もう一度、恋をしよう。
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私達は、いつも隣同士だった。いつもと言っても、それは一年間だけ。認められた任期のたった一年。それでも私にとっては、特別な位置だった。
私は生徒会副会長、彼は生徒会長。学年や学校単位での行事や集会があれば、私には彼の隣という特等席が用意される。皆が一目置く彼の隣。優越感に浸れる時間だった。そして、何よりも好きな時間だった。
でも、そう感じるまで遠かった。生徒会に入るまで私と彼の接点は一つとして無く、彼の事を何も知らなかった。周りと同じ、割り当てられた役職でしか彼を見ていなかったせい。
二年生の初秋。煌々と照り付ける日差しがアスファルトを弾く。セーラー服の中には暑さが籠り、汗で下着が張り付いていた。いつもなら気にする気持ち悪さも、今日ばかりは気にしてはいられなかった。それ以上に、私には気にせねばならない事が待っていた。
ガヤガヤと人の声で騒がしいピロティーで靴を履き替える。踵が上履きを迎えた瞬間に、人混みへと割り込む。張り出された模造紙を囲む生徒の隙間から均等に並ぶ明朝体に目を凝らすと、そこに私の名前は記されていた。
『生徒会副会長 名字名前』
自分の名前を確認し、隣の書記の欄に目をやった。そこには友人の名前が間違いなく綴られている。
「……やった、」
約束通りの結果に、私はようやく頬を緩めた。
ほぐれた体で教室に向かうと、着いた瞬間に冷気が私の身体を包んだ。突然の気温の変化に身震いを起こすと、クラスメイトが方々から祝福の声をかけてくれた。「副会長、当選おめでとう」と。飛んでくる声に合わせて笑顔を向けながら次々に感謝の言葉を紡ぐ。なんとも朝から忙しい。でも協力してくれたお礼として、感謝は伝えるべきものだ。
ようやく自分の席である窓際の最後列に辿り着くと、一人の女子が駆け寄ってきた。そして、勢いよく私に抱き着く。汗をぐっしょりとかいているせいで、体は仰け反ってしまう。先程まで熱を持っていた汗が冷え、再び肌に張り付いた感触のせいで一瞬眉間に皺が寄った。
「お、おはよう……あと、おめでとう」
「おはよう!ありがとう!おめでとう!」
彼女の勢いに押されたまま、何度も頷く。彼女の腕の強さは、ぐんと強くなった。とりあえず離してほしい。
友人を半ば無理矢理剥がすと、満面の笑みで「一緒に頑張ろうね」と口にした。浮かぶえくぼが可愛らしい。私は「そうだね」と口角を上げて肯定し、席に着いた。そう、彼女が書記に当選した私の友人なのだ。彼女は私の前の席の主がいないことを良いことに、席に着いて私の方に体を反転させた。
どうやら彼女の本題はここかららしく、内緒話をするように声を潜めた。ちゃんと聞きとるために、私は耳をそばだてた。今から悪戯を仕掛けそうな気持ちの昂りが伝わる。
「ね、会長見た?」
「見たよ。予想通りじゃん」
何だ、その事か。大した内容ではないと判断した私は、持ってきたタオルと制汗剤を使って汗を拭った。濡れた肌はあっという間に乾いていき、首回りが爽やかに冷える。
「緊張しちゃうよね。だって、あの手塚くんだよ?」
友人は落ち着かないのか、表情とは裏腹に手を揉んでいる。確かに、落ち着かない理由も納得は出来る。
私達が話題に挙げた手塚国光くん。私達と同じく、新たに生徒会長になった男。模造紙にも彼の名は書かれていた。他にも候補者はいたが、手塚くんが立候補すれば勝てる者はいない。選挙が始まる前から立候補者が肩を落としていたのは、つい先日のことだ。それほど立候補者が開示された時から会長は決まっていたようなもので、所謂出来レースに近かった。手塚くんと言えば、成績優秀、容姿端麗、更に次期テニス部部長まで追加されている。そして、見る者を惹きつけるオーラ。先生達からの信頼はもちろん、同級生や後輩、先輩からも慕われている。全部、流れてきた噂で知った内容ばかりだけど、間違ってはないんだろう。
そんな現実にいて堪るか、と叫びたくなるような同級生がいるせいで、私達はこうして話題に彼を持ち上げていた。
「まあ、大丈夫でしょ」
私がそう言えば、友人の手の動きは止まり、机の上で小さく重ねられた。私とは対照的な小ぶりで丸い手だった。
「ふふ、楽しみだね」
高揚していた気持ちが少し落ち着いたのか、口元を両手で蓋をして笑っていた。一杯に目を細めて笑う姿に私もつい、つられてしまう。一挙一動に愛嬌が詰まっている彼女は見ていて飽きない。
「お二人さん、おっはよ~!当選おめでとう!」
テンション高く私達のところに駆け寄ってきたのは、友人の菊丸英二だった。去年から同じクラスで、一番仲のいい異性を挙げてください、と言われれば彼の名を挙げる。話しやすいし、コロコロ変わる表情がいつだって面白い。
「ん、ありがと」
「ありがとう~」
私達は口々に礼を告げると、菊丸は誇らしげに笑っていた。
菊丸が私の隣の席に座り、会話が三人に増えたところで友人が再び話を例の事に戻した。確かに聞くなら菊丸が適任だろう。同じテニス部だから。
「菊丸くんに聞きたいんだけど、手塚くんってどんな人?」
首を傾げて菊丸に尋ねる友人。目の大きさが強調されている。菊丸も大きな目を更に大きくすると、ああ、と閃いたように声を上げた。
「そっかそっか。手塚の奴、会長だもんなあ」
「全然接点ないから知りたくて」
友人が両手を擦り合わせながら尋ねると、菊丸は腕を組んで、んん、と悩み始めた。瞬間的に、菊丸が悩む素振りを見せたことに少しばかり驚いた。菊丸ならほいほいと答えてしまいそうな印象があった。
「ん~……あいつ、分かりにくい奴だからなあ。表情に全然出ないしさ」
俺ちょっと苦手、と付け加える。
私は菊丸から何となく手塚くんの事は聞いていた。表面的なことばかりだから、実際は知らないけれど、彼の真面目さは伝わってきている。彼が部長を務めるようになってからは、よく耳にするようになった。まあ一番が大石くんなことに変わりはない。それでも菊丸が苦手とするのも腑に落ちなかった。真面目なだけで菊丸が嫌がるのかな。それとも、手塚くんが偏屈なのか。
すると菊丸は頭の後ろで手を組むと、悩みを掻き消すような笑顔を見せた。
「まあ、でも二人なら何とかなるっしょ」
私達は菊丸の笑顔に背中を押され、どちらからともなく頷いた。まあ、何とかなるでしょう。何とか。
それから少しして、委員長も決定した。方法は、既に決まった生徒会のメンバーである、会長、副会長、書記、会計の四人と、担当の先生達で立候補者達のスピーチを聞いて選定する。場所は、職員室の近くにある会議室。会議室といっても、机は片付けられており、パイプ椅子が並ぶだけの空間。立候補者と先生、そして私達四人の分。普段使うことのない部屋で、先生と同じ立場で業務を行うのは少しこそばゆかった。
先生達と手塚くんをはじめとした生徒会役員は、会議室の後方に並んで座っていた。私は手塚くんと書記の友人の間に挟まっている。
委員長候補は、委員会ごとに二、三名いた。一人ずつ前に出てはスピーチ。一年生からも立候補者がおり、随分熱心な事だと感心していた。
そして私は、ぼんやりと事前に頼まれていたことを思い出していた。委員長に立候補する子達から選ばれるように口添えをしてくれと何度か言われていた。委員長を決める場に私達がいるからという情報が流れていたせいだろう。あと、もう一つ理由がある。手塚くんに頼めないから次点の私に頼みに来ていたようだ。わからなくもない。私もどうしても委員長になりたければ同じ方法を取ったはずだ。頼みやすい人に頼む。それが道理ってもの。無駄に顔が広かった私は、接点が思い出せないレベルの相手にも頭を下げられていた。私はその度に
「みんなに頼まれるから難しいかなあ」
と眉を八の字にして答えた。その後の対応はそれぞれで、
「マジお願いだから!」
と両手を合わせて更にお願いする人もいれば、
「そっか……そうだよね……」
と肩を落として帰る人もいた。そこまでの権限が私にはないとも言えず、なあなあに終わらしてしまっていた。私達がいくら「この人がいい」と候補を挙げたとて、最終決定権は先生方が握っているのだから。
スピーチが始まって一時間弱ほど経過した。ようやく全員のスピーチが終わり、会議室には先生と私達が残った。一人ずつ誰が良かった、とか、こういう人を選んだ方がいいんじゃないか、という話を十五分間続けた。先生達は私達の話を聞き、その上で判断を下すらしい。やっぱり最終決定権は先生なのよ。
私は仲のいい友人と、スピーチを聞いて仲良くなれそうと思った人の名を挙げた。話すときの姿勢や内容を褒めれば、他の人も頷いていた。会長の手塚くんも同じように推薦しており、書記の友人と会計の男子も同じ様子だった。
でも、私は手塚くんが話している最中、落ち着かなかった。真剣な表情と声色が私の居心地を悪くさせた。はっきりと物を言う姿勢が私の足を絡ませていた。
「分かった。じゃあ今日はお疲れ様」
四人それぞれが感想を伝え終わると、先生は解散を指示した。私達は指示通り会議室を出ると、手塚くんは先に歩き始めてしまっていた。私は慌てて
「手塚くん、お疲れ様!バイバイ!」
と声をかけた。これから一緒に活動する仲間として、壁はなくしておきたかった。その最初の手段として挨拶を選択した。すると、手塚くんは表情一つ変えず私を見ると、「ああ」とだけ言って再び歩き始めてしまった。静まり返った空気が私を突き刺す。嘘でしょ。じゃあな、ぐらいあってもいいんじゃないかな。
これは前途多難なのでは、とそんな不安を覚えつつも、私はぽかんと開口したまま、彼の背中を見つめることしか出来なかった。あまりにあっさりした別れに、無意識に口角を震わせていた。
私が呆気に取られていると、友人は手塚くんが去ったのを確認してから口を開いた。
「誰になるんだろうね。委員長」
静まり返っていた雰囲気を壊すように明るい声が廊下に響いた。凍った空気が一瞬で溶ける。
「話しやすい奴だったら誰でもいいや」
会計の子がそう言いながら苦笑いをしていた。先程の私と手塚くんのやり取りを見ての反応だろう。私は今ちょっと辛い。
「ちゃんとした顔合わせもまだだし、なんとかなるでしょ」
へらりと気の抜けた顔で笑って見せた。頭の中では何度も大丈夫と唱え続けてたけれど、不安が消えることはなかった。
友人と別れ、私は帰路に着いていた。ローファーとアスファルトが今にもぶつかってしまいそうなほど、私の足は元気が失われている。そんな私の俯きがちの頭が考えるのは、手塚くんの事だった。彼の隣にいると、居心地が悪かった。その理由を考えていた。心当たりがない訳ではない。でも、それを明確にしてしまえば、私は惨めになる。情けないと泣きたくなる。彼は「私がなりたかった自分」のようで、胸がきゅうと締め付けられる。
