紫煙に抱かれて
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枯葉が道に散らばり、街の姿が寂しさを感じさせる。名前の過去を知ってからも、二人の日常は変わらなかった。決して恋人同士ではない。しかし友人でもない。どちらとも自分達の関係を言葉に当てはめず、誰にも語ることなく、ずるずると妙な形を取ったままだった。
それでも財前は構わなかった。過去に忘れられない男がいようと、いつかその場が自分になるのではないかという淡い期待を抱いてしまっているから。名前の思う「もしも」よりも、自分の思う「もしも」の方が叶う可能性があるのだと信じていた。
そんなある日、行為を終えた二人はベッドの上で何をする訳でもなく、時間を持て余していた。財前はスマホを、名前は指先を気にするように爪を弄っている。
「なあ、光クン」
「なんです」
「会うの、やめよか」
名前の言葉に、財前は画面を下にしてスマホを置いた。
「理由、言うて」
重ねられた手に更に男の手を重ねる。名前は気に素振りを見せず、あっけらかんとした態度で答えを出した。
「私の好きな人は、あの人しかおらへんから」
その言葉と共に、ガラス玉がこちらを向く。薄暗い部屋の中でもはっきりとわかるそれは、最後だと強く表していた。その瞬間、財前は悟ったのだ。叶うと思っていた「もしも」が打ち砕かれたのだと。
「戻って来うへん男いつまでも待つっちゅうんか」
もちろん財前は気付いていた。自分が代用であることに気付いていた。だが、明言されてしまったことで、事実が財前の胸に深く突き刺さる。
「ずっとそのままでおるつもりなんか」
「私には、あの人しかおらへんの」
意地でもひっくり返そうとしない女に体が燃え上がる。その動力は圧倒的に怒りと悲しみの半々で、作った拳が震えた。
俺の方が料理を美味しそうに食べられるのに。俺の方があんたのエエとこ知ってるのに。俺の方が優しくできるのに。俺の方が好きでいるのに。
これ以上、何をすればよかったのか。答えなど出るわけもなく、財前の口からは怒りが零れた。
「わかったわ。もうええわ。俺もちょうどええっすわ。代役やるんも、俺の言葉をあんたの中であいつに変えて満たすんも、懲り懲りやわ」
はあ、と溜息を吐いては、苛立ちを隠せないまま髪の毛をかき乱す。
「最後や。同じ銘柄の煙草吸うて、あのスウェット着てあんたを抱いて、俺のピアスその穴にぶち込んだるわ。ずっと痛みで悶えとけ。それで終いや。もう何があっても会わへん」
捲し立てるように言うと、彼女は頷いた。そして財前は言った通りに過去を纏い、彼女の微笑みと共に再びベッドの海へと沈んだ。
本当は手酷く抱いてやりたかった。それでも一度湧いてしまった情は収まることなく、余計に丁重に、優しく抱いた。
荒む呼吸のまま、財前は自身の耳からピアスを取ると、埋まりかけていた穴に突き刺した。赤が滲み、広がる。
傷つくことでしか生きていけない目の前の女を、殺してやりたかった。息が出来なくなるまで、優しさで埋めてやりたかった。だが、それができない自分自身が情けなくて、悔しくて、財前は静かに頬を濡らした。
財前はその後、ピアスを四輪のままで過ごした。不足した部分を埋めることなく残している。あれから連絡を取ることも、喫煙所に行くこともなくなった。それでもぽっかりと空いてしまった心の穴は、風が通るばかりで満たされないままだ。
とある日、財前は無意識に野外喫煙所へと足を運んだ。今までも足が向きそうになれば無理矢理修正していたのに、この日ばかりは向かってしまった。だが、そこに名前の姿はなかった。当たり前なはずなのに、胸が苦しい。自分自身で会わないと決めたのに、会えないことに限界を感じてしまうのは如何なものか。傷ついているのは彼女の方が何段階も上であるのに、と泣きそうな名前の表情を思い返す。
はあ、と溜息を吐いて帰ろうとした時だった。
「よっす、財前。久しぶりやな」
笑顔で財前の元に近寄るのは、高橋だった。
「名前に用事?」
「いや、別に……」
財前が研究室辺りに来るのは決まって名前に関することばかりだった。しかし今となっては名前の面影を求めてしまっている自分がいるせいで言い淀んでしまう。
