさえも碌に聞かず、生半可な返事をした。
「手塚くんのことでしょ」
ずるり。頬を支えていた肘が机から落ちた。自分でもコメディーかと思えるコケ方に羞恥が集う。完全に友人のドツボに嵌っている。
「慌てすぎだよ~」
けらけらと笑う彼女に私は耳朶の裏を指で数度なぞった。歪む口が全てを物語っている。
「……違うよ」
何テンポも遅れた返事に、彼女は身を乗り出して私に顔を近づけた。輝く瞳が不吉な予感を連想させる。つまり、ろくでもない顔をしているのだ。
「照れなくていいのに」
「照れてないから」
近づく顔を手のひらで防ぐけれど、彼女は差し出した手を両手で握る。私より高い体温でぎゅうぎゅうと締め付ける。
「私の予感的中?」
「してないから」
何度否定しようとも、彼女は一向に受け付けなかった。頭の中で手塚くんのことを考えていたとしても、顔に出した覚えはない。まあ、話は聞いてなかったけど。しかし、膨らみかけている情の一片を渡してしまうのは、それだけ彼女に対して気を許しているせいかもしれない。
「でも、仲良くなりたい、とは思ってる」
いざ言葉にしてみると、気恥ずかしさが並走してくる。明らかに変わった。私が彼に対する想いも、印象も。このままのもどかしい距離感はどこか勿体ないように思えた。しかし、友人は私の言った「仲良く」を深いところで認識したようで、余計に私の嫌いな顔をして笑っていた。
「おお~?」
「違うからね」
相手を調子に乗らせて口を滑らせるのは、彼女の常套手段。乗る前に素早く一蹴したけれど、彼女には全く響いていなかった。
***
結局何も進展しないまま、年が明けた。寂然とした寒さが背中を丸めるように促す季節は好きになれない。指先や手の甲が冷えると、動きが鈍くなる。それが嫌でカイロは必需品だった。指先をいくら暖めようとも冷える指先はまるで一向に縮まらない彼との距離を表しているようだった。
手塚くんとは業務上での必要最低限の会話しか交わせないでいた。普段の生活で顔を合わせることもなければ、唯一接点が持てる生徒会主体のイベントもない。全校集会で近づけそうだった距離が日に日に戻されていくようで、私は不満を募らせていた。かといって、手塚くんと話す機会を設けても、話す自信はない。いざという時の会話の始め方を画策しても、実践する場がないから正解も不正解もない。生徒会の任期も半分を過ぎてしまった今、友人にさえステップアップできない状況に溜息ばかりが出る。
「はあ……」
盛大な溜息が一人きりの生徒会室に響く。私は芯の出ていないシャーペンの先端で机をカツカツと突いていた。専用の小型のストーブは必死に部屋を暖めようと励んでいる。
この日の私は、卒業式で読む送辞の下書きに勤しんでいた。過去何年かの原稿を借りては今年の分、私が読む内容を作成している。第一稿が完成し、国語の先生に添削してもらったのが今日だった。基本的な文体は変わらないから文章を少し変えるだけだったけれど、指導は入る。赤ボールペンで直された箇所と睨めっこをしていたのは数分前の話。
じゃあどうして今も溜息を吐くか。理由はたった一つ。手塚くんのことだ。半年前は生徒会として活動するにあたって、不自由がない程度に距離を縮められればいいと思っていた。でも、今はその考えがズレ始めている。円滑に業務を進めたいから仕方なく、ではなく全部抜きにして、一個人の手塚くんと仲良くなりたい。手塚くんを知りたい。苦手意識はほとんどない。なくなった。それでも積極的にいけないのは、意識下にこびりついた私個人のコンプレックスのせい。
***
昔から家では、音楽が流れていた。クラシックやジャズ、ロック、ラテン。幅を問わない音はいつでも私を心躍らせた。声楽科卒の母とピアノを特技とする父の間に生まれた私が楽器に触れるのは当然で、必然であった。休日は父がピアノを弾き、母が歌う。そこに私が混ざる。自分が育った家庭に憧れを抱いた私は、将来いつか、と夢を描いていた。
三歳の誕生日に初めてピアノに触れた。父の膝の上に座り、無知のまま弾いた。弾くというより叩くの方が正しいけれど、碌に開きもしない手で鍵盤に触れていた。聞くに堪えない不協和音でも、両親ははしゃぐ私を笑って眺めていた。正直記憶には残っていないが、両親が嬉しそうに話す姿を見て「ああ、そうだったんだ」と自分の記憶のように刷り込まれていった。
それから少しして、母の大学時代の知人が開くピアノ教室に通うようになった。自らピアノを本格的に習いたいと言い出したらしく、母がすぐに連絡を取って実現した。先生は見るからに優しい女性で、コンクールでは数々の受賞歴があるとのことだった。生徒数は多かったけれど、一人一人に対して丁寧に接してくれる人だった。
教室に通えば通うほど、私はピアノにのめり込んだ。音を出すだけで楽しくて、それが綺麗な音色になればもっと楽しい。楽典やソルフェージュも、ピアノを上達させるために努力した。一つ、また一つと出来る曲が増えれば、両親が喜んだ。私も嬉しかった。何よりも、自分が楽しかった。起きている時間はずっとピアノと向き合っていて、日常に流れる音楽は私の紡ぐ音色で満たされていた。
しかし、その生活に少しずつ亀裂が生じ始めた。私が年齢を重ねれば重ねるほど、先生の指導は厳しさを増した。優しい表情で教えていてくれた先生は影を潜め、眉を逆立てながら口を曲げて怒鳴る事がほとんどだった。初めは、難易度の高い曲を練習しているから仕方ないと理解したつもりでいた。私も更に上を目指していたから、それを受け入れていた。でも、レッスン時に先生が必ず口にする言葉に対して、不信感を覚えずにはいられなかった。
「あなたには才能がある。だからもっと努力しなさい」
あなたなら、出来るでしょう? 先生の細長い指が私の腕にまとわりつく。笑っているはずの先生の顔が歪んで見えた。奥の見えない瞳が私を試している。
ただ弾くだけじゃ足りない。曲を考え、理解しなさい。そう訴える目は、何かに追われていた。
小学五年生の初夏。私は初めて出場するコンクールに向けて練習に励んでいた。課題曲はなく自由曲のみであるため、得意な曲目を選ぶ。私も自分の好きな曲調やテクニックの入ったものを選ぼうとしたが、まず私に選択肢はなかった。先生が選曲したものを完璧に弾く。それが先生の要望だった。
「やめて!ちゃんと楽譜見えてるの?」
「……見てます」
この日も当然の如く罵声を浴びせられる。下手くそ、やめてしまえ、調子に乗るな。家での練習を怠っているわけではないのに、先生の口からは否定だけが溢れ返った。それは、蟹が泡を吹く姿とよく似ていた。
「見てそれなら止めてしまいなさい!」
「っ、やめたくないです」
「もう一度!」
弾く度に動きが鈍くなる指。チクチクと刺さる先生の目が蜘蛛の巣のように体中を覆う。
言われた通りにやっている。でも、先生から見れば違う。現実から導き出されるのは、圧倒的な努力不足。先生は私に才能があると言ってくれた。だから、後は私が行動で見せるしかない。
私はそれまで以上に練習に取り組んだ。憑りつかれたように白と黒の上で指を躍らせ続ける。ピアノと向き合ったときに感じる、手の震えや頭痛さえも気づかぬふりをした。両親に休憩を促されても拒否し続けた。
まだ。まだだ。もっと、更に上に。ゴールなどない。指が、手が、止まることはない。抗う自分を殺せ。自分を殺せば、先生は認めてくれるんじゃないか。淡い幻想を抱いては、全てをピアノに捧げた。
それでも時たま脳裏を過る本音が邪魔をした。怒鳴られるために弾いてるわけじゃない。私は楽しいから弾いていた。今、私は誰の為に弾いているのか。抑え込んだ感情が顔を出す度に、私は怖くなった。元居た私が蘇れば、この手を止めてしまうと薄ら感づいていたから。
小学生高学年の部の予選と本選を突破し、全国大会に出場することになった。全国大会行きが決定したとき、両親は喜んでくれたけど、先生は「当たり前よ」と一言吐いて終わりだった。初めて出たコンクールだったのに、一言ぐらいくれてもと期待しても無駄だ。先生は頂点にしか興味がない。
それが分かったのは表彰式だった。私は単独三位だったけれど、二位は該当者なし、そして一位には、とある男の子が選ばれた。圧倒的な差が目の前に突きつけられた。私はもらったトロフィーや賞状を先生に渡そうと思って駆け寄ったけれど、先生が見ていたのは私ではなく、一位の男の子と、その男の子の先生だった。親の仇を見るような、憎悪で塗り固められた瞳が鋭く二人に突き刺さる。怖かった。日頃見る、私に怒号を飛ばす顔とは比にならなかった。この時初めて先生の本質が露わになった。私の足は震え、根が張ったように動かなくなる。
二人の周りを審査員だった有名な先生達が囲み、笑顔で会話をしている。男の子の先生は、誰よりも誇らしく微笑んでいた。笑わないで欲しい。これ以上、先生の顔が豹変するのは見ていられなかった。
生徒が良い成績を収めれば、先生にも相応の実績が認められるのは子供の私でも理解が及んだ。先生は、あれが欲しいんだ。私が取らせないと一向に認めてもらえないんだ。埋まらない差を目の当たりにしたせいか、手にしていた賞状に皺が寄った。
私が先生の隣で立ち竦んでいると、両親が声をかけてくれた。私は、目の奥に隠した感情を隠すように目を限界まで細めて笑った。口角が重たい。
「名前ちゃん、すごいじゃない」
「おめでとう。今日はご馳走だな」
褒めてくれる両親だけが頼りだった。私に残った微かな光だった。楽しくない演奏も、二人が喜んでくれるなら弾いていられる。私がピアノを弾く上で、私自身の感情は必要ないのだと幼心が悟っていた。
母が先生の存在に気付くと、笑顔で声をかけた。
「あら、先生。ありがとうございます」
その瞬間、先生の肩は跳ね、目を白黒とさせながらこちらを向いた。そして、さり気なく私の肩に触れた。絡んでくる細い指に口角が下がる。
「え、ええ……本当名前ちゃんには才能があるから。まだまだ上を目指せます」
「本当ですか? お父さんより上手になっちゃうかもね。名前ちゃん」
先生の本心に気付かない母は、私に語りかける。私は慌てて笑顔を作ると、二人の言葉を肯定した。
「うん。なれると嬉しいな」
まるで、自分自身の夢のように。
後日レッスンに行くと、相変わらず先生は苛立っていた。レッスン室に入った時から針の筵に誘われたような感覚だった。
「あの女……」
親指の爪をカリカリと音を出しながら噛む先生。見ていられなくて、咄嗟に目を逸らした。嫉妬で名を呼ぶ先生の目に、私は映っていない。映るのは、コンクールで一位を取った男の子の先生。
どうやら、私の先生と男の子の先生は、音楽大学在学時のライバルだったらしい。昔から勝ったことがなく、お互いピアノ教室を開いてからは生徒の成績で競い合っていた。私達生徒は先生の駒の一つとして動いていて、その中でも私は切り札的扱いだった。だから人一倍厳しかった。他の生徒には優しくても、私にだけ。今までの先生の態度にようやく合点がいった。
とある日、いつも通りレッスンから帰ると、父が私を迎えた。帰りの遅い父が私より先に家にいる事は珍しい。思わず玄関で父の姿をぼんやり眺めていると、父は中腰になって私の顔を真正面から見つめた。穏やかな表情で、目尻には皺が寄っている。
「名前、」
「……なに?」
「ピアノ、楽しいかい?」
ぞくり、と鳥肌が立った。薄い長袖を着ていた事に安心しつつ、唾を飲み込んだ。