私が副会長に立候補した理由は、友人に頼まれたから。部活に入っていないからこそ、友人は私に白羽の矢を立てた。多分、私が部活に入ってようが入っていまいが、彼女には関係なかっただろう。でも、そういうことにしておく。
誘われた当初は断っていた。面倒くさいから嫌だ、と。しかし、何度も彼女に頼まれ、私が折れた。
じゃあどうして私が副会長に立候補したか。副会長を選んだ理由は、楽そうだったから。会長の影に隠れて、適当に補佐という名の雑務をすればいいだけ。それだけで先生達からの評価も上がる。自慢ではないけれど、元々先生からの評判は良かった。成績は上位キープだし、悪い印象は持たれていない。先生からの評価が良ければ少しの悪さは目を瞑ってくれる。不真面目な生徒より許容範囲は広がる。少々スカートが短かろうが、副会長というレッテルが守ってくれる。
たかが中学生の思い出作りの一環。どうせ私以外にもそういう考えの人はいる。というより大概そうでしょう。会計のサッカー部だって、そういう雰囲気が感じ取れた。これは勝手な予感だけど。
多分、この中途半端な気持ちが、手塚くんの隣にいるときの居心地を悪くさせているんじゃないかと思う。菊丸から彼の性格を聞いた手前、引け目を感じていた。それが違和感となって私に纏わりついた。いくつもの役職を持ち、それぞれで自身の役割を全うする。なんて素晴らしいんだろう。私には出来そうもない。
嫌味にも似た思考がぐるぐると回る。こんな事考えたくて考えてるわけじゃない。自分がどんどん嫌な人間になる。正当化しようとすればするほど、視界が歪む。
手塚くんは嫌になった事、ないのかな。逃げたい、と思ったことはないのかな。ふと、そんな考えが過った。それと同時に、無意識に私の足は止まった。
どうしてだろう。どうして、彼は何もかも手にしてしまうんだろう。
鈍い痛みが目頭を襲った。下唇に立てた歯ごと、口が震える。でも、この震えは悔しさだけじゃなくて、大半は自分への情けなさで出来ている。
私は鼻をすすって再び歩き始めた。気付けば自宅のすぐ傍まで帰っていたようで、ピアノの音が微かに聞こえてきた。恐らく音色を紡ぐ当人は私の母だろう。私のいない隙を見て、鍵盤に触れる。一年前なら、その場所は私のものだった。でも、私はもうそこには座れない。
数日後、委員長も決まり、初顔合わせの日を迎えた。場所は生徒会室。大きな机にパイプ椅子で囲めば、私達はそれに座る。お世辞にも広いとは言えない室内には、過去の行事で使われたであろう道具や資料が棚に詰め込まれていた。そのせいで十人超えは狭かった。
今日も私は手塚くんの隣に座る。座席は決まっている訳ではないけれど、何となく皆役職に見合った場所に腰を下ろしていた。
全員が集まると、担当教員の指示で自己紹介が始まった。順番は会長の手塚くんから。私は二番目だった。
うちは生徒数が多いから、こうした場では初対面も少なくない。手塚くんのような、よほどの有名人でない限り、名前も顔も知らないまま卒業するなんてザラにある。
手塚くんは天から吊られたように真っ直ぐ立つと、ハリのある太い声で名乗った。その瞬間、私の背筋はぐんと伸びる。
「生徒会長を務めることになった手塚国光だ。生徒の代表として、各々が責任を持った行動を取るように。皆、油断せずに行こう。以上だ」
言い終えた彼は、すぐに着席した。皆がパチパチと拍手を送る。担当教員より教員らしい言葉に菊丸の言葉を思い返す。「俺ちょっと苦手」。あの人懐っこい菊丸が言うことで威力が増すのだ。
私は拍手が静まるのと同時に席を立って、それらしい挨拶をした。誰でも言える簡単な挨拶。
「副会長になりました、名字名前です。会長のサポートをしつつ、学校を盛り上げていけたらなと思います。よろしくお願いします」
小さくお辞儀をすれば、私にも拍手が送られる。ふう、と小さく呼吸をしてからパイプ椅子を軋ませた。
その後も同じように形式的な挨拶が続いた。中には一年生の子もいて、緊張するだろうなあ、と自分を棚に上げて顔色を窺っていた。それと共に、私はまだ違和感と戦っていた。私が意識しすぎなんだろう。どうせ一年間一緒なのだから距離を縮めればいいのに、彼の以前の態度や、自分の中にある複雑な気持ちのせいで切り替えが出来ない。
そんな私を他所に、集会はどんどん進んだ。手塚くん主導で今度の予定を確認し、この日は解散となった。手塚くんと離れて私はようやく酸素を吸えた気がした。こんな調子で大丈夫かな。一抹の不安を覚えた私は、次の集会まで気分が重かった。
後日、再び生徒会室に集合していた。放課後の短い時間を使って、仕事の基本である挨拶運動の詳細を決めていた。
「挨拶運動は三組に分けようと思う。週替わりで行う予定にしているが、他に案がある者はいるだろうか」
手塚くんの声に揃え、書記の友人が黒板に情報を書いていく。誰も意見を挙げることなくすぐに決定した。元々生徒会がやっていたことだから今更やらない訳がないし、行う上での仕様変更も特にないはずだ。これはなぞらえていけばいい。
すると、他の役員から声が上がった。
「組分けはどうする?」
三組に別れるなら一組四人になる。私は書記の友人と同じだったら何でもいいかな。なれなくても、何とかなるでしょうと楽観的に構えていた。
「じゃんけんの手で決めようよ。役員の仲を深めるためにもさ」
他の委員長がそう提案した。「じゃんけんなら平等だ」という声が聞こえたけれど、書記の友人と同じグループになることを必須条件としている私にとっては平等とは思えない。まあ、でも大丈夫でしょう。私は今まで運で生きてきたようなものだし。どうせ一緒になれる。なんとなくざわついた胸中に気付かぬふりをして、私はじゃんけんに参戦した。
「では、これで決定する。解散」
手塚くんの言葉で集会は締め括られ、それぞれが部活や帰路へと向かった。生徒会室に残ったのは、私と書記である友人。しかし、私は右手がパーのまま、机に突っ伏していた。
ど、どうして……。神様がいるなら教えて欲しい。
「どうして会長と一緒なの~!」
両手で髪を乱しながら、天を仰ぐ。公平に分けられたグループは、想像とは裏腹に会長である手塚くんと同じになってしまった。あの胸騒ぎは気のせいじゃなかった。
「普通会長と副会長ってわかれるもんじゃないの?」
黒板を綺麗に消す友人に叫びながら尋ねる。彼女はこちらを見ることなく、手を動かし続けている。今更喚き散らしたとしても現状が変わることはないのに、納得できない心が騒ぐ。
「いいじゃん。手塚くんと仲良くなれるチャンスじゃない」
全て消し終わったのだろう、友人は白くなった手を払いながら近くの椅子に腰を下ろした。
「でもこの間の態度見たでしょ」
「う~ん。私は羨ましいけどなあ」
まだこの子が一緒のグループなら良かった。でも、この子はいない。あとの二人も全然話したことのない二人。何とも微妙なメンバーだ。
恨めしそうに目を細くして友人を見つめてみるけれど、効果は全くない。知らぬフリをして鼻歌を歌っている。この子には手塚くんがどう見えているんだろう。
「代わる?」
思いつきの言葉が口から滑り落ちると、ぱあ、と開花したように顔色が明るくなった。その表情に私の心が濁った。
「え、いいの?」
その瞬間、私は何となく足元が気持ち悪くなって、足を絡めた。不確定な感情が気分を更に落としていく。
「……やっぱやだ」
机に突っ伏して顔を隠した。自分がどんな顔をしているか、予測出来なかった。一つ分かるのは、見せられる顔ではないということ。
「何それ~!」
本気にしちゃったじゃん、と怒ったフリをして見せる友人。本気って何。むしろ、一緒になりたかったってこと? 聞いてしまおうかと思ったけれど、体が浮くような恐怖に襲われた。ぐっと堪えて言葉と恐怖を一気に飲み込んだ。
すると、もう一つの感情が後から追いかけてきた。私の中に微かに残っている負けず嫌い。ここで譲れば何となく負けた気がしたのだ。仕事は挨拶運動だけじゃない。やるなら手塚くんという山を乗り越えて、普通に会話できる状態にまで持っていけばいいんじゃないか、と。
また、ネガティブな面でも問題はあった。友人と代わるにしても何と言って変わればいいのかわからない。手塚くんが苦手なので変えてくださいなんて口が裂けても言えない。体裁を気にする私が一番苦手とするところ。
自身の陰と陽に挟まれ、うじうじと結果を受け入れない私を、友人は溜息で感情を表した。
「手塚くんって結構人気なんだよ?」
机に身を乗り出してくる友人から逃げるように顔を反対方向へ向ける。どうせならお近づきになっておきたいじゃない、と言う友人の逞しさを尊敬した。
言われなくてもわかっている。青学テニス部というだけで箔がつく。手塚くんだけじゃない。菊丸や大石くんだって。テニス部の中で誰がいい?なんて場面に、青学に通う女子なら一度くらい遭遇したはずだ。それくらいの人気なのは知っている。嫌なほど知っている。
拗ねたまま、碌に反応しない私を友人は更に追い詰めてくる。
「結構仲良くなれると思うんだけどな。名前と手塚くん」
ふう、とひと呼吸おいてから彼女の方に顔を向けた。すると、彼女はにやにやと笑っていた。その顔が気に食わなかったけれど、口に出すことはせず、ただ口を曲げた。
「私と手塚くんって正反対もいいとこじゃない」
相性で言えば最悪なんじゃないかな。合うなら菊丸の方が圧倒的だと思う。現時点の主観だけど。友人は顔を真剣な表情に変えると、顎に手を当てて唸った。
「うーん、確かに近寄りがたさはあるけど……ねえ?」
ねえ、に含まれた意味を知ろうとしなかった。
いくつもある役職を持つ手塚くん。近寄りがたいのも頷ける。実際、帰りの挨拶を「ああ」だけしか返してくれなかったし。もうちょっと笑ってくれていたら、私だってこんなうだうだ言ってない。まあ、理由はそれだけじゃないけど。笑ってと言って笑ってくれるような性格でもない彼に、私はもう白旗を上げそうだった。
でも、見られるなら見てみたいかな。手塚くんの笑顔。綺麗に頬を緩めてくれるんじゃないかな。そう勝手に想像を膨らませたが、結局気分は晴れなかった。
***
普段の半分しか開いてない瞳で、登校してくる生徒を眺める。必要に応じて挨拶を投げかければ、それぞれの大きさで返ってきた。私の隣では、眠気など知らない顔をしている手塚くんが厚みのある声で挨拶をしていた。羨ましいくらい澄んだ声だな。ぼんやりとした頭で、そんな感想を抱いていた。
挨拶運動を行う初めてのグループは、私と手塚くんのいる四人だった。時々手塚くんの後輩なのか、勢いよく挨拶していく子がいた。やっぱり尊敬されているんだね。それもそうか。だって何でも出来るんだもの。