「呼んだろか?」
「ええです。もう会うつもりないし、」
財前が高橋の提案を拒否すると、高橋は少し考える素振りを見せた。
「……ちょお財前時間あるか?」
頷くと、高橋は喫煙所へと財前を連れ戻した。ベンチに腰掛けると、財前もそれに次いで座る。
「最近あいつ、煙草吸わへんくなってん」
あいつ、というのは名前のこと。財前は耳を疑った。あれだけ男を忘れられないから吸っていると言ったのに。あの人が簡単にやめられるはずがないとすぐに高橋を疑問をぶつけた。
「どういうことっすか」
「めっきり煙草吸いに出ていかんようになってん」
「嘘でしょ」
「ほんまやねん。煙草吸わん上に、あんま話もせえへんくなって。めっちゃ大人しい」
ぱっと見、口の軽そうな風貌で煙草を嫌というほど吸っていた。財前は高橋の言葉が理解できずに混乱するばかりだ。
「見た目がどうこうってわけちゃうねんけど、少しずつ変わってる気して。自分やったらわかるかなって」
仲ええやろ、と続けた。だが財前からすれば、それはもう知らない人。会ってない期間に何があったのか。財前には見当がつかなかった。
「俺、ずっと会うてへんのです」
「そうかあ……」
「今日は来てるんすよね」
「おん。さっき言った通り、一ッ言も話さへんけどな」
財前は何も言えなかった。近況を知るのは高橋の方だ。彼にわからなければ、財前にわかるわけもない。
「やっぱ呼ぼか」
「いや、ええです」
黙り込んでいた財前に気を利かしたつもりだったのかもしれない。だが、財前は拒否をしてから立ち上がった。そして一度も振り返ることなくその場を逃げるように後にした。
去っていく財前の背中を見送ると、高橋はポケットから煙草とライターを取り出し、煙を燻らした。それは明らかに名前と同じ銘柄のもの。
「自分なら、あいつの事どないか出来るやろ」
高橋はそう呟くと、切なげに目を閉じた。
財前の頭は余計に名前のことで占められた。理由を聞きたかった。財前が消えた途端に煙草をやめた理由を。あれだけ忘れられないから吸うのだと言い切ったのに、今では吸わないだなんて信じられなかった。会わないと言ってしまった手前、待ち伏せしてでも会うのは気が引ける。人目のあるところは避けたいが、手段を持ち合わせていない。会いたい気持ちは募るばかりで、関係ないと言い聞かせても消えることのない気持ちがずっと蔓延し続けては息苦しい。
財前は腹を括り、名前に連絡をした。何度も何度も何度も何度も連絡をした。だが、一つも名前が反応することはなかった。勿論わかっていた。出るわけがないとわかっていた。それでも会いたい気持ちが何よりも勝ってしまったせいで、最終手段として高橋を頼った。ダメ元だったが、休みの日に高橋は了承してくれた。目の前で名前に連絡を取ってもらうと、すぐに彼女は出た。その瞬間に、財前は高橋のスマホを奪い、問い詰める真似をした。
「今どこおんねん」
財前の声に、名前の戸惑いが声に乗る。
「……もう、会わへんって言うたやん」
「会う理由ができた」
「そんなもんない」
「俺にはある」
「今言うてよ」
「直接やないと意味ない」
すると名前は突然黙り込んだ。財前は電話を切られることを危惧したが、それも杞憂に終わる。
「……海」
名前は小さく呟いた。弱弱しい声は確かに海と言った。財前は正確な場所を聞き出し、すぐに通話を切った。
「先輩、これ、ありがとうございました」
「おう、頑張れ」
高橋に頭を下げ、駅へと向かった。乾いた空気と走ったせいで痛む喉。しかしそんなことに気を取られるほどの余裕もなかった。
骨に響くような寒さの風が吹き抜ける。駅を出て財前は海辺を探した。名前は呆気なく簡単に見つかり、砂浜の上を歩いて近寄った。○○は胡坐をかいて海を眺めていた。
「名前さん」
名を呼ぶと、首だけを回して財前の方に目をやった。
「ほんまに来たぁ」
「言うたやろ、行くって」
知っている笑顔が財前を迎え入れる。財前は隣に座るが、互いに口を開くことなく、波の音が響く。二人で海を眺め続けていたが、先に痺れを切らしたのは財前の方であった。
「……肌、綺麗になった」
「肌だけ?」
「中は知らん」
煙草をやめた成果か、肌は以前よりも白くなっている。