父の目は優しいはずなのに、奥の方では笑っていないようで、腹の底をくすぐられているような感覚に陥った。私の本心を知ってか知らずかは分からない。でも、どうしようもなく、父の顔が恐怖対象になった。
私は、その恐怖から逃れるために目を潰すほど笑って見せた。暗闇が私を守ってくれる。見たくないものは隠してしまえばいい。
「うん。楽しいよ」
残酷な質問が嘘を導く。父は、「そうか」とだけ呟くと、私の頭を撫でてリビングへと戻っていった。扉が閉まったのを確認して、ようやく呼吸が出来た。
一年後、再びコンクールの季節がやってきた。先生の素顔を両親に伝える事なく、私は耐え忍ぶ日々を送っていた。かといって、そんな生活にも慣れてしまっていた。両親に大丈夫だと言うことも、先生からの罵詈雑言も。
「あなたは今日一位を取るのよ」
先生は私を睨みつけて言った。腕は先生の手が力強く纏わりついている。私は震える手を握りしめながら頷いた。一位以外は許されない。あの子にも負けられない。私は先生の代わりに戦わなければならない。私がピアノを弾き続けるためには、この方法しかないから。
本番前の控室。両親が私の元に激励に来てくれた。母は私の名前を呼ぶと、笑顔で手を振っている。
「お母さん、お父さん」
二人は近くにいた先生に小さくお辞儀をした。お母さんは先生の元へ行くと、私の事について話し始めた。先生は調子よく一位が狙えるなどと好き勝手言っていた。そんな二人を横目に溜息をつくと、お父さんは私の目線に合わせて腰を下げた。先程先生に触れられていた腕に、父の大きな手が置かれた。じんわりと、温もりが広がっていく。
「名前、」
いつも優しい父の声色が更に優しく感じられた。父は私の両肩を大きな手で包むと、「大丈夫だよ」と囁き、そして一つ大きく頷いた。
「何も気にせず、自分の弾きたいように弾いておいで」
父の言葉に頷けなかった。自分のしたいように弾けば、一位は取れない。一位を取らないと怒られるのは私。そう刷り込まれていた私は、今更逆らえない。
黙ったまま首を横に振ると、父は私の頭を撫でた。
「じゃあ今日はお父さんのために弾いてくれ。名前の思うピアノを教えてくれないかな」
父の言葉が妙な安心感を与えた。理由は分からないけれど、一度だけ頷けた。父は私が納得したのを確認すると、母に声をかけて客席へと戻っていった。
お父さんに、弾く。お父さんのために。初めにピアノの楽しさを教えてくれたのは他でもない父だった。父が楽しそうに弾くから私もと強請った。どの曲も聞いていて心が揺さぶられた。どんな有名な演奏家が上手に弾こうとも、私が好きな演奏者は父一人だった。
私は深呼吸をして、今まで聞き続けた父の音色を思い返した。表現するという楽しさが私を作り、今ここに立っている。私は目を閉じ、握り拳をつくった。大丈夫。お父さんは傍にいてくれる。
無事に弾き終えた私は、初めて満たされていた。体の中心からじわじわと火種が燃え上がり、今では全身が熱く燃えている。知らない高揚感で全身が埋まる。審査なんて忘れてしまうほど、最高の気分だった。
ステージを降りた私の元に先生が駆け寄ってきた。姿が見えた瞬間に体が冷えていく。そこで現実に引き戻された。好き勝手弾いたから、怒られるのかな。全身に力を入れ、身構えた私を待っていたのは遠い昔に聞いた、明るい声だった。
「良かったわよ!」
久しぶりに聞いた褒め言葉だった。嬉しかったけれど、久々の経験のせいで小さくしか笑えなかった。先生の一言が私の中でいっぱいに膨らみ、また優しい先生に戻ってくれるんじゃないかって淡い期待を抱かせた。
結果発表の時が来た。四位が呼ばれ、三位が該当者なし。次呼ばれたら、先生の顔は豹変するに違いない。今笑っていても、数秒後に変わるのは容易い。渇いた喉を潤すために何度唾を飲み込んでも、渇いたまま変わることはなかった。
『二位は──』
呼ばれないで。震えを抑えるために両手を合わせ強く握った。その瞬間、呼ばれたのは私ではなく、あの男の子だった。先生のライバル教室の男の子。先生はそこで私の一位を確信し、私の肩を抱いた。
「勝った……勝ったわよ……!」
そして、一位。予想通り、私の名前が呼ばれた。本当に、私が一位なんだ。
私は先生に背中を押され、覚束ない足取りながらもステージ上へと向かった。そして、一番大きなトロフィーと賞状を抱えて、控えめに笑った。
表彰後、去年とは正反対の状況が作られていた。私と先生が審査員の先生方に囲まれ、二位の男の子とその先生はこちらを見ていた。先生は何も気にしていない様子だったけれど、二人の視線に耐えられなくなった私は両親の元へ逃げようと大人の群れから飛び出した。私が意識し過ぎなのかな。すると、あの男の子は私の元へとやってきた。随分と荒んだ歩調で、ずんずんと近寄ってくる。
「なあ、」
鋭い目つきで私を睨むと、堂々と私を指差して宣言した。
「次は負けねえ」
私は咄嗟に目を逸らしてしまった。彼がただの負けず嫌いで言っているようには見えなかった。私より遥か先を見ている気がして、目を合わせられなかったのだ。
私は詰まりかけた喉から言葉を絞り出した。
「もう会わないよ。多分」
「は? おい、ちょっと待て!」
彼の静止を無視し、両親の元へと駆けて行った。もうあの子に勝ったから、本当に自由に弾いたって許してくれるよね?
両親の元へ向かうと、誇らしげに笑っていた。頭を撫でてくれる手が気持ちいい。
「名前ちゃん、やったわね。おめでとう」
「いい演奏だった。今までで一番良かった」
「うん。ありがとう」
父の言葉があったから出来た。多くの人に褒められたのは嬉しかったけど、私が一番嬉しいのは両親の喜ぶ顔だった。
後日、再びレッスンが始まった。先生は私を少しでも認めてくれたかな。改めて褒めてくれるかな。調子よく教室へ行ったけれど、私の期待はあっさりと砕け散る。
「いらっしゃい」
迎え入れてくれたときの表情が穏やかだったから油断していた。でも、私が椅子に座った途端、態度は百八十度変わった。先生は私の肩を抱くと、呪文のように唱え始めた。
「あなたはまだ先に行くんだから、これぐらいのことで満足しないで」
地を這うような声に身が震えた。
「いい? あなたはプロの演奏家になるのよ。世界を股に掛ける演奏家に。その才能があなたにはあるの。そしてそれを育てるのは私。いいわね?」
ぞくりと背筋が凍った。ああ、何も変わらないんだ。むしろ、これからが本番なんだ。言葉にされ、ようやく理解した私は、先生から逃れられないことを悟った。
ピアノは好きなのに、先生が嫌いだ。でも、その先生さえ我慢すればいい。そうすれば私はピアノを弾いていられる。だから、我慢すればいい。お父さんもお母さんも私の弾くピアノが好きだから。私はピアノを辞めたら終わる。両親にまで突き放されたら、私は、私は──。
それからほぼ毎日レッスンに行く度に言われる「プロ」の二文字。たった二文字が積み重なって私に蓋をする。息が詰まって苦しい。隙間を探す方が難しい。手を伸ばしても、私が求める光はどんどん遠ざかっていく。
「プロになれば、ご両親も喜ぶわ。見たいでしょう? 喜ぶ顔を」
両親を人質に取られてしまった私は頷くしか出来なかった。疑問を抱く気力も、頭もなくなっていた。両親からプロになってほしいと頼まれたわけでもないのに、呪文のように刻まれていく。それがまるで現実のような幻想だと気付かずに。
小学校卒業を控えた三月。青春学園に入学を決めていた私は、両親と今後について話をしていた。主にピアノのことだった。
「ピアノ続ける?」
「新しいことを始めてもいいんだぞ。せっかく私立受験したんだから」
部活動も多くあるよ、と他の分野も勧めてくれたが一切受け入れなかった。既に先生の毒素が回りきっていた私には、無駄な言葉たち。私は一生ピアノと生き続ける。他の手札を捨て、残した手札は一枚きり。
「ううん。いいや。ピアノだけで」
両親を不安にさせないように笑って答えた。両親は、「気が変わったらいつでも言ってくれ」と告げて話を終えた。私は唯一の正解を選んだつもりだった。
中学に入学し、周りが部活に入る中、私はどこの部活も見学することなく、帰宅部を選択した。私にはピアノがあるから。ピアノ以外なかったから。そう思う事で、選択肢を自ら削った。
友達が部活のない日に遊ぼうとしても私はピアノに向かう。いくら誘ってくれようとも私が首を縦に振ることはなかった。一日でも休めば、私はピアノを弾けなくなる。
「いいじゃん。一日ぐらい」
「行こうよ」
この日も中学に入って出来た友達からの誘いを受けた。私も遊びたくて仕方がなかったけれど、先生の顔を思い浮かべて必死に耐えた。
「うーん、ごめんね。レッスンがあるから」
一杯目を細めて断りを入れた。友達は残念そうに肩を落としていた。
「そっかあ。今度行こうね」
いずれ、誘われることもなくなるんだろう。あの子は付き合いが悪いから、と一人、また一人と声をかけてくれる人さえいなくなる。
羨ましかった。放課後、制服のままで出掛けて遊んだり、友達と一緒に練習したり。一度ぐらい、やってみたかったな。叶うはずのない夢を無理矢理頭から消して、レッスンへと向かった。
「違う! 何度言ったら分かるの!」
パシッ。手の甲が赤くなる。私が上手く弾けなければ、先生はステンレス鋼の指し棒で私の手を叩いた。中学に入ってから増えた行動だった。他の生徒にはしないのに、私には手を上げた。我慢すれば、ピアノが弾ける。両親も悲しませない。私が、我慢すれば。我慢なんて、慣れっ子だ。
「あなたはプロになるんでしょう? だったらこれぐらいのこと出来ないと、」
膝の上に置いた拳が震える。先生の声が右から左へと流れていく。いつもなら耐えられたのに、今日は腹が立って仕方がなかった。恐らくこの日が限界だったのだ。
いつまで我慢したらいい。いつまで私はピアノを弾かなくちゃならない。もう、弾きたくない。本心が駆け巡った瞬間、抑えていた何かが破裂した。
「……ない」
「何? 言いたいことがあるなら言いなさい」
先生は苛立ったまま、棒を私に向けた。私は震える声で自分の気持ちを吐き出した。
「……プロになんか、なりたくない」
「なんですって……」
逆上した先生は、私の胸倉を掴んだ。私の首は生まれたての赤ん坊のようにだらりと垂れている。言ってしまった手前、どうでもよかった。むしろ清々しかった。
「もう一度言ってみなさい!」
先生は片手を振り上げると、部屋に乾いた音が響いた。私の頬を叩いたのだ。じんわりと広がる痛みが、私の心の声を引き摺り出す。もう、止められなかった。
「プロになんて、なりたくない。絶対にならない!」
そう叫んだ私は、先生の手を振り払って泣きながら逃げた。中途半端に履いたローファーが歪な音を立てる。初めてした反抗に、恐怖からか心臓が痛い。しかし、それを厭わず、当てもなく走った。夢中で走った。
照らす夕陽が私の肌をジリジリと焼き付けていた。
家に帰れないまま、足を引き摺るように街を歩いた。どんな顔をして家に帰ればいいんだろう。先生から家に電話が入っているはずだ。怒られるんだろうな。自分で決めてピアノを始めたのに、こんなことになるなんて。
行く当てもなく、ぼんやりと歩いていると、見知った顔が本屋にいた。
「あれ、名前?」
同じクラスの子だった。小柄だけど陸上部で短距離を専門としている子。目が大きくてすばしっこくて、小動物のような子だ。
「……部活帰り?」
「そうそう。今日早く終わったからさ」