教室に向かう生徒達を粗方見送れば、予鈴が鳴った。挨拶運動は終わり、私達も各教室へと戻っていく。同じグループの二人は以前から仲が良かったようで二人で教室へ。残された私と手塚くんは何を話すというわけでもなく、靴箱へと向かっていた。
ここで何か一言でも話せれば違うんだろうけど、何も思い浮かばない。誰かと話す事は苦じゃない。というより、むしろ好きなのに口は動かない。普段何を話しているのか考えては眩暈を覚えた。吐きそうになる溜息を飲み込んだ瞬間。
「名字」
「ん?」
手塚くんの方から声がかかった。歩いていた足が止まりかけたが、すぐに調子を取り戻す。危なかった。動揺したのがバレなくて。落ち着きのない足元を隠しながら彼を見つめると、いつもと変わらない真面目な顔がこちらを見ていた。
「一時間目の後、少し時間をもらえるか」
突然の申し出に瞬きが増える。私何かやらかしたっけ、と不安が脳内を占める。私は、本音が漏れないように余計に口角を上げると、一度頷いた。
「いいよ。そっちの教室行ったらいい?」
「いや、俺が行く」
「ん、わかった」
私が再び頷くと、手塚くんは足早に教室へと行ってしまった。
たった数度の簡単な往復。他の人が相手だったら、そのまま一緒に教室に帰れるのに。何を話せばいいんだろう。何を話したら彼と会話を続けられるんだろう。
そんな考えが過ったが、私はすぐに首を振って浮かんだものを消した。それよりも先に、私自身のコンプレックスを解消しなければならない。多分、その方が重要だと思うから。
それにしても何の用だろう。私、本当に悪いことしてないよね。不安の種が増えた私は、ここ最近で一番大きな溜息を吐いた。
約束通り一時間目が終わると、手塚くんは教室に来た。どこにいても目立つ彼は見つけやすく、私はすぐに席を立つと、教室の後方にある扉で彼を待ち構えた。
「手塚くん。用事って?」
私は彼が先に口を開くより、先に本題に切り込んだ。すると、手塚くんは手にしていたプリントを私に差し出した。私は素直に受け取ると、すぐに目を通した。どうやら生徒会の仕事の話らしい。
「今度ある全校集会の概要だ。司会進行は俺達が行う」
「ああ。ありがとう」
そういえばそうだったな、と記憶を辿る。そして話の内容が自分の悪事でないことにそっと胸を撫で下ろした。
私達が進行する初めての全校集会。進行表には生徒会の紹介も含まれていた。想像していたより生徒会がやる仕事はあるようで、私は別日に進行の役割を決めるんだろうと予測を立てた。何やろうかな、と薄ら考えていると私の目はある個所に止まった。それは進行上必要な役割が書かれてある個所。それを決めるはずだと思っていた私は、目を丸くさせて感情を零した。
「あれ……」
「どうかしたか」
小さな声でも手塚くんはきちんと拾い上げる。私は受け取ったプリントを見せながら彼に尋ねた。
「ここなんだけど、私が司会なのは決定なの?」
指差したのは司会進行と書かれた文字の下。そこに読みやすい字で私の名字が書かれていた。他の役割に名前はない。司会のところだけに私の名前があった。
手塚くんの表情を窺うと、瞬きをゆっくり繰り返している。手塚くんも知らない情報だったのかな。どういう状況か把握できてはいないけれど、手塚くんも分からないようじゃ、と言葉を変えた。
「ああ、嫌じゃないんだけど、決まってたんだって思って」
本当に司会が嫌なわけじゃない。ただ、誰が書いたのかが気になっただけで、私はプリントを持った手を引っ込めようとした。後で先生に聞けばいいや。それぐらいにしか思っていなかった。
しかし、その手は大きな手に阻まれる。彼は、私の手首を掴んだのだ。
「すまない。渡すものを間違えた」
大きな手が、容易く私の手首を包み込む。触れられた箇所が熱い。そして、珍しく早口な手塚くん。今、何が起こってる?
動揺しながらも、私は手塚くんの早口に違和感を覚えた。彼が慌てる理由はないはず。でも、彼がそうなってしまう理由が知りたくなった。隠された答えを導き出したい。早くしないと、手首が彼の熱で溶けて落っこちてしまいそう。
「……どういうこと?」
首を傾げ、手塚くんの次の言葉を待つ。彼は一瞬だけ口端をきゅっと結ぶと、絞り出すように答えた。
「これは俺のだ」
「じゃあ私の名前を書いたのは手塚くん?」
問い詰めるように間髪入れずに尋ねると、彼は遠慮がちに頷いた。心臓の音が徐々に大きく響き始める。
「なんで私の名前書いたの?」
核をつつけば、彼は黙り込んだ。しかし、表情が変わる様子はない。変わるのは、私と合わせようとしない瞳ぐらい。
「嫌じゃないなら、教えて欲しい」
眉を八の字にして懇願した。彼が私をどう思っているのか、ヒントになりそうだった。分かれば、私が彼に対する気持ちも何か変化するんじゃないかと期待した。
手塚くんは眉間に皺をよせた後、私の手首を解放した。手首はほんのりと赤みを帯びている。肌の色が変わったところに触れると、彼は一言、手首に対して「すまない」と口にした。そして、ようやく理由に触れた。
「相応しいと思った時には、既に名前を書いていたんだ」
戸惑いつつも、目を逸らして眼鏡を人差し指で直す彼を追いかける。穴が開きそうな程、彼を見つめ続ける。絶対に逃がさないという意思の元だった。
「選挙演説を聞いた時、話す事を、伝える事を楽しんでいるように見えた。それが理由だ。名字が一番司会に向いているだろうと」
本当に、本当に言っているのだろうか。動揺しつつも、手塚くんの言葉に胸がじんわりと温かくなる。人前で話すことに抵抗はなかったけど、こうして褒められることは初めてだった。相手が手塚くんだからなのか、顔が徐々に熱くなる。絶対に嘘じゃない。そう、分かってしまったから。
「新しいのを持ってくる」
手塚くんはそう言って、自身の教室に戻ろうとした。でも、それを阻んだのは私だった。
「待って」
咄嗟に掴んだのは、彼の左手首。手首からでも男女差が明確に分かる。肌の濃淡だって違う。そして、彼の温度が私の調子を狂わす。本当は、止める必要なんてなかった。でも、体は勝手に動いてしまう。奥底に潜む心が動き出してしまう。
今度は私が目を合わせられなくなり、私の視界には彼の上靴がいた。私は片手でプリントを胸に抱え、絶対に返したくないという意思表示をした。
「……これでいい」
小さく震えた声。それでも彼は私の声を拾う。「だが、」と受け入れてもらえなさそうな二文字を掻き消すように、私は声を重ねた。
「ううん。このプリントが良い」
私は言い切った瞬間に手塚くんと目を合わせた。彼は切れ長の目を見開いていたけれど、すぐに普段通りの涼やかな目元に戻った。
「わかった」
手塚くんは承知してくれたようで、彼の身体が私の方に向き直ったのを確認してから私は手を離した。手に残る、彼の肌の感触が離れない。
「ごめんね。急に掴んだりして」
「いや、大丈夫だ。俺の方こそすまなかった」
用件は済んだのに、恥じらいが発生したせいで離れがたい。いつもより早い鼓動が、その証。
すると、私達の空間を割くように他所から声がかかった。
「おーい、手塚ー!」
聞き覚えのある爽やかな声が鼓膜を震わせた。声の主は私達の元まで駆け寄ってくる。
「大石か」
手塚くんは大石くんが駆け寄ってきたタイミングで名を呼んだ。大石くんってテニス部の副部長だったよね。だから、テニス部の用事かな。
勝手に推測していると、大石くんは私の存在に気が付いたようで、驚いた顔をしていた。
「おっと、邪魔をしてしまったかな」
「ううん。大丈夫だよ。今終わったところ」
私は笑顔で首を横に振った。ナイスタイミングだったのかもしれない。変な空気のまま別れるのも、これからの関係にどう影響するかわからない。
私は安心して自分の席に戻ろうとしたが、大石くんに止められる。
「それはよかった。……と言いたいところだが、大丈夫かい?」
大石くんの心配する理由が掴めず、首を傾げた。何が、と問えば彼は困ったように私に一歩近づいた。
「顔が赤いようだけど、風邪かい?」
大石くんの言葉に、反射的に頬に触れた。手塚くんとの事で頬が熟れたままだ。
一歩近づいてきた大石くんから一歩遠ざかる。ようやく胸を撫で下ろせるかと思いきや、大石くんの優しさが仇となった。
「い、いや、全然……ッ」
顔の赤さの原因を知られたくなくて、ぎこちなく笑った。見られたくない、知られたくないという気持ちが私を攻める。どうしよう、と迷っても打開策が出るわけでもない。そのまま逃げ出そうかと考えていると、私と大石くんの間に手塚くんが割って入った。私の目の前には、男らしい背中が広がっている。
「手塚?」
大石くんは手塚くんの顔を驚いた表情で見つめている。私からは見えないけれど、手塚くんはわざとこうしてくれてる? 大石くんに何と言うんだろうと気にしていると、彼は一言だけ堂々と告げた。
「名字は大丈夫だ」
断定的に大石くんに言うと、彼は「手塚が言うなら」と身を引いた。なんでそこまで、と思う前に手塚くんは大石くんを連れ、私から離れるように二人で歩き始めた。
「何の用だったんだ」
離れていく背中。もう一度、言わないと。私はあんなに逞しい背中を知らない。
私は周囲を気にすることなく廊下に出ると、彼の名を叫んだ。
「手塚くん!」
手塚くんと大石くん。あと、他の廊下にいる人達。多くの目が私に集まった。でも、私は気にせず、もらったプリントを掲げてお礼を伝えた。
「ありがとう!」
精一杯の笑顔を咲かせ、手を振った。すると手塚くんは、ほんの、ほんの少しだけ、口角を上げて笑った気がした。
***
予定通り、役割を決める会議が開かれた。私の手元にある紙にだけ、唯一手塚くんの字が刻まれている。その文字が誰にも見られることのないよう、手の置き方で誤魔化していた。友人にもバレないように、ひっそりと。私だけの秘密だった。
「では、全校集会の役割を決める。やりたい者は手を上げてくれ」
友人が役割を黒板に書いていく。手塚くんはその前で腕を組み、立候補者を待っている。こういう時、一番って緊張するんだよね。周囲を見渡して、そんな感想を抱く。私はピンと天井を刺す勢いで手を上げると、手塚くんの目を見て立候補した。
「はい。私、司会進行します」
ばっちりと目が合った瞬間、手塚くんは目を見開いていた。私は、彼の瞳の変化に気付かぬフリをして、ゆるりと口角を上げた。
「他にはいないか?」
手塚くんは私から目を外すと、他の役員を一周確認した。誰も手を上げないことを見計らうと、私の司会が確定した。
「では、司会は名字で行く」
安堵したせいか、私はパイプ椅子にぐったりと背を預けた。誰にも取られなくて、良かった。