「煙草、やめたんやろ」
そう財前が切り出すと、名前は肯定した。
「元々好きちゃうかったし。吸わへんくなったら光と会わんで済むやろ」
当初の約束は禁煙のためだった。それがいつの間にか関係は変わり、崩壊した。
「俺と会いたない理由、ほんまのこと言うて」
名前はごろん、と砂浜に寝転んだ。一つ深呼吸をすると、名前は観念したように口を開いた。
「初めて光クンを見た時、あの人を思い出したんよ。優しい時の、あの人の目。私と二人きりのときだけに見せる目をな」
野外喫煙所での初対面。既にその時から重ねられていたのかと財前は切なさで胸が締め付けられた。
名前の表情を窺おうにも、顔は手で覆われ阻まれている。
「そしたら我慢ならんかった。あかんって思いながらあんたに声かけた。でも蓋開けたら全然違うた。死ぬんちゃうかって思うほど、あんたが優しいから。あれだけ忘れられへんかったあの人が消えていくねん」
自分がしてきたことは無駄ではなかったのだと、初めて知った。あれだけ拒んでいたのに、と鼻の奥が痛む。
「あの人とは全然ちゃうのにな。あの人は言葉は優しかったけど、やる事が最悪で。でも、光クンは逆なんよね。言葉はキツイくせに、やる事なす事優しいから知らん間に絆されて、」
名前は鼻をすすった。財前は何も言わず黙って続きを待った。
「嬉しかった。でも、その分罪悪感がひどかった」
移り変わっていく感情。元々代用にしていたのに、今では離せない相手になってしまっていた。それが素直に言えなかった。言いたくても財前が元々の目的に気付いていたから言えなかった。あまりにも虫が良すぎると。
「せやから、思い出だけもろて逃げ出した。これ以上あんたの優しさに侵されたら死ぬんちゃうかって」
名前は起き上がると、胸元からネックレスを取り出した。そこには、財前が残したピアスが通されていた。
「なくなってしもうた。あの人の匂いも、思い出も。残ったのは、あんただけやった」
そう言って名前は下手くそに笑った。財前はその下手くそな笑顔が一番好きだった。
「もう、あんたでいっぱいなんよ。私の中」
財前は名前を引き寄せ、力一杯抱きしめた。そして震える声で言うてやったのだ。
「せやから言うたやろ。あんたの穴が埋まるまで、傍におるって」
それでも財前は構わなかった。過去に忘れられない男がいようと、いつかその場が自分になるのではないかという淡い期待を抱いてしまっているから。名前の思う「もしも」よりも、自分の思う「もしも」の方が叶う可能性があるのだと信じていた。
そんなある日、行為を終えた二人はベッドの上で何をする訳でもなく、時間を持て余していた。財前はスマホを、名前は指先を気にするように爪を弄っている。
「なあ、光クン」
「なんです」
「会うの、やめよか」
名前の言葉に、財前は画面を下にしてスマホを置いた。
「理由、言うて」
重ねられた手に更に男の手を重ねる。名前は気に素振りを見せず、あっけらかんとした態度で答えを出した。
「私の好きな人は、あの人しかおらへんから」
その言葉と共に、ガラス玉がこちらを向く。薄暗い部屋の中でもはっきりとわかるそれは、最後だと強く表していた。その瞬間、財前は悟ったのだ。叶うと思っていた「もしも」が打ち砕かれたのだと。
「戻って来うへん男いつまでも待つっちゅうんか」
もちろん財前は気付いていた。自分が代用であることに気付いていた。だが、明言されてしまったことで、事実が財前の胸に深く突き刺さる。
「ずっとそのままでおるつもりなんか」
「私には、あの人しかおらへんの」
意地でもひっくり返そうとしない女に体が燃え上がる。その動力は圧倒的に怒りと悲しみの半々で、作った拳が震えた。
俺の方が料理を美味しそうに食べられるのに。俺の方があんたのエエとこ知ってるのに。俺の方が優しくできるのに。俺の方が好きでいるのに。
これ以上、何をすればよかったのか。答えなど出るわけもなく、財前の口からは怒りが零れた。
「わかったわ。もうええわ。俺もちょうどええっすわ。代役やるんも、俺の言葉をあんたの中であいつに変えて満たすんも、懲り懲りやわ」
はあ、と溜息を吐いては、苛立ちを隠せないまま髪の毛をかき乱す。