彼女は手にしていた雑誌を元の場所に戻すと、私に近寄ってきた。入学してからというもの、よく話しかけてくれる子だった。出席番号も近く、親しみやすい彼女は笑ったときのえくぼが可愛かった。
「名前は?」
「レッスン帰りなんだ」
嘘。途中で逃げ出した。でも、そんな説明をしている気力も暇もないから嘘で誤魔化した。
「ふーん……」
彼女は唇を尖らせてじろじろと私を見つめると、私の手を取った。一瞬の出来事に驚きを隠せない。しかし彼女は今日一の笑顔で笑った。
「これから時間ある?」
「一応……」
「じゃあ着いてきて」
「えっ、ちょ、」
何も理解しないまま、彼女に引き摺られるようにとある場所へ向かった。
彼女に連れられてきた場所はゲームセンター。ほとんど入った事のない場所に足がすくむ。彼女の手を強く握って足を踏み入れたけれど、賑やかな空間に目が忙しくてチカチカした。でも、不思議と嫌じゃなかった。
「よし、プリ撮ろ」
彼女は繋いだ手を引っ張ると、プリクラ機まで一直線だった。物自体は知っていたけれど、実物を見たのは初めてだった。
「撮った事ある?」
「……ない」
「ほんと? じゃあ初めてだ~。やった」
何が「やった」なのか分からなかったけれど、光が照る白い空間の中で彼女ははしゃいでいた。何が何だか仕組みがわからない私は呆然とするばかり。
「名前の初めて記念って事で、私が奢っちゃお。二百円分だけだけど」
カラカラと笑いながら彼女は財布から四百円出すと、慣れた手つきで投入し、パネルを操作した。動作が素早くて、何一つ理解できないでいると、三、二、と甲高い女性の声が響いた。
「ほらほら、寄って」
彼女は棒立ちの私を引き寄せる。一枚目の顔は見せられたものじゃなかったけど、そんなことを笑い飛ばせるぐらい彼女が笑わせてくれた。
「はあ……落書きコーナーって暑いよね~」
悪態をつきながらも、彼女の顔はどことなく嬉しそうだ。機械から落ちてきたプリクラをチェーンで繋がれたハサミで切っていくと、あっという間に半分になった片方を私に差し出した。
「はい、半分」
「ありがと」
初めて手にしたプリクラに、私は興味津々だった。前から興味はあったけど、撮る時間なんてなかったから楽しかった。撮影中のことを思い出しては口元がにやにやと歪む。すると、彼女は隣で得意げに笑っていた。
「少しは笑えた?」
「えっ?」
彼女の言葉に、私は言葉を失ってしまった。どうして、そんなことを聞くのかと。しかし、彼女はそのまま言葉を続けた。
「余計なお世話かもしれないけど、泣きそうな顔してたから」
「ごめんね」と謝る彼女に私は首を振った。そして、勝手に涙が零れた。どれが理由で泣いてるのか分からなかったけど、涙は止まらなかった。手の甲で涙を何度拭っても無駄だった。
「ごめ、」
「ううん。いいよ。大丈夫だよ」
彼女はそう言うと、私を抱きしめた。私はそれに甘えて、全てが空になるまで泣いた。彼女の方が小さいのに、私と同級生なのに、随分と大人に見えた。
私が泣き終えた頃には、鼻だけじゃなく顔全体が真っ赤に染まっていた。未だ止まらないしゃくりに、彼女は背中を擦ってくれている。泣いたのも久しぶりだったなあ、と他人事のように考えていると、彼女は私の手を掬いあげた。
「な、なに……?」
おずおずと尋ねると、彼女は真剣な表情のまま答えた。
「名前の手って、綺麗だよね」
「そう、かな」
ピアノに相応しい手、とは言われた。でも、いつしかそれは褒め言葉には聞こえなくなった。相応しくなければ、今みたいな思いしなくて良かったのかななんて思ってしまっているけれど。
「指が長くて、細くて、綺麗で。羨ましい。見て、私の手。丸くて小さくてぷくぷくしてる……って太ってるわけじゃないし!」
手を並べながら喋り続ける。一人でコロコロ変わる表情が面白くて、ついつい噴き出してしまった。
「ふ、ふふ……」
「ああ! 笑ったなあ!」
二人で一頻り笑って、途中まで一緒に帰った。彼女のこと、私のこと、学校のこと。いっぱい、いっぱい話した。私がやりたかったことが叶えられた日だった。でも、ピアノのことだけは話せなかった。
辺りが完全に暗くなってから家に帰ると、両親が大慌てで私を迎えた。母は私を抱きしめ、父は眉を下げて安堵の溜息を吐いていた。「無事でよかった」というだけで、二人は私を怒らなかった。
「先生から聞いたの。今日のレッスン途中で帰っちゃったって」
小さく頷いた。先生は両親にどう説明したのだろう。私が勝手に逃げ出したと説明したんだろうか。
「体調でも悪かった?」
私の頬を優しく撫でながら問う母。私は眉間に皺を寄せた後、重い口を開いた。
「お母さん」
「なあに?」
「ピアノって、好きなだけじゃダメなの?」
母は目を丸くさせて言葉を失った。どこか悲しみが透けて見えて、小さく「ごめんなさい」と呟いた。私は母の手から逃れると、部屋に籠った。両親と顔を合わせたくなかった。合わせられなかった。
「名前の手って、綺麗だよね」
ぼんやりとあの子の声が過った。嬉しかった。私本人を見てくれているようで、心が満たされた気がした。
人より大きい手。人より長い指。いくら適していても、気持ちが追い付かなくなれば終わり。強いられることが辛い。ただ、楽しんでいたかった。お父さんとお母さんのように、音を楽しんでいたかった。それだけだったのに。
次の日、私は重い体を引き摺って学校に行った。ピアノから離れられた時間は暗く澱んだ気持ちを少しだけ晴らしてくれる。教室に到着すると、昨日逃げ出した私を救ってくれた子が陽気に話していた。内容は昨日の、私と遊んだ話だった。
「へへ、昨日名前とデートしたんだ」
以前私を遊びに誘ってくれていたクラスメイトにプリクラを見せびらかしている。「おはよう」、とその空間に飛び込めば、彼女達は笑顔で挨拶を返してくれた。
「昨日のプリ、みんなに自慢してたんだ」
私に駆け寄ると、彼女はえくぼを浮かべて微笑んだ。昨日の出来事の中でも、彼女は明るい側面だけを切り取って伝えていたようだった。
「名前ちゃん、今度うちらとも行こうよ」
「ついでにカラオケも」
以前断ってしまったにも関わらず、誘ってくれる二人に頬が緩む。
「うん。行こう」
そう言って頷いた。嬉しいはずなのにどこか物足りない。でも、穴の開いた心を気のせいだと知らぬフリをした。
それから私はピアノに触れることをやめた。どうしても向き合えなかった。ぽっかりと開いた心の穴は一人の時に風がよく吹く。開いた穴があまりにも大きすぎるせい。一人になると、ピアノのことで頭が埋め尽くされた。今のままでいいのか、それともまだ我慢して続けていた方が良かったのか。考えれば考えるほど、頭痛がした。吐き気がした。
光を遮断した自室。ベッドの上で寝転んだまま、静かに頬を濡らしていた。
「名前、少し話しましょ?」
「少しでいいから、顔見せてくれないか」
両親の声が扉の向こう側から飛んでくる。
「ごめんね。ちゃんと名前ちゃんの気持ち、汲んであげられなくて」
「理由、教えてくれないか。辞めるのは構わないから、教えて欲しい」
両親の優しさが辛かった。喜んでくれていた両親を悲しませてしまっている現状が更に私の呼吸を奪う。どうせなら怒ってほしかった。
錆びた金属に成り果てた体を引き摺り、扉を開ける。隙間から注ぐ光が眩しくて眉間の奥に痛みが走った。両親は私が顔を出したことに安心したのか、言葉に丸みが戻った。
「何があったの?」
二人とも俯く私の顔を覗き込むようにしゃがんだ。そして、私の手にそっと触れた。温かくて優しい手が涙を誘う。ぽろり、とまた涙が零れる。肌が削れるほど泣いたのに、まだ零れるのか。私はしゃくり上げながら断片的な情報を伝えた。
「先生に、才能があるから、プロになりなさいって……。その方がお父さんもお母さんも喜ぶからって……ずっと、ずっと……」
そう言うと、両親は顔を見合わせた。
「でも、なりたくない。自由に弾きたい。遊びたい。友達と一緒に過ごしたい。今のままじゃあ、ピアノを嫌いになる」
母は私を抱きしめた。優しい花の香りが私を包んでくれる。母は少しだけ震えていた。
「よく言ってくれたね。ごめんね。ありがとう」
父は大きな温かい手で私の頭を撫でた。いつもより目尻の皺が深く刻まれている。
「怒らないの?」
「怒らないよ。名前の人生だからね」
更に涙が零れた。際限なく溢れた涙は母の肩を濡らした。
「これからは好きな時に、好きなようにピアノを弾いていいからね」
私はとんだ勘違いをしていた。いつだって逃げ道を用意してくれていたのに、目を背けていたのは自分自身。逃げたら、私は私じゃなくなる。両親が笑顔になるのはピアノを弾く私がいるからと信じて疑わなかった。その間違った信条が徐々に私を狂わせていった。教室を飛び出してから、ずっと罪悪感に苛まれていた。自ら志願したことを放り出し、両親を裏切った気持ちでいっぱいだった。本当の両親に気付けなかったのは、呪文のような先生の言葉が私の視野を狭めたせいだった。
これで助かったと思った。ピアノを始めたてのときのように、また弾けるのだと思っていた。
お父さんが教室に私が辞めることを連絡すると、後日、先生だった人は謝罪に来た。自分が叶えられなかった夢を、才能のある私に押し付けたと慟哭していた。私は隠れて話を聞いていたけれど、どうでもよかった。あの環境下でないなら構わない。私は自由になれる。ぷつん、と糸が切れた私に残ったのは虚無感だった。指がちぎれそうになるほど弾いていたピアノももう何日も触っていない。初めての経験だった。
私が教室をやめてから一週間ほど経過した。あの人がどうなったのかは知らないけど、もう会うことはない。全てを両親に任せて考えることをやめた。これで自由に弾けると久しぶりにピアノに向き合った。整った心で鍵盤に触れられる。そっと指先が白に触れた瞬間、もういないあの人の声が脳内に響いた。
『どうしてこのレベルが出来ないの』
明らかに先生の声だった。思わず周囲を見渡した。あの人はいないのに、幻聴が私を襲う。内側から金槌で殴られているような頭痛と、早くなる鼓動が胸のあたりで暴れ、痛みで椅子から転げ落ちた。大きな音を立てた拍子に、キッチンにいた母が私を見て叫んでいた。
怖い。助けて。誰か。
呼吸さえもままならなくなった私は、傍で背を擦ってくれていた母を振りほどいてトイレに駆け込んだ。体内に残っていた澱んだ記憶が迫り上げる。気持ち悪い。腹の中が空になるまで吐き続けた。この時の記憶はあまり残っていない。
その後、私は明らかにピアノを遠ざけるようになった。今度こそ弾けなくなってしまった。ピアノに向かおうとすれば、あの人がいる。私を逃してはくれない。いないと何度唱えても、気にしてしまう。叩かれてもいないのに、手の甲を頻繁に触る癖がついた。一度壊れてしまったものは、そう易々と戻らないことを知った。
「名前ちゃん。お父さんが弾くって」
「一緒に弾かないか。楽譜も新しく買って来たんだ」
整った環境下でも弾けない私を心配して、両親はあの手この手で楽しませる努力をしてくれた。それでも心に深く根を張った傷というのは一向に治らない。
「要らない。もう触れない」
それきり、私はピアノと距離を置いた。これが永遠の別れになってしまうんだ。そう思うと、体は海の底に沈んでいくように重たかった。
この日から音楽は消えた。うちにとっての禁忌に近かった。誰も音楽については話さない。それ以外はいたって普通の生活を送っていた。