その後、私が先頭を切ったのが功を奏したのか、役割は順当に決まった。そして、会議も予定より早く終わりを迎えた。
他の役員と同じように帰る支度をしていると、手塚くんは私の元に来た。こうして対面するのは、未だに慣れない。今も少し緊張して、心臓の音が大きくなり始めている。
「名字」
「ん?」
平静を装って彼の方を見つめた。会議中にも見た瞳が私を捉える。
「司会で良かったのか」
やはりそう来たか。予測できた問いのおかげで、少しの余裕が生まれる。私は彼と体ごと向き合うと、笑顔で頷いた。
「うん。私がやりたいと思ったからいいの」
手塚くんが全く関係ないと言えば、嘘になる。褒められて気を良くしたのは事実だし、やろうと思えたのは、他でもない手塚くんのおかげ。でも、最終的に決めたのは私。司会をやる意思表示をしたのは、紛れもなく私。手塚くんが気にする必要はない。
「……そうか」
手塚くんは私の笑顔を見ると、少しだけほっとしたような、安心感が見えた気がした。わざわざ気にしていてくれたのかな。
「だから気にしないで」
手をひらひらと左右に揺らして「大丈夫」を伝える。彼は納得してくれたようで「わかった」と一言だけ口にして生徒会室を後にした。
手塚くんって、よく人を見ていて、想像より遥かに優しい。菊丸の話が嘘なんじゃないかと思いたくなるほどだ。しかし、まだ彼の内面を知り始めたばかりの私は、じくじくと蕾をつけていく心の内を完全に見過ごしていた。
黒板を消し終えた友人がいやらしく目を細めていることに気付いたのは、完全に私と友人が二人きりになった時だった。
「何の話してたの?」
リズムに乗りながらステップを踏む友人は徐々に擦り寄ってくる。手塚くんがわざわざ話しかけてきたことが引っかかったのだろう。彼女は私と彼が話している最中、既に白が全て消えているにも関わらず、黒板を消し続けていた。彼女なりの気遣いだろうけど、私には不必要だった。
「……秘密」
悪戯心が働いた私は、わざとらしく意味を持たせた。何てことない会話だけれど、私は確実に浮足立っていた。
私の態度に、友人の口はぽかんと開く。完全に呆気にとられたようで、大きな瞳が瞬きを繰り返す。そしてすぐに戻ってくると、頬を膨らませて不機嫌を晒した。手塚くんの行動に特別を感じた私は、友人でさえも口を割るつもりはない。
しかし、それもつかの間、友人はパッと顔色を明るくして、更に私に擦り寄った。腕を絡めて尋問を仕掛けてくる。
「でも普通に話せてたよね? 前、話せないとか言ってたのに」
「そこまでは言ってないよ」
「挨拶運動も嫌がってたじゃん」
ぐうの音も出ない。この間のプリント事件から意識は確実に変わろうとしている。でも彼女は事件を知らないから、そこから話すのも気が進まない。
「まあ、ちょっと」
熱が集いそうになるのを察知した私は、彼女から顔を背けた。話すにしても、もう少し進んでからの方が面白いかな、なんて。
「ほらあ、やっぱり何かあったんだ!」
自宅に帰って早々、私は自室に籠った。伸縮機能のついた学習椅子に座って、先生からもらった台本に目を通していた。話すだけと高を括っていたが、こうして準備されたものを見ると心というものは動き出してしまう。
手塚くんから受け取った言葉。それが何よりも私の背中を押した。真正面からくれたものを、私は相応の態度を持って返すべきだ。
「練習、してみるか……」
思い立った私は自室の扉から顔を出して、周囲の確認をした。バレたら騒がしくなる母親に気付かれないように、と深呼吸をして出だしの一言を発する。
「これから全校集会を始めます。初めに校長挨拶……」
シン、と部屋が静まり返る。気恥ずかしさが先行してしまい、一人だけの空間でも顔が熱を持つ。手で顔に風を送るけれど、一向に冷める気配はない。ただ進行するだけだと言い聞かせても、ざわつく心が静まることはない。意識すると、こうも変わるか。はあ、と溜息を吐き、ベッドに腰掛けた。その瞬間。
「珍しいわね、練習なんて」
扉の隙間から声だけが忍び寄る。あれだけ確認したのに、と背後からかかった声に不機嫌が顔に出た。
「いいでしょ、別に」
恥じらいを隠すように唇を尖らせば、声の主は堂々と部屋に入ってきた。ニマニマと意味ありげに口角を上げる姿に苛立ちが募る。
「あんたが生徒会に立候補した時も驚いたけどね。どういう風の吹き回し?」
部屋の中をウロウロと歩き回るお母さん。一番見られたくなかった相手だ。
「……ほっといてよ」
台本を隠すように母から遠くに置いたけれど、素早く伸びてきた手に奪われてしまった。母はペラペラと薄い台本に目を通すと、にっこりと絵に描いたような笑みを浮かべた。
「お母さんが見てあげる」
「要らない」
間髪入れずに拒否をして台本を奪い返そうとしても、母は子供のよう逃げた。こういう時ばっかりすばしっこい。一度言い出したら聞かない性格は重々承知している。
私はこうなってしまったら勝てないと早々に白旗を上げ、溜息を吐いた。勝利の顔をした母は誇らしげに腰に手を当てている。
「ほら、立って」
母は私の両手を掴むと、無理矢理その場に立ち上がらせた。ぐんと伸びた腕に起こされる。
「もう、」
溜息交じりに付き合おうと台本を受け取った。しかし、背中に痛みが走った。
「はい、猫背!ダメ!」
「いったあ!」
丸まっていた背は簡単に母の右手で直される。冗談抜きに痛い。その後、背中を擦りながら母からのレッスンに耐えたのだった。
全校集会当日。六時間目の体育館に、生徒がぞろぞろと入り始める。司会進行を任されている私は、体育館左側前方の辺りに並べられたパイプ椅子に座っていた。もうすぐ始まる集会。たかが集会に手や足が震えている。真面目に練習したからこその武者震いなのか、それとも声や進行に対する失敗に対しての恐怖か。何度も喉を無理矢理作り出した唾液で潤そうとも、それが叶うことなく乾き続けている。生徒会の演説でさえ、震えを感じるほどではなかった。もうすぐ始まってしまう。眉間に皺をよせ、何度目かわからない深呼吸をすると、心地よい低音が私を呼んだ。
「名字」
俯きがちの頭が声の方を向く。ヒュ、と一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れた。
「っ……て、手塚くんか」
私を呼んだのは、手塚くんだった。自ら志願した役割の手前、沈んだ顔を見られたくないから慌てて笑顔を作って見せた。学校にいる時に、自分らしくない顔は封印していたい。私が立候補したことに気を揉んでいた彼に、無用な心労はかけたくない。私は安全策として口元を手で隠した。目を細めれば、笑っているように見える。自分を偽れ。騙れ。ガンガンと脳内に響き渡る。頭痛で頭が割れてしまいそう。
すると、手塚くんは私の隣にあるパイプ椅子に座った。いつもとは逆の位置。いつもは手塚くんが先頭の席に座るけど、今日ばかりは必要な役割ごとに座るから逆になる。
それにしてもわざわざ声をかけてきたのに、何も言わないのだろうか。それとも、私の聞き間違いだろうか。不思議に思いながらも椅子に座り直すと、彼は顔をこちらに向けた。視線を感じた私は反射的に視線に応えた。電流のように交わった視線は、私を逃さないとでも言うように真っ直ぐ射抜く。その瞳が喧騒の中から私だけを切り取った。一瞬だけ、私と手塚くんだけの世界を思った。二人だけの空間に、意識が閉じ籠った。
手塚くんは私の耳に届くように、少しだけ距離を詰めると、ゆっくり、穏やかな声で囁いた。
「お前なら、大丈夫だ」
優しい、優しい声だった。ごくり。唾が食道を通って落ちる。彼の声が、言葉が、私の仮面を簡単に剥ぐ。一枚下の素顔が露わになる。笑顔は消え、間抜けな驚いた顔が晒される。
すとん、と落ちてきた「大丈夫」が、私をじわり、じわりと熱くさせる。冷え切っていた芯が燃え上がる。誰よりも肯定的で誠実な瞳が、私の背中を押す。
気付いてたんだ、全部。気にしていてくれたんだ、私を。それでいて、適切な言葉をくれる。私は何度か頷いてからお礼を口にした。
「うん……ありがとう」
自然と頬が緩んだ。ありのままの私の笑顔を彼に返した。すると、彼は一度だけ、力強く頷いていた。
全生徒が床に座り、先生からの合図を貰った。私はスタンドマイクの前に立つと、小さく深呼吸をした。未だに騒ぎ続ける心臓の音が痛い。でも、大丈夫。私なら出来るから。手塚くんからもらった「大丈夫」があるから。
パッと顔を上げ、口角を上げる。
『只今より、全校集会を始めます。初めに、校長挨拶──』
ぞろぞろと生徒達が体育館から出ていく。司会という任務を終えた私は、手塚くんの姿を探していた。お礼を言わなくちゃ。手塚くんのお陰だと伝えなくちゃ。今言わないと、絶対にタイミングを逃す。それだけはしたくない。
きょろきょろと辺りを見渡すと、手塚くんはまだ体育館にいた。クラスメイトと話している最中であろうとも、私はその空間に突っ込んでいった。
「手塚くん、」
私が呼べば、彼は足を止めてこちらを向いた。隣にいたクラスメイトの男子は気を利かせてくれたのか、先に帰ってくれた。本当にごめん。両手を合わせ、謝罪のジェスチャーを送ると、笑顔でOKの手振りをしてくれた。
「どうした?」
手塚くんの正面に立つと、きゅっと口端が固くなる。本番前より騒がしい心臓が喉を乾かしていく。
「さっきはありがとう。お陰で上手くいったよ」
声が上擦らないように意識しながら「ありがとう」を伝える。先程まで緊張していたくせに、見栄っ張りは一丁前だ。落ち着かない手元を隠すために、腕を背中に回した。
すると手塚くんは表情一つ変えず、淡々と答えた。
「礼を言われるようなことはしていない」
「ううん。あれがあったから、思うように出来たの」
他の誰でもない、手塚くんの言葉だったからこそ。思わず作った拳に力が入る。それでも、彼は私の言葉を一向に受け入れようとしない。
「俺は何もしていない。お前の実力だ」
ふ、と雰囲気が和らいだ気がした。ほんの一瞬の出来事がじりじりと私を焼き付ける。隙の生まれた私は、もう彼を止められなかった。ただ、強く逞しい背中を見つめ続けた。私には、眩しすぎる。でも、その光に惹かれてしまう。
彼が部長をする理由がようやくわかった気がした。同級生も、後輩も、先輩も、先生も、どうして彼を慕い、頼りにするのか。悔しい。狡い。そして、何より。
「かっこよすぎるでしょ……」
髪の毛をかき乱してその場にしゃがみ込んだ。ぐつぐつと沸騰していく体に追いつかない頭。発散できない感情が暴れる。
歯を立てた唇からは鉄の味がした。着実に広がっていく紅が私を静かに刺激していく。生まれた情をどうしたらいい。どうすればいい。