「最後や。同じ銘柄の煙草吸うて、あのスウェット着てあんたを抱いて、俺のピアスその穴にぶち込んだるわ。ずっと痛みで悶えとけ。それで終いや。もう何があっても会わへん」
捲し立てるように言うと、彼女は頷いた。そして財前は言った通りに過去を纏い、彼女の微笑みと共に再びベッドの海へと沈んだ。
本当は手酷く抱いてやりたかった。それでも一度湧いてしまった情は収まることなく、余計に丁重に、優しく抱いた。
荒む呼吸のまま、財前は自身の耳からピアスを取ると、埋まりかけていた穴に突き刺した。赤が滲み、広がる。
傷つくことでしか生きていけない目の前の女を、殺してやりたかった。息が出来なくなるまで、優しさで埋めてやりたかった。だが、それができない自分自身が情けなくて、悔しくて、財前は静かに頬を濡らした。
財前はその後、ピアスを四輪のままで過ごした。不足した部分を埋めることなく残している。あれから連絡を取ることも、喫煙所に行くこともなくなった。それでもぽっかりと空いてしまった心の穴は、風が通るばかりで満たされないままだ。
とある日、財前は無意識に野外喫煙所へと足を運んだ。今までも足が向きそうになれば無理矢理修正していたのに、この日ばかりは向かってしまった。だが、そこに名前の姿はなかった。当たり前なはずなのに、胸が苦しい。自分自身で会わないと決めたのに、会えないことに限界を感じてしまうのは如何なものか。傷ついているのは彼女の方が何段階も上であるのに、と泣きそうな名前の表情を思い返す。
はあ、と溜息を吐いて帰ろうとした時だった。
「よっす、財前。久しぶりやな」
笑顔で財前の元に近寄るのは、高橋だった。
「名前に用事?」
「いや、別に……」
財前が研究室辺りに来るのは決まって名前に関することばかりだった。しかし今となっては名前の面影を求めてしまっている自分がいるせいで言い淀んでしまう。
「呼んだろか?」
「ええです。もう会うつもりないし、」
財前が高橋の提案を拒否すると、高橋は少し考える素振りを見せた。
「……ちょお財前時間あるか?」
頷くと、高橋は喫煙所へと財前を連れ戻した。ベンチに腰掛けると、財前もそれに次いで座る。
「最近あいつ、煙草吸わへんくなってん」
あいつ、というのは名前のこと。財前は耳を疑った。あれだけ男を忘れられないから吸っていると言ったのに。あの人が簡単にやめられるはずがないとすぐに高橋を疑問をぶつけた。
「どういうことっすか」
「めっきり煙草吸いに出ていかんようになってん」
「嘘でしょ」
「ほんまやねん。煙草吸わん上に、あんま話もせえへんくなって。めっちゃ大人しい」
ぱっと見、口の軽そうな風貌で煙草を嫌というほど吸っていた。財前は高橋の言葉が理解できずに混乱するばかりだ。
「見た目がどうこうってわけちゃうねんけど、少しずつ変わってる気して。自分やったらわかるかなって」
仲ええやろ、と続けた。だが財前からすれば、それはもう知らない人。会ってない期間に何があったのか。財前には見当がつかなかった。
「俺、ずっと会うてへんのです」
「そうかあ……」
「今日は来てるんすよね」
「おん。さっき言った通り、一ッ言も話さへんけどな」
財前は何も言えなかった。近況を知るのは高橋の方だ。彼にわからなければ、財前にわかるわけもない。
「やっぱ呼ぼか」
「いや、ええです」
黙り込んでいた財前に気を利かしたつもりだったのかもしれない。だが、財前は拒否をしてから立ち上がった。そして一度も振り返ることなくその場を逃げるように後にした。
去っていく財前の背中を見送ると、高橋はポケットから煙草とライターを取り出し、煙を燻らした。それは明らかに名前と同じ銘柄のもの。
「自分なら、あいつの事どないか出来るやろ」
高橋はそう呟くと、切なげに目を閉じた。
財前の頭は余計に名前のことで占められた。理由を聞きたかった。財前が消えた途端に煙草をやめた理由を。あれだけ忘れられないから吸うのだと言い切ったのに、今では吸わないだなんて信じられなかった。会わないと言ってしまった手前、待ち伏せしてでも会うのは気が引ける。人目のあるところは避けたいが、手段を持ち合わせていない。会いたい気持ちは募るばかりで、関係ないと言い聞かせても消えることのない気持ちがずっと蔓延し続けては息苦しい。