私がいないときにお母さんは弾いているようだったけれど、お父さんは全くと言っていいほど触れなくなった。お母さんは私が帰宅するギリギリまで弾いたり歌ったりしているから気付けた。もしかしたらお父さんもどこか違う場所で弾いてるのかな。私は、二人の好きなものまで奪ってしまった。
一人でいると、レッスンを思い出した。一度我慢が出来なくなれば、痛みをぼやかすことも出来なくなる。嫌な事を思い出さないように放課後は遊びに出るようになった。同じように帰宅部の子だったり、部活のない日を選んで遊んだり。この頃に菊丸と仲良くなった。明るくて、いっぱい話してくれるから無駄なことを考えなくてすむ。それでいて気楽だった。それを繰り返していると、知り合いは勝手に増えた。好きであろうが、嫌いであろうが、一人でいる時間を潰せれば何でも良かった。
勿論勉強だってきちんと取り組んだ。今まで知らない世界を知るのは楽しかったし、何より他の事を考えなくてよかった。そして、成績が上がれば担任は私を褒めた。適当に笑って流せばあの子は良い子だ、優等生だと勝手に認識してくれる。ピアノを弾くより余程簡単だった。すぐに結果が見えてくるから楽勝だった。だからこそ、努力がわからなくなっていった。努力してもピアノに向けたほどではないと思うと、私自身がそれを努力と認めなかった。認められなかった。
それから両親があれやこれやと勧めてくれるものはいくつもあったが、私は何にも手をつけなかった。いや、つけられなかったんだと思う。ピアノ以上に自分を埋めてくれる熱量が到底生み出せると思えなかった。それほど私にとってピアノはあまりにも大きかった。
こうして帳は完全に下ろされた。私の舞台は完全に終わったのだ。
***
改めて過去を思い出せば、鼻の奥が痛んだ。照明に手をかざして、目を細めた。触らなくなってから一年。弾くことに適していた手は、思うようには動かないだろう。好きだったピアノ。昔見た憧憬は幻となった。もう叶うことはない。
物事に真っ直ぐ向き合う手塚くんが羨ましい。ピアノだけだった私とは違って選択肢がいっぱいある彼が、彼の全てが嫉妬するほど羨ましかった。
ふう、と息をつき、鼻をすする。室内が一人であったから助かった。これ以上は止めておこう。余計に嫌な事を思い出してしまいそうだから。
机の上に広げていた原稿をまとめ、鞄に詰め込もうとしたときだった。突然、生徒会室の扉が開いた。放課後の中途半端な時間に誰だろう。片付ける手を止め、扉の先を凝視した。
「手塚くん?」
意外な相手に瞬きを繰り返す。手塚くんも私がいたこと、というより誰かいたことに驚いたのか、きょとんとしていた。
「名字か」
バタンと扉を閉じ、室内へと足を踏み入れる。既に部活に行っていると思っていたせいか、先程まで過去を思い出していたせいか、妙に緊張してしまう。すると手塚くんは私が一人だった空間を気にしたのか、私に尋ねた。
「邪魔をしてしまったか」
「ううん、大丈夫。もう帰ろうかなって思ってたところだし」
仕舞おうとしていた原稿を見せながら説明すると、手塚くんは納得した様子で頷いた。
恐らく来年は手塚くんの担当だろう。私達が卒業するときの答辞は彼が行う。歴代の会長がそうしてきたように、彼もそうするんだろう。さぞがし華やかなんだろうな。
一年以上先のことを想像していると、手塚くんは一直線にファイルの詰まった戸棚へと向かった。頭は彼の動向を意識しているせいで、帰り支度が進まない。仕舞うはずの原稿の端をペラペラと捲ったり、文字を追いかけたり。無駄な仕草を繰り返す。すると、手塚くんは一冊のファイルを手に取り、近くのパイプ椅子に座った。長い指がページを捲っていく。二人きりの空間。包む静寂。空気の動きで鳴る音が響く。
話しかけてみても、いいのかな。切り出すにしても何からいけばいい? 学校の事、テニスの事、それとも個人的な趣味? 強調された心臓の音が私から冷静さを奪う。一人で静かに唸っていると、沈黙を破ったのは手塚くんの方だった。
「お前が送辞を読むんだったな」
先手を取られ、思わず息を呑む。早くなる鼓動を気付かれないように平静を装って見せた。
「うん。今から緊張しそう」
胸を抑えながら笑って答えると、手塚くんは再び席を立ち、ファイルを探っていた。もっと積極的に行っていいのか、このままの距離を保つべきか。もどかしい距離が判断を鈍らせる。
「手伝おうか?」
椅子から腰を浮かせ、助力を申し出るけれど、中腰で彼の顔色を窺っていた。
「いや、大丈夫だ。すぐに済む」
あっさりと断られてしまい、ゆっくりと腰を下ろした。思うようにいかないせいで手が彷徨った。近くに転がっていたシャーペンを手に取り、強く握った。
手塚くんは自身のことを考えられているだなんて全く気付いてないだろう。表情一つ変えずファイルを一冊取っては、また席に戻った。私とは二席分ほど離れていて、私と手塚くんの心の距離を表すにはちょうどいい。
何とか脱出口を見つけたくて、一席分椅子を引き摺って近づいた。身を乗り出して彼の手元を覗くと、見覚えのある資料が目に入った。
「手塚くん」
「なんだ」
「それ、新入生説明会の?」
「ああ。次の代のために資料を置いておこうと思ってな」
先日開催された新入生説明会。生徒代表として生徒会が校舎案内を担っていた。手塚くんの手には何枚かの紙。正確な順になるように整理しているんだろう。
「ああ、そっか。すごいね」
口から出たのは簡素な褒め言葉のみ。もっと碌な言葉はなかったのかと頭の引き出しを開けて周っても何もない。一瞬たりともこちらを見ない手塚くんに、次の選択肢の難易度が上がる。次の話題を提供しても作業の邪魔になるに違いない。自分の最大限選べる手札の中から引いたのは撤退。完全撤退の手札。白旗を振っているつもりで寄せた椅子を少しだけ離す。気を回したつもりで離したのだ。
すると、手塚くんは私の動きを察知したのか、私の方を向いた。吸い込まれそうな瞳が私を射抜く。何を言うのかと待ち構えたが、彼は口を開かない。もしかして怒らせてしまったのか。でも手塚くんが怒る理由もない。
「名字、」
心臓が一度、大きく収縮した。穏やかな低音が騒ぐ脳内を鎮める。
「菊丸と仲が良いのか」
その場で転ぶかと思った。予想外の世間話に気が抜けた。
「ああ、同じクラスなの。何か言ってた?」
笑顔で返すけれど、菊丸がどのように私の話をしているのかが気になった。手塚くんの尋ね方からして、多かれ少なかれ話がいっているんだろう。菊丸が不要なことを言ってないのを祈った。
「よく勉強を見てもらっている、と」
手塚くんの解答に胸を撫で下ろしつつ、頭の片隅で菊丸を疑ったことを謝罪した。
「英語助けて~って来るんだよね。大石くんがダメだったときの保険だよ、私は」
泣きつきに来る菊丸の姿を思い出せば、笑いが込み上げてきた。手塚くんは「そうか」と一言呟くと、こう続けた。
「きつく言っておく」
「大丈夫だよ。いつもってわけじゃないし」
これからの部活での顛末が良いように思えなくて、咄嗟に菊丸を庇った。良い事を話してくれているようだからオマケとしてだけど。
「だが、迷惑がかかるようなことがあれば言ってくれ」
「うん、ありがとう」
他の友人と変わらず話せていることに、私は浮足立っていた。先程引いた手札を引っ込めて新たな手札を選んだ。
「手塚くん」
「なんだ」
「部員が悪い事したらグラウンド走らせるって本当なの?」
疑問を素直にぶつけると、手塚くんは一瞬だけ固まった。でも、すぐに眼鏡のブリッジを人差し指で上げる仕草を見せた。
「菊丸からか」
「うん」
机の上で腕を組み、手塚くんを見つめる。彼は口を開けたり閉じたりと言葉に迷うと、数秒時間を置いてから言葉を紡いだ。
「規律を乱せば、そこから緩みは生まれる。生み出す芽を摘むために、普段から規律を破る者には罰が必要だ。どんな小さな事であっても、見逃すことが優しさとは言えない。だから俺は部員を走らせる。勿論、自分自身も例外ではないが」
ぽかんと口が開いた。厳格な面しか聞いていなかったせいで、呆気にとられた。彼の真摯さと普段から人を見ている事から出来る芸当。だから、皆が彼を先頭に立つ者として慕うんだ。今、私はその内の一人になろうとしている。
「手塚くんって、優しいよね」
投げかけた言葉に、手塚くんは瞬きを繰り返した。
「そう、だろうか」
少し首を傾げながら顎を擦る。その姿から言われ慣れていないことを察知した。
「その優しさに気付いてるから、みんな手塚くんに着いていくんだろうね」
すかさず彼の行動と周囲の評価を褒めれば、彼は私から目を逸らした。調子に乗りすぎたか、と様子を窺っていると、彼はまたも眼鏡のブリッジを上げた。どことなく落ち着かない雰囲気が手塚くんから漂う。もしかして、と予想を立てた瞬間、口を滑らせた。
「照れてる?」
図星なのか、手塚くんは押し黙ってから腕を組んだ。
「……気のせいだ」
あまりにも下手な誤魔化し方に声を出して笑った。口元を手で覆うけれど、笑いは止まらない。
「絶対照れてる」
いつの間にか消えていた緊張。話してみて、手塚くんって結構分かりやすいタイプなんじゃないかって勝手に判断していた。表情に出ているとは明言しづらいけれど、纏う雰囲気が明らかに違うように思う。
「はーあ。手塚くんって面白いなあ」
ぐんと背伸びをして、椅子に凭れ掛る。他の人より少し、ほんの少し分かりにくかっただけなんだ。
「面白い?」
「うん。もっと早くから話しかけてればよかった」
真剣な表情で見つめ返す手塚くん。私は友人に向ける微笑みを彼にも向けた。密かに後悔していた。他人から聞いた情報で彼を判断したことに。もっと早かったら、私から話しかけていたら、違う関係性を築けていたのかな。
一方的に関係の雪解けを感じたおかげか、増えた手札を切ろうとした。しかし、その勢いもすぐに終息する。
「あ、そうだ。手塚くんのテニスの話聞きたい……って時間取りすぎか」
提案する途中に時計を見たのが仇となった。手塚くんはまだ部活が残っている。帰宅部の私とは忙しさが違う。彼の本質であるテニスに話題として触れれば、そう簡単に終わるものではない。
「ああ、そろそろ時間だ」
「残念」
改めてタイムリミットを宣言され、分かりやすく肩を上下に動かした。彼はファイルを戸棚にしまうと、テニスバッグを肩に掛ける。彼と話す機会を今回限りにしたくなくて、私は次を提示した。
「手塚くんさえ良かったら、また話そうよ」
誘う理由なんて、楽しかっただけで十分。手塚くんも同じ気持ちでいてくれるなら、と頷くのを待った。彼は私の提案にゆっくり瞬きをすると、少しだけ微笑んだように見えた。
「ああ。今日は良い息抜きになった」
好感触な言葉が私を調子づかせる。
「途中まで一緒に行こう」
そう言って彼の隣を歩いた。靴箱までという短距離でも、手塚くんとのたった数分間が胸いっぱいに満たされる。温かくて、自然と頬が緩んで、もう少し時間があったらと後ろ髪を引かれる。
「じゃあね、手塚くん。また明日」
「ああ。また明日」
校門での二度目のさよならは、「また明日」が追加された。校門で手を振っていたのは私だけだったけれど、確かな収穫があった。部活へ向かっていく彼の背が輝いて見える。まだスタートラインに立ったばかりの私は、小さくなっていく彼を見つめては目を細めていた。
ギギ、と椅子を引きずる音で歪んだ頬が戻った。私の目の前には、友人がにこやかに座って待ち構えている。
「何か考え事?」
「うーん……」