取り残された私は、床に引かれた、剥がれかけているテープの隙間を睨みつけることしか出来なかった。
私は生徒会副会長、彼は生徒会長。学年や学校単位での行事や集会があれば、私には彼の隣という特等席が用意される。皆が一目置く彼の隣。優越感に浸れる時間だった。そして、何よりも好きな時間だった。
でも、そう感じるまで遠かった。生徒会に入るまで私と彼の接点は一つとして無く、彼の事を何も知らなかった。周りと同じ、割り当てられた役職でしか彼を見ていなかったせい。
二年生の初秋。煌々と照り付ける日差しがアスファルトを弾く。セーラー服の中には暑さが籠り、汗で下着が張り付いていた。いつもなら気にする気持ち悪さも、今日ばかりは気にしてはいられなかった。それ以上に、私には気にせねばならない事が待っていた。
ガヤガヤと人の声で騒がしいピロティーで靴を履き替える。踵が上履きを迎えた瞬間に、人混みへと割り込む。張り出された模造紙を囲む生徒の隙間から均等に並ぶ明朝体に目を凝らすと、そこに私の名前は記されていた。
『生徒会副会長 名字名前』
自分の名前を確認し、隣の書記の欄に目をやった。そこには友人の名前が間違いなく綴られている。
「……やった、」
約束通りの結果に、私はようやく頬を緩めた。
ほぐれた体で教室に向かうと、着いた瞬間に冷気が私の身体を包んだ。突然の気温の変化に身震いを起こすと、クラスメイトが方々から祝福の声をかけてくれた。「副会長、当選おめでとう」と。飛んでくる声に合わせて笑顔を向けながら次々に感謝の言葉を紡ぐ。なんとも朝から忙しい。でも協力してくれたお礼として、感謝は伝えるべきものだ。
ようやく自分の席である窓際の最後列に辿り着くと、一人の女子が駆け寄ってきた。そして、勢いよく私に抱き着く。汗をぐっしょりとかいているせいで、体は仰け反ってしまう。先程まで熱を持っていた汗が冷え、再び肌に張り付いた感触のせいで一瞬眉間に皺が寄った。
「お、おはよう……あと、おめでとう」
「おはよう!ありがとう!おめでとう!」
彼女の勢いに押されたまま、何度も頷く。彼女の腕の強さは、ぐんと強くなった。とりあえず離してほしい。
友人を半ば無理矢理剥がすと、満面の笑みで「一緒に頑張ろうね」と口にした。浮かぶえくぼが可愛らしい。私は「そうだね」と口角を上げて肯定し、席に着いた。そう、彼女が書記に当選した私の友人なのだ。彼女は私の前の席の主がいないことを良いことに、席に着いて私の方に体を反転させた。
どうやら彼女の本題はここかららしく、内緒話をするように声を潜めた。ちゃんと聞きとるために、私は耳をそばだてた。今から悪戯を仕掛けそうな気持ちの昂りが伝わる。
「ね、会長見た?」
「見たよ。予想通りじゃん」
何だ、その事か。大した内容ではないと判断した私は、持ってきたタオルと制汗剤を使って汗を拭った。濡れた肌はあっという間に乾いていき、首回りが爽やかに冷える。
「緊張しちゃうよね。だって、あの手塚くんだよ?」
友人は落ち着かないのか、表情とは裏腹に手を揉んでいる。確かに、落ち着かない理由も納得は出来る。
私達が話題に挙げた手塚国光くん。私達と同じく、新たに生徒会長になった男。模造紙にも彼の名は書かれていた。他にも候補者はいたが、手塚くんが立候補すれば勝てる者はいない。選挙が始まる前から立候補者が肩を落としていたのは、つい先日のことだ。それほど立候補者が開示された時から会長は決まっていたようなもので、所謂出来レースに近かった。手塚くんと言えば、成績優秀、容姿端麗、更に次期テニス部部長まで追加されている。そして、見る者を惹きつけるオーラ。先生達からの信頼はもちろん、同級生や後輩、先輩からも慕われている。全部、流れてきた噂で知った内容ばかりだけど、間違ってはないんだろう。
そんな現実にいて堪るか、と叫びたくなるような同級生がいるせいで、私達はこうして話題に彼を持ち上げていた。
「まあ、大丈夫でしょ」
私がそう言えば、友人の手の動きは止まり、机の上で小さく重ねられた。私とは対照的な小ぶりで丸い手だった。
「ふふ、楽しみだね」
高揚していた気持ちが少し落ち着いたのか、口元を両手で蓋をして笑っていた。一杯に目を細めて笑う姿に私もつい、つられてしまう。一挙一動に愛嬌が詰まっている彼女は見ていて飽きない。
「お二人さん、おっはよ~!当選おめでとう!」
テンション高く私達のところに駆け寄ってきたのは、友人の菊丸英二だった。去年から同じクラスで、一番仲のいい異性を挙げてください、と言われれば彼の名を挙げる。話しやすいし、コロコロ変わる表情がいつだって面白い。
「ん、ありがと」
「ありがとう~」
私達は口々に礼を告げると、菊丸は誇らしげに笑っていた。
菊丸が私の隣の席に座り、会話が三人に増えたところで友人が再び話を例の事に戻した。確かに聞くなら菊丸が適任だろう。同じテニス部だから。
「菊丸くんに聞きたいんだけど、手塚くんってどんな人?」
首を傾げて菊丸に尋ねる友人。目の大きさが強調されている。菊丸も大きな目を更に大きくすると、ああ、と閃いたように声を上げた。
「そっかそっか。手塚の奴、会長だもんなあ」
「全然接点ないから知りたくて」
友人が両手を擦り合わせながら尋ねると、菊丸は腕を組んで、んん、と悩み始めた。瞬間的に、菊丸が悩む素振りを見せたことに少しばかり驚いた。菊丸ならほいほいと答えてしまいそうな印象があった。
「ん~……あいつ、分かりにくい奴だからなあ。表情に全然出ないしさ」
俺ちょっと苦手、と付け加える。
私は菊丸から何となく手塚くんの事は聞いていた。表面的なことばかりだから、実際は知らないけれど、彼の真面目さは伝わってきている。彼が部長を務めるようになってからは、よく耳にするようになった。まあ一番が大石くんなことに変わりはない。それでも菊丸が苦手とするのも腑に落ちなかった。真面目なだけで菊丸が嫌がるのかな。それとも、手塚くんが偏屈なのか。
すると菊丸は頭の後ろで手を組むと、悩みを掻き消すような笑顔を見せた。
「まあ、でも二人なら何とかなるっしょ」
私達は菊丸の笑顔に背中を押され、どちらからともなく頷いた。まあ、何とかなるでしょう。何とか。
それから少しして、委員長も決定した。方法は、既に決まった生徒会のメンバーである、会長、副会長、書記、会計の四人と、担当の先生達で立候補者達のスピーチを聞いて選定する。場所は、職員室の近くにある会議室。会議室といっても、机は片付けられており、パイプ椅子が並ぶだけの空間。立候補者と先生、そして私達四人の分。普段使うことのない部屋で、先生と同じ立場で業務を行うのは少しこそばゆかった。
先生達と手塚くんをはじめとした生徒会役員は、会議室の後方に並んで座っていた。私は手塚くんと書記の友人の間に挟まっている。
委員長候補は、委員会ごとに二、三名いた。一人ずつ前に出てはスピーチ。一年生からも立候補者がおり、随分熱心な事だと感心していた。
そして私は、ぼんやりと事前に頼まれていたことを思い出していた。委員長に立候補する子達から選ばれるように口添えをしてくれと何度か言われていた。委員長を決める場に私達がいるからという情報が流れていたせいだろう。あと、もう一つ理由がある。手塚くんに頼めないから次点の私に頼みに来ていたようだ。わからなくもない。私もどうしても委員長になりたければ同じ方法を取ったはずだ。頼みやすい人に頼む。それが道理ってもの。無駄に顔が広かった私は、接点が思い出せないレベルの相手にも頭を下げられていた。私はその度に
「みんなに頼まれるから難しいかなあ」
と眉を八の字にして答えた。その後の対応はそれぞれで、
「マジお願いだから!」
と両手を合わせて更にお願いする人もいれば、
「そっか……そうだよね……」
と肩を落として帰る人もいた。そこまでの権限が私にはないとも言えず、なあなあに終わらしてしまっていた。私達がいくら「この人がいい」と候補を挙げたとて、最終決定権は先生方が握っているのだから。
スピーチが始まって一時間弱ほど経過した。ようやく全員のスピーチが終わり、会議室には先生と私達が残った。一人ずつ誰が良かった、とか、こういう人を選んだ方がいいんじゃないか、という話を十五分間続けた。先生達は私達の話を聞き、その上で判断を下すらしい。やっぱり最終決定権は先生なのよ。
私は仲のいい友人と、スピーチを聞いて仲良くなれそうと思った人の名を挙げた。話すときの姿勢や内容を褒めれば、他の人も頷いていた。会長の手塚くんも同じように推薦しており、書記の友人と会計の男子も同じ様子だった。
でも、私は手塚くんが話している最中、落ち着かなかった。真剣な表情と声色が私の居心地を悪くさせた。はっきりと物を言う姿勢が私の足を絡ませていた。
「分かった。じゃあ今日はお疲れ様」
四人それぞれが感想を伝え終わると、先生は解散を指示した。私達は指示通り会議室を出ると、手塚くんは先に歩き始めてしまっていた。私は慌てて
「手塚くん、お疲れ様!バイバイ!」
と声をかけた。これから一緒に活動する仲間として、壁はなくしておきたかった。その最初の手段として挨拶を選択した。すると、手塚くんは表情一つ変えず私を見ると、「ああ」とだけ言って再び歩き始めてしまった。静まり返った空気が私を突き刺す。嘘でしょ。じゃあな、ぐらいあってもいいんじゃないかな。
これは前途多難なのでは、とそんな不安を覚えつつも、私はぽかんと開口したまま、彼の背中を見つめることしか出来なかった。あまりにあっさりした別れに、無意識に口角を震わせていた。
私が呆気に取られていると、友人は手塚くんが去ったのを確認してから口を開いた。
「誰になるんだろうね。委員長」
静まり返っていた雰囲気を壊すように明るい声が廊下に響いた。凍った空気が一瞬で溶ける。
「話しやすい奴だったら誰でもいいや」
会計の子がそう言いながら苦笑いをしていた。先程の私と手塚くんのやり取りを見ての反応だろう。私は今ちょっと辛い。
「ちゃんとした顔合わせもまだだし、なんとかなるでしょ」
へらりと気の抜けた顔で笑って見せた。頭の中では何度も大丈夫と唱え続けてたけれど、不安が消えることはなかった。
友人と別れ、私は帰路に着いていた。ローファーとアスファルトが今にもぶつかってしまいそうなほど、私の足は元気が失われている。そんな私の俯きがちの頭が考えるのは、手塚くんの事だった。彼の隣にいると、居心地が悪かった。その理由を考えていた。心当たりがない訳ではない。でも、それを明確にしてしまえば、私は惨めになる。情けないと泣きたくなる。彼は「私がなりたかった自分」のようで、胸がきゅうと締め付けられる。