財前は腹を括り、名前に連絡をした。何度も何度も何度も何度も連絡をした。だが、一つも名前が反応することはなかった。勿論わかっていた。出るわけがないとわかっていた。それでも会いたい気持ちが何よりも勝ってしまったせいで、最終手段として高橋を頼った。ダメ元だったが、休みの日に高橋は了承してくれた。目の前で名前に連絡を取ってもらうと、すぐに彼女は出た。その瞬間に、財前は高橋のスマホを奪い、問い詰める真似をした。
「今どこおんねん」
財前の声に、名前の戸惑いが声に乗る。
「……もう、会わへんって言うたやん」
「会う理由ができた」
「そんなもんない」
「俺にはある」
「今言うてよ」
「直接やないと意味ない」
すると名前は突然黙り込んだ。財前は電話を切られることを危惧したが、それも杞憂に終わる。
「……海」
名前は小さく呟いた。弱弱しい声は確かに海と言った。財前は正確な場所を聞き出し、すぐに通話を切った。
「先輩、これ、ありがとうございました」
「おう、頑張れ」
高橋に頭を下げ、駅へと向かった。乾いた空気と走ったせいで痛む喉。しかしそんなことに気を取られるほどの余裕もなかった。
骨に響くような寒さの風が吹き抜ける。駅を出て財前は海辺を探した。名前は呆気なく簡単に見つかり、砂浜の上を歩いて近寄った。○○は胡坐をかいて海を眺めていた。
「名前さん」
名を呼ぶと、首だけを回して財前の方に目をやった。
「ほんまに来たぁ」
「言うたやろ、行くって」
知っている笑顔が財前を迎え入れる。財前は隣に座るが、互いに口を開くことなく、波の音が響く。二人で海を眺め続けていたが、先に痺れを切らしたのは財前の方であった。
「……肌、綺麗になった」
「肌だけ?」
「中は知らん」
煙草をやめた成果か、肌は以前よりも白くなっている。
「煙草、やめたんやろ」
そう財前が切り出すと、名前は肯定した。
「元々好きちゃうかったし。吸わへんくなったら光と会わんで済むやろ」
当初の約束は禁煙のためだった。それがいつの間にか関係は変わり、崩壊した。
「俺と会いたない理由、ほんまのこと言うて」
名前はごろん、と砂浜に寝転んだ。一つ深呼吸をすると、名前は観念したように口を開いた。
「初めて光クンを見た時、あの人を思い出したんよ。優しい時の、あの人の目。私と二人きりのときだけに見せる目をな」
野外喫煙所での初対面。既にその時から重ねられていたのかと財前は切なさで胸が締め付けられた。
名前の表情を窺おうにも、顔は手で覆われ阻まれている。
「そしたら我慢ならんかった。あかんって思いながらあんたに声かけた。でも蓋開けたら全然違うた。死ぬんちゃうかって思うほど、あんたが優しいから。あれだけ忘れられへんかったあの人が消えていくねん」
自分がしてきたことは無駄ではなかったのだと、初めて知った。あれだけ拒んでいたのに、と鼻の奥が痛む。
「あの人とは全然ちゃうのにな。あの人は言葉は優しかったけど、やる事が最悪で。でも、光クンは逆なんよね。言葉はキツイくせに、やる事なす事優しいから知らん間に絆されて、」
名前は鼻をすすった。財前は何も言わず黙って続きを待った。
「嬉しかった。でも、その分罪悪感がひどかった」
移り変わっていく感情。元々代用にしていたのに、今では離せない相手になってしまっていた。それが素直に言えなかった。言いたくても財前が元々の目的に気付いていたから言えなかった。あまりにも虫が良すぎると。
「せやから、思い出だけもろて逃げ出した。これ以上あんたの優しさに侵されたら死ぬんちゃうかって」
名前は起き上がると、胸元からネックレスを取り出した。そこには、財前が残したピアスが通されていた。
「なくなってしもうた。あの人の匂いも、思い出も。残ったのは、あんただけやった」
そう言って名前は下手くそに笑った。財前はその下手くそな笑顔が一番好きだった。
「もう、あんたでいっぱいなんよ。私の中」
財前は名前を引き寄せ、力一杯抱きしめた。そして震える声で言うてやったのだ。
「せやから言うたやろ。あんたの穴が埋まるまで、傍におるって」
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