首を傾げる彼女に対して曖昧な態度で返す。右から左へ抜けていく彼女の声は、周囲の雑音とさして変わりはない。再び頬を潰すように杖をつけば、彼女は私の態度を気にする素振り一つ見せず、会話を先に進めた。
「当てたげよっか」
人差し指を向けて、ぐるぐると指先を回す。それさえも碌に聞かず、生半可な返事をした。
「手塚くんのことでしょ」
ずるり。頬を支えていた肘が机から落ちた。自分でもコメディーかと思えるコケ方に羞恥が集う。完全に友人のドツボに嵌っている。
「慌てすぎだよ~」
けらけらと笑う彼女に私は耳朶の裏を指で数度なぞった。歪む口が全てを物語っている。
「……違うよ」
何テンポも遅れた返事に、彼女は身を乗り出して私に顔を近づけた。輝く瞳が不吉な予感を連想させる。つまり、ろくでもない顔をしているのだ。
「照れなくていいのに」
「照れてないから」
近づく顔を手のひらで防ぐけれど、彼女は差し出した手を両手で握る。私より高い体温でぎゅうぎゅうと締め付ける。
「私の予感的中?」
「してないから」
何度否定しようとも、彼女は一向に受け付けなかった。頭の中で手塚くんのことを考えていたとしても、顔に出した覚えはない。まあ、話は聞いてなかったけど。しかし、膨らみかけている情の一片を渡してしまうのは、それだけ彼女に対して気を許しているせいかもしれない。
「でも、仲良くなりたい、とは思ってる」
いざ言葉にしてみると、気恥ずかしさが並走してくる。明らかに変わった。私が彼に対する想いも、印象も。このままのもどかしい距離感はどこか勿体ないように思えた。しかし、友人は私の言った「仲良く」を深いところで認識したようで、余計に私の嫌いな顔をして笑っていた。
「おお~?」
「違うからね」
相手を調子に乗らせて口を滑らせるのは、彼女の常套手段。乗る前に素早く一蹴したけれど、彼女には全く響いていなかった。
***
結局何も進展しないまま、年が明けた。寂然とした寒さが背中を丸めるように促す季節は好きになれない。指先や手の甲が冷えると、動きが鈍くなる。それが嫌でカイロは必需品だった。指先をいくら暖めようとも冷える指先はまるで一向に縮まらない彼との距離を表しているようだった。
手塚くんとは業務上での必要最低限の会話しか交わせないでいた。普段の生活で顔を合わせることもなければ、唯一接点が持てる生徒会主体のイベントもない。全校集会で近づけそうだった距離が日に日に戻されていくようで、私は不満を募らせていた。かといって、手塚くんと話す機会を設けても、話す自信はない。いざという時の会話の始め方を画策しても、実践する場がないから正解も不正解もない。生徒会の任期も半分を過ぎてしまった今、友人にさえステップアップできない状況に溜息ばかりが出る。
「はあ……」
盛大な溜息が一人きりの生徒会室に響く。私は芯の出ていないシャーペンの先端で机をカツカツと突いていた。専用の小型のストーブは必死に部屋を暖めようと励んでいる。
この日の私は、卒業式で読む送辞の下書きに勤しんでいた。過去何年かの原稿を借りては今年の分、私が読む内容を作成している。第一稿が完成し、国語の先生に添削してもらったのが今日だった。基本的な文体は変わらないから文章を少し変えるだけだったけれど、指導は入る。赤ボールペンで直された箇所と睨めっこをしていたのは数分前の話。
じゃあどうして今も溜息を吐くか。理由はたった一つ。手塚くんのことだ。半年前は生徒会として活動するにあたって、不自由がない程度に距離を縮められればいいと思っていた。でも、今はその考えがズレ始めている。円滑に業務を進めたいから仕方なく、ではなく全部抜きにして、一個人の手塚くんと仲良くなりたい。手塚くんを知りたい。苦手意識はほとんどない。なくなった。それでも積極的にいけないのは、意識下にこびりついた私個人のコンプレックスのせい。
***
昔から家では、音楽が流れていた。クラシックやジャズ、ロック、ラテン。幅を問わない音はいつでも私を心躍らせた。声楽科卒の母とピアノを特技とする父の間に生まれた私が楽器に触れるのは当然で、必然であった。休日は父がピアノを弾き、母が歌う。そこに私が混ざる。自分が育った家庭に憧れを抱いた私は、将来いつか、と夢を描いていた。
三歳の誕生日に初めてピアノに触れた。父の膝の上に座り、無知のまま弾いた。弾くというより叩くの方が正しいけれど、碌に開きもしない手で鍵盤に触れていた。聞くに堪えない不協和音でも、両親ははしゃぐ私を笑って眺めていた。正直記憶には残っていないが、両親が嬉しそうに話す姿を見て「ああ、そうだったんだ」と自分の記憶のように刷り込まれていった。
それから少しして、母の大学時代の知人が開くピアノ教室に通うようになった。自らピアノを本格的に習いたいと言い出したらしく、母がすぐに連絡を取って実現した。先生は見るからに優しい女性で、コンクールでは数々の受賞歴があるとのことだった。生徒数は多かったけれど、一人一人に対して丁寧に接してくれる人だった。
教室に通えば通うほど、私はピアノにのめり込んだ。音を出すだけで楽しくて、それが綺麗な音色になればもっと楽しい。楽典やソルフェージュも、ピアノを上達させるために努力した。一つ、また一つと出来る曲が増えれば、両親が喜んだ。私も嬉しかった。何よりも、自分が楽しかった。起きている時間はずっとピアノと向き合っていて、日常に流れる音楽は私の紡ぐ音色で満たされていた。
しかし、その生活に少しずつ亀裂が生じ始めた。私が年齢を重ねれば重ねるほど、先生の指導は厳しさを増した。優しい表情で教えていてくれた先生は影を潜め、眉を逆立てながら口を曲げて怒鳴る事がほとんどだった。初めは、難易度の高い曲を練習しているから仕方ないと理解したつもりでいた。私も更に上を目指していたから、それを受け入れていた。でも、レッスン時に先生が必ず口にする言葉に対して、不信感を覚えずにはいられなかった。
「あなたには才能がある。だからもっと努力しなさい」
あなたなら、出来るでしょう? 先生の細長い指が私の腕にまとわりつく。笑っているはずの先生の顔が歪んで見えた。奥の見えない瞳が私を試している。
ただ弾くだけじゃ足りない。曲を考え、理解しなさい。そう訴える目は、何かに追われていた。
小学五年生の初夏。私は初めて出場するコンクールに向けて練習に励んでいた。課題曲はなく自由曲のみであるため、得意な曲目を選ぶ。私も自分の好きな曲調やテクニックの入ったものを選ぼうとしたが、まず私に選択肢はなかった。先生が選曲したものを完璧に弾く。それが先生の要望だった。
「やめて!ちゃんと楽譜見えてるの?」
「……見てます」
この日も当然の如く罵声を浴びせられる。下手くそ、やめてしまえ、調子に乗るな。家での練習を怠っているわけではないのに、先生の口からは否定だけが溢れ返った。それは、蟹が泡を吹く姿とよく似ていた。
「見てそれなら止めてしまいなさい!」
「っ、やめたくないです」
「もう一度!」
弾く度に動きが鈍くなる指。チクチクと刺さる先生の目が蜘蛛の巣のように体中を覆う。
言われた通りにやっている。でも、先生から見れば違う。現実から導き出されるのは、圧倒的な努力不足。先生は私に才能があると言ってくれた。だから、後は私が行動で見せるしかない。
私はそれまで以上に練習に取り組んだ。憑りつかれたように白と黒の上で指を躍らせ続ける。ピアノと向き合ったときに感じる、手の震えや頭痛さえも気づかぬふりをした。両親に休憩を促されても拒否し続けた。
まだ。まだだ。もっと、更に上に。ゴールなどない。指が、手が、止まることはない。抗う自分を殺せ。自分を殺せば、先生は認めてくれるんじゃないか。淡い幻想を抱いては、全てをピアノに捧げた。
それでも時たま脳裏を過る本音が邪魔をした。怒鳴られるために弾いてるわけじゃない。私は楽しいから弾いていた。今、私は誰の為に弾いているのか。抑え込んだ感情が顔を出す度に、私は怖くなった。元居た私が蘇れば、この手を止めてしまうと薄ら感づいていたから。
小学生高学年の部の予選と本選を突破し、全国大会に出場することになった。全国大会行きが決定したとき、両親は喜んでくれたけど、先生は「当たり前よ」と一言吐いて終わりだった。初めて出たコンクールだったのに、一言ぐらいくれてもと期待しても無駄だ。先生は頂点にしか興味がない。
それが分かったのは表彰式だった。私は単独三位だったけれど、二位は該当者なし、そして一位には、とある男の子が選ばれた。圧倒的な差が目の前に突きつけられた。私はもらったトロフィーや賞状を先生に渡そうと思って駆け寄ったけれど、先生が見ていたのは私ではなく、一位の男の子と、その男の子の先生だった。親の仇を見るような、憎悪で塗り固められた瞳が鋭く二人に突き刺さる。怖かった。日頃見る、私に怒号を飛ばす顔とは比にならなかった。この時初めて先生の本質が露わになった。私の足は震え、根が張ったように動かなくなる。
二人の周りを審査員だった有名な先生達が囲み、笑顔で会話をしている。男の子の先生は、誰よりも誇らしく微笑んでいた。笑わないで欲しい。これ以上、先生の顔が豹変するのは見ていられなかった。
生徒が良い成績を収めれば、先生にも相応の実績が認められるのは子供の私でも理解が及んだ。先生は、あれが欲しいんだ。私が取らせないと一向に認めてもらえないんだ。埋まらない差を目の当たりにしたせいか、手にしていた賞状に皺が寄った。
私が先生の隣で立ち竦んでいると、両親が声をかけてくれた。私は、目の奥に隠した感情を隠すように目を限界まで細めて笑った。口角が重たい。
「名前ちゃん、すごいじゃない」
「おめでとう。今日はご馳走だな」
褒めてくれる両親だけが頼りだった。私に残った微かな光だった。楽しくない演奏も、二人が喜んでくれるなら弾いていられる。私がピアノを弾く上で、私自身の感情は必要ないのだと幼心が悟っていた。
母が先生の存在に気付くと、笑顔で声をかけた。
「あら、先生。ありがとうございます」
その瞬間、先生の肩は跳ね、目を白黒とさせながらこちらを向いた。そして、さり気なく私の肩に触れた。絡んでくる細い指に口角が下がる。
「え、ええ……本当名前ちゃんには才能があるから。まだまだ上を目指せます」
「本当ですか? お父さんより上手になっちゃうかもね。名前ちゃん」
先生の本心に気付かない母は、私に語りかける。私は慌てて笑顔を作ると、二人の言葉を肯定した。
「うん。なれると嬉しいな」
まるで、自分自身の夢のように。
後日レッスンに行くと、相変わらず先生は苛立っていた。レッスン室に入った時から針の筵に誘われたような感覚だった。
「あの女……」
親指の爪をカリカリと音を出しながら噛む先生。見ていられなくて、咄嗟に目を逸らした。嫉妬で名を呼ぶ先生の目に、私は映っていない。映るのは、コンクールで一位を取った男の子の先生。
どうやら、私の先生と男の子の先生は、音楽大学在学時のライバルだったらしい。昔から勝ったことがなく、お互いピアノ教室を開いてからは生徒の成績で競い合っていた。私達生徒は先生の駒の一つとして動いていて、その中でも私は切り札的扱いだった。だから人一倍厳しかった。他の生徒には優しくても、私にだけ。今までの先生の態度にようやく合点がいった。
とある日、いつも通りレッスンから帰ると、父が私を迎えた。帰りの遅い父が私より先に家にいる事は珍しい。思わず玄関で父の姿をぼんやり眺めていると、父は中腰になって私の顔を真正面から見つめた。穏やかな表情で、目尻には皺が寄っている。