私が副会長に立候補した理由は、友人に頼まれたから。部活に入っていないからこそ、友人は私に白羽の矢を立てた。多分、私が部活に入ってようが入っていまいが、彼女には関係なかっただろう。でも、そういうことにしておく。
誘われた当初は断っていた。面倒くさいから嫌だ、と。しかし、何度も彼女に頼まれ、私が折れた。
じゃあどうして私が副会長に立候補したか。副会長を選んだ理由は、楽そうだったから。会長の影に隠れて、適当に補佐という名の雑務をすればいいだけ。それだけで先生達からの評価も上がる。自慢ではないけれど、元々先生からの評判は良かった。成績は上位キープだし、悪い印象は持たれていない。先生からの評価が良ければ少しの悪さは目を瞑ってくれる。不真面目な生徒より許容範囲は広がる。少々スカートが短かろうが、副会長というレッテルが守ってくれる。
たかが中学生の思い出作りの一環。どうせ私以外にもそういう考えの人はいる。というより大概そうでしょう。会計のサッカー部だって、そういう雰囲気が感じ取れた。これは勝手な予感だけど。
多分、この中途半端な気持ちが、手塚くんの隣にいるときの居心地を悪くさせているんじゃないかと思う。菊丸から彼の性格を聞いた手前、引け目を感じていた。それが違和感となって私に纏わりついた。いくつもの役職を持ち、それぞれで自身の役割を全うする。なんて素晴らしいんだろう。私には出来そうもない。
嫌味にも似た思考がぐるぐると回る。こんな事考えたくて考えてるわけじゃない。自分がどんどん嫌な人間になる。正当化しようとすればするほど、視界が歪む。
手塚くんは嫌になった事、ないのかな。逃げたい、と思ったことはないのかな。ふと、そんな考えが過った。それと同時に、無意識に私の足は止まった。
どうしてだろう。どうして、彼は何もかも手にしてしまうんだろう。
鈍い痛みが目頭を襲った。下唇に立てた歯ごと、口が震える。でも、この震えは悔しさだけじゃなくて、大半は自分への情けなさで出来ている。
私は鼻をすすって再び歩き始めた。気付けば自宅のすぐ傍まで帰っていたようで、ピアノの音が微かに聞こえてきた。恐らく音色を紡ぐ当人は私の母だろう。私のいない隙を見て、鍵盤に触れる。一年前なら、その場所は私のものだった。でも、私はもうそこには座れない。
数日後、委員長も決まり、初顔合わせの日を迎えた。場所は生徒会室。大きな机にパイプ椅子で囲めば、私達はそれに座る。お世辞にも広いとは言えない室内には、過去の行事で使われたであろう道具や資料が棚に詰め込まれていた。そのせいで十人超えは狭かった。
今日も私は手塚くんの隣に座る。座席は決まっている訳ではないけれど、何となく皆役職に見合った場所に腰を下ろしていた。
全員が集まると、担当教員の指示で自己紹介が始まった。順番は会長の手塚くんから。私は二番目だった。
うちは生徒数が多いから、こうした場では初対面も少なくない。手塚くんのような、よほどの有名人でない限り、名前も顔も知らないまま卒業するなんてザラにある。
手塚くんは天から吊られたように真っ直ぐ立つと、ハリのある太い声で名乗った。その瞬間、私の背筋はぐんと伸びる。
「生徒会長を務めることになった手塚国光だ。生徒の代表として、各々が責任を持った行動を取るように。皆、油断せずに行こう。以上だ」
言い終えた彼は、すぐに着席した。皆がパチパチと拍手を送る。担当教員より教員らしい言葉に菊丸の言葉を思い返す。「俺ちょっと苦手」。あの人懐っこい菊丸が言うことで威力が増すのだ。
私は拍手が静まるのと同時に席を立って、それらしい挨拶をした。誰でも言える簡単な挨拶。
「副会長になりました、名字名前です。会長のサポートをしつつ、学校を盛り上げていけたらなと思います。よろしくお願いします」
小さくお辞儀をすれば、私にも拍手が送られる。ふう、と小さく呼吸をしてからパイプ椅子を軋ませた。
その後も同じように形式的な挨拶が続いた。中には一年生の子もいて、緊張するだろうなあ、と自分を棚に上げて顔色を窺っていた。それと共に、私はまだ違和感と戦っていた。私が意識しすぎなんだろう。どうせ一年間一緒なのだから距離を縮めればいいのに、彼の以前の態度や、自分の中にある複雑な気持ちのせいで切り替えが出来ない。
そんな私を他所に、集会はどんどん進んだ。手塚くん主導で今度の予定を確認し、この日は解散となった。手塚くんと離れて私はようやく酸素を吸えた気がした。こんな調子で大丈夫かな。一抹の不安を覚えた私は、次の集会まで気分が重かった。
後日、再び生徒会室に集合していた。放課後の短い時間を使って、仕事の基本である挨拶運動の詳細を決めていた。
「挨拶運動は三組に分けようと思う。週替わりで行う予定にしているが、他に案がある者はいるだろうか」
手塚くんの声に揃え、書記の友人が黒板に情報を書いていく。誰も意見を挙げることなくすぐに決定した。元々生徒会がやっていたことだから今更やらない訳がないし、行う上での仕様変更も特にないはずだ。これはなぞらえていけばいい。
すると、他の役員から声が上がった。
「組分けはどうする?」
三組に別れるなら一組四人になる。私は書記の友人と同じだったら何でもいいかな。なれなくても、何とかなるでしょうと楽観的に構えていた。
「じゃんけんの手で決めようよ。役員の仲を深めるためにもさ」
他の委員長がそう提案した。「じゃんけんなら平等だ」という声が聞こえたけれど、書記の友人と同じグループになることを必須条件としている私にとっては平等とは思えない。まあ、でも大丈夫でしょう。私は今まで運で生きてきたようなものだし。どうせ一緒になれる。なんとなくざわついた胸中に気付かぬふりをして、私はじゃんけんに参戦した。
「では、これで決定する。解散」
手塚くんの言葉で集会は締め括られ、それぞれが部活や帰路へと向かった。生徒会室に残ったのは、私と書記である友人。しかし、私は右手がパーのまま、机に突っ伏していた。
ど、どうして……。神様がいるなら教えて欲しい。
「どうして会長と一緒なの~!」
両手で髪を乱しながら、天を仰ぐ。公平に分けられたグループは、想像とは裏腹に会長である手塚くんと同じになってしまった。あの胸騒ぎは気のせいじゃなかった。
「普通会長と副会長ってわかれるもんじゃないの?」
黒板を綺麗に消す友人に叫びながら尋ねる。彼女はこちらを見ることなく、手を動かし続けている。今更喚き散らしたとしても現状が変わることはないのに、納得できない心が騒ぐ。
「いいじゃん。手塚くんと仲良くなれるチャンスじゃない」
全て消し終わったのだろう、友人は白くなった手を払いながら近くの椅子に腰を下ろした。
「でもこの間の態度見たでしょ」
「う~ん。私は羨ましいけどなあ」
まだこの子が一緒のグループなら良かった。でも、この子はいない。あとの二人も全然話したことのない二人。何とも微妙なメンバーだ。
恨めしそうに目を細くして友人を見つめてみるけれど、効果は全くない。知らぬフリをして鼻歌を歌っている。この子には手塚くんがどう見えているんだろう。
「代わる?」
思いつきの言葉が口から滑り落ちると、ぱあ、と開花したように顔色が明るくなった。その表情に私の心が濁った。
「え、いいの?」
その瞬間、私は何となく足元が気持ち悪くなって、足を絡めた。不確定な感情が気分を更に落としていく。
「……やっぱやだ」
机に突っ伏して顔を隠した。自分がどんな顔をしているか、予測出来なかった。一つ分かるのは、見せられる顔ではないということ。
「何それ~!」
本気にしちゃったじゃん、と怒ったフリをして見せる友人。本気って何。むしろ、一緒になりたかったってこと? 聞いてしまおうかと思ったけれど、体が浮くような恐怖に襲われた。ぐっと堪えて言葉と恐怖を一気に飲み込んだ。
すると、もう一つの感情が後から追いかけてきた。私の中に微かに残っている負けず嫌い。ここで譲れば何となく負けた気がしたのだ。仕事は挨拶運動だけじゃない。やるなら手塚くんという山を乗り越えて、普通に会話できる状態にまで持っていけばいいんじゃないか、と。
また、ネガティブな面でも問題はあった。友人と代わるにしても何と言って変わればいいのかわからない。手塚くんが苦手なので変えてくださいなんて口が裂けても言えない。体裁を気にする私が一番苦手とするところ。
自身の陰と陽に挟まれ、うじうじと結果を受け入れない私を、友人は溜息で感情を表した。
「手塚くんって結構人気なんだよ?」
机に身を乗り出してくる友人から逃げるように顔を反対方向へ向ける。どうせならお近づきになっておきたいじゃない、と言う友人の逞しさを尊敬した。
言われなくてもわかっている。青学テニス部というだけで箔がつく。手塚くんだけじゃない。菊丸や大石くんだって。テニス部の中で誰がいい?なんて場面に、青学に通う女子なら一度くらい遭遇したはずだ。それくらいの人気なのは知っている。嫌なほど知っている。
拗ねたまま、碌に反応しない私を友人は更に追い詰めてくる。
「結構仲良くなれると思うんだけどな。名前と手塚くん」
ふう、とひと呼吸おいてから彼女の方に顔を向けた。すると、彼女はにやにやと笑っていた。その顔が気に食わなかったけれど、口に出すことはせず、ただ口を曲げた。
「私と手塚くんって正反対もいいとこじゃない」
相性で言えば最悪なんじゃないかな。合うなら菊丸の方が圧倒的だと思う。現時点の主観だけど。友人は顔を真剣な表情に変えると、顎に手を当てて唸った。
「うーん、確かに近寄りがたさはあるけど……ねえ?」
ねえ、に含まれた意味を知ろうとしなかった。
いくつもある役職を持つ手塚くん。近寄りがたいのも頷ける。実際、帰りの挨拶を「ああ」だけしか返してくれなかったし。もうちょっと笑ってくれていたら、私だってこんなうだうだ言ってない。まあ、理由はそれだけじゃないけど。笑ってと言って笑ってくれるような性格でもない彼に、私はもう白旗を上げそうだった。
でも、見られるなら見てみたいかな。手塚くんの笑顔。綺麗に頬を緩めてくれるんじゃないかな。そう勝手に想像を膨らませたが、結局気分は晴れなかった。
***
普段の半分しか開いてない瞳で、登校してくる生徒を眺める。必要に応じて挨拶を投げかければ、それぞれの大きさで返ってきた。私の隣では、眠気など知らない顔をしている手塚くんが厚みのある声で挨拶をしていた。羨ましいくらい澄んだ声だな。ぼんやりとした頭で、そんな感想を抱いていた。
挨拶運動を行う初めてのグループは、私と手塚くんのいる四人だった。時々手塚くんの後輩なのか、勢いよく挨拶していく子がいた。やっぱり尊敬されているんだね。それもそうか。だって何でも出来るんだもの。