「名前、」
「……なに?」
「ピアノ、楽しいかい?」
ぞくり、と鳥肌が立った。薄い長袖を着ていた事に安心しつつ、唾を飲み込んだ。
父の目は優しいはずなのに、奥の方では笑っていないようで、腹の底をくすぐられているような感覚に陥った。私の本心を知ってか知らずかは分からない。でも、どうしようもなく、父の顔が恐怖対象になった。
私は、その恐怖から逃れるために目を潰すほど笑って見せた。暗闇が私を守ってくれる。見たくないものは隠してしまえばいい。
「うん。楽しいよ」
残酷な質問が嘘を導く。父は、「そうか」とだけ呟くと、私の頭を撫でてリビングへと戻っていった。扉が閉まったのを確認して、ようやく呼吸が出来た。
一年後、再びコンクールの季節がやってきた。先生の素顔を両親に伝える事なく、私は耐え忍ぶ日々を送っていた。かといって、そんな生活にも慣れてしまっていた。両親に大丈夫だと言うことも、先生からの罵詈雑言も。
「あなたは今日一位を取るのよ」
先生は私を睨みつけて言った。腕は先生の手が力強く纏わりついている。私は震える手を握りしめながら頷いた。一位以外は許されない。あの子にも負けられない。私は先生の代わりに戦わなければならない。私がピアノを弾き続けるためには、この方法しかないから。
本番前の控室。両親が私の元に激励に来てくれた。母は私の名前を呼ぶと、笑顔で手を振っている。
「お母さん、お父さん」
二人は近くにいた先生に小さくお辞儀をした。お母さんは先生の元へ行くと、私の事について話し始めた。先生は調子よく一位が狙えるなどと好き勝手言っていた。そんな二人を横目に溜息をつくと、お父さんは私の目線に合わせて腰を下げた。先程先生に触れられていた腕に、父の大きな手が置かれた。じんわりと、温もりが広がっていく。
「名前、」
いつも優しい父の声色が更に優しく感じられた。父は私の両肩を大きな手で包むと、「大丈夫だよ」と囁き、そして一つ大きく頷いた。
「何も気にせず、自分の弾きたいように弾いておいで」
父の言葉に頷けなかった。自分のしたいように弾けば、一位は取れない。一位を取らないと怒られるのは私。そう刷り込まれていた私は、今更逆らえない。
黙ったまま首を横に振ると、父は私の頭を撫でた。
「じゃあ今日はお父さんのために弾いてくれ。名前の思うピアノを教えてくれないかな」
父の言葉が妙な安心感を与えた。理由は分からないけれど、一度だけ頷けた。父は私が納得したのを確認すると、母に声をかけて客席へと戻っていった。
お父さんに、弾く。お父さんのために。初めにピアノの楽しさを教えてくれたのは他でもない父だった。父が楽しそうに弾くから私もと強請った。どの曲も聞いていて心が揺さぶられた。どんな有名な演奏家が上手に弾こうとも、私が好きな演奏者は父一人だった。
私は深呼吸をして、今まで聞き続けた父の音色を思い返した。表現するという楽しさが私を作り、今ここに立っている。私は目を閉じ、握り拳をつくった。大丈夫。お父さんは傍にいてくれる。
無事に弾き終えた私は、初めて満たされていた。体の中心からじわじわと火種が燃え上がり、今では全身が熱く燃えている。知らない高揚感で全身が埋まる。審査なんて忘れてしまうほど、最高の気分だった。
ステージを降りた私の元に先生が駆け寄ってきた。姿が見えた瞬間に体が冷えていく。そこで現実に引き戻された。好き勝手弾いたから、怒られるのかな。全身に力を入れ、身構えた私を待っていたのは遠い昔に聞いた、明るい声だった。
「良かったわよ!」
久しぶりに聞いた褒め言葉だった。嬉しかったけれど、久々の経験のせいで小さくしか笑えなかった。先生の一言が私の中でいっぱいに膨らみ、また優しい先生に戻ってくれるんじゃないかって淡い期待を抱かせた。
結果発表の時が来た。四位が呼ばれ、三位が該当者なし。次呼ばれたら、先生の顔は豹変するに違いない。今笑っていても、数秒後に変わるのは容易い。渇いた喉を潤すために何度唾を飲み込んでも、渇いたまま変わることはなかった。
『二位は──』
呼ばれないで。震えを抑えるために両手を合わせ強く握った。その瞬間、呼ばれたのは私ではなく、あの男の子だった。先生のライバル教室の男の子。先生はそこで私の一位を確信し、私の肩を抱いた。
「勝った……勝ったわよ……!」
そして、一位。予想通り、私の名前が呼ばれた。本当に、私が一位なんだ。
私は先生に背中を押され、覚束ない足取りながらもステージ上へと向かった。そして、一番大きなトロフィーと賞状を抱えて、控えめに笑った。
表彰後、去年とは正反対の状況が作られていた。私と先生が審査員の先生方に囲まれ、二位の男の子とその先生はこちらを見ていた。先生は何も気にしていない様子だったけれど、二人の視線に耐えられなくなった私は両親の元へ逃げようと大人の群れから飛び出した。私が意識し過ぎなのかな。すると、あの男の子は私の元へとやってきた。随分と荒んだ歩調で、ずんずんと近寄ってくる。
「なあ、」
鋭い目つきで私を睨むと、堂々と私を指差して宣言した。
「次は負けねえ」
私は咄嗟に目を逸らしてしまった。彼がただの負けず嫌いで言っているようには見えなかった。私より遥か先を見ている気がして、目を合わせられなかったのだ。
私は詰まりかけた喉から言葉を絞り出した。
「もう会わないよ。多分」
「は? おい、ちょっと待て!」
彼の静止を無視し、両親の元へと駆けて行った。もうあの子に勝ったから、本当に自由に弾いたって許してくれるよね?
両親の元へ向かうと、誇らしげに笑っていた。頭を撫でてくれる手が気持ちいい。
「名前ちゃん、やったわね。おめでとう」
「いい演奏だった。今までで一番良かった」
「うん。ありがとう」
父の言葉があったから出来た。多くの人に褒められたのは嬉しかったけど、私が一番嬉しいのは両親の喜ぶ顔だった。
後日、再びレッスンが始まった。先生は私を少しでも認めてくれたかな。改めて褒めてくれるかな。調子よく教室へ行ったけれど、私の期待はあっさりと砕け散る。
「いらっしゃい」
迎え入れてくれたときの表情が穏やかだったから油断していた。でも、私が椅子に座った途端、態度は百八十度変わった。先生は私の肩を抱くと、呪文のように唱え始めた。
「あなたはまだ先に行くんだから、これぐらいのことで満足しないで」
地を這うような声に身が震えた。
「いい? あなたはプロの演奏家になるのよ。世界を股に掛ける演奏家に。その才能があなたにはあるの。そしてそれを育てるのは私。いいわね?」
ぞくりと背筋が凍った。ああ、何も変わらないんだ。むしろ、これからが本番なんだ。言葉にされ、ようやく理解した私は、先生から逃れられないことを悟った。
ピアノは好きなのに、先生が嫌いだ。でも、その先生さえ我慢すればいい。そうすれば私はピアノを弾いていられる。だから、我慢すればいい。お父さんもお母さんも私の弾くピアノが好きだから。私はピアノを辞めたら終わる。両親にまで突き放されたら、私は、私は──。
それからほぼ毎日レッスンに行く度に言われる「プロ」の二文字。たった二文字が積み重なって私に蓋をする。息が詰まって苦しい。隙間を探す方が難しい。手を伸ばしても、私が求める光はどんどん遠ざかっていく。
「プロになれば、ご両親も喜ぶわ。見たいでしょう? 喜ぶ顔を」
両親を人質に取られてしまった私は頷くしか出来なかった。疑問を抱く気力も、頭もなくなっていた。両親からプロになってほしいと頼まれたわけでもないのに、呪文のように刻まれていく。それがまるで現実のような幻想だと気付かずに。
小学校卒業を控えた三月。青春学園に入学を決めていた私は、両親と今後について話をしていた。主にピアノのことだった。
「ピアノ続ける?」
「新しいことを始めてもいいんだぞ。せっかく私立受験したんだから」
部活動も多くあるよ、と他の分野も勧めてくれたが一切受け入れなかった。既に先生の毒素が回りきっていた私には、無駄な言葉たち。私は一生ピアノと生き続ける。他の手札を捨て、残した手札は一枚きり。
「ううん。いいや。ピアノだけで」
両親を不安にさせないように笑って答えた。両親は、「気が変わったらいつでも言ってくれ」と告げて話を終えた。私は唯一の正解を選んだつもりだった。
中学に入学し、周りが部活に入る中、私はどこの部活も見学することなく、帰宅部を選択した。私にはピアノがあるから。ピアノ以外なかったから。そう思う事で、選択肢を自ら削った。
友達が部活のない日に遊ぼうとしても私はピアノに向かう。いくら誘ってくれようとも私が首を縦に振ることはなかった。一日でも休めば、私はピアノを弾けなくなる。
「いいじゃん。一日ぐらい」
「行こうよ」
この日も中学に入って出来た友達からの誘いを受けた。私も遊びたくて仕方がなかったけれど、先生の顔を思い浮かべて必死に耐えた。
「うーん、ごめんね。レッスンがあるから」
一杯目を細めて断りを入れた。友達は残念そうに肩を落としていた。
「そっかあ。今度行こうね」
いずれ、誘われることもなくなるんだろう。あの子は付き合いが悪いから、と一人、また一人と声をかけてくれる人さえいなくなる。
羨ましかった。放課後、制服のままで出掛けて遊んだり、友達と一緒に練習したり。一度ぐらい、やってみたかったな。叶うはずのない夢を無理矢理頭から消して、レッスンへと向かった。
「違う! 何度言ったら分かるの!」
パシッ。手の甲が赤くなる。私が上手く弾けなければ、先生はステンレス鋼の指し棒で私の手を叩いた。中学に入ってから増えた行動だった。他の生徒にはしないのに、私には手を上げた。我慢すれば、ピアノが弾ける。両親も悲しませない。私が、我慢すれば。我慢なんて、慣れっ子だ。
「あなたはプロになるんでしょう? だったらこれぐらいのこと出来ないと、」
膝の上に置いた拳が震える。先生の声が右から左へと流れていく。いつもなら耐えられたのに、今日は腹が立って仕方がなかった。恐らくこの日が限界だったのだ。
いつまで我慢したらいい。いつまで私はピアノを弾かなくちゃならない。もう、弾きたくない。本心が駆け巡った瞬間、抑えていた何かが破裂した。
「……ない」
「何? 言いたいことがあるなら言いなさい」
先生は苛立ったまま、棒を私に向けた。私は震える声で自分の気持ちを吐き出した。
「……プロになんか、なりたくない」
「なんですって……」
逆上した先生は、私の胸倉を掴んだ。私の首は生まれたての赤ん坊のようにだらりと垂れている。言ってしまった手前、どうでもよかった。むしろ清々しかった。
「もう一度言ってみなさい!」
先生は片手を振り上げると、部屋に乾いた音が響いた。私の頬を叩いたのだ。じんわりと広がる痛みが、私の心の声を引き摺り出す。もう、止められなかった。
「プロになんて、なりたくない。絶対にならない!」
そう叫んだ私は、先生の手を振り払って泣きながら逃げた。中途半端に履いたローファーが歪な音を立てる。初めてした反抗に、恐怖からか心臓が痛い。しかし、それを厭わず、当てもなく走った。夢中で走った。
照らす夕陽が私の肌をジリジリと焼き付けていた。
家に帰れないまま、足を引き摺るように街を歩いた。どんな顔をして家に帰ればいいんだろう。先生から家に電話が入っているはずだ。怒られるんだろうな。自分で決めてピアノを始めたのに、こんなことになるなんて。
行く当てもなく、ぼんやりと歩いていると、見知った顔が本屋にいた。
「あれ、名前?」
同じクラスの子だった。小柄だけど陸上部で短距離を専門としている子。目が大きくてすばしっこくて、小動物のような子だ。
「……部活帰り?」
「そうそう。今日早く終わったからさ」
彼女は手にしていた雑誌を元の場所に戻すと、私に近寄ってきた。入学してからというもの、よく話しかけてくれる子だった。出席番号も近く、親しみやすい彼女は笑ったときのえくぼが可愛かった。
「名前は?」
「レッスン帰りなんだ」
嘘。途中で逃げ出した。でも、そんな説明をしている気力も暇もないから嘘で誤魔化した。
「ふーん……」
彼女は唇を尖らせてじろじろと私を見つめると、私の手を取った。一瞬の出来事に驚きを隠せない。しかし彼女は今日一の笑顔で笑った。
「これから時間ある?」
「一応……」
「じゃあ着いてきて」
「えっ、ちょ、」
何も理解しないまま、彼女に引き摺られるようにとある場所へ向かった。
彼女に連れられてきた場所はゲームセンター。ほとんど入った事のない場所に足がすくむ。彼女の手を強く握って足を踏み入れたけれど、賑やかな空間に目が忙しくてチカチカした。でも、不思議と嫌じゃなかった。
「よし、プリ撮ろ」
彼女は繋いだ手を引っ張ると、プリクラ機まで一直線だった。物自体は知っていたけれど、実物を見たのは初めてだった。
「撮った事ある?」
「……ない」
「ほんと? じゃあ初めてだ~。やった」
何が「やった」なのか分からなかったけれど、光が照る白い空間の中で彼女ははしゃいでいた。何が何だか仕組みがわからない私は呆然とするばかり。
「名前の初めて記念って事で、私が奢っちゃお。二百円分だけだけど」
カラカラと笑いながら彼女は財布から四百円出すと、慣れた手つきで投入し、パネルを操作した。動作が素早くて、何一つ理解できないでいると、三、二、と甲高い女性の声が響いた。
「ほらほら、寄って」
彼女は棒立ちの私を引き寄せる。一枚目の顔は見せられたものじゃなかったけど、そんなことを笑い飛ばせるぐらい彼女が笑わせてくれた。
「はあ……落書きコーナーって暑いよね~」
悪態をつきながらも、彼女の顔はどことなく嬉しそうだ。機械から落ちてきたプリクラをチェーンで繋がれたハサミで切っていくと、あっという間に半分になった片方を私に差し出した。
「はい、半分」
「ありがと」
初めて手にしたプリクラに、私は興味津々だった。前から興味はあったけど、撮る時間なんてなかったから楽しかった。撮影中のことを思い出しては口元がにやにやと歪む。すると、彼女は隣で得意げに笑っていた。
「少しは笑えた?」
「えっ?」
彼女の言葉に、私は言葉を失ってしまった。どうして、そんなことを聞くのかと。しかし、彼女はそのまま言葉を続けた。
「余計なお世話かもしれないけど、泣きそうな顔してたから」
「ごめんね」と謝る彼女に私は首を振った。そして、勝手に涙が零れた。どれが理由で泣いてるのか分からなかったけど、涙は止まらなかった。手の甲で涙を何度拭っても無駄だった。
「ごめ、」
「ううん。いいよ。大丈夫だよ」
彼女はそう言うと、私を抱きしめた。私はそれに甘えて、全てが空になるまで泣いた。彼女の方が小さいのに、私と同級生なのに、随分と大人に見えた。
私が泣き終えた頃には、鼻だけじゃなく顔全体が真っ赤に染まっていた。未だ止まらないしゃくりに、彼女は背中を擦ってくれている。泣いたのも久しぶりだったなあ、と他人事のように考えていると、彼女は私の手を掬いあげた。
「な、なに……?」
おずおずと尋ねると、彼女は真剣な表情のまま答えた。
「名前の手って、綺麗だよね」
「そう、かな」
ピアノに相応しい手、とは言われた。でも、いつしかそれは褒め言葉には聞こえなくなった。相応しくなければ、今みたいな思いしなくて良かったのかななんて思ってしまっているけれど。
「指が長くて、細くて、綺麗で。羨ましい。見て、私の手。丸くて小さくてぷくぷくしてる……って太ってるわけじゃないし!」
手を並べながら喋り続ける。一人でコロコロ変わる表情が面白くて、ついつい噴き出してしまった。
「ふ、ふふ……」
「ああ! 笑ったなあ!」
二人で一頻り笑って、途中まで一緒に帰った。彼女のこと、私のこと、学校のこと。いっぱい、いっぱい話した。私がやりたかったことが叶えられた日だった。でも、ピアノのことだけは話せなかった。
辺りが完全に暗くなってから家に帰ると、両親が大慌てで私を迎えた。母は私を抱きしめ、父は眉を下げて安堵の溜息を吐いていた。「無事でよかった」というだけで、二人は私を怒らなかった。
「先生から聞いたの。今日のレッスン途中で帰っちゃったって」
小さく頷いた。先生は両親にどう説明したのだろう。私が勝手に逃げ出したと説明したんだろうか。
「体調でも悪かった?」
私の頬を優しく撫でながら問う母。私は眉間に皺を寄せた後、重い口を開いた。
「お母さん」
「なあに?」
「ピアノって、好きなだけじゃダメなの?」
母は目を丸くさせて言葉を失った。どこか悲しみが透けて見えて、小さく「ごめんなさい」と呟いた。私は母の手から逃れると、部屋に籠った。両親と顔を合わせたくなかった。合わせられなかった。
「名前の手って、綺麗だよね」
ぼんやりとあの子の声が過った。嬉しかった。私本人を見てくれているようで、心が満たされた気がした。
人より大きい手。人より長い指。いくら適していても、気持ちが追い付かなくなれば終わり。強いられることが辛い。ただ、楽しんでいたかった。お父さんとお母さんのように、音を楽しんでいたかった。それだけだったのに。
次の日、私は重い体を引き摺って学校に行った。ピアノから離れられた時間は暗く澱んだ気持ちを少しだけ晴らしてくれる。教室に到着すると、昨日逃げ出した私を救ってくれた子が陽気に話していた。内容は昨日の、私と遊んだ話だった。
「へへ、昨日名前とデートしたんだ」
以前私を遊びに誘ってくれていたクラスメイトにプリクラを見せびらかしている。「おはよう」、とその空間に飛び込めば、彼女達は笑顔で挨拶を返してくれた。
「昨日のプリ、みんなに自慢してたんだ」
私に駆け寄ると、彼女はえくぼを浮かべて微笑んだ。昨日の出来事の中でも、彼女は明るい側面だけを切り取って伝えていたようだった。
「名前ちゃん、今度うちらとも行こうよ」
「ついでにカラオケも」
以前断ってしまったにも関わらず、誘ってくれる二人に頬が緩む。
「うん。行こう」
そう言って頷いた。嬉しいはずなのにどこか物足りない。でも、穴の開いた心を気のせいだと知らぬフリをした。
それから私はピアノに触れることをやめた。どうしても向き合えなかった。ぽっかりと開いた心の穴は一人の時に風がよく吹く。開いた穴があまりにも大きすぎるせい。一人になると、ピアノのことで頭が埋め尽くされた。今のままでいいのか、それともまだ我慢して続けていた方が良かったのか。考えれば考えるほど、頭痛がした。吐き気がした。
光を遮断した自室。ベッドの上で寝転んだまま、静かに頬を濡らしていた。
「名前、少し話しましょ?」
「少しでいいから、顔見せてくれないか」
両親の声が扉の向こう側から飛んでくる。
「ごめんね。ちゃんと名前ちゃんの気持ち、汲んであげられなくて」
「理由、教えてくれないか。辞めるのは構わないから、教えて欲しい」
両親の優しさが辛かった。喜んでくれていた両親を悲しませてしまっている現状が更に私の呼吸を奪う。どうせなら怒ってほしかった。
錆びた金属に成り果てた体を引き摺り、扉を開ける。隙間から注ぐ光が眩しくて眉間の奥に痛みが走った。両親は私が顔を出したことに安心したのか、言葉に丸みが戻った。
「何があったの?」
二人とも俯く私の顔を覗き込むようにしゃがんだ。そして、私の手にそっと触れた。温かくて優しい手が涙を誘う。ぽろり、とまた涙が零れる。肌が削れるほど泣いたのに、まだ零れるのか。私はしゃくり上げながら断片的な情報を伝えた。
「先生に、才能があるから、プロになりなさいって……。その方がお父さんもお母さんも喜ぶからって……ずっと、ずっと……」
そう言うと、両親は顔を見合わせた。
「でも、なりたくない。自由に弾きたい。遊びたい。友達と一緒に過ごしたい。今のままじゃあ、ピアノを嫌いになる」
母は私を抱きしめた。優しい花の香りが私を包んでくれる。母は少しだけ震えていた。
「よく言ってくれたね。ごめんね。ありがとう」
父は大きな温かい手で私の頭を撫でた。いつもより目尻の皺が深く刻まれている。
「怒らないの?」
「怒らないよ。名前の人生だからね」
更に涙が零れた。際限なく溢れた涙は母の肩を濡らした。
「これからは好きな時に、好きなようにピアノを弾いていいからね」
私はとんだ勘違いをしていた。いつだって逃げ道を用意してくれていたのに、目を背けていたのは自分自身。逃げたら、私は私じゃなくなる。両親が笑顔になるのはピアノを弾く私がいるからと信じて疑わなかった。その間違った信条が徐々に私を狂わせていった。教室を飛び出してから、ずっと罪悪感に苛まれていた。自ら志願したことを放り出し、両親を裏切った気持ちでいっぱいだった。本当の両親に気付けなかったのは、呪文のような先生の言葉が私の視野を狭めたせいだった。
これで助かったと思った。ピアノを始めたてのときのように、また弾けるのだと思っていた。
お父さんが教室に私が辞めることを連絡すると、後日、先生だった人は謝罪に来た。自分が叶えられなかった夢を、才能のある私に押し付けたと慟哭していた。私は隠れて話を聞いていたけれど、どうでもよかった。あの環境下でないなら構わない。私は自由になれる。ぷつん、と糸が切れた私に残ったのは虚無感だった。指がちぎれそうになるほど弾いていたピアノももう何日も触っていない。初めての経験だった。
私が教室をやめてから一週間ほど経過した。あの人がどうなったのかは知らないけど、もう会うことはない。全てを両親に任せて考えることをやめた。これで自由に弾けると久しぶりにピアノに向き合った。整った心で鍵盤に触れられる。そっと指先が白に触れた瞬間、もういないあの人の声が脳内に響いた。
『どうしてこのレベルが出来ないの』
明らかに先生の声だった。思わず周囲を見渡した。あの人はいないのに、幻聴が私を襲う。内側から金槌で殴られているような頭痛と、早くなる鼓動が胸のあたりで暴れ、痛みで椅子から転げ落ちた。大きな音を立てた拍子に、キッチンにいた母が私を見て叫んでいた。
怖い。助けて。誰か。
呼吸さえもままならなくなった私は、傍で背を擦ってくれていた母を振りほどいてトイレに駆け込んだ。体内に残っていた澱んだ記憶が迫り上げる。気持ち悪い。腹の中が空になるまで吐き続けた。この時の記憶はあまり残っていない。
その後、私は明らかにピアノを遠ざけるようになった。今度こそ弾けなくなってしまった。ピアノに向かおうとすれば、あの人がいる。私を逃してはくれない。いないと何度唱えても、気にしてしまう。叩かれてもいないのに、手の甲を頻繁に触る癖がついた。一度壊れてしまったものは、そう易々と戻らないことを知った。
「名前ちゃん。お父さんが弾くって」
「一緒に弾かないか。楽譜も新しく買って来たんだ」
整った環境下でも弾けない私を心配して、両親はあの手この手で楽しませる努力をしてくれた。それでも心に深く根を張った傷というのは一向に治らない。
「要らない。もう触れない」
それきり、私はピアノと距離を置いた。これが永遠の別れになってしまうんだ。そう思うと、体は海の底に沈んでいくように重たかった。