教室に向かう生徒達を粗方見送れば、予鈴が鳴った。挨拶運動は終わり、私達も各教室へと戻っていく。同じグループの二人は以前から仲が良かったようで二人で教室へ。残された私と手塚くんは何を話すというわけでもなく、靴箱へと向かっていた。
ここで何か一言でも話せれば違うんだろうけど、何も思い浮かばない。誰かと話す事は苦じゃない。というより、むしろ好きなのに口は動かない。普段何を話しているのか考えては眩暈を覚えた。吐きそうになる溜息を飲み込んだ瞬間。
「名字」
「ん?」
手塚くんの方から声がかかった。歩いていた足が止まりかけたが、すぐに調子を取り戻す。危なかった。動揺したのがバレなくて。落ち着きのない足元を隠しながら彼を見つめると、いつもと変わらない真面目な顔がこちらを見ていた。
「一時間目の後、少し時間をもらえるか」
突然の申し出に瞬きが増える。私何かやらかしたっけ、と不安が脳内を占める。私は、本音が漏れないように余計に口角を上げると、一度頷いた。
「いいよ。そっちの教室行ったらいい?」
「いや、俺が行く」
「ん、わかった」
私が再び頷くと、手塚くんは足早に教室へと行ってしまった。
たった数度の簡単な往復。他の人が相手だったら、そのまま一緒に教室に帰れるのに。何を話せばいいんだろう。何を話したら彼と会話を続けられるんだろう。
そんな考えが過ったが、私はすぐに首を振って浮かんだものを消した。それよりも先に、私自身のコンプレックスを解消しなければならない。多分、その方が重要だと思うから。
それにしても何の用だろう。私、本当に悪いことしてないよね。不安の種が増えた私は、ここ最近で一番大きな溜息を吐いた。
約束通り一時間目が終わると、手塚くんは教室に来た。どこにいても目立つ彼は見つけやすく、私はすぐに席を立つと、教室の後方にある扉で彼を待ち構えた。
「手塚くん。用事って?」
私は彼が先に口を開くより、先に本題に切り込んだ。すると、手塚くんは手にしていたプリントを私に差し出した。私は素直に受け取ると、すぐに目を通した。どうやら生徒会の仕事の話らしい。
「今度ある全校集会の概要だ。司会進行は俺達が行う」
「ああ。ありがとう」
そういえばそうだったな、と記憶を辿る。そして話の内容が自分の悪事でないことにそっと胸を撫で下ろした。
私達が進行する初めての全校集会。進行表には生徒会の紹介も含まれていた。想像していたより生徒会がやる仕事はあるようで、私は別日に進行の役割を決めるんだろうと予測を立てた。何やろうかな、と薄ら考えていると私の目はある個所に止まった。それは進行上必要な役割が書かれてある個所。それを決めるはずだと思っていた私は、目を丸くさせて感情を零した。
「あれ……」
「どうかしたか」
小さな声でも手塚くんはきちんと拾い上げる。私は受け取ったプリントを見せながら彼に尋ねた。
「ここなんだけど、私が司会なのは決定なの?」
指差したのは司会進行と書かれた文字の下。そこに読みやすい字で私の名字が書かれていた。他の役割に名前はない。司会のところだけに私の名前があった。
手塚くんの表情を窺うと、瞬きをゆっくり繰り返している。手塚くんも知らない情報だったのかな。どういう状況か把握できてはいないけれど、手塚くんも分からないようじゃ、と言葉を変えた。
「ああ、嫌じゃないんだけど、決まってたんだって思って」
本当に司会が嫌なわけじゃない。ただ、誰が書いたのかが気になっただけで、私はプリントを持った手を引っ込めようとした。後で先生に聞けばいいや。それぐらいにしか思っていなかった。
しかし、その手は大きな手に阻まれる。彼は、私の手首を掴んだのだ。
「すまない。渡すものを間違えた」
大きな手が、容易く私の手首を包み込む。触れられた箇所が熱い。そして、珍しく早口な手塚くん。今、何が起こってる?
動揺しながらも、私は手塚くんの早口に違和感を覚えた。彼が慌てる理由はないはず。でも、彼がそうなってしまう理由が知りたくなった。隠された答えを導き出したい。早くしないと、手首が彼の熱で溶けて落っこちてしまいそう。
「……どういうこと?」
首を傾げ、手塚くんの次の言葉を待つ。彼は一瞬だけ口端をきゅっと結ぶと、絞り出すように答えた。
「これは俺のだ」
「じゃあ私の名前を書いたのは手塚くん?」
問い詰めるように間髪入れずに尋ねると、彼は遠慮がちに頷いた。心臓の音が徐々に大きく響き始める。
「なんで私の名前書いたの?」
核をつつけば、彼は黙り込んだ。しかし、表情が変わる様子はない。変わるのは、私と合わせようとしない瞳ぐらい。
「嫌じゃないなら、教えて欲しい」
眉を八の字にして懇願した。彼が私をどう思っているのか、ヒントになりそうだった。分かれば、私が彼に対する気持ちも何か変化するんじゃないかと期待した。
手塚くんは眉間に皺をよせた後、私の手首を解放した。手首はほんのりと赤みを帯びている。肌の色が変わったところに触れると、彼は一言、手首に対して「すまない」と口にした。そして、ようやく理由に触れた。
「相応しいと思った時には、既に名前を書いていたんだ」
戸惑いつつも、目を逸らして眼鏡を人差し指で直す彼を追いかける。穴が開きそうな程、彼を見つめ続ける。絶対に逃がさないという意思の元だった。
「選挙演説を聞いた時、話す事を、伝える事を楽しんでいるように見えた。それが理由だ。名字が一番司会に向いているだろうと」
本当に、本当に言っているのだろうか。動揺しつつも、手塚くんの言葉に胸がじんわりと温かくなる。人前で話すことに抵抗はなかったけど、こうして褒められることは初めてだった。相手が手塚くんだからなのか、顔が徐々に熱くなる。絶対に嘘じゃない。そう、分かってしまったから。
「新しいのを持ってくる」
手塚くんはそう言って、自身の教室に戻ろうとした。でも、それを阻んだのは私だった。
「待って」
咄嗟に掴んだのは、彼の左手首。手首からでも男女差が明確に分かる。肌の濃淡だって違う。そして、彼の温度が私の調子を狂わす。本当は、止める必要なんてなかった。でも、体は勝手に動いてしまう。奥底に潜む心が動き出してしまう。
今度は私が目を合わせられなくなり、私の視界には彼の上靴がいた。私は片手でプリントを胸に抱え、絶対に返したくないという意思表示をした。
「……これでいい」
小さく震えた声。それでも彼は私の声を拾う。「だが、」と受け入れてもらえなさそうな二文字を掻き消すように、私は声を重ねた。
「ううん。このプリントが良い」
私は言い切った瞬間に手塚くんと目を合わせた。彼は切れ長の目を見開いていたけれど、すぐに普段通りの涼やかな目元に戻った。
「わかった」
手塚くんは承知してくれたようで、彼の身体が私の方に向き直ったのを確認してから私は手を離した。手に残る、彼の肌の感触が離れない。
「ごめんね。急に掴んだりして」
「いや、大丈夫だ。俺の方こそすまなかった」
用件は済んだのに、恥じらいが発生したせいで離れがたい。いつもより早い鼓動が、その証。
すると、私達の空間を割くように他所から声がかかった。
「おーい、手塚ー!」
聞き覚えのある爽やかな声が鼓膜を震わせた。声の主は私達の元まで駆け寄ってくる。
「大石か」
手塚くんは大石くんが駆け寄ってきたタイミングで名を呼んだ。大石くんってテニス部の副部長だったよね。だから、テニス部の用事かな。
勝手に推測していると、大石くんは私の存在に気が付いたようで、驚いた顔をしていた。
「おっと、邪魔をしてしまったかな」
「ううん。大丈夫だよ。今終わったところ」
私は笑顔で首を横に振った。ナイスタイミングだったのかもしれない。変な空気のまま別れるのも、これからの関係にどう影響するかわからない。
私は安心して自分の席に戻ろうとしたが、大石くんに止められる。
「それはよかった。……と言いたいところだが、大丈夫かい?」
大石くんの心配する理由が掴めず、首を傾げた。何が、と問えば彼は困ったように私に一歩近づいた。
「顔が赤いようだけど、風邪かい?」
大石くんの言葉に、反射的に頬に触れた。手塚くんとの事で頬が熟れたままだ。
一歩近づいてきた大石くんから一歩遠ざかる。ようやく胸を撫で下ろせるかと思いきや、大石くんの優しさが仇となった。
「い、いや、全然……ッ」
顔の赤さの原因を知られたくなくて、ぎこちなく笑った。見られたくない、知られたくないという気持ちが私を攻める。どうしよう、と迷っても打開策が出るわけでもない。そのまま逃げ出そうかと考えていると、私と大石くんの間に手塚くんが割って入った。私の目の前には、男らしい背中が広がっている。
「手塚?」
大石くんは手塚くんの顔を驚いた表情で見つめている。私からは見えないけれど、手塚くんはわざとこうしてくれてる? 大石くんに何と言うんだろうと気にしていると、彼は一言だけ堂々と告げた。
「名字は大丈夫だ」
断定的に大石くんに言うと、彼は「手塚が言うなら」と身を引いた。なんでそこまで、と思う前に手塚くんは大石くんを連れ、私から離れるように二人で歩き始めた。
「何の用だったんだ」
離れていく背中。もう一度、言わないと。私はあんなに逞しい背中を知らない。
私は周囲を気にすることなく廊下に出ると、彼の名を叫んだ。
「手塚くん!」
手塚くんと大石くん。あと、他の廊下にいる人達。多くの目が私に集まった。でも、私は気にせず、もらったプリントを掲げてお礼を伝えた。
「ありがとう!」
精一杯の笑顔を咲かせ、手を振った。すると手塚くんは、ほんの、ほんの少しだけ、口角を上げて笑った気がした。
***
予定通り、役割を決める会議が開かれた。私の手元にある紙にだけ、唯一手塚くんの字が刻まれている。その文字が誰にも見られることのないよう、手の置き方で誤魔化していた。友人にもバレないように、ひっそりと。私だけの秘密だった。
「では、全校集会の役割を決める。やりたい者は手を上げてくれ」
友人が役割を黒板に書いていく。手塚くんはその前で腕を組み、立候補者を待っている。こういう時、一番って緊張するんだよね。周囲を見渡して、そんな感想を抱く。私はピンと天井を刺す勢いで手を上げると、手塚くんの目を見て立候補した。
「はい。私、司会進行します」
ばっちりと目が合った瞬間、手塚くんは目を見開いていた。私は、彼の瞳の変化に気付かぬフリをして、ゆるりと口角を上げた。
「他にはいないか?」
手塚くんは私から目を外すと、他の役員を一周確認した。誰も手を上げないことを見計らうと、私の司会が確定した。
「では、司会は名字で行く」
安堵したせいか、私はパイプ椅子にぐったりと背を預けた。誰にも取られなくて、良かった。
その後、私が先頭を切ったのが功を奏したのか、役割は順当に決まった。そして、会議も予定より早く終わりを迎えた。