この日から音楽は消えた。うちにとっての禁忌に近かった。誰も音楽については話さない。それ以外はいたって普通の生活を送っていた。
私がいないときにお母さんは弾いているようだったけれど、お父さんは全くと言っていいほど触れなくなった。お母さんは私が帰宅するギリギリまで弾いたり歌ったりしているから気付けた。もしかしたらお父さんもどこか違う場所で弾いてるのかな。私は、二人の好きなものまで奪ってしまった。
一人でいると、レッスンを思い出した。一度我慢が出来なくなれば、痛みをぼやかすことも出来なくなる。嫌な事を思い出さないように放課後は遊びに出るようになった。同じように帰宅部の子だったり、部活のない日を選んで遊んだり。この頃に菊丸と仲良くなった。明るくて、いっぱい話してくれるから無駄なことを考えなくてすむ。それでいて気楽だった。それを繰り返していると、知り合いは勝手に増えた。好きであろうが、嫌いであろうが、一人でいる時間を潰せれば何でも良かった。
勿論勉強だってきちんと取り組んだ。今まで知らない世界を知るのは楽しかったし、何より他の事を考えなくてよかった。そして、成績が上がれば担任は私を褒めた。適当に笑って流せばあの子は良い子だ、優等生だと勝手に認識してくれる。ピアノを弾くより余程簡単だった。すぐに結果が見えてくるから楽勝だった。だからこそ、努力がわからなくなっていった。努力してもピアノに向けたほどではないと思うと、私自身がそれを努力と認めなかった。認められなかった。
それから両親があれやこれやと勧めてくれるものはいくつもあったが、私は何にも手をつけなかった。いや、つけられなかったんだと思う。ピアノ以上に自分を埋めてくれる熱量が到底生み出せると思えなかった。それほど私にとってピアノはあまりにも大きかった。
こうして帳は完全に下ろされた。私の舞台は完全に終わったのだ。
***
改めて過去を思い出せば、鼻の奥が痛んだ。照明に手をかざして、目を細めた。触らなくなってから一年。弾くことに適していた手は、思うようには動かないだろう。好きだったピアノ。昔見た憧憬は幻となった。もう叶うことはない。
物事に真っ直ぐ向き合う手塚くんが羨ましい。ピアノだけだった私とは違って選択肢がいっぱいある彼が、彼の全てが嫉妬するほど羨ましかった。
ふう、と息をつき、鼻をすする。室内が一人であったから助かった。これ以上は止めておこう。余計に嫌な事を思い出してしまいそうだから。
机の上に広げていた原稿をまとめ、鞄に詰め込もうとしたときだった。突然、生徒会室の扉が開いた。放課後の中途半端な時間に誰だろう。片付ける手を止め、扉の先を凝視した。
「手塚くん?」
意外な相手に瞬きを繰り返す。手塚くんも私がいたこと、というより誰かいたことに驚いたのか、きょとんとしていた。
「名字か」
バタンと扉を閉じ、室内へと足を踏み入れる。既に部活に行っていると思っていたせいか、先程まで過去を思い出していたせいか、妙に緊張してしまう。すると手塚くんは私が一人だった空間を気にしたのか、私に尋ねた。
「邪魔をしてしまったか」
「ううん、大丈夫。もう帰ろうかなって思ってたところだし」
仕舞おうとしていた原稿を見せながら説明すると、手塚くんは納得した様子で頷いた。
恐らく来年は手塚くんの担当だろう。私達が卒業するときの答辞は彼が行う。歴代の会長がそうしてきたように、彼もそうするんだろう。さぞがし華やかなんだろうな。
一年以上先のことを想像していると、手塚くんは一直線にファイルの詰まった戸棚へと向かった。頭は彼の動向を意識しているせいで、帰り支度が進まない。仕舞うはずの原稿の端をペラペラと捲ったり、文字を追いかけたり。無駄な仕草を繰り返す。すると、手塚くんは一冊のファイルを手に取り、近くのパイプ椅子に座った。長い指がページを捲っていく。二人きりの空間。包む静寂。空気の動きで鳴る音が響く。
話しかけてみても、いいのかな。切り出すにしても何からいけばいい? 学校の事、テニスの事、それとも個人的な趣味? 強調された心臓の音が私から冷静さを奪う。一人で静かに唸っていると、沈黙を破ったのは手塚くんの方だった。
「お前が送辞を読むんだったな」
先手を取られ、思わず息を呑む。早くなる鼓動を気付かれないように平静を装って見せた。
「うん。今から緊張しそう」
胸を抑えながら笑って答えると、手塚くんは再び席を立ち、ファイルを探っていた。もっと積極的に行っていいのか、このままの距離を保つべきか。もどかしい距離が判断を鈍らせる。
「手伝おうか?」
椅子から腰を浮かせ、助力を申し出るけれど、中腰で彼の顔色を窺っていた。
「いや、大丈夫だ。すぐに済む」
あっさりと断られてしまい、ゆっくりと腰を下ろした。思うようにいかないせいで手が彷徨った。近くに転がっていたシャーペンを手に取り、強く握った。
手塚くんは自身のことを考えられているだなんて全く気付いてないだろう。表情一つ変えずファイルを一冊取っては、また席に戻った。私とは二席分ほど離れていて、私と手塚くんの心の距離を表すにはちょうどいい。
何とか脱出口を見つけたくて、一席分椅子を引き摺って近づいた。身を乗り出して彼の手元を覗くと、見覚えのある資料が目に入った。
「手塚くん」
「なんだ」
「それ、新入生説明会の?」
「ああ。次の代のために資料を置いておこうと思ってな」
先日開催された新入生説明会。生徒代表として生徒会が校舎案内を担っていた。手塚くんの手には何枚かの紙。正確な順になるように整理しているんだろう。
「ああ、そっか。すごいね」
口から出たのは簡素な褒め言葉のみ。もっと碌な言葉はなかったのかと頭の引き出しを開けて周っても何もない。一瞬たりともこちらを見ない手塚くんに、次の選択肢の難易度が上がる。次の話題を提供しても作業の邪魔になるに違いない。自分の最大限選べる手札の中から引いたのは撤退。完全撤退の手札。白旗を振っているつもりで寄せた椅子を少しだけ離す。気を回したつもりで離したのだ。
すると、手塚くんは私の動きを察知したのか、私の方を向いた。吸い込まれそうな瞳が私を射抜く。何を言うのかと待ち構えたが、彼は口を開かない。もしかして怒らせてしまったのか。でも手塚くんが怒る理由もない。
「名字、」
心臓が一度、大きく収縮した。穏やかな低音が騒ぐ脳内を鎮める。
「菊丸と仲が良いのか」
その場で転ぶかと思った。予想外の世間話に気が抜けた。
「ああ、同じクラスなの。何か言ってた?」
笑顔で返すけれど、菊丸がどのように私の話をしているのかが気になった。手塚くんの尋ね方からして、多かれ少なかれ話がいっているんだろう。菊丸が不要なことを言ってないのを祈った。
「よく勉強を見てもらっている、と」
手塚くんの解答に胸を撫で下ろしつつ、頭の片隅で菊丸を疑ったことを謝罪した。
「英語助けて~って来るんだよね。大石くんがダメだったときの保険だよ、私は」
泣きつきに来る菊丸の姿を思い出せば、笑いが込み上げてきた。手塚くんは「そうか」と一言呟くと、こう続けた。
「きつく言っておく」
「大丈夫だよ。いつもってわけじゃないし」
これからの部活での顛末が良いように思えなくて、咄嗟に菊丸を庇った。良い事を話してくれているようだからオマケとしてだけど。
「だが、迷惑がかかるようなことがあれば言ってくれ」
「うん、ありがとう」
他の友人と変わらず話せていることに、私は浮足立っていた。先程引いた手札を引っ込めて新たな手札を選んだ。
「手塚くん」
「なんだ」
「部員が悪い事したらグラウンド走らせるって本当なの?」
疑問を素直にぶつけると、手塚くんは一瞬だけ固まった。でも、すぐに眼鏡のブリッジを人差し指で上げる仕草を見せた。
「菊丸からか」
「うん」
机の上で腕を組み、手塚くんを見つめる。彼は口を開けたり閉じたりと言葉に迷うと、数秒時間を置いてから言葉を紡いだ。
「規律を乱せば、そこから緩みは生まれる。生み出す芽を摘むために、普段から規律を破る者には罰が必要だ。どんな小さな事であっても、見逃すことが優しさとは言えない。だから俺は部員を走らせる。勿論、自分自身も例外ではないが」
ぽかんと口が開いた。厳格な面しか聞いていなかったせいで、呆気にとられた。彼の真摯さと普段から人を見ている事から出来る芸当。だから、皆が彼を先頭に立つ者として慕うんだ。今、私はその内の一人になろうとしている。
「手塚くんって、優しいよね」
投げかけた言葉に、手塚くんは瞬きを繰り返した。
「そう、だろうか」
少し首を傾げながら顎を擦る。その姿から言われ慣れていないことを察知した。
「その優しさに気付いてるから、みんな手塚くんに着いていくんだろうね」
すかさず彼の行動と周囲の評価を褒めれば、彼は私から目を逸らした。調子に乗りすぎたか、と様子を窺っていると、彼はまたも眼鏡のブリッジを上げた。どことなく落ち着かない雰囲気が手塚くんから漂う。もしかして、と予想を立てた瞬間、口を滑らせた。
「照れてる?」
図星なのか、手塚くんは押し黙ってから腕を組んだ。
「……気のせいだ」
あまりにも下手な誤魔化し方に声を出して笑った。口元を手で覆うけれど、笑いは止まらない。
「絶対照れてる」
いつの間にか消えていた緊張。話してみて、手塚くんって結構分かりやすいタイプなんじゃないかって勝手に判断していた。表情に出ているとは明言しづらいけれど、纏う雰囲気が明らかに違うように思う。
「はーあ。手塚くんって面白いなあ」
ぐんと背伸びをして、椅子に凭れ掛る。他の人より少し、ほんの少し分かりにくかっただけなんだ。
「面白い?」
「うん。もっと早くから話しかけてればよかった」
真剣な表情で見つめ返す手塚くん。私は友人に向ける微笑みを彼にも向けた。密かに後悔していた。他人から聞いた情報で彼を判断したことに。もっと早かったら、私から話しかけていたら、違う関係性を築けていたのかな。
一方的に関係の雪解けを感じたおかげか、増えた手札を切ろうとした。しかし、その勢いもすぐに終息する。
「あ、そうだ。手塚くんのテニスの話聞きたい……って時間取りすぎか」
提案する途中に時計を見たのが仇となった。手塚くんはまだ部活が残っている。帰宅部の私とは忙しさが違う。彼の本質であるテニスに話題として触れれば、そう簡単に終わるものではない。
「ああ、そろそろ時間だ」
「残念」
改めてタイムリミットを宣言され、分かりやすく肩を上下に動かした。彼はファイルを戸棚にしまうと、テニスバッグを肩に掛ける。彼と話す機会を今回限りにしたくなくて、私は次を提示した。
「手塚くんさえ良かったら、また話そうよ」
誘う理由なんて、楽しかっただけで十分。手塚くんも同じ気持ちでいてくれるなら、と頷くのを待った。彼は私の提案にゆっくり瞬きをすると、少しだけ微笑んだように見えた。
「ああ。今日は良い息抜きになった」
好感触な言葉が私を調子づかせる。
「途中まで一緒に行こう」
そう言って彼の隣を歩いた。靴箱までという短距離でも、手塚くんとのたった数分間が胸いっぱいに満たされる。温かくて、自然と頬が緩んで、もう少し時間があったらと後ろ髪を引かれる。
「じゃあね、手塚くん。また明日」
「ああ。また明日」
校門での二度目のさよならは、「また明日」が追加された。校門で手を振っていたのは私だけだったけれど、確かな収穫があった。部活へ向かっていく彼の背が輝いて見える。まだスタートラインに立ったばかりの私は、小さくなっていく彼を見つめては目を細めていた。