他の役員と同じように帰る支度をしていると、手塚くんは私の元に来た。こうして対面するのは、未だに慣れない。今も少し緊張して、心臓の音が大きくなり始めている。
「名字」
「ん?」
平静を装って彼の方を見つめた。会議中にも見た瞳が私を捉える。
「司会で良かったのか」
やはりそう来たか。予測できた問いのおかげで、少しの余裕が生まれる。私は彼と体ごと向き合うと、笑顔で頷いた。
「うん。私がやりたいと思ったからいいの」
手塚くんが全く関係ないと言えば、嘘になる。褒められて気を良くしたのは事実だし、やろうと思えたのは、他でもない手塚くんのおかげ。でも、最終的に決めたのは私。司会をやる意思表示をしたのは、紛れもなく私。手塚くんが気にする必要はない。
「……そうか」
手塚くんは私の笑顔を見ると、少しだけほっとしたような、安心感が見えた気がした。わざわざ気にしていてくれたのかな。
「だから気にしないで」
手をひらひらと左右に揺らして「大丈夫」を伝える。彼は納得してくれたようで「わかった」と一言だけ口にして生徒会室を後にした。
手塚くんって、よく人を見ていて、想像より遥かに優しい。菊丸の話が嘘なんじゃないかと思いたくなるほどだ。しかし、まだ彼の内面を知り始めたばかりの私は、じくじくと蕾をつけていく心の内を完全に見過ごしていた。
黒板を消し終えた友人がいやらしく目を細めていることに気付いたのは、完全に私と友人が二人きりになった時だった。
「何の話してたの?」
リズムに乗りながらステップを踏む友人は徐々に擦り寄ってくる。手塚くんがわざわざ話しかけてきたことが引っかかったのだろう。彼女は私と彼が話している最中、既に白が全て消えているにも関わらず、黒板を消し続けていた。彼女なりの気遣いだろうけど、私には不必要だった。
「……秘密」
悪戯心が働いた私は、わざとらしく意味を持たせた。何てことない会話だけれど、私は確実に浮足立っていた。
私の態度に、友人の口はぽかんと開く。完全に呆気にとられたようで、大きな瞳が瞬きを繰り返す。そしてすぐに戻ってくると、頬を膨らませて不機嫌を晒した。手塚くんの行動に特別を感じた私は、友人でさえも口を割るつもりはない。
しかし、それもつかの間、友人はパッと顔色を明るくして、更に私に擦り寄った。腕を絡めて尋問を仕掛けてくる。
「でも普通に話せてたよね? 前、話せないとか言ってたのに」
「そこまでは言ってないよ」
「挨拶運動も嫌がってたじゃん」
ぐうの音も出ない。この間のプリント事件から意識は確実に変わろうとしている。でも彼女は事件を知らないから、そこから話すのも気が進まない。
「まあ、ちょっと」
熱が集いそうになるのを察知した私は、彼女から顔を背けた。話すにしても、もう少し進んでからの方が面白いかな、なんて。
「ほらあ、やっぱり何かあったんだ!」
自宅に帰って早々、私は自室に籠った。伸縮機能のついた学習椅子に座って、先生からもらった台本に目を通していた。話すだけと高を括っていたが、こうして準備されたものを見ると心というものは動き出してしまう。
手塚くんから受け取った言葉。それが何よりも私の背中を押した。真正面からくれたものを、私は相応の態度を持って返すべきだ。
「練習、してみるか……」
思い立った私は自室の扉から顔を出して、周囲の確認をした。バレたら騒がしくなる母親に気付かれないように、と深呼吸をして出だしの一言を発する。
「これから全校集会を始めます。初めに校長挨拶……」
シン、と部屋が静まり返る。気恥ずかしさが先行してしまい、一人だけの空間でも顔が熱を持つ。手で顔に風を送るけれど、一向に冷める気配はない。ただ進行するだけだと言い聞かせても、ざわつく心が静まることはない。意識すると、こうも変わるか。はあ、と溜息を吐き、ベッドに腰掛けた。その瞬間。
「珍しいわね、練習なんて」
扉の隙間から声だけが忍び寄る。あれだけ確認したのに、と背後からかかった声に不機嫌が顔に出た。
「いいでしょ、別に」
恥じらいを隠すように唇を尖らせば、声の主は堂々と部屋に入ってきた。ニマニマと意味ありげに口角を上げる姿に苛立ちが募る。
「あんたが生徒会に立候補した時も驚いたけどね。どういう風の吹き回し?」
部屋の中をウロウロと歩き回るお母さん。一番見られたくなかった相手だ。
「……ほっといてよ」
台本を隠すように母から遠くに置いたけれど、素早く伸びてきた手に奪われてしまった。母はペラペラと薄い台本に目を通すと、にっこりと絵に描いたような笑みを浮かべた。
「お母さんが見てあげる」
「要らない」
間髪入れずに拒否をして台本を奪い返そうとしても、母は子供のよう逃げた。こういう時ばっかりすばしっこい。一度言い出したら聞かない性格は重々承知している。
私はこうなってしまったら勝てないと早々に白旗を上げ、溜息を吐いた。勝利の顔をした母は誇らしげに腰に手を当てている。
「ほら、立って」
母は私の両手を掴むと、無理矢理その場に立ち上がらせた。ぐんと伸びた腕に起こされる。
「もう、」
溜息交じりに付き合おうと台本を受け取った。しかし、背中に痛みが走った。
「はい、猫背!ダメ!」
「いったあ!」
丸まっていた背は簡単に母の右手で直される。冗談抜きに痛い。その後、背中を擦りながら母からのレッスンに耐えたのだった。
全校集会当日。六時間目の体育館に、生徒がぞろぞろと入り始める。司会進行を任されている私は、体育館左側前方の辺りに並べられたパイプ椅子に座っていた。もうすぐ始まる集会。たかが集会に手や足が震えている。真面目に練習したからこその武者震いなのか、それとも声や進行に対する失敗に対しての恐怖か。何度も喉を無理矢理作り出した唾液で潤そうとも、それが叶うことなく乾き続けている。生徒会の演説でさえ、震えを感じるほどではなかった。もうすぐ始まってしまう。眉間に皺をよせ、何度目かわからない深呼吸をすると、心地よい低音が私を呼んだ。
「名字」
俯きがちの頭が声の方を向く。ヒュ、と一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れた。
「っ……て、手塚くんか」
私を呼んだのは、手塚くんだった。自ら志願した役割の手前、沈んだ顔を見られたくないから慌てて笑顔を作って見せた。学校にいる時に、自分らしくない顔は封印していたい。私が立候補したことに気を揉んでいた彼に、無用な心労はかけたくない。私は安全策として口元を手で隠した。目を細めれば、笑っているように見える。自分を偽れ。騙れ。ガンガンと脳内に響き渡る。頭痛で頭が割れてしまいそう。
すると、手塚くんは私の隣にあるパイプ椅子に座った。いつもとは逆の位置。いつもは手塚くんが先頭の席に座るけど、今日ばかりは必要な役割ごとに座るから逆になる。
それにしてもわざわざ声をかけてきたのに、何も言わないのだろうか。それとも、私の聞き間違いだろうか。不思議に思いながらも椅子に座り直すと、彼は顔をこちらに向けた。視線を感じた私は反射的に視線に応えた。電流のように交わった視線は、私を逃さないとでも言うように真っ直ぐ射抜く。その瞳が喧騒の中から私だけを切り取った。一瞬だけ、私と手塚くんだけの世界を思った。二人だけの空間に、意識が閉じ籠った。
手塚くんは私の耳に届くように、少しだけ距離を詰めると、ゆっくり、穏やかな声で囁いた。
「お前なら、大丈夫だ」
優しい、優しい声だった。ごくり。唾が食道を通って落ちる。彼の声が、言葉が、私の仮面を簡単に剥ぐ。一枚下の素顔が露わになる。笑顔は消え、間抜けな驚いた顔が晒される。
すとん、と落ちてきた「大丈夫」が、私をじわり、じわりと熱くさせる。冷え切っていた芯が燃え上がる。誰よりも肯定的で誠実な瞳が、私の背中を押す。
気付いてたんだ、全部。気にしていてくれたんだ、私を。それでいて、適切な言葉をくれる。私は何度か頷いてからお礼を口にした。
「うん……ありがとう」
自然と頬が緩んだ。ありのままの私の笑顔を彼に返した。すると、彼は一度だけ、力強く頷いていた。
全生徒が床に座り、先生からの合図を貰った。私はスタンドマイクの前に立つと、小さく深呼吸をした。未だに騒ぎ続ける心臓の音が痛い。でも、大丈夫。私なら出来るから。手塚くんからもらった「大丈夫」があるから。
パッと顔を上げ、口角を上げる。
『只今より、全校集会を始めます。初めに、校長挨拶──』
ぞろぞろと生徒達が体育館から出ていく。司会という任務を終えた私は、手塚くんの姿を探していた。お礼を言わなくちゃ。手塚くんのお陰だと伝えなくちゃ。今言わないと、絶対にタイミングを逃す。それだけはしたくない。
きょろきょろと辺りを見渡すと、手塚くんはまだ体育館にいた。クラスメイトと話している最中であろうとも、私はその空間に突っ込んでいった。
「手塚くん、」
私が呼べば、彼は足を止めてこちらを向いた。隣にいたクラスメイトの男子は気を利かせてくれたのか、先に帰ってくれた。本当にごめん。両手を合わせ、謝罪のジェスチャーを送ると、笑顔でOKの手振りをしてくれた。
「どうした?」
手塚くんの正面に立つと、きゅっと口端が固くなる。本番前より騒がしい心臓が喉を乾かしていく。
「さっきはありがとう。お陰で上手くいったよ」
声が上擦らないように意識しながら「ありがとう」を伝える。先程まで緊張していたくせに、見栄っ張りは一丁前だ。落ち着かない手元を隠すために、腕を背中に回した。
すると手塚くんは表情一つ変えず、淡々と答えた。
「礼を言われるようなことはしていない」
「ううん。あれがあったから、思うように出来たの」
他の誰でもない、手塚くんの言葉だったからこそ。思わず作った拳に力が入る。それでも、彼は私の言葉を一向に受け入れようとしない。
「俺は何もしていない。お前の実力だ」
ふ、と雰囲気が和らいだ気がした。ほんの一瞬の出来事がじりじりと私を焼き付ける。隙の生まれた私は、もう彼を止められなかった。ただ、強く逞しい背中を見つめ続けた。私には、眩しすぎる。でも、その光に惹かれてしまう。
彼が部長をする理由がようやくわかった気がした。同級生も、後輩も、先輩も、先生も、どうして彼を慕い、頼りにするのか。悔しい。狡い。そして、何より。
「かっこよすぎるでしょ……」
髪の毛をかき乱してその場にしゃがみ込んだ。ぐつぐつと沸騰していく体に追いつかない頭。発散できない感情が暴れる。
歯を立てた唇からは鉄の味がした。着実に広がっていく紅が私を静かに刺激していく。生まれた情をどうしたらいい。どうすればいい。
取り残された私は、床に引かれた、剥がれかけているテープの隙間を睨みつけることしか出来なかった。
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